公開講座「キリスト教の葬儀:佐倉教会での葬儀の実際」のご案内

 佐倉教会では、キリスト教葬儀について実践的・具体的な理解を深めていただくため、次のとおり公開講座を行うこととしております。
 教会員のみならず、千葉支区北総分区など近隣の諸教会の皆様をはじめ、関心のある方々にご参加いただければと存じます。
   記
 日時 2019年7月21日(日) 12:30~14:00
 場所 佐倉教会
 講師 西田 健 ナザレ代表
 演題 「キリスト教の葬儀:佐倉教会での葬儀の実際」
 
 ※「ナザレ」は、東京都練馬区豊玉南に所在するキリスト教葬儀社で、主イエスの福音を証しすることを目的として設立され、宣教の場として「真のキリスト教葬儀」を確立することを目指しています(ナザレのホームページより)。

2019年6月9日「後で、分かる」

○金 南錫牧師
 ヨハネによる福音書13章1-16節

 私たちには、あのときは分からなかったけど、後になって分かることがあります。弟子たちにとって、自分たちの師であるイエス様が足を洗ってくださることは、思ってもみなかったことでした。弟子たちは、このことの意味が分からなかったのです。そのとき、イエス様は「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と仰いました(7節)。
 生きている中、理解できない、受け入れがたい現実があります。しかしそれは、今は理解できない、受け入れがたいものなのであって、必ず理解できるときが来る。イエス様はそう教えているのです。
 なぜでしょうか。それは、すべてをご存じの神が共におられるからです。私たちが経験する出来事の一つ一つは、無意味なものでも、不条理なものでもありません。それも神が与えた出来事と考えられるときに、今はその意味が分からないけれども、それでも自分の人生を受け入れて生きて行くことができるようになるはずです。
 私たちは信仰をもって、人生のすべてをご存じの神を信頼して生きていきたいものです。

2019年6月9日 花の日諸施設訪問

 花の日は、大人と子どもが共に合同礼拝として守ります。礼拝後、教会学校の生徒は花束を持って警察署、消防署、社会福祉施設を慰問します。また、教会員有志で日頃礼拝出席が叶わない方々を訪問します。

皆さんが持ち寄ったお花です
佐倉警察署を訪問しました
佐倉市八街市酒々井町消防組合を訪問しました
特別養護老人ホームさくら苑です
介護老人保健施設佐倉ホワイエです
有料老人ホームゆうゆうの里ではミニ集会を開きました
生徒の賛美のほか、オルガン・フルートの演奏、独唱もありました
お一人お一人に花束を贈呈します

2019年6月2日「中風の人をいやす」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書2章1-12節
 
 数日後、再びイエス様はカファルナウムに来られました。前回、主イエスに癒してもらえなかった人々が、イエス様がおられる家へ押しかけて来ました。戸口の辺りまですきまもないほどになったのです。
 そこに、四人の男が中風の人を運んで来たのです(3節)。この中風の人を何とかして癒してもらいたいとの願いから、この男を担いで来たのです。
 しかし、いっぱいになった群衆に阻まれて、イエス様の下に連れて行けませんでした。そこで彼らは、イエス様がおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろしたのです。イエス様は、「その人たちの、信仰を見て」中風の人に罪の赦しの宣言をされました(5節)。
 私たちも、この中風の人を運んで来た人たちになることができます。それは、執り成しの祈りをすることによって、隣人や親しい友達を主イエスのところに連れて来ることができます。
 どれぐらい時間が必要なのか、分かりませんが、神様はその祈りを決して忘れることなく、答えてくださるのです。

2019年6月の主日聖書日課から

○マタイによる福音書 28章 16節~20節
 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

○ルカによる福音書 11章02節~04節
 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。
 『父よ、
 御名が崇められますように。
 御国が来ますように。
 わたしたちの罪を赦してください、
 わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。
 わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
 
○出エジプト記 19章 03節~06節
 モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。
 「ヤコブの家にこのように語り
 イスラエルの人々に告げなさい。
 あなたたちは見た
 わたしがエジプト人にしたこと
 また、あなたたちを鷲の翼に乗せて
 わたしのもとに連れて来たことを。
 今、もしわたしの声に聞き従い
 わたしの契約を守るならば
 あなたたちはすべての民の間にあってわたしの宝となる。
 世界はすべてわたしのものである。
 
○使徒言行録 02章 37節~38節
 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
 
○申命記 08章14節~18節
 心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった。あなたは、「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである。

 出所:聖書日課編集委員会編集「日毎の糧2019」(日本キリスト教団出版局、2018年12月1日発行)より作成

2019年5月26日「御心と癒し」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書1章29-39節

 本文に出てくる「重い皮膚病」を患っている人は、自分に人が近づいてくるたびに、「わたしは汚れた者です」と言って、自分の病を知らせなければなりませんでした。つまり、当時のユダヤ人社会において、重い皮膚病の人は単なる病人ではなく、「汚れた者」と見なされ、扱われていたのです。
 40節にこの人は、「イエスのところに来て」とあります。これは、イエスのへの信頼を表しています。そして、ひざまずいて「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言って、自分のすべてをイエスに委ねたのです。その姿を見て、イエスは深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなったのです。
 まさに日々の私たちの生活の中心に、主の御手があることを覚えたいものです。日々の生活の中心にある私を主イエスの御手に委ねる決断が必要です。すると、主イエスは愛をもって手を差し伸べ、接してくださるのです。

2019年5月19日「イエスの祈り」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書1章29-39節

 シモンとアンドレは主イエスから「わたしについて来なさい」と声を掛けられ、二人は網を捨てて従い、主イエスの弟子になりました。しかし、シモンは生活の手段である漁師の網を捨てて従いましたが、家族を捨てたわけではありませんでした。
 ある日、シモンの姑が熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話したのです。そして、主イエスがシモンの姑のそばに行って、手を取って起こされると、熱が去りました(31節)。シモンの姑はいやされると、起き上がって、主イエスをもてなして、感謝を表しました。まさにイエス様は、世の主であると同時に、わが家の主でもあります。
 35節に「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈られた」とあります。忙しい生活をしている現代人にとっては、夜明けに起きて、祈ることは本当に難しいものです。ところが、イエス様は人に教え、悪霊を追い払い、病を癒すということで、忙しくて疲れていたにもかかわらず、夜明けに祈られたのです。なぜでしょうか。
 イエス様には、この世に来られた明確な目的がありました。39節に「そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された」とある通りです。
 イエス様がこの地に来られた目的どおりに生きることができたのは、日々の初めに、朝早くまだ暗いうちに、ひざまずいて祈り続けたからです。本当に祈りをもって、一日を始めたいものです。

 

花の日合同礼拝のご案内

 6月9日(日)は、花の日合同礼拝を守ります。
 礼拝後、教会学校では、お花を持って警察署、消防署、老人福祉施設を慰問します。
 また、教会員もお花を持って日頃礼拝に出席できない方々を訪問します。

2019年5月12日「権威ある新しい教え」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書1章21-28節

 主イエスと4人の弟子たちはカファルナウムという町で、安息日に会堂に入りました。そこで、主イエスは教え始められました。そのとき、人々はその教えに権威を感じられ、非常に驚いたのです。
 当時、律法学者たちは律法の中心にある神の御心よりも、律法そのものを厳しく守ろうとしたのです。しかし、主イエスは律法そのものよりも、律法の根底にあるものを教えたので、人々に驚きを与えたのです。
 主イエスが権威ある者として教えているとき、会堂に汚れた霊に取りつかれた男が「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と叫び出したのです。
 主イエスはこの汚れた霊に対して、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになりますと、汚れた霊は、その人にけいれんを起こさせ、大声を上げて出て行ったのです。人々は皆驚いて、主イエスのなさったことを「権威ある新しい教えだ」と言っています。
 私たちが主イエスの権威ある新しい教えの光に照らし出されるとき、主の御心がどこにあるのか、分かります。また、その御心に従うことによって、私たちは信仰が強められ、成長していくのです。

2019年5月5日「わたしについて来なさい」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書1章16-20節

 あるとき、イエス様はガリラヤ湖のほとりを歩いていました。そこには、シモンとシモンの兄弟アンデレがいつものように、網を湖に向かって打っていたのです。
 イエス様はその姿をじっとご覧になって、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と声をかけます。最初に声をかけたのは、イエス様でした。ペトロとアンデレは魚をとることに、力と時間を費やしています。イエス様のことに興味を持っていなかったのです。
 しかし、イエス様はそのような人々を呼び求められたのです。人間に対する主イエスの呼びかけがすべてに先行しているのです。主イエスの眼差しが先立っています。
 イエス様の呼びかけに、二人はすぐに網を捨てて従いました(18節)。イエス様に従うことは、イエス様と同じ生き方をすることです。従って、そこには、人生を自分で決めた目的のためにではなく、神の業のために働く生き方がもたらされるのです。本日の言葉で言えば、「人間をとる漁師になる」ことです。ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ。この四人は魚をとるのではなく、今までしたことのない新しい働きを始めたのです。それは、神の国のことを伝えることでした。
 イエス様に従うことは、自分のできる得意なことをイエス様と一緒に続けていくことでもありますが、それよりも、できるかどうか心配だけれども、とても大事なこと、神様が喜ばれることをしてみよう、ということではないかと思います。