信仰への招き

出所:「ハイデルベルク信仰問答」(竹森満佐一訳、1961年5月発行、新教出版社)より作成


Ⅰ 人間のみじめさについて
 問4 神の律法は、われわれに、何を要求するのですか。
 答 キリストは、律法の内容をマタイによる福音書22章の中におまとめになりました。

 「イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22・37-40)。

 問5 あなたは、これらの全部を完全に守ることができますか。
 答 できません。なぜならば、生まれつき神と隣り人とを憎む傾向にあるからであります。

 「次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。」」(ローマ3・10)
 
 問8 われわれは、非常に堕落しているために、何か良いことに対しては、まったく無力であり、あらゆる悪に向かう傾向があるのですか。
 答 そうです。もしも、われわれが神のみ霊によって新しく生まれるのでないならば。

 「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」(ローマ7・15)
 
Ⅱ 人間の救いについて
(仲保者)
 問13 だが、われわれは、自分自身の力で償うことができるでしょうか。
 答 できません。それだけでなく、われわれは、自分の罪責を毎日、大きくしているのであります。

 「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(マタイ16・26)

 問16 なぜ、その人は、まことの、正しい人間でなければならないのですか。
 答 なぜならば、神の義は、罪を犯した人間の本性が、自ら自分の罪のために、償いをすることを求めているからであります。しかしまた、自ら罪人であるものは、他のもののために、償うことはできないからです。

 「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」(ヘブライ2・17)
 
 問20 すべての人間は、アダムによって失われたように、キリストによって再び祝福を受けるようになるのでしょうか。
 答 そうではありません。ただ、まことに信仰によって、主と結びつき、主の恵み深いみわざをすべて受け入れた人だけであります。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3・16)
 
(使徒信条)
 問21 まことの信仰とは、何ですか。
 答 それは、神がみことばによって、われわれに、あらわして下さったことを、みなまこととする堅固な認識だけではなく、聖霊が、福音によって私のうちに起こしてくれる、心からなる信頼のことであります。これによって他の人々に対してだけでなく、わたしのためにも、罪のゆるし、永遠の義、祝福が、ただ恩恵により、キリストのみわざのゆえにのみ、神から与えられるようになるのです。

 「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(エフェソ2・8)
 
(父なる神について)
 問27 神の摂理とは何である、と思いますか。
 答 それは、神の全能なる、今働く力であります。その力によって、神は、天と地とそのすべての被造物をも、み手をもってするごとくに保ち、また支配して下さり、木の葉も草も、雨も日照りも、実り豊かな年も実らぬ年も、食べることも、飲むことも、健康も病気も、富も貧しさも、すべてのものが、偶然からではなく、父としてのみ手によって、われわれに来るのであります。

 「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。」(マタイ10・29-30)
 
 問28 神の創造と摂理を知ると、どのような利益が、われわれにあるのでしょうか。
 答 われわれは、あらゆる不遇の中にも忍耐深く、幸福の中には感謝し、未来のことについては、われらの依り頼むべき父に、よく信頼するようになり、もはや、いかなる被造物も、われわれを、神の愛から離れさせることはできないようになるのであります。それは、すべての被造物は、まったくみ手の中にあるのですから、みこころによらないでは、ゆるぐことも動くこともできないからであります。

 「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8・38-39)
 
(子なる神について)
 問32 なぜあなたは、キリスト者ととなえられるのですか。
 答 それは、わたしが信仰によってキリストのからだの枝となり、したがって、その注がれた油にあずかって、わたしもまた、み名を告白するようになり、自分を生きた感謝の犠牲として、主にささげ、この世にあっては、自由な良心をもって罪と悪魔とに対して戦い、かの世においては、永遠に主とともに、すべての被造物を支配するようになるからであります。

 「そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」(コロサイ3・17)
 
 問49 キリストの昇天は、われわれにどういう益を与えるのですか。
 答 第一に、主が、天において、神のみ顔の前に、われわれの執り成しをする者となって下さることであります。
 第二に、われわれは、主がかしらとして、その枝であるわれわれを、ご自分のもとに引き上げて下さる確かな担保として、われわれの肉を天に持つことになるのであります。
 第三に、主は、み霊をこれと見合う担保として与え、そのみ霊の力によって、われわれは、キリスト者が神の右に座しておられる、あの上にあるものを求め、地にあるものを求めないようにしてくださるのであります。

 「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ14・2-3)
 
(聖霊なる神について)
 問60 あなたは、どのようにして、神の前に、義となるのですか。
 答 ただ、イエス・キリストを信ずる、まことの信仰によるだけであります。
 かくして、わたしの良心が、わたしが、神の戒めに対して甚だしく罪を犯し、その戒めのどの一つをも守ることがなく、いつまでもあらゆる悪に向かう傾向がある、と言ってわたしを責めたとしても、神は、わたしに、何も自分の功績がなくても、ただ、恵みによって、あたかもわたしが何の罪をも犯したこともなく持ったこともなく、キリストが、自ら、わたしのために果たして下さった、すべての完全なる服従を、完全に行ったものであるかのように、わたしが、これらの恵みを信ずる心を持って受けさえすれば、わたしに、完全に償いと義と聖とを与え、わたしのものとしてくださるのであります。

 「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」(フィリピ3・8-9)

(聖礼典について)
 問65 そのように、信仰だけがわれわれをキリストとその恵みにあずからせるのであれば、そのような信仰は、どこから来るのですか。
 答 それは、聖霊が、きよき福音の説教によって、われわれの心の中にそれを起こし、聖礼典を用いることによって、それを堅くしてくれるのです。

 「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10・17)

 問66 聖礼典とは何ですか。
 答 それは、神がお定めになった目に見えるきよいしるしであり、印章であります。すなわち、神は、これを用いさせて、神が十字架において成就されたキリストの唯一の犠牲のゆえに、罪のゆるしと永遠の生命を、恵みによって与えてくださる、という福音の約束を一層よく理解せしめ、また、保証してくださるのであります。

 「更に神は言われた。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。」(創世記9・12)
 
(イエス・キリストの聖晩餐について)
 問75 聖餐においては、どのようにしてあなたが、十字架上のキリストの唯一の犠牲とそのすべての賜物に与っていることを思い起こさせ、また、確信させられるのですか。
 答 こうであります。キリストは、わたし及びすべての信ずる者らに対して、主の記念として、この割かれたパンを食べ、この杯から飲むことをお命じになるのであります。
 このことによって、第一に、わたしが、主のパンがわたしのために割かれ、その杯がわたしに分かたれるのを、自分の目で確かに見るように、そのように確かに、主のみからだは、十字架の上でわたしのためにさかれ、主の御血潮は、わたしのために流されたということ、
 第二に、わたしが、キリストのからだと御血潮との確かなしるしとして与えられたパンと杯とを、奉仕者の手より受けて肉体的に食べるように、そのように確かに主ご自身が、わたしの魂にその十字架につけられたからだを食べさせ、流された御血潮を飲ませて、永遠の生命を得させてくださるのであることを約束してくださるのであります。

 「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(ヨハネ6・51)
 
Ⅲ 感謝について
(新しきわざ)
 問86 われわれが何の功績もないのに、恩恵によってキリストによって救われているとするならば、なぜ、われわれはよい行いをしなければならないのですか。
 答 そのわけは、キリストは、御血潮をもってわれわれをあがなってくださった後に、さらに、聖霊によって更生せしめ、主に似る者としてくださって、われわれが全生涯をもってこの恩恵に対して神に感謝をあらわし、われわれによって神が崇められるようにしてくださったからなのであります。
 かくてさらに、われわれは、その実によって自分の中に、自己の信仰を一層確信し、そして、われわれの神に祝福された生活によって、われわれの隣人をもキリストに導くのであります。

 「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(コリント一6・20)
 
 問88 人間のまことの懺悔、悔い改めはいくつのことから成り立っていますか。
 答 二つからです。古い人が死滅することと、新しい人が復活することです。

 「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」(ローマ8・2)
 
 問90 新しい人の復活とは何ですか。
 答 キリストによって、心から神を喜び、神のみ心に従って、あらゆるよい行いに生きることを好み、愛することであります。

 「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。」(ローマ6・22)
 「神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。」(ヨハネ手紙一5・3)
 
(祈りについて)
 問116 キリスト者には、なぜ祈りが必要なのですか。
 答 それは、祈りが、神がわれわれにお求めになる感謝の、最もすぐれたものであり、また、神は、恩恵とみ霊とを心からの慕わしさをもって、たゆまずこれを求め、また、それを感謝する者にのみ、与えようと思っておられるからであります。

 「絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケ一5・17~18)
 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(マタイ7・7-8)
 
 問120 なぜ、キリストは、われわれに神を、父よと呼びかけるようにお命じになったのですか。
 答 それは、主がわれわれの祈りの一番初めに、われわれの祈りの基礎となるべき、神に対する子としての畏れと信頼とを呼び起こしてくださるためであります。すなわち、神は、キリストによってわれわれの父となってくださり、われわれが信仰において神に求めるものは、われわれの父たちがわれわれに対して地上のものを惜しまない以上に、惜しまずに与えてくださるのであります。

 「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」(マタイ7・11)
 
 問129 アーメンという、小さな言葉は、どういう意味ですか。
 答 アーメンというのは、これは真実であり、確かであるに違いない、ということであります。なぜなら、私の祈りは、自分の心の中に自分がこのようなことを神に求めていると感ずるよりも、はるかに確かに、神によって聞かれているからであります。

 「神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。」(コリント一1・20)