2023年3月3日「今日救いがあなたの家を訪れた」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書19章1-10節

ザアカイは徴税人の頭で、金持ちでした。当時のユダヤはローマ帝国に支配されていたから、税金をローマに納めなければなりません。ザアカイはそのローマの手先となって、同胞のユダヤ人たちから税金を取り立てて、ローマに納めていました。ザアカイは同胞のユダヤ人から憎まれ、嫌われていたのです。

あるとき、ザアカイはイエス様が近くにお通りになることを知り、その場所に行ってみるのですが、群衆に遮られて見ることができなかったのです。それで、いちじく桑の木に登ったのです。イエス様は、ザアカイが木の上にいることを知っておられ、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」そう言ってくださいました。イエス様の愛が込められた言葉です。イエス様と出会ったザアカイは「主よ」と呼びます。イエス様を「主」として生きる新しい生き方へと変えられて行きました。私たちもどんなことがあっても、「主よ」とお呼びすることができる、その恵みの中に、新しい一歩を共に歩み出していきたいと思います。

2024年2月25日「あなたの信仰があなたを救った」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書18章35-43節

イエス様がこのエリコの町に入ろうとしたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていました。ある日、群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねました。「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、この盲人は「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだのです。イエス様は立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられました。彼が近づくと、「何をしてほしいのか」とお尋ねになります。盲人は「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言ったのです。つまり、「再び見えるようになりたい」と言いました。そこで、イエス様は「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と語ってくださいました。

では、この盲人の信仰というのは、どういう信仰だったのでしょうか。彼は、かつて目が見えていたのですが、今は見えていない。だから、もう一度「目が見えるようになりたい」という願いをもって、イエス様に率直に申し上げるだけでした。イエス様はそのことを、「あなたの信仰」と呼んでくださり、この人の願いを聞き入れてくださったのです。

2024年2月18日「神にはできる」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書18章18-34節

ある議員がイエス様に「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねました。また、「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」という掟はみな、子供の時から守ってきましたと答えました。この議員の言葉を聞いて、イエス様は「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と仰いました(22節)。しかし、議員はイエス様の言葉を聞いて非常に悲しんだのです。大変な金持ちだったからです。

彼の悲しむ姿を見て、イエス様が「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と仰いました。これを聞いた人々が「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、イエス様は「人間にはできないことも、神にはできる。」と仰いました。つまり、神から遣わされた主イエスの十字架と復活を通して、私たちは救われたのです。

2024年2月11日「神の国に入るには」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書18章9-17節

イエス様は、自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して、だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められることを、たとえを用いて教えられました。

二人の人が祈るために神殿に上ったのです。まず、ファリサイ派の人は「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と祈ったのです。彼の祈りは、自分がほかの人に比べていかにすごいか、律法を守れないほかの人たちと違う自分であることを感謝しますという心の中の祈りです。

それに対して、徴税人の祈りはただ胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」という短い祈りでした。彼は自分の罪深さを心の中から悲しむしかできなかったのです。ただ、神様の前に立って「神様、私を憐れんでください」そう祈ったわけです。イエス様はこの二人の中に、義とされて家に帰ったのは、徴税人であったと仰いました。

2024年2月4日「気を落とさずに祈る」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書18章1-8節

 ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいました。その裁判官のところに、一人のやもめがやって来て、「相手を裁いて、私を守ってください」と訴え続けたのです。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかったのですが、とうとう、この裁判官も裁判をしようと思っているのです。それは彼女がかわいそうだったからではないのです。ただ単にうるさくて仕方ないから。しょうがないから裁判をしてやろうというわけです。それから、イエス様は言われました。「まして神は・・・」(7節)。神様はご自分が選んだ私たちのために、私たちの祈りを聞かないでほうっておかれることがあるだろうか、そうではないと言われているのです。ですから、私たちは、祈ることをすぐやめてしまうのではなく、気を落とさずに絶えず祈らなければならないのです。

2024年1月7日「神の国とその到来」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書17章20-37節

ファリサイ派の人たちの「神の国はいつ来るのか」という質問に対して、イエス様は、「神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言われました。つまり、神の国はすでにあなたがたの間に来ているとおっしゃいました。しかし、イエス様は弟子たちには、「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう」と言われました。つまり、あなたがたが今は目で見て、私についていますが、見えなくなる日がやってくる。その人の子の日を一日だけでも見たいと願う時がくる、ということです。

このように、イエス様は、神の国はイエス・キリストが来られることによって、すでに始まっていますが、その神の国が完成する日は、未だに来ていないと言われました。ですから、その間を、希望をもって生きるのが、キリスト者であることを、イエス様は教えています。

2023年12月31日「戻って来た者」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書17章11-19節

イエス様が今弟子たちと一緒に、エルサレムに向かって、旅を続けています。その旅の途中、ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出て来て、イエス様を迎えました。重い皮膚病にかかった人は、人里離れたところで暮らさなければなりませんでした。それは、この病気が当時、恐ろしい伝染病だと考えられていたからです。だから、彼らは遠く離れたまま、声を張り上げて「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と叫びました。イエス様はこの叫びに答えてくださいます。イエス様は彼らを見て「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われました(14節)。

当時、病気が癒されたことを証明できるのは神殿の祭司だけでした。祭司が証明してくれれば、その人は家族に帰って行くことができました。彼らはイエス様の言葉に従って、村を出て、神殿に向かいます。未だ病気のままです。ところが、彼らは祭司のところへいく途中で、清くされたのです。病気は治ったのです。「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった」(15-16節)。十人の中の一人、サマリア人は自分がいやされた時、大声で神を賛美しながら、イエス様のところに戻って来たのです。しかし他の九人は、祭司のところへ向かう途中で、自分がいやされたことを知ったはずですが、イエス様のところに戻って来ませんでした。

 イエス様はご自分の足もとにひれ伏して感謝しているサマリア人に「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われました。この言葉はイエス様のところに戻って来たサマリア人一人だけが聞いたのです。つまり、病気の癒し、そのものが救いではなくて、「イエスのもとに戻って来て、ひれ伏して感謝する」そのことを、イエス様は「あなたの信仰」と呼んでくださって、その信仰があなたを救ったと仰いました。

2023年12月24日「神は我々と共におられる」

○金 南錫牧師 マタイによる福音書1章18-25節

マリアはヨセフと婚約していましたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていたのです。ヨセフは周りの人にこのことが知られない内に、縁を切ろうと考えました。

そのヨセフに、主の天使が夢に現れて「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのだ。マリアは男の子を生む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と言いました。つまり、人間を罪から救うために、イエスキリストがこの世にお生まれになったということです。

 また、マリアから生まれてくる子どものもう一つの名前は「インマヌエル」です。その名前は「神は我々と共におられる」という意味です。神様は私たちと共におられるために、イエスキリストをこの世に送ってくださいました。イエスとインマヌエル、この二つの名前の意味を明らかにするために、イエス様はクリスマスの時に、お生まれになったのです。

2023年12月17日「赦し、信仰、奉仕」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書17章1-10節

「イエスは弟子たちに言われた。『つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。』あなたがたも気をつけなさい」(1-2節)。

ここで、イエス様は「小さい者の一人をつまずかせる者は不幸だ」と仰っておられます。「つまずき」とは、信仰の歩みを妨げて、その人が神から離れさせてしまうことです。また、つまずきをもたらす者は、これまでの文脈から言えば、ファリサイ派の人たちのことだと思います。イエス様は彼らのことについて「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。」そう言われました。

でも、このことはファリサイ派の人たちだけに限ったことなのでしょうか。そうではないのです。だから、イエス様は弟子たちにも「あなたがたも気をつけなさい」と言われたのです(3節)。私たちの心の中にも、自分は正しくて、間違っているのは相手だ。赦せない。そう思ってしまうことがあると思います。そのような時、私たちもつまずきをもたらす者になってしまうことがあります。だからこそ、イエス様は言われました。「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」(3節)。

2023年12月10日「金持ちとラザロ」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書16章19-31節

ある金持ちがいました。彼はいつも紫の衣や柔らかい麻布を着ていて、毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。その金持ちの門前には、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていました。やがて、二人は死んでしまいます。しかし、金持ちは死んだ後、降府でさいなまれながらもだえ苦しんでいたのです。一方、ラザロは死んだ後に、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそば、つまり神の許へと連れて行かれたのです。

このように二人の死後の在り方を分けたものは一体何だったのでしょうか。金持ちは、ラザロを自分の家の門前に置いてあけたのですが、それは人に自分の正しさを見せびらかすためでした。本当の意味で悔い改めて、神に立ち返ることができなかったのです。ところが、ラザロは自分の力に頼ることができませんでした。自分は神の恵みによって生かされていることに気付かされていたのです。悔い改めて、心の向きを神に向けて行く人を、神は助けてくださるのです。