2020年5月31日「生きている者の神」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書12章18-27節

(音声メッセージも提供しています)

 ある家に七人の兄弟がいて、長男が妻を迎えたのですが、後継ぎがないまま死んでしまいました。そこで、次男が長男の妻を自分の妻として迎えましたが、次男も後継ぎを残さず死んでしまいました。三男、四男、そして最後の七男まで同じことを繰り返しましたが、七人とも後継ぎを残さず死んでしまい、この女も死んでしまったのです。では、「復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか」と相談を受けたら、どのように答えるでしょうか(20-23節)。
 本日の聖書箇所は、サドカイ派の人々が、「ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の後継ぎをもうけねばならない」という律法規定(申命記25章5節)を取り上げ、イエス様に問いを発しました。
 当時、サドカイ派は、エルサレム神殿などの祭司を出している上流階級で、死者の復活を信じませんでした。その理由は、彼らが旧約聖書の最初の創世記から申命記まで、いわゆるモーセ五書だけを重んじていたことと関係があります。モーセ五書には、復活を記す記述はありません。ですから、この人々は死者の復活を否定していたのです。
 実は彼らも前回のファリサイ派と同じように、イエス様の答え方によって、イエス様を失脚させようとしたのです。
 しかし、イエス様はそのことをよく分かった上で、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになる」と言われ、モーセの書の「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という言葉を引用して、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている」と答えられたのです(24-27節)。
 ここでイエス様は、サドカイ派の人々が信じているモーセ五書の出エジプト書をあえて引用し、死者の復活を教えている箇所があると言われています。モーセが初めて神様に出会ったとき、神様はご自分のことを「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言われました(出エジプト3章6節)。
 なぜそれが死者の復活を教えることになるかというと、モーセの時代には、アブラハムもイサクもヤコブも、大昔に死んだ人たちだったからです。神様は、すでにこの世を去った彼らのことを覚えていました。そして、彼らの子孫を祝福するという約束も覚えていました。だから、彼らの子孫のひとりであるモーセに現れて、イスラエルの民をエジプトから連れ出す使命を与えたのです(出エジプト3章10節)。
 神様とアブラハム、イサク、ヤコブの関係は、彼らが死んだ後も終わっていませんでした。だから、肉体が死んでしまっても、彼らは死んでおらず、生きていて、やがて復活するのだと、イエス様には言えたのです。
 私たちは誰でも、いつかこの世を去るときを迎えます。健康なときには忘れてしまうかもしれませんが、コロナのような危険にさらされたときや大切な人を失ったとき、死が身近になります。でも、肉体の死はすべての終わりではありません。
 本日のイエス様の言葉から分かるように、神様は、アブラハム、イサク、ヤコブのことを覚えていたのです。同じように、私たちがこの世を去っても、神様が私たちのことを覚えていて、共にいてくださることは変わりありません。大切なのは、生きるにしても死ぬにしても、私たちが今も生きて働いておられる神にしっかりと目を向けて、生きていくことなのです。

2020年5月24日「神のものは神に」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書12章13-17節

 祭司長、律法学者たちは、ファリサイ派やヘロデ派の人たちをイエス様のもとに送り、言葉じりをとらえて陥れようとしました(13節)。
 イエス様のもとに来た彼らは、イエス様のことを「真実な方、人を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えている方」と表現しました。でも彼らは口ではそう言いながら、決してその通りに信じてはいませんでした。
彼らはイエス様に、当時ユダヤを統治していたローマ皇帝に「税金を納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか」を尋ねてきました(14節)。
 ここで「納めるべきだ」と答えれば、人々の支持を失います。また、「納めなくていい」と言えば、ローマ帝国に反逆する者と見なされます。彼らは、どちらに答えても、イエス様を失脚させることができると考えていました。
 イエス様はそのような彼らの偽善を見抜かれて、「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい」と言われました(15節)。そして、彼らがそれを持って来ると、イエス様は、「これは、だれの肖像と銘か」と言われ、彼らは「皇帝のものです」と答えました(16節)。
 当時、デナリオン銀貨には皇帝の顔が刻まれていて、神の子カイザル(皇帝)という、その皇帝の名前が記されていました。即ち、イエス様は現に使っているデナリオン銀貨を見せながら、ローマ皇帝の肖像と銘が書いてあることを示し、「皇帝のものは皇帝に返しなさい」と答えられたのです(17節)。
 「皇帝のものは皇帝に」ということで、この世の権力者に対して、私たちがどうあるべきかも示しておられます。自分たちは神に従うから、この世の法律や決められたことには従わないというのではなく、この世の権力者の役割を理解し、彼らのために祈り、協力する必要があります。同時に、クリスチャンとして、全能の父なる神に従っていく使命があります。
 今、私たちは新型コロナウイルスの世界的な危機にさらされています。感染の怖さだけでなく、経済への打撃も深刻です。感染を食い止めるために経済活動を自粛すれば、感染による死者が抑えられても、経済的な破綻によって自殺者が増える、というニュースも見ました。
 こんな状況の中で、この世の権力者の役割はとても大きくなっています。私たちは彼らが正しい判断をできるように祈り、彼らの指示に協力する必要があります。でも同時に、権力者に対して、彼らが正しい判断をしているかを見張る使命があります。
 イエス様が「皇帝のものは皇帝に」と言われたとき、デナリオン銀貨の肖像が誰かを質問されました。この「肖像」という言葉は、創世記1章26、27節にも出てくる言葉です。神は人間をご自分の「像」に似せて創造されました。即ち、私たちは、神のかたちに似せて創造された者です。
 皇帝の肖像が刻まれているデナリオン銀貨が「皇帝のもの」と言われるように、神のかたちに似せて創造された私たちは、「神のもの」なのです。ですから、「神のものは神に返しなさい」と言われているように、神のものである私という存在をいつも神に返し、ささげていくのです。
 具体的に、私たち一人一人が、クリスチャンとして、できることがあるはずです。今主日礼拝に集まらないことも、家族や友人、隣人のためにできることだし、今は会えない寂しさも私たちの払う犠牲だと思います。一人一人、それぞれの場所で、自分自身を神に返す新しい一週間を始めましょう。

2020年5月17日「ぶどう園のたとえ話」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書12章1-12節

 ある人がぶどう園を造り、農夫たちに貸して旅に出ます。収穫のときになり、収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送るのです。しかし、この農夫たちは、僕にぶどう園の実りを差し出すのではなく、僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰しました。
 次に他の僕を送りますが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱しました。そして、更に、もう一人を送りますが、今度は殺しました。そのほかに多くの僕を送りますが、「ある者は殴られ、ある者は殺された」と言うのです(5節)。
 そして、ついに、この人は、自分の愛する一人息子を送るのです。しかし、農夫たちはこの息子も殺してしまうのです(8節)。
 このたとえ話の中、ぶどう園の主人は神です。そして、ぶどう園はイスラエルの民であり、ぶどう園の農夫たちはイスラエルの指導者、即ち祭司長、律法学者、長老たちとなります。
 この主人(神)は、自分が不在でも、自分の財産であるぶどう園を農夫に任せようと考えたのですから、農夫に対して絶対的な信頼を置いていたことが分かります。それも「ぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て」とありますように(1節)、農夫たちが安全に働ける場所と必要なものをすべて用意し旅立ったのです。
 しかも、その信頼は、僕が殺されたときでも激怒するということもなく、それを忍べるほどの信頼を抱き続けていたようです。そして、自分の愛する息子さえ主人は送ったのです。結果は前と同じでありました。
 ところがそんな彼らに向かってイエス様は、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」「わたしたちの目には不思議に見える」と言われ、十字架の意味を言われたのです(10-11節)。
 親石と呼ばれる石は、石を積み上げてアーチ状の門を建てるとき、一番上で左右が連結するわけですが、その接合部となる大事な石のことを言います。もしこの石が欠ければ、アーチは崩れてしまうのです。
 一方、家を建てる者とは、祭司長や律法学者と呼ばれるイスラエルの指導者たちのことを指しています。その彼らから、イエスという石は何の価値も見出せない石として、捨てられてしまったのです。
 人間は同じ石を見ても、ある人は価値を見出すかと思えば、別の人は何の価値も見出せないことがあります。確かにイエス様がこのたとえ話を語られた時点では、弟子たちも群衆の多くもイエス様を力ある方として、あるいは救い主としての大切な石と見なしていたに違いありません。
 しかし、やがて始まる十字架への道は、だれ一人としてイエス様を価値ある石と認めず、役立たずの石として捨て去り、死に追いやったのです。ところが、人間の目には必要のない石と見なされた石が、実は無くしてはならない親石となるといわれるのです。捨てられた石が親石になる。それこそが復活であります。
 私たちにありえないと思える、理解できないことが現実に起こって来るのです。イエス様は苦難に満ちた十字架の道を敢えて歩み、裏切る者、罪深い私たちを救いへと導かれるのです。そういうことは、「わたしたちの目には不思議に見える」そのものです(11節)。
 これがあのぶどう園の主人が、何度も諦めず僕を送り続けられた思いです。これは愛という言葉以外の何でもありません。
 ですから、このたとえ話をただイスラエルの罪の歴史だけではなく、自分に当てはめて読んで見たら、いかがでしょうか。自分の過去と、救われた今と重なってみるのです。
 最近、何人もの方から、電話やハガキ、メールを通して語られたことは、普段の礼拝生活のことが、どれほどありえない感謝のことであったかということです。
 今まで教会生活の中で、当たり前のことのように思った礼拝が、どれほどありえない恵みであったかを受け止めたいのです。そして、礼拝が再開するとき、その恵みの不思議さに、もう一度眼を向けて歩んでいけるよう祈っていきましょう。

2020年5月10日「神から与えられた権威」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書11章27-33節

 エルサレムに入城されたイエス様は、その週の内に捕らえられ、十字架につけられて殺されるのです。しかし、そこに至るまでに、マルコはいろいろなことを語っています。
 特に本日の11章27節から12章にかけては、イエス様とユダヤの宗教指導者たちとの幾つかの論争が語られていきます。これらの論争を通して、イエス様が何ゆえに十字架につけられたのかを示されていくのです。
 さて、本日の聖書箇所は、受難週の火曜日の出来事です。イエス様一行は、またエルサレム神殿の境内に入られました(27節)。
 すると、祭司長、律法学者、長老たちが待っていたかのように、やって来ました。彼らはイエス様を陥れようとしてやって来たのです。彼らが、「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」と尋ねました(28節)。
 ここで「このようなこと」とは、イエス様がエルサレム神殿から商人を追い出して、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返したことなどを指しています。それに対して、何の権威があってそういうことをしたのか、というふうに問うているのです。
 イエス様は彼らの質問に対して、逆に問いかけました。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」(29、30節)
 反問された彼らは、洗礼者ヨハネの洗礼は天から、つまり神からのものだと言えば、「では、なぜヨハネを信じなかったのか」と言われ、彼らの敗北は明らかになります。
 他方、人からのものだと言えば、洗礼者ヨハネを本当に預言者だと思っている群衆の目が怖いということで、彼らは「分からない」と返答しました。すると、イエス様は「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」と答えられました(33節)。
 ここに出てくる祭司長、律法学者や長老たちは、確かにユダヤ社会において、権威を有しておりました。しかし、イエス様とのやり取りで、彼らの不信仰があらわにされているのです。
 イエス様の前では、天とか神とは口先ばかりで、彼らの恐れていたのは、群衆であって、この世の権威だけが問題になってしまっていたようです。即ち、彼らの権威とは、自分たちの存在を正当化するためのものであり、そのような権威が保たれることが最大の関心事でした。
 そして、そのためには、自分たちの権威を脅かすイエス様を抹殺する以外に解決方法がなかったのです。どうも彼らの権威とは、人を生かすためのものではなく、人を死へ追いやるもののようです。
 私たちも、それぞれに譲ることのない権威のようなものにこだわり続けて、自分を譲ることも相手を生かすこともしないでいるのではないでしょうか。
 本日の箇所は、イエス様が何の権威で、主であるかという問題を示しています。その本当の答えは、イエス様の十字架上での死と、それを超える永遠の御手が示されたときに、与えられるのです。まさに天の父なる神様から備えられた権威から来るものにほかなりません。
 そして、その権威によって、イエス様は私たちを救いへと導いてくださるのです。私たち一人一人は、イエス様の十字架の出来事を通して、永遠なる神の力、権威を見出すのです。
 教会の頭なる主イエスに感謝して、この一週間も歩み続けたいものです。

2020年5月3日「すべての人の祈りの家」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書11章12-26節

 受難を前にしてエルサレムに入城されたイエス様は、夕方になると町を出て、夜をベタニアで過ごされました(11節)。
 そして、翌朝再びエルサレムに向かうときのことです。空腹を覚えられたイエス様は、葉の茂ったいちじくの木に近寄って実をお探しになります。しかし、まだいちじくの季節ではなかったので、実はありませんでした。そこでイエス様は、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われたのです(14節)。
 20節に翌日の朝のことが語られています。イエス様一行は通りがかりに、そのいちじくの木が根元から枯れているのを見たのです。
 この出来事を見たペトロは昨日の朝の出来事を思い出して、イエス様に「先生、ご覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています」と言っています。ペトロはイエス様がいちじくの木を「呪った」と言っているのです。
 では、なぜイエス様はいちじくの木に向かって、呪いの言葉を言ったのでしょうか。そこには意味が込められていたからです。
 いちじくの木は、旧約聖書でイスラエルを象徴して用いら れています。例えば、ミカ書7章1、2節に「悲しいかな。わたしは夏の果物を集める者のように、ぶどうの残りを摘む者のようになった。もはや、食べられるぶどうの実はなく、わたしの好む初なりのいちじくもない。主の慈しみに生きる者はこの国から滅び、人々の中に正しい者はいなくなった。皆、ひそかに人の命をねらい、互いに網で捕らえようとする」とあります。いちじくのことが出ていて、預言者は腐敗したイスラエルを批判している箇所の一つです。
 イスラエルの中心であるエルサレムもまさにこのいちじくの木のようでした。エルサレム神殿に入ると、勢いよく葉の茂ったいちじくの木のように、人々でにぎわっていましたが、そこに霊的な実が見られませんでした。
 イエス様は神殿の境内で売り買いをして礼拝を妨げている人たちを追い出されました(15-16節)。「すべての人の祈りの家」が、神の礼拝する家でなくなったことに対して、イエス様は怒っておられるのです。
 このイエス様の怒りと、いちじくの木に対する呪いが弟子たちに示された上で、イエス様はまず「神を信じなさい」と語られました。また、24節で「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい」とも言われています。
 さらに信じて祈るとき、「そのとおりになる」と二回繰り返して強調しておられます。
 私たちは「祈ってもダメ」と言って、祈ることをやめてはなりません。私たちは祈りの中で変わるのです。信じた後に祈るのではなくて、祈りの中で信仰が与えられるのです。祈りの中で山を動かす奇跡を見る目が養われるのです(23節)。祈りがなければいくら奇跡があっても、それを奇跡と見ることができません。
 また、祈るときに大切なことがあります。それは祈りの中で恨みを抱いている人がいたら赦すということです(25節)。
 聖霊は私たちが切に祈っていくときに、人に対する恨みやわだかまり、和解すべき関係を示されます。それを解決しなければ祈り続けられないことがあるのです。人を恨んでいることで祈りが妨げるのです。
 今赦せなくても、赦していける道が、イエス・キリストを見上げるときに必ず示されるのです。神様を信じて祈っていきましょう。

2020年4月26日「エルサレム入城」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書11章1-11節

 本日の聖書箇所は、イエス様がいよいよエルサレムに入る場面です。
 イエス様がエルサレムに入城されたとき、子ろばに乗って入城されました。2節に「まだだれも乗ったことのない子ろば」であったと記されています。普通、城に入るとき、ろばよりも軍馬を思い浮かべる人が多いでしょう。しかし、イエス様は子ろばに乗って、エルサレムに入城されました。ここには、メシアは柔和な方でろばに乗ってやって来るとの預言の成就が意図されています。
 ゼカリヤ書9章9節、10節に「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ」とあります。この御言葉のように、イエス様は平和の王として、ろばにしかも子ろばに乗ってエルサレムに入城されたのです。
 人々が期待するメシアは、日常を襲う生活の苦しさ、病や災いを幸福と健康に変えてくださるお方でありました。そのようなメシアは、力を持ち、人々を圧倒するような姿を持っていてよいはずです。しかし、イエス様は意気揚々と凱旋するかのような王として入城されません。イエス様は、十字架の死によって人の罪に勝利される王であることを、とぼとぼと歩くろばに乗るという行為に表されました。
 さらに、イエス様の御用のために、力のない子ろばが用いられたということは、私たちへの励ましになります。イエス様が子ろばを手に入れるとき、二人の弟子を遣わされました。そして彼らにこう言われました。2節、3節です。
 「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」そして、二人の弟子たちが出かけて行きますと、確かに子ろばがおり、「それをどうするのだ」と問われて、弟子たちはイエス様の言われた通りに答えます。すると、その子ろばを連れていくのを許してくれたのです。
 この子ろばは、イエス様を背負われた大切な役割を果たしたのです。主の御用のためには力がなければ、能力がなければ用いられないということではありません。この子ろばのように、そのままでイエス様を背負い、お乗せすることに徹すれば、よいことになります。
 イエス様を乗せた子ろばは、イエス様と共に「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」という群衆の歓呼の声を受けて、エルサレムに入城することができたのです。
 今、新型コロナウイルスのことで何もできない私たちのような者も、イエス様を乗せたこの子ろばのように、「主がお入り用なのです」というイエス様の言葉を信じ、用いられて歩んでいきたいと思います。

2020年4月19日「バルティマイの信仰」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書10章46-52節

 イエス様が弟子たちを伴い、エリコという町に来られました。そこに、盲人バルティマイが物乞いをするために、道端に座っておりました。彼は働くこともできず、一生涯、他人からの施しによって生きていかなくてはなりませんでした。彼の心は孤独でした。生きて行くことに対する希望も持っていなかったかも知れません。そのような中で、一つ彼らの心の中には、ナザレのイエスにお会いしたいという一抹の希望がありました。
 いつものように、その路傍に座って、物乞いをしていたバルティマイの耳にいつもと違うざわめきが聞こえて来ました。イエス様に従う人々の声でした。今イエス様と弟子たちが通っておられることが分かりました。バルティマイは、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続けました。
 「主よ、憐れんでください」という言葉は、原文では「キリエ・エレイソン」と言います。彼は心からイエス様に「キリエ・エレイソン」を叫び続けたのです。その叫びはとても切実な祈りでもありました。
 周りの人々はなぜか、そういう彼を叱りつけて、黙らせようとしました。しかし、彼は決して諦めません。それどころか、もっと大きな声で「キリエ・エレイソン」と叫び続けました。
 すると、イエス様はバルティマイの必死の叫びを聞き分けて、立ち止まってくださったのです。そして、イエス様の方から「あの男を呼んで来なさい」と言われました。
 人々は彼に「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」とイエス様の招きを伝えました。先まではバルティマイを叱り黙らせ、邪魔扱いをして、彼の叫びを受け止めようともしなかった彼らがイエス様の御言葉に聞き、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」とイエス様の招きを伝えたのです。
 教会のなすべきことがこの御言葉の中に語られています。教会はイエス・キリストの招きを伝えるところです。それが教会です。
 バルティマイは喜び踊ってイエス様の前へやって来ました。イエス様は彼に「何をしてほしいのか」と聞かれました。ここで、イエス様がバルティマイの願いをすでにご存じであっても、あえてそう聞かれたのは、彼が祈りを持って、神に向かうことを求めておられるからです。盲人は「先生、目が見えるようになりたいのです」と答え、この人の祈りの言葉が導かれました。
 イエス様はこう語られました。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」(52節)。
 このあなたの「信仰」というのは、原語では「ピスティス」と訳しますが、「誠実、忠実、真実」と訳すことができます。即ち、主において、いかに誠実に向かうかが信仰と言えます。
 バルティマイの救いは、彼がイエス様に対していかに誠実であったかにつきます。彼はイエス様に対して、誠実でありたいと願ったのです。それが、彼の信仰でありました。
 見え始めたとき、彼は「なお道を進まれるイエスに従った」のです。イエス様に従うことによって、まことの人生が見えて来たのです。盲人であった彼がイエス様の御言葉によって見えるようになったのです。真の生き方が見えて来ました。主の御前に誠実であろうとするとき、真の生き方が見えてくるのです。
 新型コロナウイルスの影響で、落ち込んでいる私たちでありますが、この時こそ心の叫び、祈りをもって、主イエスに「キリエ・エレイソン、私を憐れんでください」と呼び続けましょう。主イエスはその私たちの声に必ず、答えてくださいます。アーメン。

2020年4月5日「私たちの賛美を回復される神」

○金 南錫牧師 詩編51編12-17節

 「御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください」と祈り求めたダビデは、「主よ、私の唇を開いてください」と祈ったのです(17節)。
 これは、裏を返せば、いつか自分が罪の中にいたとき、唇が開かず、苦しんでいたことを表しています。罪の中にいるとき、唇が閉じて、祈りが消えてなくなります。
 次に、賛美が消えているのです。このとき、クリスチャンは霊的にうめきます。神様との関係が閉じられてしまったからです。ダビデは耐えられませんでした。そして、「主よ、私の唇を開いてください」と祈ったのです。
 16節に、「神よ、私の救いの神よ。流血の災いからわたしを救い出してください。恵みの御業を、この舌は喜び歌います」とあります。
 ここで、「流血の災い」とは、ダビデがバト・シェバの夫であるウリヤを激しい戦いの最前線に出し、戦死させた、殺人の罪を指しています。その流血の災いから、私を救い出してくださいというのは、その殺人の罪から自分を救い出してください、ということです。
 また、「恵みの御業」とは、犯した罪を悔い改める人に対する、神様の赦しと救いの御業です。そして、「喜び歌います」ということは、すべての力を尽くして、賛美することです。
 クリスチャンはうれしいときだけでなく、悲しみの中にあるときも、その賛美から離れてはなりません。なぜなら、神様は人生の真夜中にあっても、賛美を与え、賛美するように、導いてくださるお方だからです。
 2020年度が始まりました。それぞれ置かれた場所で、ダビデのように祈り、賛美を回復し、私たちの唇から、賛美が離れることがないように祈り願います。私たちの人生の目的は、何かを成し遂げるためではなく、神様を賛美することにあります。

2020年3月29日「新しい歌‐讃美歌練習から‐」

○MK兄(奨励) ヨハネの黙示録19章5-7節

 讃美歌の作詞・作曲者を調べてみると、時代も背景も様々ですが、古い時代の歌も、その当時は新しい歌であり、その時代その時代の新しい歌が作り続けられていたことが分かります。
 今日「讃美歌らしい」と思う曲は、多くが19世紀頃のアメリカやイギリスのもので、明治の頃に来日した宣教師たちが紹介した当時の「新しい歌」でしたし、本日の讃美歌に選んだ333番は、タンザニアで、結婚式の時に男女のグループが歌い交わす踊りの曲を讃美歌にしたものだそうです。
 新しい歌を作ることには、自分たちの信仰を、自分たちの形に表わして讃美する、という意味があるのだと思います。
 しかし、讃美歌を作ることはできなくても、讃美は誰にでもできるはずです。言葉も行ないも、他ならぬ自分の人生自体が、御心に従って生きようとするなら、それが讃美に、一つの「新しい歌」になるのではないでしょうか。
 前回、5年前には、長崎の潜伏キリシタンについてお話ししましたが、彼らが250年もの間耐えることができたのは、「いつか黒船が来て司祭がやってくる、キリシタンの歌をどこでも大声で歌えるようになる」という希望、「待ち望む信仰」があったからだと思います。
 今私たちも、残念ながら大きな声で讃美歌を歌うことができませんが、願わくば遠からず、大きな声で、高らかに、晴れやかに歌えるようになる日を待ち望みたいと思います。

2020年3月22日「仕えるために」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書10章32-45節

 福音書には、イエス様ご自身が三度にわたって受難を予告し、その都度弟子たちから理解されなかった様子が記されています。
 一回目の受難予告は、マルコによる福音書8章31節以下です。このときは、イエス様の口から受難予告が語られると、弟子のペトロがそんなことがあってはならないとイエス様をいさめ、その態度をイエス様が叱りつけるという場面があります。
 二つ目は、9章30節以下です。ここでは、弟子たちはイエス様の言葉の意味が分からず、しかも怖くて尋ねられなかったと記されています。
 そして、今日の箇所が三回目となりますが、弟子たちはイエス様の死に対して、なかなか理解できませんでした。特に、弟子たちの中でも重要な位置を占めるヤコブとヨハネは、イエス様が栄光を受けるとき、自分たちに特別な地位を与えてほしいと願ったのです(37節)。
 しかし、二人が思い描いていたイエス様が栄光を受けるときとは、イエス様が神の子であることが明らかになるときです。ところが、イエス様にとっては、それは十字架に付けられるときでした。
 二人は、自分自身の望む救い主を求める中で、十字架なしの栄光を求めていたのです。そこで、ほかの10人の弟子たちは、ヤコブとヨハネがこっそりイエス様に頼みにいったことで腹を立てました。彼らの中にも偉くなりたいという求めがあったのです。
 42節に「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた」とあります。一同を呼び寄せたのは、一同が皆イエス様を真に理解していなかったからです。
 今朝も、イエス様は私たちを「呼び寄せて」くださり、ご自分が十字架に付けられた意味を示してくださるのです。
 「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」