2025年6月1日『神の証し」

○金 南錫牧師 ヨハネの手紙一5章6ー12節

「この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。」(6節) 水とはイエスの洗礼のことであり、血とは十字架で流された血のことを示しています。このように、イエス・キリストは「水と血によって」来られた方です。そして“霊”即ち、聖霊なる神はそのことを証しています。また、「神の御子を信じる者」は、神が御子についてなさった証しを自分のうちにしっかりと持っている、確信しているというのです(10節)。信仰者はイエス・キリストについて聖書に記されていることを聖霊の御声に聞きながら、心に信じ、確信していることです。

2025年5月25日「世に打ち勝つ信仰」

○金 南錫牧師 ヨハネの手紙一5章1ー5節

 

「神を愛するとは、神の掟を守ることです。」(3節) これは、神を愛しているのならば、 神の掟を守るようになる、この二つのことは切り離すことができない、というのです。続いて「神の掟は、難しいものではありません」とあります(3節b)。「難しいもの」と訳されている言葉は、「重荷」とも訳せます。つまり、神の掟は重荷ではないと言うのです。そして、神の掟が重荷ではない理由として、「神から生まれた者はみな、世に打ち勝つからです。・・・だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか」とあります(4-5節)。私たちは神の子である、イエス・キリストを信じる信仰によって、キリストがすでに世に打ち勝ったその勝利にあずかることができます。私たち自身が世に打ち勝つわけではありません。世に打ち勝ったのはキリストであり、神の子であるイエスです。そのイエス・キリストを信じる信仰の中で、私たちは世に打ち勝つ者とされたのです。

2025年5月18日「愛には恐れがない」

○金 南錫牧師 ヨハネの手紙一4章17ー21節

「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。」(18節)ここに出て来る「恐れ」とは、裁きの日における恐れです。イエス様は私たちが受けるべき裁きを、十字架の死によって代わりに受けてくださいました。また、神様はそのイエスを死人の中から復活させ、私たちの救い主としてくださいました。私たちはそのイエスキリストの十字架の死と復活を信じるので、裁きの日に確信を持つことができるのです。自分は神様の救いに与るにふさわしい者ではない。でも、御父であられる神様はご自分の独り子を遣わして、十字架の死と復活の出来事を通して、救いを与えてくださったのです。その神様の愛を受け入れる時、「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」と言うのです。

2025年5月11日「神は愛です」

○金 南錫牧師 ヨハネの手紙一4章13ー16節

神は私たちに、ご自分の霊、聖霊を与えてくださいました。この聖霊によって、私たちが神の内にとどまり、神も私たちの内にとどまってくださることが分かります(13節)。続く14節に「わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています」とあります。私たちは聖霊をいただいて、御父であられる神様が世の救いのために、御子イエス様を遣わされたことを見るのです。15節に「イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります」と記されています。「イエスが神の子であることを公に言い表す」とは、「御父が御子を世の救い主として遣わされたこと」を告白することです。それは、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(10節)と信じ、告白することです。その信仰告白が私たちを神の者としていくのです。

2025年5月4日「ここに愛がある」

○金 南錫牧師 ヨハネの手紙一4章7ー12節

「神様から愛されている人たちよ、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」ここで、愛は神から出るもので、その神の愛によって、互いに愛し合いましょう。また、神は愛だから、神を知る者は愛する者となると告げています。では、私たちはどこにおいて、神が愛であることを知るのでしょうか。9節、10節に「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」と書いてある通りです。

2025年4月27日「真理の霊と人を惑わす霊」

○金 南錫牧師 ヨハネの手紙一4章1ー6節

ヨハネは、あなたがたを導く霊が神から出た霊かどうかを確かめなさいと言うのです。そしてその霊が本物かどうかを確かめる基準として、「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです」と言います。御子であられるお方がすべてを捨てて、私たちと同じ肉ともって、飼い葉桶に生まれてくださいました。そして、私たちが経験するすべての苦しみ、生きる悩みを知ってくださったのです。それこそがイエス・キリストが肉となって来られた、ということです。私たちが「イエス・キリストが肉となって来られた」という福音を心から受け入れていくならば、私たちは神の霊、聖霊の導きの中にあって、聖霊と共に歩んでいることが分かります。

2025年4月20日「私たちの復活」

○金 南錫牧師 コリントの信徒への手紙一15章12ー26節

 

私たちは、キリストの復活は神の御子として復活なさったのだから、信じることができる。しかし、私たちのような人間が一度死んで復活するなど、死者の復活は信じられない。コリント教会の信徒たちの中にも、死者の復活などないと主張する人たちがいました。彼らはキリストの復活を否定したわけではなく、死者の復活などないと言っているのです。そのことに対して、パウロは「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」と語っています(14節)。また、キリストが復活の初穂となられたがゆえに、それに続いて、私たちも自分の復活の希望を得ることができました。この復活の希望に共に生きる者として、残された人生を喜んで、生き抜くことができますように願います。

2025年4月13日「神への信頼」

○金 南錫牧師 ヨハネの手紙一3章19ー24節

「これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます、心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。」「これによって」とは、イエス様に倣って、互いに愛し合うことです。それによって、私たちは自分が真理(イエス・キリスト)に属していることを知り、神の前で安心できると言うのです。

その次に「心に責められることがあろうとも」とあります。私たちは自分の心が責められる時があります。洗礼を受けて、神の子でありながら、これでもクリスチャンなのかとがっかりすることがあります。神様を愛し、隣人を愛したいと願いながら、それと正反対のことをやってしまう自分があります。でも、今日の聖書は大丈夫なんだ、神の前で安心できると言うのです。なぜならば、神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです(20)。神様はすべてをご存知だから、安心しなさいと言っています。

2025年4月6日「賛美と共に朝が」

○金 南錫牧師 使徒言行録16章16-34節

パウロはフィリピの町で占いの霊に取りつかれていた女奴隷に出会います。彼はその霊に向かって「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」と命じました。すると即座に、占いの霊が彼女から追い出されました。しかし、彼女を通して、金儲けをしていた主人たちは憤慨し、パウロとシラスを捕らえ、町の高官たちに引き渡しました。高官たちはちゃんと調べもせず、二人の衣服をはぎ取り、何度も鞭で打ってから、牢に投げ込みました。

何度も鞭打たれ、投獄されたパウロとシラスの体はボロボロになり、大変な苦しみの中にあったと思われます。しかし、そのような状況の中で、「真夜中ごろ、牢の奥で、パウロとシラスが賛美の歌を歌って、神に祈っていた」とあります(25節)。真夜中、二人の傷だらけの信仰者が賛美の歌を歌い、神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていました。ここに教会の真の姿が現れていると思います。信仰者の賛美の歌と祈り、それがあれば、そのところが礼拝の場となります。この賛美の歌と祈りによって、看守とその家族は洗礼を受けて、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだのです。