2026年1月11日「湖の上を歩くイエス」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書6章16ー21節

弟子たちは、船に乗って湖の向こう岸にあるカファルナウムの町に行こうとしました。周りはすでに暗くなっていました。この時、イエス様は祈るために、山に退いていたのです。弟子たちは船を出して、しばらく漕いでいくと、突然、強い風が吹いて、湖は荒れ始めました。このように、突然天気が変わったりするのは、ガリラヤ湖では珍しいことではなかったようです。弟子たちはとても不安になっていたと思います。暗い湖の中、また強い風が吹いて、湖が荒れ始めていたからです。

19節に「二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。」とあります。25ないし30スタディオンは、5キロ前後となります。ガリラヤ湖は、東西10キロ、南北20キロと言われますので、だいたいガリラヤ湖の真ん中のところにあるのです。もう戻ることができない。また湖が荒れているので前にも進むことができない、そういう状況でした。その時、イエス様が湖を歩いて来られて、語りかけてくださいました。「わたしだ。恐れることはない。」(20)。とても慰めに満ちた言葉です。このイエス様の言葉を聞いた弟子たちはどうだったのでしょうか。「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。」(21)弟子たちはイエス様を船に迎え入れようとしたのです。つまり、イエス様の「わたしだ。恐れることはない。」という呼びかけに応えられたのです。そして、その呼びかけに応えたが故に、「船は目指す地に着いた」ということになります。私たちも恐れる時、イエス様の呼びかけに応えていくのではないでしょうか。

2026年1月4日「新しい年を迎えて」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書6章1ー15節

「その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。」(1節)この6章ではガリラヤに舞台が移っています。そして、イエス様はガリラヤ湖の向こう岸に渡ろうとしています。また、時は「過越祭が近づいていた」頃でした。イエス様は山に登り、弟子たちと一緒に座っておりました。すると、そこに人たちが続々と集まって来て、五千人に及んだのです。

イエス様は大勢の人たちがご自分の方に向かって来るのを見て、フィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われました。すると、フィリポは「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えました。また、別の弟子アンデレはこう言います。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」(9節)この時、弟子たちは、イエス様が自分たちと一緒におられたのですが、そのことが見えなかったのです。だから、否定的になってしまったのです。11節でイエス様は「パンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、・・・」とあります。これは、私たち人間の浅い知恵が尽きたところから、イエス様の働きが始まることを示しています。私たちは、何か問題が起こった時に、まず祈るよりも、つい自分の浅い知恵に頼ってしまいがちです。でも、イエス様はそのような私たちと共におられ、私たちを養ってくださるのです。

2025年12月28日「神からの誉れを求める」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書5章41ー47節

 「もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。」(43節)ユダヤ人たちは聖書を通して、神からの証しを受け入れないのに、人間の言葉や証しは受け入れ、信じているというのです。45節に「わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ」とあります。あなたたちを、神に背いている者として父なる神に訴えるのはわたしではなく、むしろあなたたちが頼りにしているモーセなのだと、イエス様は仰いました。しかし、彼らはモーセの律法に照らせば、律法に訴えられても仕方がないのです。神への愛がないからです。42節に「しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている」とイエス様は仰いました。当時の教会は、この言葉を大事にしました。なぜなら、教会は罪赦された群れだからです。イエス様はすべての人に代わって、十字架で死んでくださったからです。「あなたがたの内には愛がない」と言われたイエス様は、御自分の御言葉をその身に引き受けてくださったのです。イエス様は人々の思いや期待に応えようとするのではなくて、父なる神の御心に従ったのです。その結果、イエス様は人々から罵られ、十字架につけられて殺されました。それは、イエス様が唯一の神からの誉れを求めて地上を歩まれたからです。

2025年12月21日「御子を礼拝する喜び」

○金 南錫牧師 マタイによる福音書2章1ー11節

占星術の学者たちは特別な星の動きによって、ユダヤの国で新しい王がお生まれになったことを確信しました。そして、彼らは遠い東の方からエルサレムまでやって来ました。ところが、ヘロデ王は学者たちから「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と聞いて不安を抱きます。

ヘロデ王によって呼び集められた祭司長たちや律法学者たちは、新しい王が生まれた場所は「ユダヤのベツレヘムです」と言い当てました。これを聞いて占星術の学者たちは、エルサレムからベツレヘムに向かっていきます。その時に、自分たちが東の方で見た星が再び現れたので、喜びにあふれました。やがて星は一軒の家の上に止まり、学者たちは家の中に入ると、そこには母マリアとともに、幼子イエスがおられました。「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」(11b)。この聖書が告げる出来事は、後の教会に大きな意味を与えることになりました。救い主はユダヤ人だけではなく、すべての人の救い主であるという信仰がそこから生まれるのです。

2025年12月14日『イエスについての証し」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書5章31ー40節

イエス様は「わたしについて証しをなさる方は別におられる」と仰います。それは、誰のことでしょうか。「あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。」(33)確かに洗礼者ヨハネはイエス様を証ししました。彼はこれから、私の後にどんなに素晴らしい救い主が来るか、皆に伝えました。

「しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。」(36)洗礼者ヨハネは素晴らしい証し人でした。でもそれに勝る証しがあると言うのです。それは何か。わたしが行っている業、つまり、イエス様が行っている業そのものが、イエスについて証ししています。そのイエス様が行っている業とはイエス様の十字架と復活の御業です。また、イエス様はこう仰います。「また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。」(37)父なる神様がイエス様のことを証ししてくださっています。私たちはその神様の証しを聖書を通して聞くことができます。イエス様はそのことについてはっきりと仰います。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」(39)聖書は救い主であるイエス様について証しをしています。聖書がそう告げているから、私たちはそう信じることができるのです。

2025年12月7日「御子の権威」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書5章19ー30節

イエス様は安息日を破っただけではなく、神をご自分の父と呼び、自分と神を等しい者とされたから、神を冒瀆したと思ったユダヤ人たちはますますイエスを殺そうとしました。そこでイエス様は「はっきり言っておく」という言葉を繰り返しながら、ご自分の権威について語られました。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない」(19節)イエス様は神の子として父なる神のなさることをご覧になって、それを行われます。つまり、イエス様は父なる神の御心に従って、ご自分の行いをなさるということです。またイエス様は、父なる神のなさることだけを行われる理由として、「父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである」と説明しておられます(20節)。25節に「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」とあります。ここで「死んだ者」とは、霊的に死んだ者、神様から離れて死んだようになっていた者のことです。その死んだ者が聖書の言葉を通して、神の子の声を聞き、聞いた者は生きる。今がその時であると言うのです。聖書を通して、私に語られた聖書の言葉は、大きな力になります。なんと素晴らしいことでしょうか。

2025年11月30日「安息日も働くイエス」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書5章9bー18節

38年もの間、病に苦しんでいた男が癒されたのは安息日でした。ユダヤ人たちは、床を担いでいるその人を見て、とがめました。彼は「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と告げました。その後、イエス様は神殿の境内でこの人をもう一度出会い、「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」と仰いました。ところが、この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだとユダヤ人たちに知らせたのです。その結果、ユダヤ人たちはイエス様を迫害し始めたのです。このように、人の罪が明らかになるところで、イエス様もまたご自身を明らかにしておられます。イエス様は「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」と仰いました(17)。この言葉は、イエス様が安息日も休むことなく、苦しんでいる私たちのために、働いておられることの宣言です。その働きに感謝したいと思います。

2025年11月23日「起き上がりなさい」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書5章1ー9a節

ベトザタと呼ばれる池のほとりに38年という長い間、病に伏せっていた一人の人がいました。イエス様は、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われました。彼はイエス様の問いかけに対して、「はい、よくなりたいです」と答えていないのです。その代わりに「わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」と言うのです。ようやくベトザタの池にたどり着いたのですが、癒しを求める病人の中にも生存競争があり、彼はそこでも敗北し、絶望していました。そんな時に、イエス様は彼に「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と仰いました(8節)。今まで自分を縛り付けていた、そのものを担いで歩けと、仰ったのです。「すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした」とあります(9節)。彼はイエス様の言葉を信じて従いました。イエス様は私たちにも繰り返し「起き上がりなさい」と声をかけてくださり、励ましてくださいます。

2025年11月16日「信じて帰って行った」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書4章43ー54節

イエスのもとにカファルナウムから王の役人が来て、「息子を癒してください。息子が死にかかっているのです」と訴えました(47)。しかし、イエス様は「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と冷たい反応をされました。これは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じないという人間の不信仰を仰いました。また、求めてくる者を突き放すような言葉です。しかし、王の役人はあきらめません。「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と、しつこく食い下がります(49節)。すると、イエス様はこう言われました。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」(50節)もし彼がただ見えるしるしだけを求めていたならば、このイエス様が言われた言葉に落胆してしまったことでしょう。しかし、王の役人はイエス様の言葉を信じました。彼はイエス様の「帰りなさい。あなたの息子は生きる」という言葉を信じて、帰って行ったのです。