2024年7月14日「三本の十字架」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書23章26-43節

「人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。」(26節)いきなり十字架を背負わされたシモンは、どうして自分が罪人として処刑される男の十字架を、担いで歩かなければいけなかったのか、と思って過ごされたかも知れません。でもある時、イエスの十字架の出来事を聞くのです。そして、あの時、自分が運んだ十字架は、実はキリストが自分の身代わりとなって、死んでくださった十字架なのだということに気づかされ、キリスト者になったのです。

また、イエス様と一緒に十字架にかけられていた二人の犯罪人の一人も、人生の最後に十字架上のイエスと出会って、この方以外に自分を救ってくれる存在はないと思い、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったのです。イエス様はそのことを受け止め、この名もなき犯罪人に対して「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと共に楽園にいる」と仰って下さいました。この救いの約束に生きる共同体が教会です。

2024年7月7日「十字架につけろ」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書23章13-25節

ピラトはユダヤの祭司長たちや議員たち、そして民衆に、イエスは「死刑に当たるようなことは何もしていない」という結論を告げ、「だから、鞭で懲らしめて釈放しよう」と言いました。ピラトは、イエス様がユダヤの指導者たちの妬みによって、ここに連れて来られていることを見抜いていました。そして、鞭で打って、懲らしめるから、それであなたたちは満足しなさいと言っているのです。

「しかし、人々は一斉に、『その男を殺せ。バラバを釈放しろ』と叫んだ」(18節)。当時、ユダヤには、お祭りの時に、一人の囚人を恩赦する習わしがありました。なので、人々は「バラバを釈放しろ」と言っているわけです。暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバは、イエス様と違って、罪状もはっきりしており、死刑にされても誰も文句を言わない人物でした。しかし、人々はイエスではなく「バラバを釈放しろ」と叫んでいるのです。そのように叫んだ人々は、誰のことでしょうか。ユダヤの指導者たちや民衆です。彼らの「十字架につけろ」という声はますます強くなって、結局ピラトも、イエスを十字架に付ける決定を下してしまうのです。

2024年6月30日「沈黙するイエス」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書23章1-12節

当時のユダヤはローマ帝国の支配下にあって、自分たちの裁判で死刑を決定しても、ローマが有罪を認めなければ、執行できませんでした。そこで最高法院の全会衆は、ユダヤ総督であるピラトに訴える必要がありました。彼らはイエスをこう訴え始めました。「この男は我が民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また自分が王たるメシアだと言っております。」

これを受けて、ピラトはイエスを尋問します。「お前がユダヤ人の王なのか。」それに対して、イエス様は「それは、あなたが言っていることです」とお答えになりました。イエス様は肯定も否定もしないのです。この時、イエス様は人間の言葉を耐え忍び、ご自分の口を閉ざされ、父なる神様に心を向けておられました。そして、神様がなそうとしておられる御心を見つめて、十字架への道を歩んでおられたのです。私たちの罪の赦し、救いの御業は、イエス様がこのように沈黙して耐え忍び、実現してくださったものなのです。

2024年6月23日「神の子イエス」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書22章63-71節

夜中に逮捕されたイエス様は、大祭司の家で、夜が明けるまでの時間、見張りの人たちから、侮辱されたり、目隠しをされ「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と馬鹿にされたのです。夜が明けると、今度は、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まりました。そして、イエス様を最高法院に連れ出します。「お前がメシアなら、そうだと言うがよい。」最高法院の人たちは最初から、イエス様がメシア、救い主であることを思っていませんでした。ただ神を冒涜した罪で、イエスを有罪にするために、「そうだ」という答えを言わせたいだけです。イエス様は答えます。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。わたしが尋ねても、決して答えないだろう。しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」最高法院の人たちはさらに尋問するのです。「では、お前は神の子か。」イエス様は答えます。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」そう言われたのです。

2024年6月16日「振り向かれる主」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書22章54-62節

ペトロは、イエス様に従っていくことにおいて、自分が一番だと、誰よりも自信を持っていました。でもイエス様はそのペトロに対して、言うのです。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」その通りにペトロは、三度イエス様のことを知らないと言ってしまいました。

その時に、「主は振り向いてペトロを見つめられた。」鶏が鳴いたその瞬間、主は振り向いて、ペトロを見つめられたのです。そのイエス様のまなざしを見たペトロは、数時間前のイエス様の言葉「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」この言葉を思い起こし、自分が何をしたのか、そのことに気づきます。そして、外に出て、激しく泣いたのです。教会はペトロのように、主イエスを裏切り、失敗し、挫折する罪人の集まりです。だから、互いに信仰が無くならないように祈るのです。

2024年6月9日「起きて祈っていなさい」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書22章39-53節

「誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい。」弟子たちは、これからやってくる出来事、イエス様の逮捕や苦しみ、あるいは自分たちにかかって来る困難を前にして、悲しみの果てに、眠り込んでいたのです。しかし、イエス様はご自分の十字架を前にして、ひざまずいて祈っておられたのです。誘惑に勝つためには、神様に祈るしかないのです。

「起きて祈っていなさい。」悲しみの中で、苦しみの中で、眠り込んでしまう弱い私たちを、主イエスが呼び起こしてくださるのです。この世界は、十字架の主イエスが、救い出してくださった世界です。だから、苦しみ、悲しみの中に逃げ込んでいてはいけないのです。私たちが為すべきことは、この神様の救いの中で、目を覚まして、祈ることです。

2024年6月2日「祈ってくださるイエス」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書22章31-38節

イエス様は、シモンペトロや、弟子たちに向かって、間もなくサタンのふるいにかけられ、信仰が試されることを予告なさいます。すると、シモンペトロは「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」つまり、最後までイエス様に従いますと覚悟したのです。でもイエス様は、ペトロの信仰が簡単に吹き飛んで、無くなってしまうことを見抜いておられました。ですから、「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」と予告なさったのです。

「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」イエス様はペトロが立ち直ることを信じて、祈ってくださったのです。その執り成しの祈りによって、ペトロは後に立ち直って、兄弟たちを励ますことになります。同じように、私たちがどんな試練に会っても、主イエスは私たちが立ち直ることを信じて、祈ってくださるのです。

 

2024年5月26日「仕える者のように」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書22章24-30節

「しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。」このイエス様の言葉を聞いた弟子たちは、自分たちのうち、一体だれがそんなことをしようとしているのかと、互いに議論をし始めました。そして、この議論はいつの間にか「自分たちのうちでだれが一番偉いだろうか」という議論に変わっていきました。

イエス様は弟子たちに対して「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」とおっしゃいました。それでは、なぜ、上に立つ人は仕える人のようにならなければいけないのでしょうか。それは、イエス様ご自身が弟子たちの中で、仕える人として歩んでくださったからです。

「上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」これは自分の決意や覚悟によって、実現できることではないのです。本当に仕える人のようになるためには、まず、イエス様が私のすべての罪を背負って、私の代わりに死んでくださったことを心から受け入れた時に、私たちは仕える人となっていくのです。

2024年5月19日「過越の食事と主の晩餐」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書22章1-23節

イエス様は過越の食事の席に着いて、言われました。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」イエス様は食卓を囲んでいる弟子たちに、ご自分が苦しみを受ける前に、共に過越の食事をしたいと切に願っていたのです。それは、神の国の完成が、御自分の十字架の死によって差し迫っていることを弟子たちに伝えたかったからです。

そして、その十字架による救いの恵みに、弟子たちを預からせるために、イエス様はパンと杯を取り、それに新しい意味を持たせて分け与えてくださいました。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」杯も同じようにして言われました。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」(19-20)

最初の教会において、この最後の晩餐が、聖餐式として守られていました。私たちもこの聖餐式の時に、パンと杯に与り、信仰の決意を新たにしていきたいと思います。