○金 南錫牧師 ヨハネの手紙一2章1ー6節
2025年2月9日「光の中を歩む」
○金 南錫牧師 ヨハネの手紙一1章5ー10節
「わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。」(6節)また、8節で「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません」とあります。さらに10節で「罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることである」と言っています。これは、私たちの罪の現実の姿でもあります。
しかし、神様はこの罪の現実の中にいる私たち人間を放ってはおらず、その闇から救い出して、光の中に招いてくださいました。「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(7節)どんなに汚れた罪であっても、イエスの血によって清められます。そのことを信じて、心から受け入れる人は、その罪が赦されて、神との交わりに、御子イエス・キリストとの交わりに入れられます。新しい歩みをされるようになります。
2025年2月2日「初めからあったもの」
○金 南錫牧師 ヨハネの手紙一1章1ー4節
「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。」(1節) ここで「初めからあったもの」とは、イエス・キリストのことを指しています。ヨハネは確かに、イエスの愛弟子として、三年間一緒に生活をし、聞いて、見て、触れて、イエス様がどういうお方なのか、体験を通してよく分かっていました。「この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。」(2節) ヨハネは、命そのものであるキリストが人として現れたと繰り返して言っています。
「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。」(3-4節) ヨハネは、一人でも多くの人たちが永遠の命そのものであり、その命を与えるイエス・キリストを知って、イエス・キリストとの交わりに入ってほしい、その喜びの生活を送れるように、心から願って、この手紙を書き記しました。
2025年1月26日「主の恵みに生きる」
○金 南錫牧師 フィリピの信徒への手紙4章15ー23節
パウロはフィリピ教会の人たちからの贈り物を感謝して受け取りました。しかし、「贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです」と言っています。つまり、フィリピの信徒たちが贈り物をささげる業を通して、神に喜ばれる信仰の実がますます豊かなになるように、パウロは願っていました。
「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」(19節)「神の栄光の富」とは、私たちの地上の富をはるかに超えた本当の豊かさです。神様はその豊かさの中から、恵みとして私たちの必要を満たしてくださるのです。パウロは、神様の恵みの豊かさを知っていました。その豊かさの中で、自分が養われていることを知っていたのです。ですから、自分を養ってくださっている神様が、フィリピの信徒たちをも支えてくださると、確信していたのです。
2025年1月19日「わたしを強めてくださる方」
○金 南錫牧師 フィリピの信徒への手紙4章10ー14節
フィリピの信徒たちは、今ローマの牢獄にあるパウロのことを心配して、彼に贈り物を送ることを考えました。そして、エパプロディトという人を遣わして、皆から集めたものをパウロのもとに届けたのです。パウロはその贈り物を受けた時に、非常に喜びました。ところが、11節で「物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」と言っています。パウロは今あなたがたから贈り物をいただいて、必要が満たされているけれども、実はどんな境遇にあっても、私は満足する、満ち足りていることを習い覚えたと言うのです。
12節でパウロは具体的に説明しています。「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。」そして、パウロはどうして満足することができたのか、その秘訣について13節で、「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」と言っています。わたしを強めてくださる方とは、キリスト・イエスのことです。19節に「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます」とあるように、私たちにとって、本当に必要なものはキリスト・イエスが与えてくださるのです。このお方が私を強めてくださるのです。
2025年1月12日「喜び、祈り、神の平和」
○金 南錫牧師 フィリピの信徒への手紙4章1ー9節
パウロはフィリピの信徒たちに「わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち」と呼び掛けています。また、パウロがそんな彼らに「このように主によってしっかりと立ちなさい」と勧めています。信仰にしっかり立って、どんなことがあっても、動揺をしないように、ということです。「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようにしなさい。主はすぐ近くにおられます。」(5節) ここでの「あなたがた」とは、フィリピの信徒たちを指しています。パウロは、世のすべての人ではなく、主イエスを信じる信徒たちに対して、広い心を求めているのです。なぜなら、この広い心(寛容)は、キリスト者たちが聖霊によっていただく九つの賜物の一つであるからです(ガラ5:23-24)。しかし、実際には広い心を示すのがなかなか難しいことだと思います。自分のことを理解してくれる人たちに対しては、広い心を示すのかもしれません。しかし、パウロは「すべての人に」と言っています。どんな人に対しても、自分に反対する人に対しても、です。では、どうすればすべての人に広い心を示すことができるのでしょうか。パウロが「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようにしなさい」と勧める前に、先に「主において常に喜びなさい」と言いました(4節)。つまり、広い心は自分の力でできるものではなく、心の中に真の喜びがあるときにできることだと思います。「主において」とは「主の中に」ということです。主の中にいる時に、人は本当の喜びに満たされます。そして、その主が与えてくださる喜びがあるとき、すべての人に広い心を示すことができるのです。
2025年1月5日「目標を目指して」
○金 南錫牧師 フィリピの信徒への手紙3章12ー16節
「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(13、14節) パウロは今まで3回も伝道旅行をしながら、多くの人々を救いに導きました。また、行く先々で教会を立て上げました。普通なら、そうした過去の実績を振りかえて、自分はこれまで十分やって来たと思ってもおかしくないと思います。でも、パウロは「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」と語っています。今まで自分が為してきたもの、後ろのもの、過去のものを忘れて、前のものに向けて、前進したのです。過去のことを振り返って、神の恵みを思い起こし、感謝をささげることも大事なことです。しかしそこで止まってしまうと、前に進むことができなくなるのです。パウロは「後ろのものを忘れ、・・・目標を目指してひたすら走る」と告白しました。私たちもこのパウロのように、後ろのものを忘れ、前を向いて、生きていきたいと思います。
2024年12月29日「キリストとその復活の力を知り」
○金 南錫牧師 フィリピの信徒への手紙3章9bー11節
パウロは熱心に律法を守りました。律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、パウロはもうその道を捨てました。復活のキリストに出会うことによって、新しい道、つまり、キリストへの信仰による義に従う者となりました。「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」(11節)
新しい翻訳では「キリストの真実による義」と訳しています。これは、人が義とされるのは、キリストを信じるからではなく、キリストが十字架の死に至るまで神に誠実であった、そのキリストの真実によって、救われているということです。パウロはこのキリストの真実のゆえに、今まで大事にしてきたもの、すべてを失いましたが、キリストを得、「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」と言っています。
2024年12月22日「星に導かれて」
○金 南錫牧師 マタイによる福音書2章1ー12節
占星術の学者たち(東方の博士たち)は東の方から星に導かれてエルサレムにやって来ました。そして、ヘロデ王に言いました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱きます。自分が今、ユダヤの王であるのに、ユダヤの王が生まれたということが、もし本当であれば、自分の王位が揺るがされるからです。ヘロデ王は「民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした」のです。祭司長たちや律法学者たちは、預言書の言葉から、新しい王、救い主が生まれた場所は、「ユダヤのベツレヘム」であると教えます。
東方の博士たちは、ベツレヘムに向かっていきます。その時、東の方で見た星が現れて、彼らを導きます。そして幼子のいる家の上に止まりました。聖書にはその時、「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」と記しています。博士たちは自分たちを東の方から導いた星を見て、喜びにあふれました。そして、その星に導かれて、彼らは救い主のところにたどり着くことができたのです。
2024年12月15日「キリストのゆえに」
○金 南錫牧師 フィリピの信徒への手紙3章1ー9a節
パウロはユダヤ人として正しい生き方を求めて、一生懸命努力してきました。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」(5-6節)。
ところが、パウロはキリストに出会って、その生き方は全く変えられました。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです」(7節)。パウロにとって、それまで「有利であった」価値あるものが、キリストに出会ったことによって、「損失」価値のないものと思うようになったと言うのです。つまり、自分が今まで一生懸命、努力して築いてきたこと、それ以上にパウロにとって、価値のあるものを見つけたのです。パウロはこう語っています。「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」それまで大事にしてきたことを「塵あくた」とまで言っています。そう言わしめるほどに、キリストとの出会いが素晴らしかったということです。