2021年9月19日「とりなしの祈り」

 

 ○金 南錫牧師  創世記20章1-18節

 アブラハムは今まで長く住んでいたヘブロンから更に旅を続けて、ネゲブ地方へ移りました。そして、カデシュとシュルの間にあるゲラルに住むようになりました。1節後半から2節に「ゲラルに滞在していたとき、アブラハムは妻サラのことを、『これはわたしの妹です』と言ったので、ゲラルの王アビメレクは使いをやってサラを召し入れた」とあります。どこかで見たことのある光景です。創世記12章10節以下を見ると、アブラハムが神の召しを受けて、故郷を離れ、カナンに来たすぐ後に、飢饉を逃れてエジプトに下ったことがありました。その時もアブラハムは、妻のサラに妹だと言ってくれと頼んだことがありました。サラの美しさのゆえに、夫だと分かると、自分は殺されるからというのです。その時、サラはエジプト王ファラオの宮廷に召し入れられます。それと同じように、今度はネゲブでアビメレクという王に同じことをやっているのです。ゲラルの王アビメレクは、アブラハムが「これはわたしの妹です」と言ったので、彼は使いをやってサラを召し入れました。

 ところが、その夜、神様が夢の中でアビメレクに現れ、「あなたは、召し入れた女のゆえに死ぬ。その女は夫のある身だ」と言われるのです(3節)。これに対して、アビメレクは、まだ彼女に近づいていなかったので、こう言いました。「主よ、あなたは正しい者でも殺されるのですか。彼女が妹だと言ったのは彼ではありませんか。また彼女自身も、『あの人はわたしの兄です』と言いました。わたしは、全くやましい考えも不正な手段でもなくこの事をしたのです」(4-5節)。ここで、アビメレクは、サラを召し入れたことに対して、アブラハムとサラ本人たちが偽ったからだと言っています。アビメレクはその心に何のやましさもないのです。それを主なる神が、認めています(6節)。

 さらに、アビメレクはアブラハムを呼んで言いました。「どういうつもりで、こんなことをしたのか」(10節)。この問いに対して、アブラハムは「この土地には、神を畏れることが全くないので、わたしは妻のゆえに殺されると思ったのです・・・」と自分の気持ちを率直に語りました(11-13節)。アブラハムの言葉を聞いたアビメレクは、彼の弁明を受け入れ、羊、牛、男女の奴隷などを取って、アブラハムに与えて、妻サラを返しました(14節)。そして、最後に「アブラハムが神に祈ると、神はアビメレクとその妻、および侍女たちをいやされたので、再び子供を産むことができるようになった」とあります(17節)。アブラハムは、異邦人の王アビメレクを通して、自分の弱さ、その偽りを露にされ、本来なら直ちにゲラルの地から追放されて然るべきです。さらに、彼自身も、もう逃げ出したいほど恥ずかしい思いをしているはずです。けれども、アブラハムは逃げることは許されません。神に選ばれた者、預言者としてしなければならないことがあるのです。それは、アビメレクと彼の宮廷に住む人々のために祝福を祈るということです。神は私たちを通して、世界を祝福し続けてくださるのです。

2021年9月12日「神の審判と救済」

○金 南錫牧師  創世記19章1-38節

ソドムの門の所に座っていたロトが、二人の御使いを見ると、急いで迎え入れようとします。ところが、二人の御使いははじめこれを辞退します。しかしロトは、ソドムの町の危険なことをよく分かっていました。ですから、何とか家に引き入れて、その上でもてなしたかったのです。ところが、ロトのところに来客があったことを聞きつけ、ソドムの男たちがやってきます。4節に「若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、わめきたてた」とあります。彼らはロトに向かって言いました。「今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから」(5節)。ここで「なぶりものにする」とは、性的な意味で、男の同性愛のことを指しています。

ロトは、戸口の前にたむろしていた男たちのところに出て行き、「どうか、皆さん、乱暴なことはしないでください。実は、わたしにはまだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください」と言いました(7、8節)。

しかし、ソドムの男たちは「そこをどけ。こいつは、よそ者のくせに、指図などして。さあ、彼らより先に、お前を痛い目に遭わせてやる。そして、ロトに詰め寄って体を押しつけ、戸を破ろうとした」のです(9節)。そのときに、二人の客は、手を伸ばして、ロトを家の中に引き入れて戸を閉め、戸口の前にいる男たちに、目つぶしを食わせ、戸口を分からなくしました(10、11節)。このことを通して、二人の客がただの人ではなく、主なる神の御使いであることが示されます。

二人の御使いは、ロトにソドムの町が主によって滅ぼされることを告げます。同時に、その滅びから逃げるようにすすめました。ロトは娘たちの婿のところへ行き、「さあ早く、ここから逃げるのだ。主がこの町を滅ぼされるからだ」と促しましたが、婿たちは「冗談」だと思って、逃げないのです(14節)。このように、私たちもこの世界の終末や神の裁きについて、なかなか本気になることができないでいるのではないでしょうか。

いよいよソドムの地に神の審判がくだりました。夜が明けるころ、御使いたちはロトに「さあ早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい。さもないと、この町に下る罰の巻き添えになって滅ぼされてしまう」と強く警告します(15節)。しかし「ロトはためらっていた」とあります。では、ためらっていた中途半端な信仰の者を、神様は何故、救おうとされるのでしょうか。その理由の一つは主の憐れみなのです。16節に「ロトはためらっていた。主は憐れんで、二人の客にロト、妻、二人の娘の手をとらせて町の外へ避難するようにされた」とあります。ロトの救いは、彼が強い信仰を持っていたからではなく「主は憐れんで」と書いてあるように、ただ主の憐れみによって与えられたのです。私たちの救いも同じではないでしょうか。ただ神様の憐れみによって救いの道が示され、神様に手を引かれてその道を歩み出し、神の裁きから救い出されるのです。

2021年9月5日「アブラハムの祈り」

○金 南錫牧師  創世記18章16-33節

三人の旅人、即ち主なる神と二人の天使はアブラハムにイサクの誕生を約束され、そのあと、ソドムの方へ進んで行かれます。そして、神はその目的をアブラハムに明らかにされたのです。20節、21節に書いてあるように、神様は「ソドムとゴモラの罪は非常に重い」ことを指摘されました。そして、彼らの実態を調べるために現地を訪問しようとなさったのです。その時、アブラハムは、ソドムの町がその罪のゆえに滅ぼされないように、神に祈っているのです。そのことが、23節以下の神との問答です。23節から25節を見ますと、アブラハムは、最初、確かにソドムの町には悪い人もいるかもしれない、しかし、正しい人もいるはずであるということで、その両者を一緒に滅ぼすとは不正なことではないかと神に訴え出ています。神様はそれに対して、「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう」と語ります(26節)。しかし、それに対して、アブラハムは町の滅びを回避するために、「もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか」と問います(28節)。そこで神は言います。「もし、四十五人いれば滅ぼさない」。また、さらに、40人、30人、20人ではと言い、最後に10人では、と問うのです。まことにねばり強い交渉であります。そして、アブラハムはついに「その十人のためにわたしは滅ぼさない」という神の言葉を引き出します(32節)。

このアブラハムの神との交渉に示されていることは、私たちの祈りの姿勢に対する一つの大きなチャレンジであります。つまり、一度や二度では引き下がらない大胆さと、ねばり強さが問われています。アブラハムはそのような聖書的な祈りの最初のモデルであると言えます。

では、アブラハムの「ねばり強い祈り」の原点は何でしょうか。それは、アブラハムが祈り始める直前に記されています。22節にこう記されています。「その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた」。ここに「アブラハムはなお、主の御前にいた」と書いてありますが、最初のヘブライ語の原文を見ますと、アブラハムではなく、「主がなお、アブラハムの前にいた」となっています。英語の聖書でも(NLT)、同じように主なる神様が主語になって、「the Lord remained with Abraham」と訳されています。つまり、これは、アブラハムがまだ何もしていないのに、神様がそのアブラハムの前にあえて留まり、佇んで、アブラハムはどうするのか、待っている、神の姿を描いているのです。アブラハムは、目の前に立ちつくしておられる神様に、大胆に、ねばり強く祈ることができました。私たちも日々、その神様の御前に出て、ねばり強く祈り続けることができますよう、祈り願います。

2021年8月29日「サラの笑い」

○金 南錫牧師  創世記18章1-15節

 暑い真昼に、アブラハムはいつものように、天幕の入り口に座って休んでいました。その時、神様は三人の旅人の姿でご自身を現されたのです。アブラハムはここで、三人の旅人を迎え入れ、もてなしました(1、2節)。 アブラハムは、客の足を洗う水を用意し、休むためのスペースを提供しました。また、妻のサラには上等な食事を用意するように促しました(6節)。アブラハム夫婦は、見知らぬ旅人をたいへん手厚くもてなします。これは、旅人をもてなす遊牧民の習慣でした。

 この習慣に従って、アブラハムは自分も走り回って、三人の旅人に文字通りのご馳走を準備しました。「アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした」とある通りです(7節、8節)。三人の旅人が涼しい木陰で食卓に着いた時、給仕係を務めたのはアブラハムでした。このように、アブラハムは手厚く、へりくだって、見知らぬ旅人をもてなしています。ヘブライ人への手紙13章2節に「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」と記されていますが、この「ある人たち」とはアブラハム夫婦に違いありません。

 三人が旅立つ時に、その中の一人がアブラハムに重要なことを伝えました。それは、10節にあるように、「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」という予告でした。サラは近くの天幕の入り口でその予告を耳にしました。そして、サラは心の中で笑いました。どうしても信じられなかったからです。

 このサラの笑いに対して、主なる神は「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか」と、厳しく問われるのです。この神の問いに対して、サラは「恐ろしくなった」とあります(15節)。そして、サラはあわてて「わたしは笑いませんでした」と言いますが、主は「いや、あなたは確かに笑った」と彼女の笑いを厳しく追及されるのです。

 しかし、その追及の言葉の中に、14節の「主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている」という言葉があるのです。神様はアブラハム夫婦の不信仰による笑いにもかかわらず、「来年の今ごろ、サラには必ず男の子が生まれている」という約束の言葉を繰り返し語られるのです。つまり、神様は不信仰を厳しく追及しつつ、その信仰を支えてくださるのです。約束の言葉に対して、笑ってしまうような信仰の弱さを持っていたアブラハム夫婦でしたが、彼らの信仰の弱さを、神様は支えてくださったのです。そのアブラハムの神は私たちの神でもあります。私たちの弱さ、信仰の弱さを、神様が支えてくださるのです。ですから、信仰が弱まる時、「神様、どうか私の信仰を強めてください」と祈り願いたいものであります。

 また、今日の聖書箇所の最後に、サラが笑いながらも、主への恐れを新たにしたように、いつもこの主への恐れを覚えたいものです。この主なる神への恐れがある限り、信仰は弱まらないでしょう。

2021年8月22日「勇気を出して生きられる」

○今井武彦兄  ヨハネによる福音書16章25-33節

 2013年に「イエス・キリストの体なる共同体としての教会」と題して奨励をする時を与えられました。それから8年間余りどの様に生きてきたかの一端をお話します。

 私は、奨励をした同じ年、つまり67歳の2013年春先に東邦大学病院に入院し、身体のホルモンバランス機能が低下する難病の「下垂体機能低下症」と診断されました。神様のみ力による医学の進歩で、以後今日まで服薬生活をして、命を長らえております。

 同じ2013年墓地管理委員となり、教会墓地に納骨する方のお手伝いをしました。この8年間の間に13名の方々の納骨のお手伝いをしました。納骨に当たっては、それぞれのご家庭の事情があり、悲しみ等を、直接 肌で感じる機会を与えられました。

 次に、2019年4月かねてから「ゆうゆうの里」に入居していた義母が、94歳で天に召されました。義母は、80歳位から認知症が徐々に表れ始めました。義母は、信仰を持てなかったため、最後まで、ありのままの自分を受け入れることができませんでした。

 このような経験をする機会の中で、自分の信仰について改めて考えてみようと思い、パウロ書簡、ヨハネによる福音書、ヘブライ人への手紙を中心に読みました。ヘブライ人への手紙12章5~6節に「わが子よ、主の鍛練を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は、愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」とあります。

 今、私たちは、苦難・艱難に遭うと、自分の殻に閉じこもりがちになります。このような時こそ、自分の生活を見直さなければなりません。気を取り直し、「主イエス・キリストの父なる神様」への祈りの時を持ち、福音に帰って行くべきだと思います。しかも、神の恵みは日々新たに与えられるもので、このためには、毎週の主日礼拝は、神の恵みに気付く機会であり、欠かすことは出来ません。しかし、現実は、主イエス・キリストの父なる神を信じるということは、自分の弱さ、愚かさ、恥を告白し、さらに自分が罪人であることを勇気を出して神様に伝える、即ち、そのようなほころびの多い自分を、全てを神様に委ねることだと思うようになりました。

 「その主イエス・キリスト」と共に歩むことは、この世に生きている中で、平安を得るためであります。しかし、平安を得るということは、これまで知らない苦難にも遭うこともあります。主イエス・キリストと共に歩む私たちは、恐れることなく生きられます。

 ヨハネ16章33節には、主イエス・キリストが「しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」と励ましの言葉を述べています。このことはいかなる時でも「勇気を出して生きられる」ということではないでしょうか。

2021年8月15日「契約のしるし」

○金 南錫牧師  創世記17章1-27節

 先週の創世記16章は、「ハガルがイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった」ことが記されて終わっています。そして、今日の17章は「アブラムが九十九歳になった」ことを告げて始まっています。その間の十三年間のことは何一つ記されていません。この空白の十三年間、アブラムには神の御声が聞こえて来ませんでした。神の沈黙です。

 この神の沈黙の十三年間、アブラムにとって神様の約束を忘れさせる期間であったかも知れません。あるいは、信仰を失いつつある時期と言えるかも知れません。しかし、そういうアブラムに、神様が現れてくださるのです。それも、全能の神様として現れてくださるのです。そして、アブラムに「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」と語り、完全な服従を求めます。そして、アブラムが忘れていたあの約束「あなたをますます増やすであろう」という約束を繰り返してくださるのです。しかも、この時は「わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立てる」という言葉を伴って、この約束を更新してくださるのです(2節)。

 アブラムは、神様の約束の言葉の前に、「ひれ伏し」ます(3節)。そして神様の語りかけに耳を傾けます。その神の語りかけが22節まで続いています。まず、4節から8節までを見ますと、名前がアブラムからアブラハムに改名されることと、永遠の契約を立ててくださることが記されています。そして、神様が立ててくださる契約の内容は、子孫を増やしてくださることと、カナンの土地を与えるということですが、8節にありますように、その根源は、「わたしは彼らの神となる」ということに尽きます。どんなことがあったとしても、私はあなたの神、またあなたの子孫の神である、それは永遠に変わることのない契約であるとおっしゃるのです。

 9節から14節までには、「割礼」について、記されています。今まで、ひたすら神様ご自身が立ててくださる契約が記されていましたが、9節以下は、アブラハムとその家族がどのように契約を守るかが記されています。10節に「あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける」とあります。割礼は男の包皮の部分を切り落とすことで、それが、神様との契約のしるしとなったのです(13節)。

 アブラハムはこの後、23節以下にもありますように、神様の言葉に従って割礼を受けることによって、神様との契約関係に入っていくことになります。今日に生きるキリスト者である私たちは皆、新しい契約によって神の民とされました。神様が立ててくださった新しい契約、それは神様の独り子イエス・キリストの十字架の死と復活を通して、私たちの罪を赦し、新しく神の子として生かすという約束をしてくださったのです。

 神様は今、神の約束を信じることなく、この世の習慣によって子どもをもうけて十三年を経てしまったアブラムに、新しく出会い、あの古くて新しい約束を語りかけてくださいました。これまで何度も不信仰に陥ってきたアブラハムですが、神様は、十三年の沈黙の時を経て、新しく彼を生まれ変わらせようと語りかけてくださったのです。私たちも同じです。時には、不信仰に陥り、罪を犯し、鈍くなっている私たちを、なおも顧みて、今日も新しく十字架と復活による赦しを与え、神の子として生きる命を与えようとして語りかけて下さっているのです。この語りかけに応えていこうではありませんか。

2021年8月8日「サライとハガル」

○金 南錫牧師  創世記16章1-16節

 アブラムがカナンの地に移り住んでから、早くも十年の歳月が経過しました(3節)。その間、アブラムは跡継ぎとなる子どもを与えられるという神の約束を何度もいただいていました。しかし、いつまで待っても跡継ぎとなる子どもが生まれる気配はありません。サライは、当時の習慣に従って、女奴隷のハガルを夫のアブラムに差し出すことを提案したのです(2節)。この時、アブラムはどんな態度を取ったでしょうか。彼は神の約束を待ち続けることができませんでした。妻の言葉を受け入れ、女奴隷によって子どもを得ようとしたのです。

 間もなく、若いハガルは身ごもりました。ところが、それに伴って、別の悩みごとが生じました。ハガルは自分が跡継ぎの母親になることを予想して、次第に女主人であるサライを軽んじるようになりました(4節)。サライは、ハガルの態度を不愉快に思い、夫のアブラムに抗議の言葉を投げかけました(5節)。サライの心の中には嫉妬と不満が渦巻いていました。それはハガルへのいじめとなって溢れ出ることになります。両者の板挟みとなったアブラムの苦悩は深まるばかりでした。

 遂にアブラムは妻の言い分を受け入れ、サライに「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい」と答え、ハガルについての権利を委ねたのです(6節)。サライはアブラムの許可を盾にして、何かにつけてハガルにつらく当たるようになりました。ハガルはサライの仕打ちに耐えられなくなり、身重の体にもかかわらず、自分の故郷であるエジプトへ帰ろうと決心し、サライのもとから逃げ出しました(6節)。

 傷心のハガルは、カナンからエジプトに通じるシナイ半島のシュル街道をとぼとぼ歩き続けました。その時、主の御使いの声が聞こえてきたのです。「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか」(8節)。この言葉は「ここはあなたのいるべきところではない」というニュアンスが含まれています。つまり、これは本来あるべき所へ引き戻すための呼びかけです。そして「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい」と諭しました。

 さらに主の御使いは、ハガルにも「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす」と、アブラムに与えられたのと同じ祝福の約束を与えられたのです(10節)。そして、ハガルがやがて男の子を産むことを予告し、その子を「イシュマエル」と名付けるように命じます。この名前の意味は、11節後半に「主があなたの悩みをお聞きになられたから」とあるように、「主がお聞きになる」ということです。

 ハガルは13節で、自分に語りかけた主の御名を呼んで、「あなたこそエル・ロイです」と言いました。「わたしを顧みられる神」という意味です。アブラムにもサライにも捨てられて一人ぼっちだと考えていた身重のハガルは、自分に目を留めていてくださる神と出会ったのです。見捨てられ、荒れ野の中で一人さまようハガルを探し出し、見守っておられる神は、今も生きておられ、悩みの中にいる私たちにも、目を留め、見守っておられるのです。日々の生活のさ中で「わたしを顧みられる神」とともに、信仰の旅路を続けるものでありたいと願います。

2021年7月25日「信仰による義」

○金 南錫牧師 創世記15章1-6節

 アブラムは今まで神様から「あなたを大いなる国民にし、あなたの子孫にこの土地を与える」と繰り返し言われて来ました。しかし、その土地を受け継ぐ子どもが与えられるという神の約束は、なかなか実現しないので、年老いたアブラムは不安でした。神様はそのアブラムを外に連れ出し、空の星を見させるのです。そこには満天の星が輝いていました。そして神様はこう告げます。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。そして言われた。あなたの子孫はこのようになる」(5節) 。この神の言葉に、アブラムはもう一度、神様を信じて生きていこうと思いました。

 6節に「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」とあります。アブラムは、まだ一人の子どもも与えられていないのに、星のように、数えきれない子孫の繁栄を約束する主なる神を信じました。そのことが神によって義と認められたのです。ここで義と認められるというのは、「正しいと認められる」「良しとされる」ということです。今まで跡継ぎが生まれないということで、神に失望し、疑いの中に置かれていたのですが、アブラムは神を信じ、すべてを神に委ねます。これがアブラムの信仰であります。神様が良しとされた、義と認められた信仰なのです。

2021年7月18日「栄光はただ神に」

○金 南錫牧師 創世記14章17-24節

 アブラムがロトとその財産を取り返して、帰って来たとき、二人の王が出迎えました。その中、サレムの王であり、いと高き神の祭司であったメルキゼデクは、アブラムを祝福して「天地の造り主、いと高き神に、アブラムは祝福されますように。敵をあなたの手に渡された、いと高き神がたたえられますように」と言いました(19、20節)。メルキゼデクは、天地を創造された神の名においてアブラムに祝福を与えました。ところが、その祝福はアブラムがたたえられるのではなく、「敵をあなたの手に渡された、いと高き神がたたえられますように」と語られているのです。つまり、「栄光はただ神に」ということです。

 一方で、アブラムを出迎えたもう一人、ソドムの王はアブラムに「人はわたしにお返しください。しかし、財産はお取りください」と言いました。このソドムの王の提案に対して、アブラムは「あなたの物は、たとえ糸一筋、靴ひも一本でも、決していただきません。それは、『アブラムを裕福にしたのは、このわたしだ』と、あなたに言われたくありません」と言って、戦争に勝って戦利品を受け取る権利を放棄しました。それは、ただ神様の栄光を損ねることがないためでした。アブラムは「わたしは何も要りません・・・」と、神様の栄光だけを願ったのです(24節)。