○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書12章27ー36a節


佐倉教会は、1904年11月ここ佐倉市において設立されたキリスト教(プロテスタント)の教会です。礼拝は、毎日曜日の午前10時30分より行っており、どなたでも参加できます。
礼拝説教の要旨です。
○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書12章27ー36a節

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書12章20ー26節
過越の祭りの時、何人かのギリシア人がイエスの弟子であるフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたい」と頼んだのです。フィリポはアンデレに相談し、アンデレと二人で、イエス様にその旨を伝えました。23節以下は、何人かのギリシア人が訪ねて来た知らせを耳にしたイエス様の返答です。イエス様はこう言われます。「人の子が栄光を受ける時が来た。」イエス様は今まで何度も「わたしの時はまだ来ていない。」と言われました。ところが、いよいよ栄光を受ける時が来たと仰います。この栄光とは、十字架のことです。続いてイエス様はこう仰います。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ。」(24節)。これは明らかに、イエス様の十字架と復活によって、多くの人が救われることを示しています。イエス様は迫って来るご自分の十字架の死を、この一粒の麦に重ねました。そして、ご自分の十字架の死は決して無駄には終わらない。必ず多くの実を結んでいくその栄光をイエス様は見ておられたのです。そして、このイエス様の言葉は確かに実現されました。今から二千年前に起こったイエス様の十字架の出来事は、私たちのための出来事として、イエス様がこの私たちの罪を十字架上で身代わりとなって負ってくださったのです。その福音を受け入れた人たちが、今度十字架のもとで礼拝を捧げているのです。私たちもその一人です。つまり、イエス様は今、私は十字架につけられ、死んでいくのですが、その十字架は決して無駄ではない。多くの実を結ぶ。あなたたちがその一人であるとおっしゃっています。

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書12章12ー19節
大勢の人々が、手になつめやしの枝を持って、エルサレムに入って来られるイエス様を出迎え、叫び続けました。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」ホサナとは「主よ、お救いください。」という意味です。 これは、当時のユダヤにおいて、戦いに勝利して凱旋してくる王などを迎える時の喜びの叫びでした。今、エルサレムの群衆も、イエス様がエルサレムに入ってくる時、そのような勝利の支配者として迎えたのです。
では、この群衆の大歓迎に、イエス様は何をなさったのでしょうか。14節に「イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。」とあります。自分たちをローマの支配から解放してくださる力強い王を期待している群衆の前で、イエス様はロバの子を見つけて、そのろばの子にお乗りになりました。「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って。」(15節)。この言葉は旧約聖書のゼカリヤ書9章9節「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。」の引用です。この御言葉には、神様が約束された王がろばの子に乗ってくると預言されています。この王は「神に従い、勝利を与えられた者」です。まさにイエスこそ、十字架上の死に至るまで神様に従順でした。またイエス様は一切の罪と死に対して、十字架と復活をもって勝利されたのです。イエス様が「ろばの子に乗って」とは、先ほどの旧約聖書の預言が今実現していることを示すと同時に、「イスラエルの王」がどういう王であるかを示されたのです。

○安藤 博子牧師 ヨシュア記1章1ー9節、マタイ福音書28章16ー20節
モーセの後継者にヨシュアは任命されました。その時に神様は「ヨルダン川を渡り、約束 の地へ行きなさい」「律法を忠実に守りなさい」 と勧告します。イスラエルの民は、目の前の激流と対岸の強大な敵を前にして恐怖にとらわれます。 自分たちの弱さを知っているからです。
「今のままの方がよい」と保身に囚われます。実は、神様は民の弱さをご存じでした。だから「強く、雄々しくあれ。私はあなたと共にいる」と繰り返し激励されています。 そして、民はヨルダン川を渡る決断をします。 神様の言葉の真実に気づいたからです。神様が約束の地を「与える」と言われた言葉は、 ヘブライ語の完了形。つまり「既に与えた」との意味です。弱いままのあなたでよい、 戦 うのは、神ご自身であると約束されたのです。神様が求めたのは、ただ一つ、イスラエルの信仰の決断でした。しかし、その民は、その後、「強く雄々しく」歩むことから離れていきます。神様は人間の弱さの限界を打ち破るために、御子主イエスキリストをこの世に遣わしたのです。ですから、私たちキリスト者は、弱くとも、主が共にいるから強いのです。「強く、雄々しくあれ」とは、自分の力で強くなることではありません。神の愛に信頼し、縋って生きることです。主の愛に応えたいという信仰の決断こそが、聖霊を受けた新しいイスラエル、キリスト者が歩む道です。

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書12章1ー11節
「過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。」(1節)イエス様は、ユダヤ人たちの殺意から逃れ、退いていたエフライムから、エルサレムに近いベタニアに行かれます。そこには、親しいマルタとマリア、そしてイエス様がよみがえらせたラザロがいました。イエス様は彼らの家に入られたのです。そこではマルタが給仕をして、夕食が用意されていました。皆が夕食をとっていたその時、マリアが「純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ」持って来て、イエス様の足にナルドの香油を塗って、自分の髪でその足をぬぐったのです(3節)。この香油は非常に高価なものでした。
では、マリアはなぜ、このような行為をしたのでしょうか。イエス様はその足で、ガリラヤの方々を巡り歩いて、特に悲しんでいる人や、病で苦しんでいる人、涙を流している人を訪ね、その人たちを励まし、癒し、救いへと導いてくださったのです。マリアもそうやって、イエス様に訪ねていただいた一人です。愛する兄弟ラザロが重い病気にかかって、死んでいく中で、マリアは涙に暮れていました。でもその時、イエス様が来てくださいました。そして、「ラザロ、出て来なさい」と叫んで、兄弟ラザロを復活させてくださったのです。マリアは自分のところに来てくださったそのイエス様の足に感謝して、献身のしるしとして、自分の持っているナルドの香油をささげたのです。

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書11章38ー44節
ラザロの墓は洞穴で、石でふさがれていました。当時の墓は、岩場に横穴を掘って、そこに遺体を納め、入り口は大きな石で蓋をするというものでした。イエス様はその石を見て、「その石を取りのけなさい」とマルタに言われました。すると、死んだラザロの姉妹マルタが「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言ったのです(39節)。これが死に飲み込まれていた人間の常識です。でもイエス様はそのマルタに仰いました。「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか。」(40節)確かに11章の最初のところで、イエス様が仰いました。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」(4節)ここでイエス様はマルタに「私を信じなさい。ラザロの病気は死で終わらない。神の栄光がそこに輝いている」そう招いているのです。イエス様はラザロの墓の前に立って、大声で叫んだのです。「ラザロ、出て来なさい」すると、何か起こったのでしょうか。44節に「死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た」とあります。今、死んだはずのラザロが、復活し、出てきたのです。死んだ人が蘇ったのです。ここで、ラザロが「墓から出て来た」とは書いていません。「死んだ人が、手と足を布で巻かれたまま出てきた」と言っています。これは、私たちにも、イエス様が来てくださって、復活の力を与えてくださる、そのことを指し示していると思います。

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書11章17ー27節
ラザロは二人の姉妹マルタとアリアと共に、ベタニアに住んでいました。そのベタニアで、ラザロが重い病気にかかって、死んでしまいました。イエス様がベタニアに来てみると、「ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた」のです。兄弟ラザロを失ったマルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が慰めに来ていました。そのところに、イエス様が来られました。マルタはイエス様が来られたと聞いて、迎えに行きます。そして、マルタがイエス様に言います。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」(21節)この言葉の中には、イエス様がなぜ、もっと早く来てくださらなかったんだろうかというニュアンスが込められています。ところがマルタは続けてこう語っています。「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」(22節)マルタとマリアは、イエスこそ、苦しみの中に、悲しみの中にある自分たちに救いを与えてくださるお方であると信じて、そのイエスによる救いになお期待しているのです。
そのマルタに、イエス様が仰います。「あなたの兄弟は復活する。」(23節)すると、マルタは答えます。「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」(24節)マルタは、「終わりの日の復活」を将来の話として受け止めたわけです。そこでイエス様は「わたしは復活であり、命である」とおっしゃいました。これは、将来、終わりの日に始まる救いではなく、今既にイエスによって始まっている救いのことを語っているのです。復活は、終わりの日の出来事ですが、今ここでの出来事でもあることを伝えようとしています。

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書11章1ー16節
マルタとマリアはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と、ラザロの病状を伝えました。それを聞いてイエス様が仰いました。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」(4節)普通、病気で死んだら、終わりだと思いますが、イエス様は「この病気は死で終わるものではない」とおっしゃったのです。死というのは、人間にとって、決して避けられない現実です。しかし、そこから先は神の栄光である。この病気が現わすのは神の栄光であるということです。そして、その栄光とは、神の子の栄光と結びつくのです。神の子、イエスキリストは、十字架に付けられることによって、復活されるという栄光を受けるのです。ですから、ここでイエス様は、死に打ち勝つ復活があることを仰っています。イエス様はラザロを通して死に打ち勝つ神の栄光の力、復活を示し、それによって一人でも多くの人が神の力と愛を信じるように願われたのです。

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書10章22ー42節
神殿奉献記念祭の時に、イエス様は神殿の境内におられ、ソロモンの回廊を歩いておられました。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」と言います。このユダヤ人たちの問いに対して、イエス様は「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行なう業が、わたしについて証しをしている」とおっしゃいました(25節)。
イエス様はさらに仰いました。「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」(29、30節)ここで、「わたしの父がわたしにくださったもの」とは、イエスに従う信仰者のことです。私たちのことです。その信仰者たちは永遠の命が与えられるから、すべてのものより偉大な存在である。父なる神はその信仰者たちを愛しておられ、誰もご自分の手から奪うことができない。それをイエスの言葉は語り、証しているのです。だから、「わたしと父とは一つである」私を信じなさい。そうイエス様は語りかけておられます。しかし、ユダヤ人たちは「わたしと父とは一つである」というイエスの言葉を聞いて、神を冒涜したと思い、イエスを石で打ち殺そうとしました。そこでイエス様は、あなたたちが信じて来た律法の書でも、神の言葉を受けた人が「神々」と呼ばれているではないか、あなたたちは私と同じように、神の言葉を受けているではないか。だから、父なる神から世に遣わされた私が「わたしは神の子である」と言っても、神を冒涜していると言えるだろうか、そう言うのです。でもユダヤ人たちは、イエスが行っている業をも認めようとせず、イエスを捕らえ殺そうとしました(39節)。

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書10章11ー21節
イエス様はご自分のことを「わたしは良い羊飼いである」と仰います。さらに、その良い羊飼いは「羊のために命を捨てる」とあるように、命を差し出すのです。ところが、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げてしまいます。なぜなら、その羊は自分のものではないからです。
また、イエス様は言われます。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。」(16節)イエス様は囲いに入っていない、つまり、まだイエスを信じていない人たちにも、羊飼いとしての務めがあると言うのです。そして、私たちに語った同じ言葉で、語り続けるのです。すると、「その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」のです。その羊たちの群れが、信仰の仲間たちとなって、信仰共同体を造り上げていきます。そして、やがて教会になっていくのです。
