2021年1月31日「人間の創造」

○金 南錫牧師 創世記1章26-31節

 六日間の天地創造のクライマックスは、人間の創造でありました。今までは、まず神様が言葉によって命令し、その言葉通りのことが実現され、神様がそれを見て良しとされたという創造でした。ところが、人間の創造においては、神様がまずご自分に向かって問いかけることから始まるのです。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(26節、27節)。

 私たち人間は神にかたどって創造された「神のかたち」です。つまり、人間の創造には、神の深い愛が行われているということです。その第一が「神にかたどって創造された」とあることです。ここで「神にかたどる」というのは、神の人格に近いものとして創造されたということです。即ち、神と人間とはお互いに交わりができるように造られたということで、それが人間の尊厳につながります。

 27節において、「神にかたどって創造された」ということが、「男と女に創造された」と言い直されているのです。このことは、男も女も神にかたどって造られたことで、男の中にも女の中にも、神様は等しくご自分のかたちを刻み込んでおられるのです。ですから、男も女もそれぞれに神のかたちを指し示していることを心に留めていただきたいと思います。28節に、神様は人間を創造された後、彼らを祝福して言われました。「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」

 ここで神様は、人間に向かって生き物をすべて「支配せよ」と祝福してくださいました。聖書協会共同訳では、「治めよ」と訳されています。神様は創造された人間に「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と祝福してくださり、あらゆる生き物を「治めよ」と言われました。ここで神様が求めておられることは、人間が神の代わりに、権限をいただいて、生きるすべてのものを治めることで、あくまでも、神から管理を委ねられたということです。しかし、私たち人間ははたして、そのような神様の期待に応える歩みをしてきたか、ということを問わざるを得ません。むしろ、人間は、あたかも自分がこの自然界における主人であるかのように振る舞い、人間が自然破壊の最たるものと言われるようになりました。聖書は人間もほかのすべての生き物と共に、神によって創造された被造物であると語りかけているのです。ですから、私たち人間はただ、神様が創造し、育んでくださったこの自然界と共に、謙虚に生きる被造物であることを忘れてはいけません。

 最後の31節に、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。『見よ、それは極めて良かった。』夕べがあり、朝があった。第六の日である。」とあります。天地万物を創造された神の業は、「極めて良かった」のです。これが神様の造られた世界です。

2021年1月24日「天体と生物の創造」

○金 南錫牧師 創世記1章14-25節

 今日の聖書箇所は、天地創造の第四日目に天体を創造し、五日目に植物以外の生き物を創造されたところです。16節に「二つの大きな光る物」とありますが、これは太陽と月のことを指しています。古代の人たちは、太陽や月などは信仰の対象でもありました。しかし、聖書を書いたイスラエルの民は、太陽や月などは人間を含むあらゆる命あるもののために必要なものだと考えていたのです。このことは、彼らの信仰の素晴らしさを語っています。つまり、太陽や月星は、拝む信仰の対象ではなく、この地を照らす役割を持つ神が造った被造物の一つに過ぎないという信仰がありました。

 なお、彼らは、太陽や月星の天体が創造される目的は、「昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるし」となったと考えていました(14節)。人間はこの神が創造された太陽や月星を見上げることから、時間を認識されるようになりました。動物は太陽や月星を見ても、目に映ったものを見るだけでありますが、人間はそれらを考察して、「昨日、今日、明日」そして、「春夏秋冬」のような季節の移り変わりがあって、それが一年、二年となり、自分の人生と結びつけたのです。詩編90編に「人生はため息のように消えうせます。人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」とありますように、神によって太陽や月星の天体が創造されることによって、人間ははじめて「日」を数え、「季節」を数え、「年」を数えることができるようになったのです。

 神様は、第四日までの創造で、地上には植物が生長し(12,13節)、大空には太陽や月星が輝いて、生き物が生きる生活空間を備えられました。そして、いよいよここで住む鳥や魚など生き物の創造が開始されるのです。また、神様はそれらのものを祝福して言われました。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」(22節)神様は鳥と魚にさえも、祝福してくださいました。この祝福を通して、私たち人間にも大きな祝福が及んでいることを深く心に留めたいと思います。

 最後の24節、25節には地上の動物の創造が書いてあります。ここでは、地上の動物を三種類に分けて、「家畜、這うもの、地の獣」が創造されています。これで人間を除くすべての生き物が創造されることとなります。

 神様は海に魚を、空に鳥を、地に家畜や這うもの、獣を創造し、「産めよ、増えよ、満ちよ」と祝福されました。すべての生き物は、神が「良しとされた」掛け替えのない神の作品です。神様が私たちに生物と共に生きる豊かな世界を備えてくださいました。それは、すべての生き物と共に神の祝福を与る者として、共存共栄の責任を委ねられたことです。ですから、私たちは神様が創造し、育んでくださったこの被造世界に対して、愛と配慮をもつ謙虚な歩みをしながら、この自然環境を大切にしていきたいと祈り願います。

2021年1月17日「天と地の創造」

○金 南錫牧師 創世記1章6-13節

 神様は天地創造の第一日目に光を創造されました。そして、第二日目に天を創造されました。古代の人々は、「大空」というのを、地を覆っている固い丸い天井のように、想像しておりました。また、その天井に月や星などが、貼り付いていると考えました。

 二日目に天という世界を創造された神様は、次の三日目に地上世界を創造されました。「神は言われた。『天の下の水は一つ所に集まれ、乾いた所が現れよ。』そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた」(9節、10節)。しかし、三日目の創造はまだ続きます。「神は言われた。『地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。』そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた」(11節、12節) 。神様は天の下の水が一か所に集まって、地と海とを分けられました。この時、まだ動物や人間が現れていませんが、やがて造られる動物や人間が生きていける地上世界が、天地創造の三日目に創造されたのです。この世界は神の良しとされた世界です。

2021年1月10日信徒奨励「すべて神の栄光が現れるために」

○KM兄 コリントの信徒への手紙一10章31節

 人の一生は誕生(BirthのB)に始まり、死亡(DeathのD)で終わります。このBとDの間のCは本人の選択(ChoiceのC)で、このCにより人生は彩られると言われています。
 1932年にスタートした私の人生はいまだ続いていますが、これまでに多くの選択がありました。
 第二次世界大戦の勃発、そして祖国の敗戦。我国未曾有の時流の中で、人生の価値を真剣に考えさせられました。そして聖書を通してイエス・キリストと出会い、彼の言葉を信じて洗礼を受けました。この選択はその後の私の人生に大きな影響をもたらしました。
 父の跡を継いで医者の道を選びました。その道の入り口で「我孵りなば」と題するアンケートがあり、目指す医師像を問われました。
 「医者を必要とするのは健康な人ではなく病人である」というキリストの言葉がありますが、病人の求めに応えられる医者になりたい、そして「食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしてもすべて神の栄光を現すために」というパウロの言葉を目指したいと答えました。
 残されていたこの記録を今読んでみて、若かりし頃の意気込みを懐かしく思うと同時に、若い日にこの選択をしてとても良かったと思います。
 人様にご迷惑をお掛けした選択も少なくなかったと思いますが、よい結果につながり、大きな歓びと満足がありました。自分の創り主とつながっていた(AnchorのA)からだと思います。
 皆様もどうぞご自身の創り主とつながる選択により満足されるABCDをお過ごしください。

2021年1月3日「初めに」

○金 南錫牧師 創世記1章1-5節

 存在するすべてのものは、存在を与えられて存在しています。私は何のために生きているのか、なぜ私はこの人生に呼ばれたのか、それは、本当に存在を与えた方に絶え間なく聞くしかないのです。
 「初めに、神は天地を創造された」(1節)。
 この言葉は、私を創造し、私を存在させてくださった方にその意味を問い、この私を存在させてくださった方の意図に添って生きるのが、人生であることを教えています。「初めに、神は天地を創造された」この神の宣言によって始まる世界観を信じる人においては、決して偶然というものや、無意味に存在する者などないのです。
 「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」(2,3節)。
 すべてのことが混沌の中に呑み込まれる中で、神様は「光あれ」と語ってくださり、そこに意味を与えてくださいました。
 ですから、「光あれ」この言葉は、「私なんか生きる価値がない」と思い込んで、諦めてしまうしかない中で、「あなたは生きる意味があり、存在する価値があり、使命がある」と、神が宣言し、そのような世界を造られたのです。

2020年12月27日「御子イエスの成長」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書2章40-52節

 イエスの誕生物語のほかに、救い主として公の活動を始める前の間にある記事は、今日の聖書箇所の十二歳の時の記事だけとなっています。
 イエス様の家族は、ガリラヤのナザレという小さな村に住んでおりました。毎年、春には家族みんなで、エルサレムに向かい、過越の祭りを祝って帰って来たのです。
 祭りが終わり、ナザレへと帰路に着いたとき、十二歳の少年イエスが、両親とはぐれてしまいました。三日もたち、やっとの思いで、神殿の境内にいる少年イエスを見つけた両親に向かって、イエス様は言われました。
 「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(49節)。
 両親はこの少年イエスの言葉の意味を分かりませんでした。しかし、母マリアは「これらのことをすべて心に納めていた」のです(51節)。
 今年一年の歩みは、どうだったのでしょうか。思いもよらない出来事に振り回され、未だに何の意味も見出せない、分からないことがたくさんあると思います。
 でも、マリアのようにそのすべてのことを「心に納めている」ことで、いつか時が来たときに、「そういうことだったのか」と納得することがあるでしょう。

2020年12月20日「神がともに」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書2章1-20節

 ローマ皇帝アウグストゥスはユダヤの人たちに、住民登録をせよと命令を出しました。それは、税金を納めるためでした。権力者の命令に、ヨセフとマリアも従わなければなりません。
 しかし、二人にとってはそのタイミングが悪すぎでした。マリアはイエス様を妊娠していて、もうお腹が大きくなったからです。二人が住んでいたナザレという村からベツレヘムという町まで、1週間以上の長い旅をしてやっとベツレヘムの町に着きましたが、住民登録のため、ベツレヘムに大勢の人が集まり、「宿屋にはヨセフとマリアが泊まる場所がなかった」のです(7節)。
 仕方なく、二人は誰かの馬小屋に泊まって、マリアはそこでイエス様を生むことになりました。そして、生まれたばかりの幼子イエス様は、家畜の餌を入れる飼い葉桶に寝かされました。それはこの世に来られた救い主の誕生にしては大変にみすぼらしい光景でした。
 しかし、それが、神様の私たちに対する愛のしるしであったのです。なぜなら、そのような場所であるからこそ、私たちは何のためらいもなく近づくことができます。
 そしてイエス様を遣わした神の愛に私たちが触れるそのとき、私たちは本当に生かされる場所が与えられるのです。

2020年12月13日「シメオンの賛歌」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書2章22-35節

 今日の聖書箇所には、自分の人生の残り時間がどのようなものになるか決める模範となるような、シメオンという年老いた男が登場しています。
 彼は、神様の前に正しい人で信仰が厚く、神様を中心に生きてきた人でした。そして、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいたのです。
 「慰められる」ことは「救われる」ことを意味しています。シメオンは、自分だけが救われることを願うのではなく、神の民イスラエル全体が救われ、慰められることを願い、救い主が到来するのを待ち望んでいました。
 シメオンは、「霊」に導かれて神殿の境内に入っていきました。すると、ちょうどその時に、幼子イエスを抱いたヨセフとマリアが来たのです。シメオンは、その幼子を腕に抱き、神をたたえたのです。
 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」。
 シメオンはその生涯の終わりにおいて、主の平安のうちに死を迎えることのできる恵みを知らされ、万民のために神の救いが到来したことを証しする務めを、神様から与えられました。

2020年12月7日「この身に神の言葉が」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書1章26-38節

 マリアは、ナザレというガリラヤの町に住んでいました。彼女は同じ町に住む大工のヨセフと結婚の約束をしていました。
 結婚の日を楽しみにしていたマリアの前に天使が現れ、「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」と告げました。
 突然のことに、マリアはびっくりして、何のことを言われているのか分かりませんでした。すると、天使は「マリア、恐れることはない。あなたは神様から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる」と言われました。
 マリアはますます驚いて、天使に尋ねました。「わたしはまだ男の人を知りませんのに、どうして、そんなことがありえましょうか。」
 マリアには次々と疑問が浮かび上がりました。そのマリアに天使は答えます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。・・・神にできないことは何一つない」(35-37節)。
 マリアの疑問と不安は解消されたわけではありませんが、それでもマリアは、はしためのような自分を選んでくださった神に感謝し、「お言葉どおり、この身に成りますように」と神に従う決心をしたのです(38節)。

2020年11月29日「主イエスの顕現」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書16章9-20節

 「イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された」(9節)。
 復活されたイエス様は、信じられないでいる人のところに近づき、現れてくださいました。
 マグダラのマリアはイエス様の十字架を遠くから見守り、イエス様に油を塗りに行くために、墓へ向かいました。しかし、イエス様のなきがらがそこになかったのです。その代わりに、天使のような若者の声が響きました。
 「驚くことはない。あの方は復活なさって、ここにはおられない。」
 マグダラのマリアはその墓を出て逃げてしまったのです。あまりにも恐ろしかったので、「だれにも何も言わなかった」とあります(8節)。
 皆逃げてしまった弟子たちよりもイエス様を愛していたように見えたマグダラのマリアも、イエス様のことを信じていなかったのです。
 そのマリアのところへ、復活したイエス様がやって来られました。すると、「だれにも何も言わなかった」マリアが立ち上がって口を開き、語る者となったのです。マリアは泣き悲しんでいる人たちのところへ行って、復活したイエスのことを知らせたのです。