神様と共に歩んだアブラハム 満ち足りた人生への導き 創世記二五章一~一八節

○ぶどうの枝第55号(2021年12月31日発行)に掲載(執筆者:金 南錫牧師)

 創世記一二章から始まるアブラハムの物語の最後です。アブラハムが晩年になって、息子のイサクに妻をめとるために、信頼していた忠実な僕を故郷の町に遣わしました。僕はその町で、アブラハムの親類のリベカという女性に出会って、彼女の家族と交渉して、承諾を得ます。そして、リベカも「はい、まいります」と決心をして、その日のうちに両親の下から離れて、遠いカナンの地に嫁いでいきました。このとき、アブラハムは百四十歳になっていました。今日の箇所には、その後、アブラハムが百七十五歳で召されるまでのことが記されています。
 「アブラハムは、再び妻をめとった。その名はケトラといった」(一節)。
 アブラハムは、妻サラが亡くなった後、ケトラと再婚しました。このケトラとの間に六人の子どもたちが生まれます。そのことが二節から四節に示されています。そして、ケトラとの間に生まれた子孫たちは、やがてアラビア半島に暮らすようになって、後のアラブ人の祖先となっていきます。
 「アブラハムは、全財産をイサクに譲った。側女の子供たちには贈り物を与え、自分が生きている間に、東の方、ケデム地方へ移住させ、息子イサクから遠ざけた」(五~六節)。アブラハムにはサラとの間に、百歳のときに与えられた約束の子イサクがいて、その前にサラの女奴隷であったハガルとの間に、イシュマエルという息子がいました。それに、先ほどのケトラとの間に生まれた六人の子どもたちを含めると、全部で八人の子どもたちがいたわけです。
 アブラハムは約束の子イサクに全財産を譲ったとき、他の七人の子どもたちにも贈り物を与え、彼らに十分な配慮をしました。そして、彼らを東の方に移住させ、イサクから遠ざけました。それは、相続を巡って、兄弟間での争いを避けるためでした。そうしてアブラハムは神様の祝福のバトンをイサクにしっかりと渡しました。

 アブラハムの人生と信仰

 神様は、そのようなアブラハムの人生を大いに祝福されます。
 「アブラハムの生涯は百七十五年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」(七~八節)。
 ここで三つのことを考えたいと思います。
 第一に、アブラハムは「満ち足りた」晩年を迎えました。満ち足りた晩年とは、神様との関係において、「満ち足りた」ことです。それまで、アブラハムは神様によって導かれてきて、神様にいつも祈っていました。ですから、アブラハムの人生の晩年においても、いつも神様のことを思い、神様との交わりの中で過ごしていたと思います。そして神様と共にいることを本当に喜んでいたのです。
 第二に、アブラハムは「長寿を全う」しました。「アブラハムの生涯は百七十五年であった」とあります。アブラハムは、七十五歳のときに、神様に召し出されて、それまで暮らしていたカルデアのウルという町を離れて、カナンの地へと旅立ちました。そのとき以来、ちょうど百年間生きたことになります。百年間にわたって、神様に導かれ、神様と共に歩みました。
 その間、失敗もありました。カナンの地を通り過ぎて、エジプトまで来たときに、エジプトの王ファラオを恐れて、妻のサラを自分の妹だと偽ったことがありました。また、神の約束を信じ切れずに、妻のサラが女奴隷ハガルをアブラハムに与えて、イシュマエルを得たこともそうでした。
 また、試練もありました。一緒に旅をしてきた甥ロトと別れたこと。それから、百歳になってようやく与えられた息子イサクを焼き尽くす献げ物としてささげなさいと、神様に命じられたことも大きな試練でした。また、最愛の妻サラが召されたこともつらいことでした。それでもアブラハムは、自分を召し出してくださった神様に従い、神様と共に歩み続けました。
 第三に、「先祖の列に加えられた」とあります。これは、神様の下に迎え入れられたことで、死んで「先祖の列に加えられる」という表現は、聖書の一つの希望を語っています。いくらこの地上で満ち足りても、死んだ先で独りぼっちであるならば、どうでしょうか。天の故郷では、先に召された信仰の先輩たちが私たちを迎えてくださるのです。新約聖書のヘブライ人への手紙一一章一三節にこう書いてあります。
 「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」。
 それから、一六節に「ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです」とあります。ここで、彼らとは、神様に忠実に従って生きた人々のことを言っています。彼らは、地上ではよそ者であって、天の故郷を熱望していました。地上の生涯で終わりではないと、その先にある天の故郷を見詰めていました。それは、私たちを創造し、私たちを愛してくださった神様の下で永遠に過ごすことで、そこに希望を置いていたのです。アブラハムはその望み通り、神様が許されたときまで生きて、先祖の列に加えられたのです。
 このように、神様は、アブラハムという人を選び、その人生を導いて、大いに祝福されました。私たちの人生もそうでしょう。神様は、私たちにも目を留めてくださり、これまでの人生を恵みによって、導いてくださったのではないでしょうか。

 イサクとイシュマエル

 続いて、アブラハムが召されたとき、イサクとイシュマエルが一緒に父アブラハムを葬りました。 「息子イサクとイシュマエルは、マクペラの洞穴に彼を葬った。その洞穴はマムレの前の、ヘト人ツォハルの子エフロンの畑の中にあった」(九節)。
 サラの女奴隷ハガルの子であったイシュマエルは、十四歳のときにイサクが生まれたことで、アブラハムの家から追い出されていました。しかし、父の死の知らせを聞いて数十年ぶりにイサクと会って、彼と協力して父親の葬りを行ないます。普通であれば、自分を追い出したアブラハムとイサクに対するわだかまりがあったはずですが、それが消えていたようです。アブラハムは息子たちの手によって、妻サラが葬られたところに、一緒に葬られました。そして、「アブラハムが死んだ後、神は息子のイサクを祝福された」とあるように(一一節)、神様はアブラハムの跡取りとなったイサクを祝福されます。
 こうしてみると、アブラハムは「満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」ことが分かります。アブラハムは七十五歳のときに、神様に召し出されて以来、百年間にわたり、神様に導かれ、神様に信頼し、神様と共に歩んだ人生でした。その間、失敗や試練もありましたが、神様の声に聞き従ってきました。このところに「満ち足りた人生」があると思います。

転入会者より 落ち着き、包容感、穏やかさ、真摯さに引かれて

○ぶどうの枝第55号(2021年12月31日発行)に掲載(執筆者:FH)

 昨年九月に引っ越してきたが、当時所属していた教会から今年四月までは籍を置いたまま役責を全うして欲しいとの要請があったため、今回は転入会させていただく教会をゆっくりと探すことができた。
 受洗してから今まで、出戻りも含め国内外九つの教会にお世話になり、豊かなお交わりをいただいた。ただ今回は、ひょっとしたらこの世で所属する最後の教会になるかもしれないという思いを抱きながらの教会探しとなった。
 千葉市から成田市までの日本基督教団の教会の中から、公共交通機関でもクルマでも四十五分以内で通えるところで、ホームページ等でここはどうかなあと思った教会の礼拝に出席させていただいた。一度切りのところ、数回行ったところ……。
 その中で、佐倉教会は、会堂のたたずまい、牧師のメッセージ、教会員の雰囲気等、何か引かれるところがあり、転入会を決めさせていただいた。何かを一言で表すのは難しいが、「落ち着き」「穏やかさ」「包容感」「真摯さ」といった感覚の中に神様の導きを感じたのかもしれない。
 それにしても、教会というところは入り難いところだと改めて感じた。「初めての方もお気兼ねなくお越しください」等とよく書かれているが、扉を開けると上から下まで観察され、どなたですかと目で訴えてくる。初めて教会を訪ねる方は、何かしらの課題を抱え勇気を奮ってこられることが多いのではと思うので、それはあまり心地良いことではないだろう。
 コロナ禍で、多くの教会が所属する教会員のためにインターネットを活用し始めたが、これからは教会の敷居を越えられない方や日曜日も働かざるを得ない方をも視野に入れ、訪ねてこられるのを待つだけでなく、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイによる福音書二八章一九節)を実践するべく、インターネットでの宣教を考えていく必要があるだろう。
 イエス・キリストに倣って教会は率先して弱い立場にある人々の傍らにいようとしてきた。昨今、多様性についての認知が世の中では進んでいるが、教会の中では年齢や性の扱いは旧来のままのように感じる(例えば、壮年会/青年会、○○兄/○○姉)。訪ねてこられる様々な背景を持つ方々の障壁にならないよう、こういったことも再考していくべきであろう。
 少子高齢化の波は、既に教会に及んでいる。各個教会の存続問題につながるという認識の下、変えてはいけないことと変えるべきことを見極めながら、皆様とのお交わりを深められたらなあと思っている。

日々与えられる神様の恵み 勇気を出して生きられる

○ぶどうの枝第55号(2021年12月31日発行)に掲載(執筆者:TI)

 今から八年前の二〇一三年にこの場所で「イエス・キリストの体なる共同体としての教会」と題して奨励をするときを与えられました。本日お話するのは、それから八年余りが過ぎて、その間に、主より与えられたときを、どのように生きてきたかの一端をお話させていただくことにしました。
 私は、奨励をした同じ年、つまり六十七歳の二〇一三年春先に東邦大学病院に入院し、身体のホルモンバランス機能が低下する難病の「下垂体機能低下症」という病名をいただきました。以後今日まで服薬生活をして、命を長らえております。この病気は、遺伝的要素が強く、七十歳で死亡した私の父親も、六十代前半で死亡した私の叔父も今日的に考えれば同じ病気だったのだと思います。神様のみ力による医学の進歩と担当された医師との出会い・診断で、私は父の年を越えて今日の日を迎えられたのです。
 神様からの恵みのこの八年間を与えられて、それにふさわしい時を過ごしてきたかどうか、改めて、今回、振り返る時が与えられました。この間に心に残ったことを幾つかお話したいと思います。
 まず、二〇一三年に教会役員として教会の墓地管理委員となりました。仕事は教会墓地に納骨する方のお手伝いをすることが主なる仕事でした。この八年間の間に十三名の方々の納骨のお手伝いをさせていただきました。納骨に当たっては、それぞれのご家庭の事情があり、悲しみ・喜び等を、直接肌で感じる機会を与えられました。これも神様の恵みと思いました。
 例えば、ご家族との関係を断ち切られ、一人で人生後半を生きてこられた方、ご遺族が心の病の中にあり、そのご遺族を思いながら天に召された方、ご遺族が社会的に孤立しており、葬儀もなく納骨された方等々が今思い出されます。これが、生前信仰を共にしていた方々の地上での最後の別れなのかと思いました。神様のなさりようは、厳しいものだとも思いました。

 義母との交わりから

 次に、二〇一九年四月かねてから「ゆうゆうの里」に入居していた義理の母が、天に召されました。生前中は、毎週金曜日、夫婦で「ゆうゆうの里」を訪問し、午前中一時間余が私と義理の母との散歩時間でした。義母は日本百名山を走破した健脚で、九十歳になっても足腰は強く、私との散歩でも、アップダウンを難なく歩く人でした。
 特に、印旛沼の風車からユーカリが丘の我家まで、距離にすると七~八キロメートルぐらいでしょうか。義母と妻で、何回となく歩いてきました。また、我家に来たときは、庭の草取りをよくしてくれました。草取りをした後には雑草が一本もないような丁寧な草取りでした。
 しかし、八十歳ぐらいから認知症が徐々に現れ始めました。義母は、大変きちょうめんで働き者でしたので、「ゆうゆうの里」でのゆったりした生活の中では、自分の「役割」を見いだせず、「生きている意味がない。死にたい。」と頻繁に口にするようになりました。ただ、散歩の途中はいつも楽しそうにしていました。義母は、信仰を持てなかったため、自分で意思表示ができる最後まで自己肯定感、即ちありのままの自分を受け入れることができませんでした。骨折してから、一年余の車椅子生活の後、天に召されました。
 義母との「ゆうゆうの里」での十四年にわたる交わりのときは、私たち夫婦にとっては、貴重な体験でした。年をとって様々な役割を担えなくなった日々を受け入れ、神様から与えられた命に感謝することの難しさも学びました。このような機会を神様から与えられたことに、今は感謝しております。
 このような経験をする機会を与えられた中で、自分の信仰について改めて考えてみよう、学んでみようとの思いが沸いてきました。まず、説教集を読むことを始めました。本来、怠け者の私は、聖書を開き、説教集を読み始めると、すぐに眠くなってしまうのです。金牧師の主日の説教を聞く度に、これではいけないと思うようになり、少しずつ勉強が始まりました。
 主として元鎌倉雪の下教会の加藤常昭牧師の説教集の中からパウロ書簡、ヨハネによる福音書、ヘブライ人への手紙を中心に読みました。この中でヘブライ人への手紙は、特に印象に残りました。ヘブライ人への手紙一二章五~六節に、「わが子よ、主の鍛練を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は、愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」とあります。
 この八年間に経験したことは、まさに、神様が私に与えてくださった鍛錬の日々でした。病を告知されたことにより、他の病に苦しむ方々を思いやることを学びました。教会墓地管理委員としては、自分の力だけでお世話することの限界を自覚しました。私たちが神様からいただいた人生の終わりの時には、各人各様の終焉の迎え方があるということも、改めて学びました。そして、信仰を持てなかった義母からは、いかなるときも主イエス・キリストと共に歩むことのできる喜びを気付かされました。これら一つ一つが、私を育ててくれた「糧」となったと思います。

 全てを神様に委ねて

 このような時を経て今思うことは、私たちは、いつも自分の生活を見直さなければならない。そしてその生活が「主イエス・キリストにおける神の愛」から引き離されていないか振り返る必要があるということでした。私たちは、苦難・艱難に遭うと、自分の殻に閉じこもりがちになります。そのようなときこそ、気を取り直し、「主イエス・キリストの父なる神様」への祈りのときを持ち、福音に帰っていくべきだと思います。
 しかも、神の恵みは、日々新たに与えられるもので、それによって、私たちは弱いながらも信仰の旅を続けられることを確信しました。このためには、毎週の主日礼拝は、神の恵みに気付く機会であり、欠かすことはできません。
 私たちは、祈りのときには、「主イエス・キリストの御名によって」と言って祈りを結びます。私たちは、「イエス・キリストの御名」の中に生きている者として、「イエス・キリストの御名」を身に帯びている者として、いつもキリスト者として祈っていることが理想です。しかし、現実は、主イエス・キリストの父なる神を信じるということは、自分の弱さ、愚かさ、恥を告白し、さらに自分が罪人であることを勇気を出して神様に伝える、即ち、そのような不確かな・ほころびの多い自分を、神様を信頼して全てを神様に委ねることだと思うようになりました。さらに、全てを神様に委ねることから心の平安が与えられるのだと思いました。そして、それは私たち、取り分け高齢の方々にとりましては、主イエス・キリストが死に向かう歩みの友となっていてくださることでもあります。
 「その主イエス・キリスト」と共に歩むことは、この世に生きている中で、平安を得るためであります。しかし、平安を得るということは、これまで知らない苦難に遭うこともあります。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望へと導かれます。ですから主イエス・キリストに囲まれている私たちは、恐れることなく生きられます。
 本日の聖書箇所、ヨハネによる福音書一六章三三節には、主イエス・キリストが十字架につけられる前夜に、弟子たちに「しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」と励ましの言葉を述べています。私たちは、主イエス・キリストに囲まれて生きています。このことはいかなるときでも「勇気を出して生きられる」ということではないでしょうか。
 祈り:御在天の父なる神様、本日は、奨励の機会を与えられ感謝いたします。今後とも勇気を出して主イエス・キリストと共に歩む人生をお導きください。アーメン。
(二〇二一年八月二十二日の主日礼拝奨励より)

随想 見つかった迷子の子羊

○ぶどうの枝第55号(2021年12月31日発行)に掲載(執筆者:HK)

 洗礼を受けてから、気が付けば五十年以上たっています。神様の大きな御手に包まれ、守られて信仰を支えられてきたとつくづく思います。
 私の実家ではクリスチャンは母だけでしたが、祖母も父も母の信仰を大事にしてくれ、母は教会中心の生活を送ってきました。幼い頃日曜学校に連れていかれたことはあまり記憶にないのですが、キリスト教、佐倉教会は身近な存在でした。中学生になったとき、ふらっと教会へ行き始めました。同学年の友達四、五人ぐらいで日曜学校が終わった後、礼拝中の会堂の隣の部屋でおしゃべりをしたり、テスト前は勉強したりとお昼頃まで過ごしていました。教会に通っていたというより、友達と遊んでいたという方が正しかったくらいです。
 高校生になっても相変わらずだった私たちは、石川深香子先生から「礼拝に出なさい!」と言われ、後ろの方で小さくなって座っていました。熱心さには程遠い私たちでしたが、教会員の方々の神様に向き合っている姿勢がとても印象に残っています。
 高校卒業後は佐倉に残っていたのは私だけでしたが、教会学校を手伝ったりしながら教会生活を続けていました。二十歳になったとき、石川キク牧師から「浩子ちゃんそろそろいいんじゃない?」との言葉に、なぜか何の疑問もなく当たり前のように「はい」と答えていました。受洗に当たって、いろいろ悩んだ末の決断とか、新たな出発への感動などはなかったけれど、教会員の方々の祝福を受け、あのまっすぐ前を向いている方々の仲間入りをさせていただいたという緊張感は忘れられません。
 結婚して佐倉を離れてからは毎日の生活の忙しさの中、段々教会から遠ざかり、そのうちに聖書を読むことも、祈ることからも離れてしまう時期もあったり、またハッとして戻るの繰り返しでした。
 二十七年ほど前に佐倉に戻ってきて、佐倉教会のあの古い木造の会堂を見て、とても懐かしくうれしかったです。新たな教会生活の出発となりました。それでも自分には強い決断や体験もないままのこんな信仰でいいのかとの思いもありました。
 そんなとき、西千葉教会のグドゥルン・シェーア先生の「捜索願い」という講演がありました。有名な迷子の子羊の例え話です。
 「この羊飼いのように、神様は一人一人の人間を迷子になった子どものように捜しておられる。人間を救うため、イエス・キリストを生きた捜索願いとしてこの世にお遣わしになり、人間を見つけ出し、その罪、神様に対する不平不満を負うて十字架に掛けられた。そしてイエス・キリストの十字架上の死において人間は救われ、完全に神様に見つけられた。イエスキリストに見つけていただき、神様の歓迎パーティーに連れて帰ってもらう」。
 迷子の子羊は私なんだ、イエス様に見つけていただいたんだとの感謝の思いを強くしました。また見つかったことを喜んでくださり、大切に思い、ずっと見守ってくださっている。なんて大きな恵みなんだろう。自分の受けたものに応えていけばいいのかなと、少し吹っ切れたことを覚えています。何事にも時がある、私にはこれだけの時が必要だったとも思いました。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネによる福音書三章一六、一七節)。
 相変わらず頼りなく迷ってばかりの私ですが、祈りつつ共に歩いてくださるイエス様に従っていきたいと思います。

随想 神様の摂理を受け入れて

○ぶどうの枝第55号(2021年12月31日発行)に掲載(執筆者:NI)

 「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(ヨブ記一章二一節)。
 長かった人生の旅路も、いよいよ残り少なくなってきました。思い返しますと、聖歌二九二番の歌詞「きょうまでまもられきたりしわがみ……」の正にこの一言に尽きます。
 私は、墨田区本所の桜並木の大変美しい隅田川の近くで生まれました。その地で、昭和二十年の終戦の年に東京大空襲に遭遇し、火事の熱さを避けるために、祖父に抱かれて隅田川に入水しました。幸いなことに、そのときは祖父の気転もあり、無事に助かりました。
 ところで先日は、思いがけなくも佐倉市役所の玄関ロビーで、そのとき体験した東京大空襲の展示会がありました。私は、どんなものかと興味深く見にいきました。展示物の中に、無残にも着のみ着のままの多くの死体が、隅田川に流されていく光景を見ました。その瞬間ショックを受けて思わず立ちすくんでしまいました。
 誰の人生においても、本当に思いがけない事件事故など、人知では測り知れないことが起こってきます。私は、終戦直後の飢餓や疫病のような困難から守られ、今日まで何とか生かされてまいりました。ところが、思い返しますと、時には希望と現実との間に大きなギャップを感じる苦難を体験しました。正直に告白しますと、受洗後もそんな苦難に出会いますと、神様を信じていくことに疑いが生じたことがありました。
 しかしながら、これまでヨブ記を何度となく読み、私なりに神義論を学んできました。そこで、悔い改めて幸も不幸も全てを神様の摂理として受け入れるべきと、確信するようになりました。その結果、半世紀以上にわたり、神様はわたしをキリスト者として持続させて、今日までお守りくださいました。
 ところで、病気などの「不幸」は、全て具体的かつ客観的で誰にも共通すると思えます。他方、「幸福」は極めて抽象的かつ主観的で、万人に共通ではないように思えてなりません。
 私は若い頃から、長く生きれば生きるほど、分からないことが次第になくなってくると思っていました。しかしながら、年をとるにつれて、かえって分からないことが多くなってきたようです。
 このことに関して、ギリシャ哲学者のソクラテスが提唱した、有名な「無知の知」ということが思い出されます。即ち、知らない(無知である)ということを知っている時点で、知っていると勘違いしている人よりも、優れているという考えです。例えば、死後の運命についても、正にそのように考えられます。そういう問題は、一生かかって聖書を通して、自分自身の信仰を高めていくことが大切ではないでしょうか。従いまして、無理に今すぐ分からなくても良いのではないかと思うようになりました。
 最後になりましたが、前代未聞の世界的コロナ禍の中、今日まで守られてきましたことが、何よりも幸いと思います。この不条理の世においては、運命はいかに厳しくとも、「神様の摂理」が最も優しいものと、ようやく確信できるようになりました。
 晩年の私は「恵まれた幸せな人生でした。今日までお守りくださり本当にありがとうございます」と、神様に心から感謝するばかりです。ハレルヤ

報告 佐倉教会の里親活動

○ぶどうの枝第55号(2021年12月31日発行)に掲載(執筆者:TI)

 佐倉教会では、一九八八年十月にチャイルド・ファンド・ジャパンの支援活動に参加し、以後三十三年余にわたってフィリピンの子どもたちのスポンサー(里親)を続けています。
 チャイルド・ファンド・ジャパンについて、紹介します。
 同団体のホームページによれば、始まりは一九四八年、アメリカの民間団体であるキリスト教児童基金(CCF)が日本の児童養護施設で生活する戦災孤児たちへの支援を開始したことでした。CCFからの支援を届けるために、日本事務所として社会福祉法人キリスト教児童福祉会(CCWA)が設立され、アメリカ・カナダの人々からの支援を受けました。
 大きな転機は一九七四年でした。日本の子どもたちを取り巻く環境は大きく改善され、一方でフィリピンやタイなどのアジア諸国における圧倒的な貧困を目の当たりにして、CCWAは、CCFからの支援を辞退し、日本がアジアの貧しい子どもたちを支援する、「順送りの恩返し」をすることを決定しました。
 一九七五年、当時東南アジアの中でも特に厳しい貧困状況にあったフィリピンが支援の対象に選ばれ、六十七名の子どもたちへの送金が開始されました。最初の五年間で五百名を超える方々がスポンサー(里親)となりました。
 その後、二〇〇六年にスリランカ、二〇一〇年にネパールを支援先に追加し、スポンサーシップ・プログラム(「里親的」支援)の対象は三か国となっています。
 同団体の二〇二〇年度年次報告によれば、支援者は、スポンサー三千三百八十六人、マンスリー・サポーター五百四人、プロジェクト・サポーター一千三百五十人など。支援チャイルドの数は、フィリピン三千六百二十七人、ネパール五百三十一人、スリランカ三百一人の計四千四百五十九人となっています。現在、佐倉教会は、スポンサーとして一人のチャイルドの支援を行っています。
 佐倉教会が参加している「スポンサーシップ・プログラム」は、一対一で一人の子どもとつながり、成長を支え見守る支援です。手紙での交流や成長記録(年に一度届きます)などを通じて成長を見守ります。月々四千円(一日百三十円)の支援で、小学校に通いながらも家庭の貧しさのゆえに卒業ができないなど、支援を必要としている子どもたちを支えます。
 これまでに佐倉教会がスポンサーとして支援してきた子どもたちは十一名です(資料一参照)。
 現在、支援しているチャイルドは、プリンセス・カイラ・ミメイさん、フィリピンの十四歳の少女です。二〇二〇年の成長記録では小学校を卒業、家での復習を継続。教理問答を学び、家では弟、妹に福音を伝えているとあります。彼女の夢は、将来子どもたちの読み書きを助ける教師になることです。
 佐倉教会では、主日礼拝の際、受付にチャイルド・ファンド・ジャパン募金箱を置き、その献金をもってスポンサー寄付金(年間四万八千円)やその他の寄付金などを賄うこととしています(近年における献金額は資料二参照)。
 佐倉教会としてフィリピンの子どもたちの「里親的」支援を続けていくため、引き続き皆様のご協力をお願いいたします。

プリンセス・カイラ・ミメイさん

随想 大学生になりました

○ぶどうの枝第55号(2021年12月31日発行)に掲載(執筆者:KK)

 皆さんこんにちは。私は四月に印西市にある東京基督教大学という大学に入学しました。TCUと言った方がお分かりになる方も多いかもしれません。新型コロナウイルス感染拡大の影響で大学での学びはオンライン中心となっていました。幸いなことにオンラインでの学びでも楽しく、また多くの友と仲良くなることができました。
 しかし、早く対面で皆に会いたいという気持ちも持ちながら過ごしていました。そして、七月頃に大学の方から八月から始まる秋学期には寮に入ることが許されるとの連絡をいただきました。入寮を目指し、期待をしながら準備を進めていました。しかしながら、再びコロナウイルスの感染が拡大し、秋学期からの入寮はかないませんでした。
 このように中々思うようにいかなかった大学生活ではありましたが、ついに十一月二十九日より入寮することができ、パソコンの画面上でしか見たことのなかった先生方や友と顔を合わせることができました。ですが、ご安心ください!寮に入っても佐倉教会に通うので皆様にも会えます♪まだ寮に入って数日しかたっておらず緊張が続いていますが、食堂で食べるご飯はとてもおいしく楽しく生活することができています。
 私がTCUでどのような勉強をしているのか、短くご紹介させていただきたいと思います。TCUは神学部の単科大学です。なので皆さんは聖書や神学をがっつり勉強していることを想像するのではないでしょうか。もちろんそのような勉強もすることになります。ですがそれだけではなく、教養科目も充実しています。私は秋学期に心理学の授業を受講しました。そこでは、発達心理学について学びました。人間の成長と心の関係について詳しく勉強することができとても楽しく、良い学びとなりました。
 また、「日本宗教論」という授業も受講しました。この授業は簡単にいうと日本における宗教はどのような意味を持つのか、そして神道や仏教のような宗教がどのようなものなのかを学ぶ授業です。クリスチャンである私が、それらの日本の文化的な側面を持つ宗教にどう関わっていけば良いのか深く考える機会を得ることができた楽しい授業でした。
 TCUでは聖書、神学はもちろんのこと、それ以外の教養科目も全てクリスチャンの先生方が教えてくださいます。冬学期からは、新約聖書に関する学びが始まるので全力で当たって砕けて、頑張ります。
 入学してから約八か月がたちました。あっという間でした。私をTCUへ導いてくださった神様に感謝し、これからも楽しく、一生懸命TCU生活を送っていきたいと思います。皆様、どうかTCUを覚えてお祈りいただければと思います。

エノクの生涯が示すもの 神と共に歩む信仰生活を 創世記五章二一節~二四節

○ぶどうの枝第54号(2021年6月27日発行)に掲載(執筆者:金 南錫牧師)

 創世記五章には「アダムの系図」という小見出しが付けられていて、二一節にエノクという人物が出てまいります。二一節から二四節です。
 「エノクは六十五歳になったとき、メトシェラをもうけた。エノクは、メトシェラが生まれた後、三百年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。エノクは三百六十五年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」
 五章に出てくる他の人は、何百年生きて、そして死んだというふうに書いてありますが、このエノクに関してだけは、「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」と書かれています。
 神に創造された人間は、神の息を受けて初めて生きるものとなりました。つまり、人間は神と共に歩くように造られたのです。そして、エノクはそのように神と共に歩みました。だから、「神と共に歩み」ということが二度も強調されて記されています。ところが、「神と共に歩み」という表現は、エノクが正しい人間であったとか、罪を犯さない人間であったとか、そういうことではありません。エノクも人間としての限界を持っていたでしょう。しかし、そういう人間が平凡な生活の中で、神に出会い、神に支えられて生きていくことが「神と共に歩み」という言葉の中に含まれていると思います。
 ここで、エノクは地上で何をしたということは一切書かれていません。どういう仕事をして、どういう業績を残したなど、何にも書かれていません。ただ、一つ言えることは、エノクは神と共に歩んだのです。それだけが彼の人生について言える事柄でした。だから、ひょっとしたら彼は仕事に失敗し、何回か挫折した経験があったかもしれません。また、罪を犯したかもしれません。エノクは弱さと限界を持つ普通の人間でありました。しかし、そういう人間が神と共に歩んだのです。そして、エノクは死んだのではなく、「神が取られたのでいなくなった」とあります。 このところをヘブライ人への手紙一一章五節、六節では、こう解釈しています。
 「信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです」。

 エノクの召天の意味

 神様が不思議な形で介入されることによって、エノクだけが他の人とは違った形で、天に上げられました。それは、イエス・キリストによって示される復活の予告のような気がいたします。イエス様は、まさに神の子として、最も忠実に「神と共に歩んだ」方でありました。それゆえに、神の意志として十字架につけられました。私たち人間の代表として、「死」を経験されます。そこはエノクと違うところですが、神様は、そのイエス・キリストを死者の中から復活させて、天へと移されました。ですから、エノクの生涯は、イエス・キリストのことを指し示していると言えます。
 また、そのイエス・キリストに続く私たちの命をも、エノクは指し示しているのです。それは、イエス・キリストに続いて、神の言葉を受け入れて、神と共に歩む者は、エノクのような生涯を送るということです。
 ですから、「神と共に歩む」とは、神の言葉に従う信仰生活のことです。信仰生活は、劇的な体験より、日々の平凡な日常生活の繰り返しの方が多いのです。エノクは日々の生活の中、良いときも都合の悪いときも、神の言葉に従う信仰によって生き抜きました。ここに神に喜ばれる彼の信仰の生涯があったのです。

 神が私たちを捉える

 「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」とあるように、エノクの命は、そのまま神の御手に委ねられました。私たちは「神と共に歩む」ならば、たとえこの地上の死を経験しようとも、それは完全な終わりではないのです。永遠の命が約束されているのです。イエス様はこう言われました。
 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネによる福音書一一章二五、二六節)。
 エノクの人生を一言で言い表せば、「神と共に歩む人生」であります。私たち一人一人の人生、これを一言で言い表したら、どういうことになるでしょうか。「私は生涯家族のために、一生を過ごした」。このような生涯も、それなりに意味があるに違いありません。しかし、「彼は神と共に歩んだ」と要約されるような生涯を送りたいものです。三浦綾子さんが書いた『旧約聖書入門』という本の中、こう書いてあります(六六頁)。
 『「神と共に歩み」と書かれているのは、エノクだけである。エノクの生涯はわずか一行に過ぎない記述だが、これは偉大なる生涯なのかもしれぬと、説教に聞いたことがある。彼はその信仰のゆえに、死なずに、神に取り去られて天に昇ったと当時の人々は思ったに違いない。私たちが死んだとき、一行で私たちの生涯を誰かが記すとしたら、果たして何と記してくれるだろう。「彼は一代にして財をなし、七十五歳で死んだ」「彼は、何某と結婚し、男と女を産み、九十歳で死す」といったところであろうか。それともスタンダールのごとく、「生きた、恋をした、死んだ」であろうか。「神を信じ、人を愛して死んだ」と書かれる生涯は送る人は、まれであろう』
 聖書は、神と共に歩んだエノクを、「神が取られたので、いなくなった」と語っています。つまり、神が主体なのです。エノクが苦労して、道を開いて、どこかに到達したという話ではなくて、神の方が手を伸ばして、エノクを取られたのです。つまり、自分が一生懸命神に向かっていたつもりですが、神の方が自分を捉えていてくださるのです。それが信仰の歩みです。
 私たちの人生も同じです。私が主体となって、一生懸命神の手を握りしめて生きるのですが、その手はやがて衰えていきます。しかし、神の方が私をしっかりと捉えるのです。そして、ご自分の元に引き寄せてくださるのです。私たちの人生の歩みはいろいろな難しい問題を一杯抱えています。
 今年も、まだ終わりの見えないコロナ禍の中、神と共に歩むことによって、やがて神が私たちを捉えて、ご自分の元に引き寄せてくださることを信じ、すべてを神に委ねましょう。そして、二〇二一年度の歩みが、神と共に歩む信仰の歩みとなりますように、祈り願います。
 「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」(創世記五章二四節)

随想 御言葉に励まされ

○ぶどうの枝第54号(2021年6月27日発行)に掲載(執筆者:MK)

 佐倉に移り住むことになった当時のことです。今は亡き友人が贈ってくれた詩編の言葉が折に触れ思い出され、慰められたことを思います。
「主は人の一歩一歩を定め
 御旨にかなう道を備えてくださる
 人は倒れても、打ち捨てられるのではない
 主がその手をとらえていてくださる」(詩編三七編二三~二四節)
 悩んだり思い煩うことが多い私ですが、これまでの歩みを導いてくださり、今、信仰の仲間と共に礼拝ができ、心が整えられるこのかけがえのない今の生活を有り難く心から感謝に思います。
 しかし、今、世界を覆う新型コロナウイルスのために私たちの生活は大きく揺さぶられています。教会も大きな制限を受け、従来のような活動はできなくなっています。
 私自身、人との交わりも失われるような状況の中で、しぼんでしまいそうな思いを味わいました。そんなとき、聞いた御言葉です。
 「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようにしなさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」(フィリピの信徒への手紙四章四~六節)
 喜ぶことの難しさを思ってしまう私がいます。喜び得ない状況の中で語るパウロの言葉を繰り返し聞きました。喜びの源である主イエス・キリストをいつも思い起こすことにおいてこそ可能になると語っていると思いました。
 どんな時にもイエス様が一緒に歩んでくださっているから安心して進むようにと、励ますパウロの信仰の言葉が迫ってくるように響きます。素直な心で聞き、祈ることによって、開かれていくことを教えられました。
 五月には定期総会が行われました。今年は役員選挙も行われ、導かれ、整えられて歩み出すことができて感謝に思います。役員の一人に選ばれましたが、このことを神様の御心と受け止め務めていきたく思います。

転入会者より 主の備えの許に 沖縄の旅を終えて思う

○ぶどうの枝第54号(2021年6月27日発行)に掲載(執筆者:FI)

 懐かしい佐倉教会に再び帰り、教会生活ができることを感謝します。しばらく私は、沖縄でフードバンク活動をライフワークに、十三年間過ごしました。沖縄は、亜熱帯の自然豊かなリゾートではありますが、歴史的、文化的、民族のDNAも違う、日本語が通じる異国。ここで自らが「ヤマト(大和、本土)の人間」という異質なタイプの日本人であることを初めて意識させられました。
 そんな異文化の中で、明るく屈託ないウチナーンチュたちにも、ふとしたときに表れる心の陰りを感じることがありました。それは、沖縄戦で受けた今も癒えない傷がヤマトンチュウ(大和の人)には理解されないことへのわだかまりなのか、特に高齢者から感じさせられました。お互いに違和感を持ちながらも、お互いを受け入れ文化を分かち合いながら、志を共にする、「NPOフードバンクセカンドハーベスト沖縄」(第二の畑の意)を通じての生活が始まりました。
 メディアでは報道されない実情も次第に分かってきました。温暖な地ゆえに流れてくるホームレスの人たちも多く、母子・父子家庭の困窮世帯の多い中で、本来の「ゆいまーる(助け合い)」の精神がお互いを支え合う原動力になっていることも分かりました。
 私は、なぜここにいるのだろう。縁もゆかりもないここに導かれた意味は何だったのかとふと思うことがありました。
 二〇〇三年、伴侶の死を機に十五年関わっていた「いのちの電話」を退局、そのときの喪失感のつらさから逃れるようにたどり着いた沖縄でした。生きる目標をなくしていたこの頃、東京のフードバンクのことを知りました。「これからはこれだ」と直観、何度目かの沖縄旅行中、友人から沖縄にもフードコートというものができて、近日、勉強会があるとの知らせに、「主の山に備えあり」と喜び、直ちに出席しました。熱っぽく語る三十歳代の主婦の姿に心打たれ、趣旨にも賛同できて、旅行中にもかかわらず、ボランティア登録をして帰宅しました。そして、車に荷物を積み、一か月後には那覇市民になっていました。
 「フードバンク」とは、まだ十分食べられるにもかかわらず、期限が間近などの理由で捨てられてしまう「もったいない食品」を企業や個人から無償で譲り受け、適切な管理の下に生活困窮者や必要とする支援団体などへ無償で提供する活動です。沖縄は、貧困率も高く、その必要性が求められています。
 一方、食料を輸入に頼る我が国は、輸送にかかる二酸化炭素により環境負荷がかかり環境汚染や地球温暖化の一因にもなっています。
 聖書には、初め天地を創られた神様は、人間を祝福して「産めよ、増えよ、地に満ちて、地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這う生き物をすべて支配せよ」とあります。しかし、「従わせよ」「支配せよ」の意味は、「お互いに支え合って一緒に住む」というそうです。神の見えない御手に支えられてこそ「非常に良かった」状態が継続できるのです。けれども今や人は、海も空も地上も支配し、殺りくを繰り広げ、支配の限りを尽くしています。
 多くの飢えた人たちのいることも忘れ、食物は常にあるのだという錯覚の中で、食べ物を無駄にしたり、飽食に走る人間に、「父よ彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ二三章三四節)との御言葉が胸に響きます。そして、「この地を滅ぼすことがないように、わたしはわが前に石垣を築き、石垣の破れ口に立つ者を彼らの中から探し求めたが、見いだすことができなかった」(エゼキエル書二二章三〇節)。この厳しく迫る御言葉の前で、ただ立ち尽くすことしかできない者です。
 それでもなおも赦し憐れんで愛の御手の下にお取り成しくださる主に希望を持って、御旨に叶うような歩みが少しでもできるように願うばかりです。この沖縄での日々は、私自身の生き方が問われ、歩みを軌道修正させてくれた、誠に主が備えてくださった学びの場となり、心を癒やされた旅となりました。深い感謝をもって。
(注)
・ウチナーンチュ…沖縄生まれの人のこと
・ヤマトンチュウ…沖縄県以外の人のこと