ダビデの悔い改めの祈り 賛美を回復される神 詩編五一編一~一七節

○ぶどうの枝第52号(2020年8月30日発行)に掲載(執筆者:金 南錫牧師)

 ある家族が黄色いカナリヤを飼っていました。朝から晩まで素敵な声をさえずっていたそうです。籠の中には必要なものが備えられていました。餌や水を与える道具だけでなく、水浴びをするためにガラス製の器もありました。
 ところが、ある日飼い主が掃除をしていて、うっかりその水浴びの器を割ってしまいました。すると、間もなくカナリヤの元気がなくなり、二日目には鳴かなくなってしまったのです。原因が分からず、病気になってしまったのだろうかと心配していたのですが、一週間後、水浴びの器を入れたところ、すぐにカナリヤは中に入り、水浴びをし、きれいな声で鳴き始めたのです。
 この話は、自分がきれいでなければ、歌えなかったことを教えています。ダビデも同じ経験をしたのです。彼は、罪を犯したことによって賛美することができませんでした。ところが、悔い改めることによって賛美が回復されていきました。 
 ご存じのように、ダビデは姦淫と殺人の罪を犯しました。そのとき、神様は預言者ナタンを通してダビデの罪を指摘しました。ダビデは、一国の王様でしたが、六節にありますように「あなたに、あなたのみに私は罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました」と、自分は神に罪を犯したと告白しました。
 そのとき、神様は、自分の罪を告白したダビデに罪の赦しを与えてくださったのです。 神様の恵みにより、罪の赦しをいただいたダビデは、神様にこう告白します。「御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください」(一四節)。
 ダビデは御救いの喜び、自由の霊を再び味わわせてください、と祈り求めました。そして、神様に一つの決心をしています。「わたしはあなたの道を教えます。あなたに背いている者に、罪人が御もとに立ち帰るように」(一五節)。
 ダビデは、神様に自分に御救いの喜び、自由の霊を再び味わわせてください、そうすれば、あなたに背いている者、罪人に、「あなたの道を教えます」と決心したのです。
 それは、罪人が主に立ち帰るためでした。ダビデは、神様からいただいた救いの恵みを他の人と分かち合い、罪の中に苦しんでいる誰かが、主に立ち戻ることができるように祈ったのです。私たちはどうでしょうか。救いの恵みを他の人と分かち合ったことがあるでしょうか。
 「御救いの喜びを再びわたしに味わわせてください」と求めていたダビデは、「主よ、私の唇を開いてください」と祈り求めています(一七節)。

 祈りと賛美が消えるとき

 これは、裏を返せばいつか自分が罪の中にいたとき、唇が閉じていた、ということを表しています。罪の中にいるとき、唇が閉じて、祈りが消えてなくなります。次に、賛美が消えているのです。いくら唇を開いて祈ろうとしても、祈りの唇が開きません。雑念だけがあふれ、思い浮かびます。このとき、クリスチャンは、霊的にうめきます。神様との関係が閉じられてしまったからです。
 ダビデは耐えられませんでした。罪の中にいたとき、唇が開かず、苦しんでいたと告白します。そして、「主よ、わたしの唇を開いてください」と、祈ったのです。一六節に、「神よ、わたしの救いの神よ。流血の災いからわたしを救い出してください。恵みの御業を、この舌は喜び歌います」とあります。
 ここで、「流血の災い」とは、ダビデが、バト・シェバの夫であるウリヤを激しい戦いの最前線に出し戦死させた、殺人の罪を指しています。その流血の災いから、わたしを救い出してくださいというのは、その殺人の罪から自分を救い出してください、ということです。
 このように、流血の災いに対する赦しと救いを求めたダビデは、「恵みの御業を、この舌は喜び歌います」と祈ったのです。ここで「恵みの御業」は、犯した罪を悔い改める人に対する、神様の赦しと救いの御業です。また、「喜び歌います」ということは、全ての力を尽くして、賛美することです。全ての力を尽くして、自分が犯した罪から救ってくださった恵みの御業を声高らかに歌うことを示しています。
 聖書を見ると、ダビデは賛美する人でした。神様の臨在を現す「主の契約の箱、神の箱」がエルサレムへ運び上げられたとき、ダビデは裸になっていることも気づかないほど、神の御前で踊り、賛美したのです(Ⅱサム六章一四節)。
 また、歌である詩編は、百五十編の中、「ダビデの詩」、あるいはダビデと書かれた詩が、七十三編もあります。ところが、実際、ダビデが書いたのに、ダビデと書かれていない詩編も多くあります。これを見ると、ダビデがどれほど多くの詩編を作って、神を賛美したのかを知ることができます。
 それだけではなく、ダビデは詩編二二編の四節で、「あなたは、聖所にいまし、イスラエルの賛美を受ける方」と、告白しています。

 賛美する人に

 ダビデは、神様がイスラエルの賛美を受ける方であることを知っていたのです。ですから、ダビデは、戦場に出ていくときにも、賛美しました。敵から非難を受け、人々からの裏切りを受けたときにもダビデは賛美しています。サウル王から追われる逃亡のときにも、ダビデの唇から賛美は離れなかったのです。なぜでしょう。ダビデは、賛美する人であったからです。
 サムエル記下二三章を見ると、ダビデが死を前にして、最後の詩を作って、神様を賛美する場面があります。ここで、ダビデは、自分の身分についてこう言います。サムエル記下二三章一節です。
 「以下はダビデの最後の言葉である。エッサイの子ダビデの語ったこと。高く上げられた者。ヤコブの神に油注がれた者の語ったこと。イスラエルの麗しい歌」となっていますが、このうち、「イスラエルの麗しい歌」について、口語訳では、「イスラエルの良き歌びと」となっています。ダビデは、人生の最後を迎えて、イスラエルの王ではなく、「イスラエルの良き歌びと」として、自身の身分を語っているのです。つまり、王様よりイスラエルの神を賛美することが大事であることを表しています。
 クリスチャンは賛美する人です。「主よ、わたしの唇を開いてください」と祈り、「恵みの御業を、この舌は喜び歌います」と告白したダビデのように、それぞれ置かれた場所で賛美を回復し、声高らかに、歌うように祈り願います。
 今、残念ながら、新型コロナウイルスのことで、大きな声で讃美歌を歌うことができませんが、このときこそ、それぞれのお好きな讃美歌があると思います。その讃美歌を繰り返し歌うことによって、今のときを乗り越えていきたいと思います。私たちの人生の目的は、何かを成し遂げるためではなく、神様を賛美することにあります。

俳句

○ぶどうの枝第52号(2020年8月30日発行)に掲載(執筆者:AS)

○平成二十二(二〇一〇)年作
 幾度の 春を待たずば 巣立ちゆく
 奇跡をと 願いし母の 耐える冬
 子の病い 御栄えの春を 主にて待つ
○令和二(二〇二〇)年作
 新緑や 覚悟の透析 新生活
 五月晴れ 主の答えは 透析に

受洗者より 教会に通い学びたい

○ぶどうの枝第52号(2020年8月30日発行)に掲載(執筆者:KM)

 今回洗礼を受けて、今まで深くは知らなかったキリスト教について、これまで以上に関心を持ちました。同時に名ばかりの洗礼にならないよう、今後もキリスト教について学んでいきたいと思います。
 最初は親に連れられてきた教会でしたが、礼拝に来る人たちの真剣な様子に引かれ、自分も本気で学びたいと思いました。これからも教会に通いたいと思います。

イースターに寄せて 母の文語体聖書

○ぶどうの枝第52号(2020年8月30日発行)に掲載(執筆者:TA)

 いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝することを心掛け、教会の様々な行事に初めて参加体験した日々は、私のこれまでの人生で一番足早に過ぎた一年でございました。
 顧みますと、教会の出来事が浮かび上がってまいります。
 今までのにぎやかな雰囲気とは異なった「心のクリスマス」を過ごしたこと。またあるときは、金先生のお説教に込み上げるものを我慢できず、お説教の終わるのを待ちかねて礼拝堂を抜け出し、洗面所で一人涙を流したこと等々。
 それはコロナウイルスが猛威を振るい出し、世界中の国々が恐怖の渦に巻き込まれ始めた三月上旬のある日、主日礼拝の終わった後、KさんとAさんからのお誘いを受け、婦人会に参加した折のことでございました。
 普段は人様に自分のことなどほとんど話すことのない私でしたけれど、なぜか生前の母が文語体の聖書を持っておりましたことをお話しする気になったのです。
 と申しますのは、受洗を志し、聖書に親しむ日々を送るようになったとき、ふと思い出したことがございました。
 母の居間の文机の上には、端然と聖書が置かれており、私は時折居間に呼ばれ、聖書の一節を暗誦させられたものでした。最初の暗誦は、「マタイによる福音書、六章二八~三〇節」だったことも鮮明に記憶しております。
 当時小学校低学年だった私にとっては、言葉の意味も分からず、けれども文章がリズミカルで音楽的に感じられたせいか、さして苦痛ではなく、にもかかわらず書かれている意味を理解できたのはしばらく後のことでした。
 今にして気付けば、私の受けた母からのしつけは聖書が原点のように思われます。
 讃美歌の思い出も多く、そのようなわけでつい皆様にお話ししてしまいました。
 会の終わる頃、金先生のお心遣いで母の好んだ讃美歌を歌ってくださいましたとき、心温まるひとときを持つことのできた私は、ただ涙に終始してしまったことも記憶に新しくよみがえります。
 母が逝って三十年。聖書と母のつながりを今はもう確かめるすべもございません。

 そして再び巡りきたったイースターの日、祈りも涙もまこと(真実)であることが天にいます神様の御許に届くことを願っている私がおります。
 受洗の際の誓いを忘れることなく、神様に私の全てを委ね、御手にすがり、御力を頼み、祈りを怠らぬ明け暮れを送り迎える私でありたいと存じます。
 過ぎた一年を振り返るとき、金先生を始め教会員の皆様に折に触れて、有形無形の支えをいただきましたことを思い、とてもうれしく感謝いたしております。
 今後とも何卒よろしくと申し上げます。
 本当にありがとうございました。

讃美歌練習を担当して 信仰が生み出す新しい歌

○ぶどうの枝第52号(2020年8月30日発行)に掲載(執筆者:MK)

 本日(三月二十九日)は、金先生が冬期休暇なので奨励を務めさせていただきます。前回は五年前、本誌『ぶどうの枝』にも書いたのですが、当時訪問した長崎のキリシタンのことをお話ししました。
 今回は、讃美歌練習で考えたことについてです。練習の担当になって、自分なりにできることを考えようと楽譜を見ていましたら、これは職業病なのですが、作詞・作曲者の生没年が気になりました。『讃美歌二一略解』や、二階にある『讃美歌物語』などを参考に、讃美歌の歴史的な背景について、少しお話をしている次第です。
 作詞作曲者が「いつ」の人なのか、いつ作られたのか、ということに注意しておりましたら、年代の傾向も分かってまいりました。
 古い方では、中世のグレゴリオ聖歌のようなものがあります。逆に新しい二十世紀以降のもの、日本人が作ったものもあります。そして、その中間、おそらく数としても一番多いのが、十九世紀頃の讃美歌です。今日「讃美歌らしい」という感じがするのは、だいたいこの頃の歌だと思います。
 讃美歌集の中では皆同じように見えても、時代も背景も様々であることが分かります。そして、ここが大事だと思うのですが、今から見ると古い時代の歌であっても、その当時は新しい歌だった、ということです。歴史というのは、今から見ると古いのですが、その当時は一番新しい時代であり、一番新しいものだったのです。讃美歌も、その時代その時代の、新しい歌として作り続けられていた、ということです。
 十九世紀頃の「讃美歌らしい讃美歌」というのは、日本で言えば、江戸時代の終わり頃から、明治時代頃に当たり、つまりアメリカやイギリスから、日本にやってきた宣教師たちが紹介した讃美歌だと思われます。それは、宣教師たちにとっては、自分たちと同時代に作られた「新しい歌」だったことになります。
 本日の讃美歌、三三三番は、元はタンザニアの民謡で、結婚式の時に男女のグループが歌い交わすものだそうです。それを讃美歌にしたというのは、自分たちの文化から賛美の歌を作り出した、という意味で素晴らしいと思います。
 新しい歌を作るということには、古くからの歌をただ歌い続けるのではなく、あるいは他人のものをそのまま使うのではなく、自分たちの信仰を、自分たちの形に表わして賛美する、という意味があるのだと思います。そのために、新しい讃美歌は、常に作られ続けなければならないのだと思います。
 そして、讃美歌を作ることに限らなくても、賛美自体は、誰にでもできるはずです。他人のものではない、自分なりの賛美―言葉でもよいし、行いでも、そして自分の生き方、ほかならぬ自分の人生自体が、御心に従って生きようとするなら、賛美になりうるのではないか、ということに思い至ります。それも、一つの「新しい歌」なのではないでしょうか。
 前回、長崎のキリシタンのお話のときは、「待ち望む信仰」と題しました。二百五十年もの間、潜伏に耐えることができたのは、彼らの信仰が、いつか、大きな黒船に乗って司祭(パードレ)がやってくる、キリシタンの歌を、どこででも大声で歌って歩けるようになるという、希望を持ってその日を待ち望むものだったことが、キリスト教の信仰そのものと一致していたからではないか、と考えました。
 今、コロナウイルスの感染対策として、集まって声を出すこと自体を自粛しなければならないのですが、かつての潜伏キリシタンたちに倣って、今は心で賛美し、願わくは遠からず、また大きな声で、晴れやかに歌える日が来ることを待ち望みたいと思います。

随想 聖書、そして私 ダビデの過ちから

○ぶどうの枝第52号(2020年8月30日発行)に掲載(執筆者:SK)

 全くなじみのないカタカナ名の連続。「これって何?」というのが憧れていた聖書の第一印象です。
 我慢し何度か繰り返し読んでいたら、「ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父であり」(口語訳)との箇所に、かつて小さな違和感を覚えたことを思い出しました。
 ペリシテ人を討ち、モアブを討ち、と戦ってきたダビデ王。お疲れになっていたのでしょうか。出陣する時期なのにエルサレムにとどまっていたある日、午睡から覚め、半ばもうろうとしたまま、屋上を散歩していますと、何と暮れかかる中庭で水浴びをしている美女が…。早速調査。ヘト人ウリヤの妻、バテシバと判明。使いの者をやって、彼女を召し入れ、床を共にしたのです。
 家に帰った彼女から子を宿したのとの報に、ダビデは考えました。全軍の長であるヨアブに命じ、戦場からウリヤを呼び返し、尋ねます。まず兵士たちの安否、更に戦況を聞き、労をねぎらい、優しく「家に帰って足を洗うがよい」と言い、すぐにたくさんの贈り物を届けます。
 真面目なウリヤは、家に帰るどころか、王宮の入口を守っている家臣と一緒に眠ります。これを知ったダビデは内心慌てながらも、平然と「遠征から帰ってきたのにどうして」と問いますと、「…私の主人ヨアブも家臣たちも野営しているのに、私だけが家に帰り、飲み食いなど、私にはできません」。
 ダビデは一瞬ドキリとしつつも「今日はここにとどまるがよい。明日送り出すとしよう」と言い、次の日、今度はウリヤを食事に招き、酒に酔わせ退出させますが、ウリヤはなおも家に帰らず、これまでのように王宮の家臣たちと共に眠ります。
 あの手この手を使うダビデに、あくまでも兵士として行動するウリヤです。バテシバは、既に子を宿しています。急がねばなりません。ダビデの命令を受けたヨアブにより、強力な敵の兵士がいる激戦地に配置されたウリヤは、他の兵士たちと共に戦死します。
 夫の死を聞いたバテシバは、嘆きました。七日間の喪が明けると、ダビデは人をやって彼女を引き取ります。間もなく男の子が生まれました。不義の子です。聖書は、「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」と記しています。
 主に遣わされた預言者ナタンによって「…このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ」と告げられます。予告どおり子が弱りますと、ダビデは神に祈り、断食し、引きこもり、地に横たわって夜を過ごしますが、子は死にました。
 子の死を知ったダビデは、家臣が驚くほど決然として立ち上がり「主がわたしを憐れみ、子を主が生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ、断食したり、泣いたりした。そのようなことが何になろう…」と深く悔いたのでしょう。
 かつては、使いの者をやってバテシバを召し入れたダビデでしたが、悲しみを知った今は、夫の死を嘆き悲しむバテシバを慰め、自ら行き床を共にし生まれた男の子が「主に愛された者」と名付けられたソロモンです。「主はその子を愛された」と聖書は記しています(サムエル記下一一章一節~一二章二五節)。
 七十歳を過ぎ、丁寧に聖書を読む機会を与えられ、あの違和感を覚えた一行の謎がほんの少し分かりかけてきたこの頃です。何と聖書は面白く、そして恐ろしい不思議な書なのでしょうか。

百歳を迎えられて S姉の戦前戦後の回想録

○ぶどうの枝第52号(2020年8月30日発行)に掲載(執筆者:TI・MI)

 佐倉教会員のS姉は、八月二十六日で満百歳の誕生日を迎えられました。百歳を迎えるに当たり、ご本人からお聞きしたことをまとめてみました。
 S姉は、一九二〇(大正九)年に東京府四ツ谷で七人兄弟の末娘としてお生まれになりました。その後、現在の大久保に転居し、戸山小学校を経て、府立第五高等女学校(現在の都立富士高校)に通学されました。女学校時代は、徒歩遠足で足を鍛え、通称「練馬大根の足」と言われるくらい立派でした。
 女学校卒業後は、東京お茶の水のキリスト教精神に基づくYWCA駿河台女学院家政科にご入学。まさにここでの学生生活は、青春真っただ中でした。
 この時代は、日中戦争・太平洋戦争のときでしたが、六歳年上の兄上に感化され、聖書を知り、世界史への関心を強められ、さらに近くにあったYMCAの絵画サークルに参加しました。また、ご自身のいとこの方を通して、後に夫となるYS氏との出会いがありました。
 一九四二(昭和十七)年除隊した六歳年上のYS氏と結婚なさいました。新婚家庭は、小田急線沿線喜多見に持たれました。終戦後は、文京区小石川に転居。Y氏は、虎の門病院耳鼻咽喉科の医師として勤務なされました。
 ご結婚生活では、お子さんに恵まれませんでしたが、趣味として絵画を描き、自動車免許を取って、愛車ブルーバードで、毎日、義雄氏を病院まで送迎をなさいました。送迎の帰り道では、当時出来たばかりの青山のスーパー紀ノ国屋に寄って買い物をしました。
 また、三越特選売り場の主要スタッフとしてブラウス・ワイシャツ等の仕立・販売を行い、自ら、愛車で納品まで行き、自宅でもミシンを踏みながらの生活でした。
 この姿は、戦後日本の新しい女性としての生き方だったのではないでしょうか。
 一九八四(昭和五十九)年クリスマスに淀橋教会で峯野牧師より受洗。六十四歳。
 一九八六(昭和六十一)年、夫Y氏七十二歳で逝去。
 一九八九(平成元)年、佐倉ゆうゆうの里に転居。そこで、里の聖書の会に参加。当時は、K御夫妻が島津先生を支えておられました。
 S姉は、このK兄が妻・S姉の葬儀でのことを詠っています。
 「車椅子を互いに乗り交わす仲良き夫婦、夫は通夜に言葉を失う」と、そのときの情景が忘れられないと……。
 一九九〇(平成二)年佐倉教会に転会。
 今でも、お宅に訪問すると、油絵が幾つも飾られており、世界史年表が貼られています。そして、最愛のご主人Y氏の写真とご愛用だったパイプも。
 百歳まで、自立した生活を守っていらっしゃるのは、健康に恵まれ、ご本人の心の明るさによるものではないでしょうか。そして、神様を見上げる生活を長年続けていらっしゃることにほかなりません。

随想 母の写真を見詰めて

○ぶどうの枝第52号(2020年8月30日発行)に掲載(執筆者:CK)

 「私には親がいないのよ」。元日の朝、受話器を置いた母は両手で顔を覆って泣き出した。親類の一人だろう。子供の私には事情は分からなかったけれど、なんとかしなければという思いで「私がいるよ、お母さん。私がいるからいいじゃない!」。そう声をかけたが泣きやまない。私の中に生まれた、なぜか母に置き去りにされたような寂しさ、もどかしさ、そして小さな怒り。そのとき心に誓った。私は決して母から離れない、と。そしてその誓いを最後まで守り通した(と思う)。
 同じジムに通い、二人でエステ。ショッピングにも連れ立って。「私たちは一卵性双生児ならぬ一卵性親子」と母がよく笑いながら言っていたけれど、まさにそういう表現がぴったりだったと思う。母は本当に心から私を愛し、私の幸せをいつも願ってくれていたけれど、私もまた、母の幸せをいつでも願っていたのだ。二人で過ごした半世紀。思いがけず母が病により召され、五十を過ぎてようやく私はソロソロと一人で人生を歩み出した。
 母亡き後私の生活に起きた変化は二つ。一つは一人暮らしが難しい父の日常を支えるため本格的に一緒に暮らし始めたこと。もう一つは礼拝の奏楽のためオルガン練習を始めたことだ。子供の頃近所のピアノ教室に通った程度で、きちんと音楽の勉強をしたわけでもない自分には大それた挑戦だけれど「やると決めたらやり通せ!」と姿の見えない母に叱咤激励され、母の寝室だった部屋にオルガンを据えた。お気に入りだったおしゃれな籐のベッドも今やリビングへ追放処分だ。父をデイサービスへ、息子を学校へ送り出すとオルガンに向かう。
 五時間も六時間も練習してしまうことがある。肘がしびれている、右手の甲に変なこぶができてしまった。明らかに手の使い過ぎ。けれど……。どうしたらよいか分からないのだ。一人ぼっちのこの部屋で。母と過ごしたこの部屋で。母のため精一杯頑張ったつもりでも、やはりこうすればよかった、ああしてあげればよかったと後悔がある。そんなとき、オルガンの上に飾られた写真を見詰める。奏楽者を目指すきっかけとなった古い白黒写真。小さなリードオルガンに手を添える着物姿の曾祖母とそばでほほえむ若き日の母。譜面台には讃美歌集。「オルガンはギュウギュウ押さずに、力を抜いて軽いタッチで弾くほうが良い音が出るわよ」。まだまだ拙くて、半人前とも呼べないけれど、先生の言葉を思い出し、そーっと鍵盤を押さえてみる。すると指先からあふれる柔らかな響きに包まれて、私の悲しみも溶けてゆく。
 今の私を支えてくれる息子の言葉。「僕は教会に通っていて本当に良かった。天国でまたあーちゃんに会えるから」。そうね。また会えるよね。

父の思い出 受け継いだ 意志と信仰

○ぶどうの枝第52号(2020年8月30日発行)に掲載(執筆者:HT)

 私の父は一九四四(昭和十九)年六月、あと二時間で上陸と伝えられたその直後、帰らぬ人となりました。三十一歳、終戦の一年二か月前の出来事です。
 いつも黒い作業服の上下にゲートルを巻き、黒い自転車で出かける父でした。手が大きく厚くガッチリ、しっかりと手をつないで歩いた感触は、うれしかった記憶の一つです
 その父は、一九三八(昭和十三)年春、母を伴い、東京から四国土佐の「農事試験場」の職員として赴任しました。高知県は、何しろ四国の約半分を占める東西に延びる膨大な地域です。その山間の田・畑の改革、開発をするという、国が定めた計画の一端を担う現場を維持する仕事だったと聞いていました。
 ところが、赴任後の五年間は、一か所に留まるわけではなく、勤務場所の移動、転勤の連続。私たち四人の兄弟は、生まれた所が違います。仕事もはかどらない困難な状態が続いていたそうです。
 このような状況のとき、思いがけず県立学校の教師はどうかとの依頼があり、お受けし、土佐での六年目、一九四二(昭和十七)年の春、再出発となったそうです。
 私もこのときをよく覚えています。家は二階があって、門を出ると教会が見え、目の前が小学校の塀。この町にある、父の「県立幡多農林学校」(現在の四万十市の町外れにある高等学校)は、官舎から真っすぐの道の先。幼い私もうれしかったようです。学校にお弁当を届けたり、教会ではいつも横ちょで立ったり座ったり、うるさかったかもしれません。
 家には、父専用の本箱、厚いきれいな表紙の本や、「小川未明」の童話集。表紙にろうそくの絵、中は挿絵がたっぷり、その中をめくってみるのが一番の楽しみでした。そのほか厚いノートが一冊、小さい字で一杯、その間に何やら分からないけれども、花や葉っぱそして実のような物のスケッチ。隙間には四人の子どもの顔と名前がちょんとあったり、そのページを探すのが大好きだった気がします。
 当時の土佐は、山に囲まれた田畑が広がる地方であったと思います(戦後知った)。上陸する敵との戦いに対応できるよう、準備や訓練も行われていたようです。私も見たことがありました。
 私たち一家が順調な日々を送って二年が過ぎた一九四四(昭和十九)年三月、突然、予期せぬ出来事が起きました。父に召集令状が届いたのです。間もなく出征となり、母と共にバスの停留所で大勢の人たちと見送りました。この記憶は鮮明です。
 どのくらい日数がたってからか分かりませんが、多分、前線への出発直前だったようです。父がほんの一、二日帰ってきてくれました。わけもなく喜んだ私がそこにいたと思います。その父は、縁側に座っていました。私と弟は、片時もそばから離れようとしません。そのときの父の面影は、今でも消えることなく脳裏に浮かびます。
 この日を最後に、父は帰らぬ人となりました。訃報の知らせを受けた日を境に、私たちの全てが変わりました。住む家を求めて、数か所を点々と移動、近くの教会の片隅をお借りしたこともありました。このような生活は終戦の翌年の春まで続き、やっと落ち着くことができました。東京出身の私たちはよそ者。当時はまだ封建制の残る時代です。落ち着くまでには紆余曲折があり、難題が山積で、その中を生きるのは至難の業でした。でもそれからの十五年余りの生活において、徐々に受け入れられ、母も仕事をいただく機会を得ることができました。
 多々あった出来事も何とかクリアし、母と私たち四人の兄弟はそれぞれの道を選択し、今を生きています。私たちには、父から受け継いだ意志、信仰、教会がありました。共に祈り支えてくださった方々の存在には、力をいただき、励まされました。感謝です。
 土が大好き、酪農や養豚を未来の仕事にと、若い人たちと共に過ごした県立農林学校の「学び舎」での二年の日々は、幸せだったと思います。当時の生徒さんにお目にかかると、父のエピソードや物置の片隅で眠っていたノートがきっかけで、長年の研究・栽培改良の成果が実り、地元の名品メロンとして生産されているそうです。
 私は、終戦を記念するこの時期が来ると毎年思います。広島、長崎、沖縄そのほか多くの人々の生活を犠牲に奪い取っていった戦いを許せません。終戦を迎えることなく、七十五年の生涯を終えた祖父、同様に父の三十一年。今年の七十五年を受け止め、この歴史は神様の備えられた計画として受け継ぎ、主の日へと歩んでまいりたいと思います。

美子の取材日記(五) 狐狸庵先生の劇団

○ぶどうの枝第52号(2020年8月30日発行)に掲載(執筆者:YK)

 「きみはやせっぽちで色気がないなぁ」。
 そう言いながらクリクリッとおへそを触ったのは、キリスト教をテーマにした小説『海と毒薬』や『沈黙』『深い河』などを著した遠藤周作先生。黙っているといかついお顔だけれど、実はユーモラスでめちゃくちゃいたずら好きな人だった。
 先生は、「人は人生というそれぞれの舞台の主役なのだから」と、自ら樹座(きざ)という素人劇団を立ち上げて、一般から有志を集めては大劇場のステージでスポットライトを当て、全国から募ったあか抜けない素人たちをまとめてぽんこつな演劇を何年にもわたり開催し続けた。国立劇場やら今となっては懐かしすぎる青山劇場なんていう、ベテラン俳優しか立てないステージで、だ。
 一九九〇年ごろ。当時まだ新人だった織田裕二さん、別所哲也さんらの取材を、樹座のお稽古の日程と場所に合わせて設定してもらい、今、思えば私はわがまま放題の仕事ぶり。
 樹座の世話をするスタッフは、先生ゆかりの出版社である新潮社や文芸春秋の編集者ら。それらの雑誌で座員募集広告を打ち、全国から「台本のせりふは棒読みで演技が学芸会みたいに下手くそ、音痴で歌はなってない、ラインダンスの足が上がらないけれども、一生に一度でいいから舞台に立って観客の前で輝いてみたい」と夢みる人たちが全国津々浦々から東京へオーディションを受けにやってくる。
 で、わたしは「樹座新聞」を立ち上げるよう指示されたけれども、なんだかんだ言って逃げ切った。その代わりに座員を取りまとめる係を押し付けられた。