イースターに寄せて 母の文語体聖書

○ぶどうの枝第52号(2020年8月30日発行)に掲載(執筆者:TA)

 いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝することを心掛け、教会の様々な行事に初めて参加体験した日々は、私のこれまでの人生で一番足早に過ぎた一年でございました。
 顧みますと、教会の出来事が浮かび上がってまいります。
 今までのにぎやかな雰囲気とは異なった「心のクリスマス」を過ごしたこと。またあるときは、金先生のお説教に込み上げるものを我慢できず、お説教の終わるのを待ちかねて礼拝堂を抜け出し、洗面所で一人涙を流したこと等々。
 それはコロナウイルスが猛威を振るい出し、世界中の国々が恐怖の渦に巻き込まれ始めた三月上旬のある日、主日礼拝の終わった後、KさんとAさんからのお誘いを受け、婦人会に参加した折のことでございました。
 普段は人様に自分のことなどほとんど話すことのない私でしたけれど、なぜか生前の母が文語体の聖書を持っておりましたことをお話しする気になったのです。
 と申しますのは、受洗を志し、聖書に親しむ日々を送るようになったとき、ふと思い出したことがございました。
 母の居間の文机の上には、端然と聖書が置かれており、私は時折居間に呼ばれ、聖書の一節を暗誦させられたものでした。最初の暗誦は、「マタイによる福音書、六章二八~三〇節」だったことも鮮明に記憶しております。
 当時小学校低学年だった私にとっては、言葉の意味も分からず、けれども文章がリズミカルで音楽的に感じられたせいか、さして苦痛ではなく、にもかかわらず書かれている意味を理解できたのはしばらく後のことでした。
 今にして気付けば、私の受けた母からのしつけは聖書が原点のように思われます。
 讃美歌の思い出も多く、そのようなわけでつい皆様にお話ししてしまいました。
 会の終わる頃、金先生のお心遣いで母の好んだ讃美歌を歌ってくださいましたとき、心温まるひとときを持つことのできた私は、ただ涙に終始してしまったことも記憶に新しくよみがえります。
 母が逝って三十年。聖書と母のつながりを今はもう確かめるすべもございません。

 そして再び巡りきたったイースターの日、祈りも涙もまこと(真実)であることが天にいます神様の御許に届くことを願っている私がおります。
 受洗の際の誓いを忘れることなく、神様に私の全てを委ね、御手にすがり、御力を頼み、祈りを怠らぬ明け暮れを送り迎える私でありたいと存じます。
 過ぎた一年を振り返るとき、金先生を始め教会員の皆様に折に触れて、有形無形の支えをいただきましたことを思い、とてもうれしく感謝いたしております。
 今後とも何卒よろしくと申し上げます。
 本当にありがとうございました。

讃美歌練習を担当して 信仰が生み出す新しい歌

○ぶどうの枝第52号(2020年8月30日発行)に掲載(執筆者:MK)

 本日(三月二十九日)は、金先生が冬期休暇なので奨励を務めさせていただきます。前回は五年前、本誌『ぶどうの枝』にも書いたのですが、当時訪問した長崎のキリシタンのことをお話ししました。
 今回は、讃美歌練習で考えたことについてです。練習の担当になって、自分なりにできることを考えようと楽譜を見ていましたら、これは職業病なのですが、作詞・作曲者の生没年が気になりました。『讃美歌二一略解』や、二階にある『讃美歌物語』などを参考に、讃美歌の歴史的な背景について、少しお話をしている次第です。
 作詞作曲者が「いつ」の人なのか、いつ作られたのか、ということに注意しておりましたら、年代の傾向も分かってまいりました。
 古い方では、中世のグレゴリオ聖歌のようなものがあります。逆に新しい二十世紀以降のもの、日本人が作ったものもあります。そして、その中間、おそらく数としても一番多いのが、十九世紀頃の讃美歌です。今日「讃美歌らしい」という感じがするのは、だいたいこの頃の歌だと思います。
 讃美歌集の中では皆同じように見えても、時代も背景も様々であることが分かります。そして、ここが大事だと思うのですが、今から見ると古い時代の歌であっても、その当時は新しい歌だった、ということです。歴史というのは、今から見ると古いのですが、その当時は一番新しい時代であり、一番新しいものだったのです。讃美歌も、その時代その時代の、新しい歌として作り続けられていた、ということです。
 十九世紀頃の「讃美歌らしい讃美歌」というのは、日本で言えば、江戸時代の終わり頃から、明治時代頃に当たり、つまりアメリカやイギリスから、日本にやってきた宣教師たちが紹介した讃美歌だと思われます。それは、宣教師たちにとっては、自分たちと同時代に作られた「新しい歌」だったことになります。
 本日の讃美歌、三三三番は、元はタンザニアの民謡で、結婚式の時に男女のグループが歌い交わすものだそうです。それを讃美歌にしたというのは、自分たちの文化から賛美の歌を作り出した、という意味で素晴らしいと思います。
 新しい歌を作るということには、古くからの歌をただ歌い続けるのではなく、あるいは他人のものをそのまま使うのではなく、自分たちの信仰を、自分たちの形に表わして賛美する、という意味があるのだと思います。そのために、新しい讃美歌は、常に作られ続けなければならないのだと思います。
 そして、讃美歌を作ることに限らなくても、賛美自体は、誰にでもできるはずです。他人のものではない、自分なりの賛美―言葉でもよいし、行いでも、そして自分の生き方、ほかならぬ自分の人生自体が、御心に従って生きようとするなら、賛美になりうるのではないか、ということに思い至ります。それも、一つの「新しい歌」なのではないでしょうか。
 前回、長崎のキリシタンのお話のときは、「待ち望む信仰」と題しました。二百五十年もの間、潜伏に耐えることができたのは、彼らの信仰が、いつか、大きな黒船に乗って司祭(パードレ)がやってくる、キリシタンの歌を、どこででも大声で歌って歩けるようになるという、希望を持ってその日を待ち望むものだったことが、キリスト教の信仰そのものと一致していたからではないか、と考えました。
 今、コロナウイルスの感染対策として、集まって声を出すこと自体を自粛しなければならないのですが、かつての潜伏キリシタンたちに倣って、今は心で賛美し、願わくは遠からず、また大きな声で、晴れやかに歌える日が来ることを待ち望みたいと思います。

随想 聖書、そして私 ダビデの過ちから

○ぶどうの枝第52号(2020年8月30日発行)に掲載(執筆者:SK)

 全くなじみのないカタカナ名の連続。「これって何?」というのが憧れていた聖書の第一印象です。
 我慢し何度か繰り返し読んでいたら、「ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父であり」(口語訳)との箇所に、かつて小さな違和感を覚えたことを思い出しました。
 ペリシテ人を討ち、モアブを討ち、と戦ってきたダビデ王。お疲れになっていたのでしょうか。出陣する時期なのにエルサレムにとどまっていたある日、午睡から覚め、半ばもうろうとしたまま、屋上を散歩していますと、何と暮れかかる中庭で水浴びをしている美女が…。早速調査。ヘト人ウリヤの妻、バテシバと判明。使いの者をやって、彼女を召し入れ、床を共にしたのです。
 家に帰った彼女から子を宿したのとの報に、ダビデは考えました。全軍の長であるヨアブに命じ、戦場からウリヤを呼び返し、尋ねます。まず兵士たちの安否、更に戦況を聞き、労をねぎらい、優しく「家に帰って足を洗うがよい」と言い、すぐにたくさんの贈り物を届けます。
 真面目なウリヤは、家に帰るどころか、王宮の入口を守っている家臣と一緒に眠ります。これを知ったダビデは内心慌てながらも、平然と「遠征から帰ってきたのにどうして」と問いますと、「…私の主人ヨアブも家臣たちも野営しているのに、私だけが家に帰り、飲み食いなど、私にはできません」。
 ダビデは一瞬ドキリとしつつも「今日はここにとどまるがよい。明日送り出すとしよう」と言い、次の日、今度はウリヤを食事に招き、酒に酔わせ退出させますが、ウリヤはなおも家に帰らず、これまでのように王宮の家臣たちと共に眠ります。
 あの手この手を使うダビデに、あくまでも兵士として行動するウリヤです。バテシバは、既に子を宿しています。急がねばなりません。ダビデの命令を受けたヨアブにより、強力な敵の兵士がいる激戦地に配置されたウリヤは、他の兵士たちと共に戦死します。
 夫の死を聞いたバテシバは、嘆きました。七日間の喪が明けると、ダビデは人をやって彼女を引き取ります。間もなく男の子が生まれました。不義の子です。聖書は、「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」と記しています。
 主に遣わされた預言者ナタンによって「…このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ」と告げられます。予告どおり子が弱りますと、ダビデは神に祈り、断食し、引きこもり、地に横たわって夜を過ごしますが、子は死にました。
 子の死を知ったダビデは、家臣が驚くほど決然として立ち上がり「主がわたしを憐れみ、子を主が生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ、断食したり、泣いたりした。そのようなことが何になろう…」と深く悔いたのでしょう。
 かつては、使いの者をやってバテシバを召し入れたダビデでしたが、悲しみを知った今は、夫の死を嘆き悲しむバテシバを慰め、自ら行き床を共にし生まれた男の子が「主に愛された者」と名付けられたソロモンです。「主はその子を愛された」と聖書は記しています(サムエル記下一一章一節~一二章二五節)。
 七十歳を過ぎ、丁寧に聖書を読む機会を与えられ、あの違和感を覚えた一行の謎がほんの少し分かりかけてきたこの頃です。何と聖書は面白く、そして恐ろしい不思議な書なのでしょうか。

百歳を迎えられて S姉の戦前戦後の回想録

○ぶどうの枝第52号(2020年8月30日発行)に掲載(執筆者:TI・MI)

 佐倉教会員のS姉は、八月二十六日で満百歳の誕生日を迎えられました。百歳を迎えるに当たり、ご本人からお聞きしたことをまとめてみました。
 S姉は、一九二〇(大正九)年に東京府四ツ谷で七人兄弟の末娘としてお生まれになりました。その後、現在の大久保に転居し、戸山小学校を経て、府立第五高等女学校(現在の都立富士高校)に通学されました。女学校時代は、徒歩遠足で足を鍛え、通称「練馬大根の足」と言われるくらい立派でした。
 女学校卒業後は、東京お茶の水のキリスト教精神に基づくYWCA駿河台女学院家政科にご入学。まさにここでの学生生活は、青春真っただ中でした。
 この時代は、日中戦争・太平洋戦争のときでしたが、六歳年上の兄上に感化され、聖書を知り、世界史への関心を強められ、さらに近くにあったYMCAの絵画サークルに参加しました。また、ご自身のいとこの方を通して、後に夫となるYS氏との出会いがありました。
 一九四二(昭和十七)年除隊した六歳年上のYS氏と結婚なさいました。新婚家庭は、小田急線沿線喜多見に持たれました。終戦後は、文京区小石川に転居。Y氏は、虎の門病院耳鼻咽喉科の医師として勤務なされました。
 ご結婚生活では、お子さんに恵まれませんでしたが、趣味として絵画を描き、自動車免許を取って、愛車ブルーバードで、毎日、義雄氏を病院まで送迎をなさいました。送迎の帰り道では、当時出来たばかりの青山のスーパー紀ノ国屋に寄って買い物をしました。
 また、三越特選売り場の主要スタッフとしてブラウス・ワイシャツ等の仕立・販売を行い、自ら、愛車で納品まで行き、自宅でもミシンを踏みながらの生活でした。
 この姿は、戦後日本の新しい女性としての生き方だったのではないでしょうか。
 一九八四(昭和五十九)年クリスマスに淀橋教会で峯野牧師より受洗。六十四歳。
 一九八六(昭和六十一)年、夫Y氏七十二歳で逝去。
 一九八九(平成元)年、佐倉ゆうゆうの里に転居。そこで、里の聖書の会に参加。当時は、K御夫妻が島津先生を支えておられました。
 S姉は、このK兄が妻・S姉の葬儀でのことを詠っています。
 「車椅子を互いに乗り交わす仲良き夫婦、夫は通夜に言葉を失う」と、そのときの情景が忘れられないと……。
 一九九〇(平成二)年佐倉教会に転会。
 今でも、お宅に訪問すると、油絵が幾つも飾られており、世界史年表が貼られています。そして、最愛のご主人Y氏の写真とご愛用だったパイプも。
 百歳まで、自立した生活を守っていらっしゃるのは、健康に恵まれ、ご本人の心の明るさによるものではないでしょうか。そして、神様を見上げる生活を長年続けていらっしゃることにほかなりません。

随想 母の写真を見詰めて

○ぶどうの枝第52号(2020年8月30日発行)に掲載(執筆者:CK)

 「私には親がいないのよ」。元日の朝、受話器を置いた母は両手で顔を覆って泣き出した。親類の一人だろう。子供の私には事情は分からなかったけれど、なんとかしなければという思いで「私がいるよ、お母さん。私がいるからいいじゃない!」。そう声をかけたが泣きやまない。私の中に生まれた、なぜか母に置き去りにされたような寂しさ、もどかしさ、そして小さな怒り。そのとき心に誓った。私は決して母から離れない、と。そしてその誓いを最後まで守り通した(と思う)。
 同じジムに通い、二人でエステ。ショッピングにも連れ立って。「私たちは一卵性双生児ならぬ一卵性親子」と母がよく笑いながら言っていたけれど、まさにそういう表現がぴったりだったと思う。母は本当に心から私を愛し、私の幸せをいつも願ってくれていたけれど、私もまた、母の幸せをいつでも願っていたのだ。二人で過ごした半世紀。思いがけず母が病により召され、五十を過ぎてようやく私はソロソロと一人で人生を歩み出した。
 母亡き後私の生活に起きた変化は二つ。一つは一人暮らしが難しい父の日常を支えるため本格的に一緒に暮らし始めたこと。もう一つは礼拝の奏楽のためオルガン練習を始めたことだ。子供の頃近所のピアノ教室に通った程度で、きちんと音楽の勉強をしたわけでもない自分には大それた挑戦だけれど「やると決めたらやり通せ!」と姿の見えない母に叱咤激励され、母の寝室だった部屋にオルガンを据えた。お気に入りだったおしゃれな籐のベッドも今やリビングへ追放処分だ。父をデイサービスへ、息子を学校へ送り出すとオルガンに向かう。
 五時間も六時間も練習してしまうことがある。肘がしびれている、右手の甲に変なこぶができてしまった。明らかに手の使い過ぎ。けれど……。どうしたらよいか分からないのだ。一人ぼっちのこの部屋で。母と過ごしたこの部屋で。母のため精一杯頑張ったつもりでも、やはりこうすればよかった、ああしてあげればよかったと後悔がある。そんなとき、オルガンの上に飾られた写真を見詰める。奏楽者を目指すきっかけとなった古い白黒写真。小さなリードオルガンに手を添える着物姿の曾祖母とそばでほほえむ若き日の母。譜面台には讃美歌集。「オルガンはギュウギュウ押さずに、力を抜いて軽いタッチで弾くほうが良い音が出るわよ」。まだまだ拙くて、半人前とも呼べないけれど、先生の言葉を思い出し、そーっと鍵盤を押さえてみる。すると指先からあふれる柔らかな響きに包まれて、私の悲しみも溶けてゆく。
 今の私を支えてくれる息子の言葉。「僕は教会に通っていて本当に良かった。天国でまたあーちゃんに会えるから」。そうね。また会えるよね。

父の思い出 受け継いだ 意志と信仰

○ぶどうの枝第52号(2020年8月30日発行)に掲載(執筆者:HT)

 私の父は一九四四(昭和十九)年六月、あと二時間で上陸と伝えられたその直後、帰らぬ人となりました。三十一歳、終戦の一年二か月前の出来事です。
 いつも黒い作業服の上下にゲートルを巻き、黒い自転車で出かける父でした。手が大きく厚くガッチリ、しっかりと手をつないで歩いた感触は、うれしかった記憶の一つです
 その父は、一九三八(昭和十三)年春、母を伴い、東京から四国土佐の「農事試験場」の職員として赴任しました。高知県は、何しろ四国の約半分を占める東西に延びる膨大な地域です。その山間の田・畑の改革、開発をするという、国が定めた計画の一端を担う現場を維持する仕事だったと聞いていました。
 ところが、赴任後の五年間は、一か所に留まるわけではなく、勤務場所の移動、転勤の連続。私たち四人の兄弟は、生まれた所が違います。仕事もはかどらない困難な状態が続いていたそうです。
 このような状況のとき、思いがけず県立学校の教師はどうかとの依頼があり、お受けし、土佐での六年目、一九四二(昭和十七)年の春、再出発となったそうです。
 私もこのときをよく覚えています。家は二階があって、門を出ると教会が見え、目の前が小学校の塀。この町にある、父の「県立幡多農林学校」(現在の四万十市の町外れにある高等学校)は、官舎から真っすぐの道の先。幼い私もうれしかったようです。学校にお弁当を届けたり、教会ではいつも横ちょで立ったり座ったり、うるさかったかもしれません。
 家には、父専用の本箱、厚いきれいな表紙の本や、「小川未明」の童話集。表紙にろうそくの絵、中は挿絵がたっぷり、その中をめくってみるのが一番の楽しみでした。そのほか厚いノートが一冊、小さい字で一杯、その間に何やら分からないけれども、花や葉っぱそして実のような物のスケッチ。隙間には四人の子どもの顔と名前がちょんとあったり、そのページを探すのが大好きだった気がします。
 当時の土佐は、山に囲まれた田畑が広がる地方であったと思います(戦後知った)。上陸する敵との戦いに対応できるよう、準備や訓練も行われていたようです。私も見たことがありました。
 私たち一家が順調な日々を送って二年が過ぎた一九四四(昭和十九)年三月、突然、予期せぬ出来事が起きました。父に召集令状が届いたのです。間もなく出征となり、母と共にバスの停留所で大勢の人たちと見送りました。この記憶は鮮明です。
 どのくらい日数がたってからか分かりませんが、多分、前線への出発直前だったようです。父がほんの一、二日帰ってきてくれました。わけもなく喜んだ私がそこにいたと思います。その父は、縁側に座っていました。私と弟は、片時もそばから離れようとしません。そのときの父の面影は、今でも消えることなく脳裏に浮かびます。
 この日を最後に、父は帰らぬ人となりました。訃報の知らせを受けた日を境に、私たちの全てが変わりました。住む家を求めて、数か所を点々と移動、近くの教会の片隅をお借りしたこともありました。このような生活は終戦の翌年の春まで続き、やっと落ち着くことができました。東京出身の私たちはよそ者。当時はまだ封建制の残る時代です。落ち着くまでには紆余曲折があり、難題が山積で、その中を生きるのは至難の業でした。でもそれからの十五年余りの生活において、徐々に受け入れられ、母も仕事をいただく機会を得ることができました。
 多々あった出来事も何とかクリアし、母と私たち四人の兄弟はそれぞれの道を選択し、今を生きています。私たちには、父から受け継いだ意志、信仰、教会がありました。共に祈り支えてくださった方々の存在には、力をいただき、励まされました。感謝です。
 土が大好き、酪農や養豚を未来の仕事にと、若い人たちと共に過ごした県立農林学校の「学び舎」での二年の日々は、幸せだったと思います。当時の生徒さんにお目にかかると、父のエピソードや物置の片隅で眠っていたノートがきっかけで、長年の研究・栽培改良の成果が実り、地元の名品メロンとして生産されているそうです。
 私は、終戦を記念するこの時期が来ると毎年思います。広島、長崎、沖縄そのほか多くの人々の生活を犠牲に奪い取っていった戦いを許せません。終戦を迎えることなく、七十五年の生涯を終えた祖父、同様に父の三十一年。今年の七十五年を受け止め、この歴史は神様の備えられた計画として受け継ぎ、主の日へと歩んでまいりたいと思います。

美子の取材日記(五) 狐狸庵先生の劇団

○ぶどうの枝第52号(2020年8月30日発行)に掲載(執筆者:YK)

 「きみはやせっぽちで色気がないなぁ」。
 そう言いながらクリクリッとおへそを触ったのは、キリスト教をテーマにした小説『海と毒薬』や『沈黙』『深い河』などを著した遠藤周作先生。黙っているといかついお顔だけれど、実はユーモラスでめちゃくちゃいたずら好きな人だった。
 先生は、「人は人生というそれぞれの舞台の主役なのだから」と、自ら樹座(きざ)という素人劇団を立ち上げて、一般から有志を集めては大劇場のステージでスポットライトを当て、全国から募ったあか抜けない素人たちをまとめてぽんこつな演劇を何年にもわたり開催し続けた。国立劇場やら今となっては懐かしすぎる青山劇場なんていう、ベテラン俳優しか立てないステージで、だ。
 一九九〇年ごろ。当時まだ新人だった織田裕二さん、別所哲也さんらの取材を、樹座のお稽古の日程と場所に合わせて設定してもらい、今、思えば私はわがまま放題の仕事ぶり。
 樹座の世話をするスタッフは、先生ゆかりの出版社である新潮社や文芸春秋の編集者ら。それらの雑誌で座員募集広告を打ち、全国から「台本のせりふは棒読みで演技が学芸会みたいに下手くそ、音痴で歌はなってない、ラインダンスの足が上がらないけれども、一生に一度でいいから舞台に立って観客の前で輝いてみたい」と夢みる人たちが全国津々浦々から東京へオーディションを受けにやってくる。
 で、わたしは「樹座新聞」を立ち上げるよう指示されたけれども、なんだかんだ言って逃げ切った。その代わりに座員を取りまとめる係を押し付けられた。

教会修養会報告 祈りの世界 旧約聖書詩人に学ぶ

○ぶどうの枝第51号(2019年12月22日発行)に掲載(講師:美竹教会牧師・青山学院大学教授 左近 豊)

 十月二十七日(日)午後、美竹教会牧師・青山学院大学教授の左近豊(さこんとむ)先生をお迎えして、礼拝説教に続き、修養会の講師をしていただきました。御講演の要旨と、グループ討議から出された質疑の主な内容を、編集委員会でまとめました。

【講演要旨】
 二〇一一年の大震災で、私たちはこれまでの生き方が通用しない崩壊を経験した。崩壊を生き延びた人たちの嘆きと罪責意識の痛みを想像して、金曜日に肉を裂かれて嘆き、陰府に下った「土曜日のキリスト」、もだえ苦しむ嘆きの神学、嘆きを受け止める共同体の意義を再確認した。
 神は混沌と闘って、空と水に分け、世界を創造された。出エジプトの水を分け、乾いたところを造る。洗礼を受けた主が水から上がられたとき、霊が下る。一つのモチーフが受け継がれている。大いなる救いの物語を聖書は語っているが、その中に幾多の混沌、崩壊、破綻した物語がある。
 人間の生も、言葉を失うような出来事に遭遇すると、語りの時間の秩序が破綻し、過去が断片となって現在にまとわりつく。「混沌の語り」を内に抱える現代に、「大いなる救いの物語」をいかに語るか。そこに「嘆き」の居場所、すなわち祈りの場が確保される必要がある。
 聖書は、度重なる危機を語りつつ生き抜いてきた信仰共同体の証言の書。言葉にならないうめきを、「詩編」や「哀歌」の詩人の言葉が代わりに声となって吐露している。感情は文化の中で習い身につけるものであり、たとえば日本人は雨の中にいろいろな情感を見いだす。聖書における感情、祈りの中に込める感情は、聖書の中に習い身につけていく必要がある。
 哀歌は、国破れてしかも取り残された悲惨な状況を、神に対して「何とも思わないのか」と挑みかかる。信じてきたのにあまりに不当だ、というヨブの祈りと共に祈られてきた。カインとアベルの物語は、カインが祈らなかったことが問題だった。ヨブは神に挑みかかり、問い詰めた。それが求められている。哀歌は、手軽に癒やせないような傷を詩にする。執り成しの祈りをすることで共に泣き、代わりに祈る者がいることを教えてくれる。
 詩編は、その先にイエスの存在を意図している。旧約聖書は、嘆きを嘆き切ることで、イエスによるあがなわれた復活の命を見ることになる。
 「陰府」は、旧約では神様に何を言っても届かない所。イエス・キリストがそこに身を横たえられ、死を滅ぼし、神いまさぬ所を神います所に変えた。「土曜日」の祈りを身につけることが重要。
 人は傷を負った共同体によって癒やされる。教会が世の中の傷を傷として身につけるなら、祈れない人の代わりに教会が嘆き祈る執り成しの共同体になることができる。

【主な質疑応答】
(問)聖書の感情を身につけるには?(答)自然に身につく。大事なのは、読み続ける、触れ続ける、聞き続けること。自分になじみのない箇所に取り組んでみるのもよい。
(問)個人の思いと、人の祈りをまねることの関係は? (答)祈りは、教会の中で培われた祈りの生活に触れる中でまねていく。神に真正面から問うのが聖書的な祈り。教会の中に嘆きの場所、悲しんでいる人の居場所が必要。一緒に祈るとき、教会の祈りであることが慰めになる。
(問)敵への報復を願う詩編について(答)祈りのモデルである詩編の中に捨てられずに残っていることは、人権感覚としてはおかしいが、圧倒的な暴力で「やられた側」が正義の回復を求めて祈ることは抑圧できないのではないか。
(参考文献)E・ツェンガー『復讐の詩編をどう読むか』、W・ブルッゲマン『詩編を祈る』。日本基督教団出版局。
(問)「沈黙の土曜日」とは?(答)人間が安息している間に、イエス様は死と闘っておられた。旧約の詩編の嘆きの祈りが証してくれる。逆境の詩編を読むことで、「土曜日のキリスト」と出会う。逆境の現実を見詰めなければ次のステップに進めない。嘆きの詩編、哀歌、ヨブ記は、地獄のような中でイエスと出会う。その道がつながれている。

「安心しなさい、わたしだ 恐れることはない」

○ぶどうの枝第51号(2019年12月22日発行)に掲載(執筆者:金南錫牧師)

 マルコによる福音書六章四五~五六節
 
 弟子たちが乗っている舟が逆風に遭って、少しも前に進まないのです。イエス様は湖の上を歩いて、弟子たちのところに来られました。しかし、弟子たちは湖の上を歩くイエス様を見て、幽霊だと思って、大声で叫びました。そのおびえる弟子たちに向かって、イエス様は「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われました。そして、イエス様が弟子たちの舟に乗り込まれると、風は静まったのです。弟子たちは非常に驚きました。聖書は「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」と告げるのです(五二節)。
 パンの出来事。それは、イエス様がまことの神であられることを示しているのです。弟子たちは、五千人という群衆がどこかよそで飢えを満たしてほしい、この飢えた群衆から自分たちを解放してほしい、と願いました。しかし、イエス様は「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われたのです。そして、弟子たちは確かめた上で、五つのパンと二匹の魚、これだけしかない、そう思って差し出しました。しかし、イエス様はそれを弟子たちから受け取り、これがあるということで神に感謝したのです。
 弟子たちが持っているものは、ゼロではないのです。決して多くはありませんが、イエス様はそれを用いてくださるのです。そして、まことの神であられる主イエスは弟子たちの賜物を用いてご自身の福音伝道の御業を進めることを望んでおられるのです。しかし、弟子たちはその理解までには至りませんでした。
 実は、湖の上を歩いてこられるイエス様の出来事も、イエス様がまことの神であられるということを示しているのです。四八節に「湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた」とあります。旧約聖書において、人が神を面と向かって見ることは死を意味していました。ですから、神様は、通り過ぎることをもって、ご自身が共にいることを示されたのです。私たちの信仰の歩みはまことの神であられる主イエスが共にいてくださるので、安心できるのです。

 佐倉教会の誕生

 百十五年間、佐倉教会を守っていたのは、神様の働きでした。佐倉教会の『百周年記念誌』によれば、佐倉教会の最初の頃は、「教会」とは言わず「福音伝道館」と呼ばれ、ヘフジバ・ミッションという伝道団体から派遣された宣教師によって、生み出されたのです。この伝道団体は、主として千葉県の北総地方に伝道を展開していました。佐倉教会はこのミッションによって生み出された教会です。
 早くも伝道最初の年の一九〇四年十一月十二日(土)には、九名の受洗者が与えられました。そして、十一月二十七日、佐倉教会が創立されました。
 『創立八十周年記念誌』によれば、その当日、クリスマスの委員として十八名の名前が挙げられています。きっと、この人たちが当時の熱心な信徒であったと思われます。最初にこれだけの人が与えられたことは、驚くべきことです。そして十二月二十四日(土)には、クリスマス祝会が盛大に行われました。そのとき、感話を述べた田辺元治郎という人は、陸軍少佐で佐倉軍隊の高官でクリスチャンであったようです。度々礼拝で所感を述べたり、家庭を開放して祈祷会を開いたりしていました。祈祷会は水曜日午後七時から行われ、十名前後の出席であったということが記録に残っています。
 五三~五五節に「こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた」とあります。人々は、救いを求め、イエス様の所に病人を連れて来たのです。教会は、救いを求める人々が、礼拝に来て、神の救いに与ることが
できるところです。
 創立百十五年を迎えたこの時、私たちが心に刻むべきことは、ここに教会が建てられ、主の日のたびに礼拝がささげられ、それを続けてきたということです。佐倉教会が創立された最初の年の日曜日礼拝は午後二時から行われ、午後六時から伝道会が行われたそうです。
 また、当時の説教題は「洗礼について」「受洗者の注意」「基督者と家庭」といった実際的なクリスチャンの心得を説くことが多かった様です。出席者は十四名から二十五名、平均二十名ほどでした。現在、平均出席は、約五十五名ですので、成長させてくださった神に感謝すべきことであります。

 神様の働きと導き

 神様は佐倉教会に牧師を立て続けてくださいました。最初に開拓伝道をされたヘブジバ・ミッションの宣教師たちはアメリカ中西部の独立教会などが連合して組織したミッションに属していました。大教派のような豊富な資金を持たず、ただひたすら日本人に福音を伝えたいという、燃えるような情熱を持って海を渡って来られたのです。そして現在教会堂の建っている所にあった酒屋を買い取り、教会堂に改造してくれたのです。そのためにアメリカの教会の人たちが懸命に献金を捧げてくださったのです。
 特に、ヘフジバ・ミッションの代表者アグネス・グレン夫人宣教師は、一九〇四年から一九二五年まで、北総地域において開拓伝道をなさいました。しかし、一九二五年一月になると、ヘフジバ・ミッションが日本での伝道を中止して、宣教師を米国に引き揚げることになりました。アグネス・グレン宣教師は日本伝道が成功しなかったことに落胆し、失意のうちに日本を去られたと記されています。
 しかし、佐倉教会に対する神様の御心は変わることはありませんでした。一人の在任期間は長くはありませんが、一九一六年から一九四三年まで、八人の牧師が遣わされ、佐倉の地において、福音伝道の業は続けられました。そして、一九四三年から一九四八年まで、五年ほどの無牧のときがありましたが、一九四八年から一九七一年まで、「生活そのものが祈りである」と言われて、信徒たちに厚く信頼された石川キク牧師の三十年に及ぶ伝道牧会の下で、佐倉教会の基礎が築かれました。その後、島津虔一先生も教会の皆から厚く信頼され、二十九年間牧会をされました。その後、有馬先生は三年、黒田先生は十年、そして、二〇一六年から十四代目の牧師として私が遣わされております。
 佐倉教会の百十五年間のすべての働きや歩みの背後には、人の思いを超えた「誰か」の、そして「何か」の働きと導きがあったと思わざるを得ません。聖書は、そのことを神の働き、聖霊の働きと言い表しています。ここまで導いてくださった神様が佐倉教会の基となるように、そして、佐倉教会が迎えている創立百十五年の中に生かされている恵みに感謝しつつ、これから、共に神への信頼と希望を持って、生きていくように、祈り願います。

随想 神様に導かれて

○ぶどうの枝第51号(2019年12月22日発行)に掲載(執筆者:SK)

 私は今回初めて全国教会青年同盟の修養会に参加しました。知っている人がいない中での参加で、当日までものすごく緊張していました。しかし、修養会が始まると私の想像をはるかに超える楽しさがそこにはありました。
 開会礼拝の最初の讃美から私の心は、修養会の雰囲気にのまれました。また、初対面の私を歓迎してくださり、とても充実した三日間を過ごすことができました。
 私は今回の修養会を通して神の導きを強く感じました。講演を聞いたり、分団での年の近い友の話を聞いて、私の教会での歩みを振り返り、神様はいつも共にいてくださるのだと感じました。また、これからも神様に導かれるまま教会へ通い続けたいと強く感じました。
 この修養会に参加してから同じ信仰を持つ様々な仲間たちとの交わりの時を持つことができ感謝です。これからも神様のお招きに答え、小さな歩みを続けることができたらと思います。