婦人会公開講座「長崎天草の世界文化遺産から学ぶ」のご案内

 婦人会では、下記のとおり中村師による公開講座を開くこととしています。
 中村師が自ら現地を回った体験に基づく講演です。
 皆様のご参加をお待ちしています。
   記
 日時 6月16日(日)12時30分~
 場所 佐倉教会二階集会室
 講師 中村光夫師
 演題 「長崎天草の世界文化遺産から学ぶ」

2019年5月6日 さつまいもの苗を植える会

 10連休の最終日、好天に恵まれ、雨で順延となっていた、教会学校主催「さつまいもの苗を植える会」を開きました。
 17人と1匹が参加し、五月の薫風の中、畝をつくり、苗を植え付けました。
 秋の収穫が楽しみです。

作業姿がとても板についています
6年生三人組は作業したり、野球したり、元気にあふれています
作業をし、昼食をとり、ハイチーズ

2019年5月の主日聖書日課から

○ルカによる福音書 24章38節~40節
 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
 
○ヨハネによる福音書 06章34節~35節
 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

○申命記 07章06節~08節
 あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。
 
○ヨハネによる福音書 15章12節~13節
 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
 
○ダニエル書 06章22節~23節
 ダニエルは王に答えた。「王様がとこしえまでも生き永らえられますように。神様が天使を送って獅子の口を閉ざしてくださいましたので、わたしはなんの危害も受けませんでした。神様に対するわたしの無実が認められたのです。そして王様、あなたさまに対しても、背いたことはございません。」

 出所:聖書日課編集委員会編集「日毎の糧2019」(日本キリスト教団出版局、2018年12月1日発行)より作成

2019年4月28日「時が満ち」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書1章12-15節

 イエス様は「時が満ち、神の国は近づいた」と語っています(15節)。
 これは「もう神の国が来た」と解釈しても構いません。神の国がもう私たちのうちに来たのです。だから「もう大丈夫だよ。安心しなさい」。これが、イエス様が最初に語ったメッセージです。イエス様はこの福音を御自分の生活と活動の場であったガリラヤで宣べ続けたのです。
 では、この福音を聞いて、イエス様に従った人はどんな人であったのでしょうか。ガリラヤは肥沃ですから、どの時代のどの支配者にとっても重要な収入源でした。なので、ガリラヤのユダヤ人たちは二重、三重の支配構造による生産物の収奪、即ち、重税の対象になりました。
 このような負債に喘ぐ貧しい人が、ガリラヤの人口の9割を占めていたのです。こういう状況の中、時が満ち、イエス様が登場しました。そして、「貧しい人は幸いである。悲しむ人は幸いである」という神の国、神の御支配のメッセージを宣べ伝えた時、当然ながら、ガリラヤの貧しい群衆たちは喜んでいたのではないでしょうか。

2019年4月21日「終わりからはじまりへ」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書16章1-8節

 金曜日の午後3時に、イエス様が十字架上で、息を引き取られました。そして、午後6時までのわずかの時間に、アリマタヤのヨセフがイエス様の遺体を引き取り、墓に納めました。1節に「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りにいくために香料を買った」とあります。
 イエス様のご遺体を十分に処置する時間がなかったため、この女性たちはもう一度イエス様の墓の中に入って、香料を塗って差し上げようとしました。ですから、この三人の女性は土曜日の安息日が終わるとすぐに、香料を買い求め、「主の初めの日」即ち、日曜日の早朝、すぐにイエスの墓に出かけました。
 天使である若者が彼女たちに「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。…あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる」と告げます(6節)。
 弟子たちにとって、ガリラヤはイエスに出会い、共に宣教活動がなされたところでした。墓という人生の終わりからもう一回あなたの人生のスタートの場所、つまり原点に立ち返るように、神様は復活されたイエスを通して招いてくださるのです。

2019年4月21日 イースター礼拝・祝会

 主イエス・キリストの復活を祝うイースターを迎えました。大勢の兄弟姉妹が出席する中で、洗礼式、信仰告白式が行われました。
 礼拝後は、イースターのお祝いの会が開かれました。

イースター礼拝において洗礼式、信仰告白式が行われました
 共に食事し、賛美し、楽しいお祝いのときとなりました

さつまいもの苗を植える会のご案内

 来る2019年5月3日(金)、佐倉教会教会学校では、さつまいもの苗を植える会を行います(下記のご案内参照)。
 雨天のときは翌4日に順延です。
 春に苗を植え、秋に収穫し、実りを感謝します。
 ご一緒に初夏の畑で遊びましょう。

2019年4月14日「天が裂けて」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書1章1-11節

 マルコによる福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉で始めています。また、その後すぐに主の道を備えるものとして、ユダヤの荒野で罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を宣べ伝えるバプテスマのヨハネを紹介します。
 「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて『霊』が鳩のようにご自分に下って来るのを、ご覧になった」とあります(9、8節)。
 マルコによる福音書は今「福音の初め」、つまり神の子イエス・キリストを通して行われた救いの福音がどのように始まったのか、それを記録しています。
 その福音の開始点に「天が裂けて」とあります。これは、主イエスが受けた洗礼とは神の御心のために、そして人類の救いのために、ご自分が「引き裂かれる」という決断のしるしであることを表します。福音はこのように、主イエスの「引き裂かれる」ということへの決断と共に始まったのです。

2019年4月19日 受難日礼拝

 午前10時30分より、主の十字架を覚え、受難日礼拝を行いました。
 主の十字架による贖いを感謝します。

受難日礼拝では讃美と聖書朗読を中心に守ります
聖書朗読は、信徒が交代で行います
聖歌隊のご奉仕に感謝します
受難日礼拝のプログラムです

2019年4月7日「神が望んでおられること」

○金 南錫牧師
 テサロニケの信徒への手紙一5章16-18節

 本日の聖書個所において、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と命じています。そして、これこそ「キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」とあります。
 「望んでおられること」とは、原語では「テレイマ」と言って、神の「ご意志」と訳すことができます。つまり、私たちに対する神のご意志は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」ということです。
 では、私たちはどのようにして、いつも喜ぶことができるでしょうか。それは、聖霊に満たされると、失敗のときも、誘惑のときもいつも喜ぶことができます。時間を超えて、いつも喜ぶことができるようになるのです。
 また、私たちは祈る生活をしながらも、祈りを休むことがあります。私たちは望んでいることが叶わなかったとき、落胆するようになるのです。しかし、祈りは感情的な問題ではなく、従順の問題であり、意志の問題です。神のご意志が「絶えず祈りなさい」ということなので、それに従って祈るわけです。祈りの人は一日の中で何回も変わってしまう感情を超えなければならないと思います。
 また、感謝の人となるためには、キリスト・イエスにおいて、状況を超えなければなりません。感謝の人はどんな状況に置かれても感謝することができるのです。