2020年10月11日「イエスの沈黙」

○金 南錫牧師 イザヤ書53章4-7節、マルコによる福音書15章1-5節

(音声メッセージを提供しています)

 ユダヤ人の最高法院ではイエス様に死刑の判決を下しましたが、当時のユダヤはローマ帝国の支配下にあり、死刑の判決はローマの総督の権限に委ねられていました。
 ですから、彼らは翌朝、イエス様を総督官邸に連れて行き、総督ピラトに死刑判決を下すように訴えました。
 しかし、彼らはイエス様を宗教的な冒とく罪で訴えると、ローマ帝国は、関与しないことを分かっていましたので、イエス様をローマ帝国への政治的な反乱罪として、嘘を言って訴えたのです。
 そういうわけで、ピラトはイエス様に「お前がユダヤ人の王なのか」と確認します。イエス様は「それは、あなたが言っていることです」と一回だけ答えて、その後は何も言わないで、沈黙を守っていました。そのイエス様の対応に対して、「ピラトは不思議に思った」と記されています(5節)。
 イエス様は当然、御自分の正しさを主張できたところを、一切そうなさらず沈黙されました。それは、私たちを救うためでした。
 イエス様が私たちの罪をその身に負って、私たちの身代わりに十字架に死んでくださるということは、その不条理の中で神に信頼し続けることでした。
 神様は、そのイエス様を死人の中から、やがてよみがえらせるのです。イエス様の沈黙は信仰の沈黙でした。

 

2020年10月4日「ペトロの涙」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書14章66-72節

(音声メッセージを提供しています)

 失敗ということを考えると、どうしても福音書に書かれているペトロのことが心に浮かんで来ます。今日の聖書箇所は、イエス様の筆頭弟子であったペトロが失敗したところです。
 イエス様が大祭司の前で審問を受けている同じとき、この大祭司の女中の一人がペトロに「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」と言います。
 ペトロは、この大祭司の女中の言葉に「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と打ち消して逃げようとするのです。
 その女中がまたペトロを見て「この人は、あの人たちの仲間です」と言うと、ペトロはまたそれを打ち消します。そして、人々も「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから」と言うのに対して、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と言って、ついに激しく誓い始めたのです(71節)。
 そのとき、二度鶏が鳴きました。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言うペトロに対して、イエス様は「はっきり言っておくが、あなたは今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と言われました。
 それをペトロは鶏が鳴く声ではっきりと思い出したのです。イエス様の言葉を思い出したペトロは、いきなり泣き出しました(72節)。
 ここに、自分の気持ちを素朴に、率直に主張し、大失敗をして、その失敗を心から認め、泣き崩れているペトロの姿があります。人間である限り失敗は付きものです。大切なのは、主イエスはそのために十字架にかかって身代りとなり、しかもそういう私たちを愛し続けてくださったのです。

2020年10月の主日聖書日課から

○箴言 3章13~20節
 いかに幸いなことか 知恵に到達した人、英知を獲得した人は。
 知恵によって得るものは
 銀によって得るものにまさり
 彼女によって収穫するものは金にまさる。
 真珠よりも貴く
 どのような財宝も比べることはできない。
 真珠よりも貴く
 どのような財宝も比べることはできない。
 彼女の道は喜ばしく
 平和のうちにたどって行くことができる。
 彼女をとらえる人には、命の木となり
 保つ人は幸いを得る。
 主の知恵によって地の基は据えられ
 主の英知によって天は設けられた。
 主の知識によって深淵は分かたれ
 雲は滴って露を置く。

○ヨハネによる福音書 10章37~39節
 もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。

○ダニエル書 12章1~4節
 南の王は激怒して出陣し、北の王と戦う。北の王は大軍を集めて立ち向かうが、彼らは敵の手に陥る。この大軍を捕らえて南の王は大いに高ぶり、幾万人もの兵を殺すが、決定的に勝つことはできない。北の王は再び前回にまさる大軍を集め、数年の後に強力な軍隊の軍備を整えて進軍する。その時には、多くの者が南の王に対して立ち上がる。お前の民の中からも、暴力に頼る者らが幻を成就させようとして立ち上がるが、失敗する。北の王は進軍し、堡塁を築き、砦に守られた町を占領する。南の王はこれに抵抗する力を持たず、えり抜きの軍勢も立ち向かうことができない。敵は意のままに行動し、対抗する者はない。あの『麗しの地』に彼は支配を確立し、一切をその手に収める。

○ヨハネによる福音書 11章11~16節
 こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。

○エレミヤ書 29章1、4~7節
 以下に記すのは、ネブカドネツァルがエルサレムからバビロンへ捕囚として連れて行った長老、祭司、預言者たち、および民のすべてに、預言者エレミヤがエルサレムから書き送った手紙の文面である。
 「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。

○ヨハネによる福音書 17章13~19節
 しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。

○箴言 8章22~26節
 主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って。
 永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って。
 わたしは生み出されていた
 深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。
 山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが
 わたしは生み出されていた。
 大地も野も、地上の最初の塵も
 まだ造られていなかった。

○マタイによる福音書 10章28~33節
 体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
 「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

出所:聖書日課編集委員会編集「日毎の糧2020」(日本キリスト教団出版局、2019年12月1日発行)より作成

2020年9月27日「大祭司の裁判」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書14章53-65節

(音声メッセージを提供しています)

 本日の聖書箇所には、イエス様が大祭司の裁判を受けたことが記されています。
 しかし、「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった」とありますように(55節)、すでにイエス様を死刑判決することが決まっていた裁判でした。
 ゲツセマネで祈られたイエス様は、ユダの裏切りによって捕らえられ、大祭司の屋敷に連れて来られました。そこに、祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来ました。
 ある人々は、神殿に対する冒とく罪を持ち出しましたが、彼らの証言は食い違っていたのです(59節)。そして最後に、大祭司による審問に入ります。
 「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか」。
 大祭司はイエス様に今までの偽証への釈明を求めました。しかし、イエス様は黙して、語りませんでした。そこで、重ねて大祭司は「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と尋ねたのです。
 この問いかけに対して、イエス様は「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」と答えております(62節)。
 このイエス様の言葉尻をもって、最高法院のメンバーたちは、自分を神とするイエス様に対して、神への冒とく罪として、死刑にすべきだと決議したのです(64節)。
 教会は、イエス様こそ、神の子・キリストであることを告白するところです。イエス様がユダヤの最高法院ではっきりと、「そうです」と告白されたように、教会に集われた一人一人がイエス様こそ神の子・キリストであることを告白し続けていくときに、教会は教会になっていくのです。

2020年9月20日「亜麻布の信仰」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書14章51-52節

 一人の若者が身にまとっていた亜麻布を捨てて、裸のままで逃げてしまいました。教会の歴史の中で、この若者は、今日の「マルコによる福音書」を書いたマルコではないかと言われてきました。
 マルコの母マリアは、イエス様が十字架に架かられる前から、イエス様に従っていた女性の弟子の一人で、信仰深く、教会のために自宅を惜しみなく開放していた人物でした。ですから、マルコは、この母の影響でクリスチャンになったのではないか、そして彼の信仰の歩みもまた母マリアの祈りに支えられていたと思われます。
 マルコが、「素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた」とあります(51節)。
 当時、布を巻き付けるような服装でもあったので、マルコは亜麻布を巻き付けるような姿でイエス様の後をついていったのです。
 しかし、ある程度、イエス様の後をついていったのですが、「人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった」のです(52節)。
 この亜麻布を信仰と重ねて考えますと、マルコの信仰は、亜麻布をまとうような信仰でした。そして、試練に会ったとき、それを脱ぎ捨てて逃げてしまったのです。
 私たちの信仰は、服装のように着たり脱いだりするものではありません。ある程度従ってやめるのではなく、最後まで主イエスに従っていくこと。それが、本当の信仰ではないでしょうか。

2020年9月20日 子ども・敬老祝福の祈り

 敬老の日に合わせ、佐倉教会では、毎年、高齢者(80歳以上)の皆さんと教会学校の生徒たちを覚え、礼拝において祝福のときを持っています。
 教会学校の生徒たちには前に出てもらい、紹介した後、金牧師から祝福を祈りました。
 高齢者の皆さんは、名前を読み上げた後、金牧師から祝福を祈りました。

子どもたちが主にあって豊かに成長することを祈りました

2020年9月13日「イエスの逮捕」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書14章43-50節

 今日の箇所は、ゲツセマネでイエス様が祈られた直後でありました。
 イスカリオテのユダに誘導されて、祭司長、律法学者、そして、長老たちから遣わされた群衆がやって来ました。しかも、彼らは剣や棒を持っていたと、聖書に出ています。
 イエス様を裏切ろうとしていたユダは、いつもゲツセマネの園でイエス様が祈られる場所をよく知っていました。そして、接吻するその人がイエスであると、彼らに伝えていましたので、容易にイエスを逮捕できました。
 そのとき、そこに居合わせた人々のうちのある者が剣を抜いて、大祭司の手下の片方の耳を切り落としました。ヨハネによる福音書には、それは、弟子のペトロが、剣を抜いて、大祭司の手下であるマルコスの耳を切り落としたというふうに出ています(18:10)。
 ペトロは今日の箇所の少し前のところで、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言い切ったのです。しかし、そのペトロもほかの弟子と同じように、イエス様が捕らえられた直後、自分の身の危険を感じて、イエス様を見捨てて、逃げてしまったのです。
 イエス様を裏切ったのは、イスカリオテのユダだけではありませんでした。ほかの十一の弟子たちも皆、イエス様を裏切ったのです(50節)。
 信仰と不信仰は、いつも隣り合わせにあるのです。弟子たちの弱さを自分のこととして受け止めなければいけません。ペトロは、何度も何度も失敗しました。しかし、その度に、神の愛、主イエスの愛に、新しく受けられたのです。

ダビデの悔い改めの祈り 賛美を回復される神 詩編五一編一~一七節

○ぶどうの枝第52号(2020年8月30日発行)に掲載(執筆者:金 南錫牧師)

 ある家族が黄色いカナリヤを飼っていました。朝から晩まで素敵な声をさえずっていたそうです。籠の中には必要なものが備えられていました。餌や水を与える道具だけでなく、水浴びをするためにガラス製の器もありました。
 ところが、ある日飼い主が掃除をしていて、うっかりその水浴びの器を割ってしまいました。すると、間もなくカナリヤの元気がなくなり、二日目には鳴かなくなってしまったのです。原因が分からず、病気になってしまったのだろうかと心配していたのですが、一週間後、水浴びの器を入れたところ、すぐにカナリヤは中に入り、水浴びをし、きれいな声で鳴き始めたのです。
 この話は、自分がきれいでなければ、歌えなかったことを教えています。ダビデも同じ経験をしたのです。彼は、罪を犯したことによって賛美することができませんでした。ところが、悔い改めることによって賛美が回復されていきました。 
 ご存じのように、ダビデは姦淫と殺人の罪を犯しました。そのとき、神様は預言者ナタンを通してダビデの罪を指摘しました。ダビデは、一国の王様でしたが、六節にありますように「あなたに、あなたのみに私は罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました」と、自分は神に罪を犯したと告白しました。
 そのとき、神様は、自分の罪を告白したダビデに罪の赦しを与えてくださったのです。 神様の恵みにより、罪の赦しをいただいたダビデは、神様にこう告白します。「御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください」(一四節)。
 ダビデは御救いの喜び、自由の霊を再び味わわせてください、と祈り求めました。そして、神様に一つの決心をしています。「わたしはあなたの道を教えます。あなたに背いている者に、罪人が御もとに立ち帰るように」(一五節)。
 ダビデは、神様に自分に御救いの喜び、自由の霊を再び味わわせてください、そうすれば、あなたに背いている者、罪人に、「あなたの道を教えます」と決心したのです。
 それは、罪人が主に立ち帰るためでした。ダビデは、神様からいただいた救いの恵みを他の人と分かち合い、罪の中に苦しんでいる誰かが、主に立ち戻ることができるように祈ったのです。私たちはどうでしょうか。救いの恵みを他の人と分かち合ったことがあるでしょうか。
 「御救いの喜びを再びわたしに味わわせてください」と求めていたダビデは、「主よ、私の唇を開いてください」と祈り求めています(一七節)。

 祈りと賛美が消えるとき

 これは、裏を返せばいつか自分が罪の中にいたとき、唇が閉じていた、ということを表しています。罪の中にいるとき、唇が閉じて、祈りが消えてなくなります。次に、賛美が消えているのです。いくら唇を開いて祈ろうとしても、祈りの唇が開きません。雑念だけがあふれ、思い浮かびます。このとき、クリスチャンは、霊的にうめきます。神様との関係が閉じられてしまったからです。
 ダビデは耐えられませんでした。罪の中にいたとき、唇が開かず、苦しんでいたと告白します。そして、「主よ、わたしの唇を開いてください」と、祈ったのです。一六節に、「神よ、わたしの救いの神よ。流血の災いからわたしを救い出してください。恵みの御業を、この舌は喜び歌います」とあります。
 ここで、「流血の災い」とは、ダビデが、バト・シェバの夫であるウリヤを激しい戦いの最前線に出し戦死させた、殺人の罪を指しています。その流血の災いから、わたしを救い出してくださいというのは、その殺人の罪から自分を救い出してください、ということです。
 このように、流血の災いに対する赦しと救いを求めたダビデは、「恵みの御業を、この舌は喜び歌います」と祈ったのです。ここで「恵みの御業」は、犯した罪を悔い改める人に対する、神様の赦しと救いの御業です。また、「喜び歌います」ということは、全ての力を尽くして、賛美することです。全ての力を尽くして、自分が犯した罪から救ってくださった恵みの御業を声高らかに歌うことを示しています。
 聖書を見ると、ダビデは賛美する人でした。神様の臨在を現す「主の契約の箱、神の箱」がエルサレムへ運び上げられたとき、ダビデは裸になっていることも気づかないほど、神の御前で踊り、賛美したのです(Ⅱサム六章一四節)。
 また、歌である詩編は、百五十編の中、「ダビデの詩」、あるいはダビデと書かれた詩が、七十三編もあります。ところが、実際、ダビデが書いたのに、ダビデと書かれていない詩編も多くあります。これを見ると、ダビデがどれほど多くの詩編を作って、神を賛美したのかを知ることができます。
 それだけではなく、ダビデは詩編二二編の四節で、「あなたは、聖所にいまし、イスラエルの賛美を受ける方」と、告白しています。

 賛美する人に

 ダビデは、神様がイスラエルの賛美を受ける方であることを知っていたのです。ですから、ダビデは、戦場に出ていくときにも、賛美しました。敵から非難を受け、人々からの裏切りを受けたときにもダビデは賛美しています。サウル王から追われる逃亡のときにも、ダビデの唇から賛美は離れなかったのです。なぜでしょう。ダビデは、賛美する人であったからです。
 サムエル記下二三章を見ると、ダビデが死を前にして、最後の詩を作って、神様を賛美する場面があります。ここで、ダビデは、自分の身分についてこう言います。サムエル記下二三章一節です。
 「以下はダビデの最後の言葉である。エッサイの子ダビデの語ったこと。高く上げられた者。ヤコブの神に油注がれた者の語ったこと。イスラエルの麗しい歌」となっていますが、このうち、「イスラエルの麗しい歌」について、口語訳では、「イスラエルの良き歌びと」となっています。ダビデは、人生の最後を迎えて、イスラエルの王ではなく、「イスラエルの良き歌びと」として、自身の身分を語っているのです。つまり、王様よりイスラエルの神を賛美することが大事であることを表しています。
 クリスチャンは賛美する人です。「主よ、わたしの唇を開いてください」と祈り、「恵みの御業を、この舌は喜び歌います」と告白したダビデのように、それぞれ置かれた場所で賛美を回復し、声高らかに、歌うように祈り願います。
 今、残念ながら、新型コロナウイルスのことで、大きな声で讃美歌を歌うことができませんが、このときこそ、それぞれのお好きな讃美歌があると思います。その讃美歌を繰り返し歌うことによって、今のときを乗り越えていきたいと思います。私たちの人生の目的は、何かを成し遂げるためではなく、神様を賛美することにあります。

俳句

○ぶどうの枝第52号(2020年8月30日発行)に掲載(執筆者:AS)

○平成二十二(二〇一〇)年作
 幾度の 春を待たずば 巣立ちゆく
 奇跡をと 願いし母の 耐える冬
 子の病い 御栄えの春を 主にて待つ
○令和二(二〇二〇)年作
 新緑や 覚悟の透析 新生活
 五月晴れ 主の答えは 透析に