2020年2月9日「祈りによらなければ」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書9章14-29節

 悪霊に取りつかれた少年の父親は、イエス様が不在中、山の下に残っていた弟子たちに、子供の癒しをお願いしましたが、できませんでした。少年は幼いころから、耳が聞こえず、ものが言えませんでした。
 イエス様は父親に病気の子どもを御許に連れてくるように、言われました。少年がイエス様の御許に連れて来られたとき、発作が起きました。
 イエス様はその様子を見て父親に、「このようになったのは、いつごろからか」を尋ねました。父親は「幼い時からです」と答え、「霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と言ったのです。
 イエス様が少年の手を取って起こされると、立ち上がりました。そして、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われたのです(29)。
 人生は、思うようにいかないことのほうが多いのですが、その中で、辛いことを心の中に押さえ込んで、押し隠すのではなく、私たちのすべてをご存じである神様に、重荷のすべてを隠さず述べて、心を注ぎ出して、祈る者でありたいです。

2020年2月9日 お餅つき会

 礼拝後、正午開始でお餅つき会を開催しました。
 全部で3臼、慣れない杵を持って、老いも若きも楽しくお餅をつき、おいしくいただきました。
 地域の方も含めて大勢の方が参加してくださり、感謝でした。

老いも若きもお餅とお餅つきを楽しみました
しっかりお餅をつきあげます

2020年2月2日「主イエスの輝き」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書9章2-13節

 イエス様は弟子のうち、ペトロとヤコブ、そしてヨハネだけを連れて、高い山に登られました。この山の上で、イエス様の姿が弟子たちの目の前で、栄光に輝く姿に変えられたのです。さらに、エリヤがモーセと共に現れて、イエス様と語り合っていたのです。
 この光景を見たペトロは、感激してこう言いました。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。
 しかし、このペトロの申し出は早すぎました。イエス様には地上でなすべきことがまだたくさんあったのです。何よりもエルサレムで十字架にかからなければならなかったのです。イエス様は十字架の道を歩まれるために、山の上から下りてくださいました。栄光に輝くお姿のまま、山の上にとどまるのではなく、十字架の死に至るまで、山の下へと下りてくださったのです。
 ペトロたちが変貌のイエス様を目の当たりにして、その喜びのうちに一刻も長くとどまりたいと願ったとき、雲が現れて彼らを覆ったのです。その雲の中から、「これはわたしの愛する子。これに聞け」という神の声がありました。
 神の声は、イエス様の御言葉に聞き従うことを命じております。礼拝が終わってから、私たちは主イエスにしっかりと目を向け、それぞれの生活の場へと、用いられていきますように、お祈りします。

2020年2月の主日聖書日課から

○列王記上 8章27~30節
 神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。僕とあなたの民イスラエルがこの所に向かって祈り求める願いを聞き届けてください。どうか、あなたのお住まいである天にいまして耳を傾け、聞き届けて、罪を赦してください。

○ヨハネによる福音書 2章13~16節
 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」

○ヨブ記 22章21~23節
 神に従い、神と和解しなさい。
 そうすれば、あなたは幸せになるだろう。
 神に従い、神と和解しなさい。
 そうすれば、あなたは幸せになるだろう。
 もし、全能者のもとに立ち帰り
 あなたの天幕から不正を遠ざけるなら
   あなたは元どおりにしていただける。

○ヨハネによる福音書 8章31、32節
 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

○ヨブ記 23章10節
 しかし、神はわたしの歩む道を
   知っておられるはずだ。
 わたしを試してくだされば
   金のようであることが分かるはずだ。

○ヨハネによる福音書 5章5~9節
 さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。

○申命記 8章2~6節
 あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。

○ヨハネによる福音書 6章5~13節
 イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。

出所:聖書日課編集委員会編集「日毎の糧2020」(日本キリスト教団出版局、2019年12月1日発行)より作成

2020年1月26日「十字架を負う」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書8章27節-9章1節

 イエス様は、弟子たちと共に、フィリポ・カイサリア地方に出かけられました。ここでイエス様は弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と聞いています。弟子たちは、世間の人々の噂をそのままに伝えました。
 ある人は、イエス様の前に活躍した「洗礼者ヨハネ」だと言い、ある人は、メシアの先駆者として長い間待たれていた「預言者エリヤ」の再来だと言いました。そして、メシアが現れるときは、必ずメシアを指し示す預言者が現れるという考え方に基づいて、「預言者の一人だ」と言う人もいました。
 実は、そのような噂はどうでもよかったのです。問題は「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という、弟子たち自身の理解でありました。弟子たちを代表して、ペトロは「あなたは救い主です」と信仰告白したのです。
 イエス様は、ペトロの信仰告白を聞かれたときに、それを誰にも話すなと戒められ、ご自分がこれから、必ず多くの苦しみを受けるようになっていると語ります(31節)。神によって、イエスは必ず多くの苦しみを受けることになっていること。それを、聖書学者は「神の必然」と言います。
 しかし、この神の必然は、弟子たちには理解できませんでした。ペトロにとって、イエス様は栄光の主なので、十字架にはり付けにされるような、惨めで、敗北の主であるはずがないと考えていたのです。
 ペトロはイエス様から「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われました。「あなたは、メシアです」と信仰告白をしたにもかかわらずに、ペトロはその信仰告白の中身がまったく欠けていたのです。
 そのペトロに対して、イエス様が言われます。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(34節)。私たちもこの世で自分の十字架を背負い、主イエスに従っていくことができますように。

2020年1月19日「信仰の目を開かれる主」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書8章22-26節

 イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、『何か見えるか』とお尋ねになった」(22節)。本日の盲人の癒しの出来事は、イエス様と盲人が、手をつないだところから、始まっているのです。
 続いてイエス様は盲人の手を取って、村の外へ連れ出されました。イエス様は彼と一対一で向き合うことを望まれたのです。そして、イエス様は両方の目に唾をつけ、両手をその人の上に置かれ、直接彼に「何か見えるか」と、話かけられました。盲人は目をあげ、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」と答えました。それまで、諦めていた目が癒され、見え始めたのです。
 しかし、見え始めただけで、すべてが見えたのではありません。そこで、イエス様がもう一度、彼の目に両手を当てられました。すると、「よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった」と記されています。
 イエス様は何でもはっきり見えるようになるまで、盲人への関わりをやめませんでした。盲人は目の前にいるイエス様がまことの救い主、キリストであることに、目が開かれたのです。
 私たちは主イエスとの出会いによって初めて、信仰の目が開かれ、全てのものを真っ直ぐに見ることができるのです。この主イエスと手をつながれた人生を全うすることができますように、祈り願います。

2020年1月12日「まだ悟らないのか」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書8章11-21節

 イエス様たちが船に乗るときに、弟子たちはパンを持ってくるのを忘れ、船の中には一つのパンしか持ち合わせていなかったのです(14節)。そのとき、イエス様は「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められました。
 しかし、弟子たちは、それを具体的なパンの話と思い込んでしまっていました。
 弟子たちが見るべきことは、一つしかないパンという現実ではなく、彼らの目の前におられるイエス様でした。イエス様は二度も、わずかなパンで大勢の人を満腹する奇跡を行われたのです。イエス様が共におられれば、何が足りなくても大丈夫であることを示してくださったのに、弟子たちはパンが足りないことで、議論し始めたのです。
 そんな弟子たちに何度も恵みのしるしを与え、「まだ、悟らないのか」と繰り返し、イエス様は問いかけられます。
 皆さんの視線は、今どこに向いているのでしょうか。霊的な目が開かれ、今も生きておられる主イエスを見上げるように願っております。
 今も生きておられる主イエスが共におられるならば、なんの心配もありません。私たちは、恨みはいつまでもよく覚えているものですが、恵みはすぐに忘れてしまいます。だからこそ、主イエスは何度も何度も恵みのしるしを与え、「まだ、わからないのか。悟らないのか」と言われているのです。

2020年1月5日「主のあわれみに生かされて」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書8章1-10節

 1節に「そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた」とあります。これは、7章31節の「それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた」、「そのころ」のことです。
 イエス様は、テカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖の東側にやって来られました。ユダヤからすると、異邦の地方に当たります。このことは、イエス様の救いがユダヤ人だけではなく、異邦人にまで広がっていくことを指し示しています。イエス様は、すべての人が救いに招かれていることを教えております。
 2節、3節に「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる」とあります。
 「かわいそうだ」という言葉は、ギリシア語では「内臓が痛むほど憐れむ」ことです。イエス様は群衆を飢えたまま、帰らせることに対して、ご自分の内臓が痛くなるほど、憐れんでくださったのです。
 私たちはこの世に生きる限り、様々な苦しみを味わい、経験するのです。しかし、その苦しい経験の深まるところで、思いもかけなかった主の憐れみを味わうことができるのです。クリスチャンは主の憐みによって生かされていく者です。

教会修養会報告 祈りの世界 旧約聖書詩人に学ぶ

○ぶどうの枝第51号(2019年12月22日発行)に掲載(講師:美竹教会牧師・青山学院大学教授 左近 豊)

 十月二十七日(日)午後、美竹教会牧師・青山学院大学教授の左近豊(さこんとむ)先生をお迎えして、礼拝説教に続き、修養会の講師をしていただきました。御講演の要旨と、グループ討議から出された質疑の主な内容を、編集委員会でまとめました。

【講演要旨】
 二〇一一年の大震災で、私たちはこれまでの生き方が通用しない崩壊を経験した。崩壊を生き延びた人たちの嘆きと罪責意識の痛みを想像して、金曜日に肉を裂かれて嘆き、陰府に下った「土曜日のキリスト」、もだえ苦しむ嘆きの神学、嘆きを受け止める共同体の意義を再確認した。
 神は混沌と闘って、空と水に分け、世界を創造された。出エジプトの水を分け、乾いたところを造る。洗礼を受けた主が水から上がられたとき、霊が下る。一つのモチーフが受け継がれている。大いなる救いの物語を聖書は語っているが、その中に幾多の混沌、崩壊、破綻した物語がある。
 人間の生も、言葉を失うような出来事に遭遇すると、語りの時間の秩序が破綻し、過去が断片となって現在にまとわりつく。「混沌の語り」を内に抱える現代に、「大いなる救いの物語」をいかに語るか。そこに「嘆き」の居場所、すなわち祈りの場が確保される必要がある。
 聖書は、度重なる危機を語りつつ生き抜いてきた信仰共同体の証言の書。言葉にならないうめきを、「詩編」や「哀歌」の詩人の言葉が代わりに声となって吐露している。感情は文化の中で習い身につけるものであり、たとえば日本人は雨の中にいろいろな情感を見いだす。聖書における感情、祈りの中に込める感情は、聖書の中に習い身につけていく必要がある。
 哀歌は、国破れてしかも取り残された悲惨な状況を、神に対して「何とも思わないのか」と挑みかかる。信じてきたのにあまりに不当だ、というヨブの祈りと共に祈られてきた。カインとアベルの物語は、カインが祈らなかったことが問題だった。ヨブは神に挑みかかり、問い詰めた。それが求められている。哀歌は、手軽に癒やせないような傷を詩にする。執り成しの祈りをすることで共に泣き、代わりに祈る者がいることを教えてくれる。
 詩編は、その先にイエスの存在を意図している。旧約聖書は、嘆きを嘆き切ることで、イエスによるあがなわれた復活の命を見ることになる。
 「陰府」は、旧約では神様に何を言っても届かない所。イエス・キリストがそこに身を横たえられ、死を滅ぼし、神いまさぬ所を神います所に変えた。「土曜日」の祈りを身につけることが重要。
 人は傷を負った共同体によって癒やされる。教会が世の中の傷を傷として身につけるなら、祈れない人の代わりに教会が嘆き祈る執り成しの共同体になることができる。

【主な質疑応答】
(問)聖書の感情を身につけるには?(答)自然に身につく。大事なのは、読み続ける、触れ続ける、聞き続けること。自分になじみのない箇所に取り組んでみるのもよい。
(問)個人の思いと、人の祈りをまねることの関係は? (答)祈りは、教会の中で培われた祈りの生活に触れる中でまねていく。神に真正面から問うのが聖書的な祈り。教会の中に嘆きの場所、悲しんでいる人の居場所が必要。一緒に祈るとき、教会の祈りであることが慰めになる。
(問)敵への報復を願う詩編について(答)祈りのモデルである詩編の中に捨てられずに残っていることは、人権感覚としてはおかしいが、圧倒的な暴力で「やられた側」が正義の回復を求めて祈ることは抑圧できないのではないか。
(参考文献)E・ツェンガー『復讐の詩編をどう読むか』、W・ブルッゲマン『詩編を祈る』。日本基督教団出版局。
(問)「沈黙の土曜日」とは?(答)人間が安息している間に、イエス様は死と闘っておられた。旧約の詩編の嘆きの祈りが証してくれる。逆境の詩編を読むことで、「土曜日のキリスト」と出会う。逆境の現実を見詰めなければ次のステップに進めない。嘆きの詩編、哀歌、ヨブ記は、地獄のような中でイエスと出会う。その道がつながれている。