2019年12月の主日聖書日課から

○イザヤ書 52章07節~10節
 いかに美しいことか
 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。
 彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え
 救いを告げ
 あなたの神は王となられた、と
 シオンに向かって呼ばわる。
 その声に、あなたの見張りは声をあげ
 皆共に、喜び歌う。
 彼らは目の当たりに見る
 主がシオンに帰られるのを。
 歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。
 主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。
 主は聖なる御腕の力を
 国々の民の目にあらわにされた。
 地の果てまで、すべての人が
 わたしたちの神の救いを仰ぐ。

○ヨハネによる福音書 07章28節~31節
 すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言った。
 
○ヨハネによる福音書 05章37節~40節
 また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。
 
○マラキ書 03章19節~20節
 見よ、その日が来る
 炉のように燃える日が。
 高慢な者、悪を行う者は
 すべてわらのようになる。
 到来するその日は、と万軍の主は言われる。
 彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。
 しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには
 義の太陽が昇る。
 その翼にはいやす力がある。
 あなたたちは牛舎の子牛のように
 躍り出て跳び回る。

○ヨハネによる福音書 01章25節~27節
 彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」

○ゼカリヤ書 02章14節~15節
 娘シオンよ、声をあげて喜べ。
 わたしは来て
 あなたのただ中に住まう、と主は言われる。
 その日、多くの国々は主に帰依して
 わたしの民となり
 わたしはあなたのただ中に住まう。
 こうして、あなたは万軍の主がわたしを
 あなたに遣わされたことを知るようになる。
 
○ルカによる福音書 02章04節~15節
 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
 「いと高きところには栄光、神にあれ、
 地には平和、御心に適う人にあれ。」
 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。
 
○ヨハネによる福音書 01章01節~04節
 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。

○マタイによる福音書 02章09節~11節
 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
 
出所:聖書日課編集委員会編集「日毎の糧2019」(日本キリスト教団出版局、2018年12月1日発行)より作成

2019年11月24日 教会創立記念礼拝

 佐倉教会の創立は、1904年11月27日。
 今年は、創立から数えて115周年となりました。
 毎年、11月第4週の主日において教会創立を記念する礼拝を守ります。
 また、教会創立記念礼拝では、あわせて信仰生活50周年の節目を迎えた兄弟姉妹のために特に祝福をお祈りしています。

信仰生活50周年を迎えた兄弟姉妹の祝福を祈ります

2019年11月24日「再び湖の上にて」

○金 南錫牧師 マルコ6章45-56節

 弟子たちが乗っている舟が逆風に遭って、少しも前に進まないのです。イエス様は湖の上を歩いて、弟子たちのところに来られました。しかし、弟子たちは湖の上を歩くイエス様を見て、幽霊だと思って、大声で叫びました。
 そのおびえる弟子たちに向かって、イエス様は「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われました。そして、イエス様が弟子たちの舟に乗り込まれると、風は静まったのです。弟子たちは非常に驚きました。聖書は「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」と告げるのです(52節)。パンの出来事。それは、イエス様がまことの神であられることを示しているのです。
 実は、本日の湖の上を歩いてこられるイエス様の出来事も、イエス様がまことの神であられるということを示しているのです。「湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた」(48節)。
 旧約聖書において、人が神を面と向かって見ることは死を意味していました。ですから、神様は、通り過ぎることをもって、ご自身が共にいることを示されたのです。私たちの信仰の歩みはまことの神であられる主イエスが共にいてくださるので、安心できるのです。

2019年11月17日「五つのパンと二匹の魚」

○金 南錫牧師 マルコ6章30-44節

 イエス様の前には大勢の群衆がいました。イエス様は、羊飼いのいない羊のような人々をご覧になって、「深く憐れで」くださいました(34節)。
 イエス様の憐みは単なる同情とは違います。相手のほんとうの幸せを願わずにはいられず、とてもほっとけないという気持ちです。イエス様が周りに押し寄せる群衆を深い愛で、みんなのことを心から心配して、愛してくださいました。
 それが教会の伝道の動機です。弟子たちの熱意や願いから始まったのではありません。
 日が傾いてくると、弟子たちは群衆を解放させてくださいとイエス様に願いました。飢えた大勢の群衆がどこかよそで、その飢えを満たせるようにと願ったのです。群衆から逃げようとする弟子たちを断固、イエス様は阻止されるのです。
 「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(37節)。「パンは幾つあるのか。見て来なさい」(38節)。弟子たちは確かめた上で、答えました。「五つあります。それに魚が二匹です」。それから、イエス様は五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱えられました。
 弟子たちは、これだけしかない、そう思って差し出しました。しかし、イエス様は弟子たちから受け取り、これがあるということで神に感謝しました。神の国の働き、伝道はここから始まっているのです。

2019年11月10日「洗礼者ヨハネの死」

○金 南錫牧師 マルコ6章14-29節

 ヘロデは自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアを妻としました。それを洗礼者ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」と言ったのです。
 これは、非常に勇気のいる言葉でした。しかし、批判したために、捕まって牢に閉じ込められてしまったのです。特に、ヘロデの妻ヘロディアは洗礼者ヨハネを恨み、殺そうと思っていました。しかし、「ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」ために(20節)、なかなか殺すことができなかったのです。
 では、ヨハネは何を教えていたのでしょうか。それは、神の御前に立ち、あなたの罪、姦淫の罪を悔い改めなさい。そして、神のもとに立ち返りなさい、ということです。神の前に、洗礼者ヨハネの心、良心は生きていたのです。
 しかし、ヘロデの心は虚栄心に満ちていたのです。彼はガリラヤ地方の「領主」にすぎなかったのに、誕生祝いの席で踊った娘に、まるで自分は何でもやれる「王」であるかのように、「この国の半分でもやろう」と言い、虚栄心に満ちていたのです。この虚栄心が、ヘロデの人生を滅びていくのです。
 私たち人間には、こういう弱さがあります。神の前で、何が正しいことかを祈り求める必要があります。そして、かっこいい生活だけを神に見せるのではなく、真に弱く、失敗した生活を神の前にさらして、赦しを求め続けて生きることができますように、祈り願います。

2019年11月4日 教会学校さつまいもを掘る会

 2019年11月4日(月・休日)、教会学校さつまいもを掘る会が行われました。幼児・小学生5名、中高生2名、大人13名の計20名が参加。爽やかな秋晴れに恵まれ、収穫後は早速ほかほかのさつまいもをいただきました。

収穫作業を開始します

 

今年もたくさんの収穫、感謝です

2019年11月3日「世にあるかぎり」

○金 南錫牧師 詩編90編1-17節

 私たちの人生は、死ぬまでの限られた時間の中で、家族と共に、隣人と共に歩み続けることです。ですから、人は誰でも人生には限りがあること、有限な存在であることを厳粛に受け止めなければなりません。
 だからといって、悲観的に生きるのではありません。世にあるかぎり、生涯の日を正しく数えながら生きていくことが求められます。
 12節に「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」とあります。ここで「生涯の日」とは、私たちに残された命のある時間です。その命のある日がどのぐらい残っているのか、数えてみること。それが、人間にしかできない知恵ある心です。
 その残りの日々を正しく数える人は、成熟した大人です。ところが、子どものような人は、残された日を正しく数えることができません。
 この詩編の作者は、労苦と災いに過ぎない限りのある人生の中で(10節)、神様を仰ぎ見る姿を見せています。ですから、1、2節にこう祈っています。
 「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。山々が生まれる前から、大地が、人の世が、生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神」。
 この永遠なる神様に対する告白は、華やかで贅沢なところから出てくるのではありません。終わらないような苦しみの中から、限りのある人生の中から、「世々とこしえに、あなたは神」と告白することができるのです。

2019年11月の主日聖書日課から

○ヨハネによる福音書 03章16節~18節
 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。

○創世記 12章01節~04節
 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷
 父の家を離れて
 わたしが示す地に行きなさい。
 わたしはあなたを大いなる国民にし
 あなたを祝福し、あなたの名を高める
 祝福の源となるように。
 あなたを祝福する人をわたしは祝福し
 あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて
 あなたによって祝福に入る。」
 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。
 
○ヨハネによる福音書 06章27節~29節
 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」

○エレミヤ書 23章01節~06節
 「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。
 「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる。
 「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。
 見よ、このような日が来る、と主は言われる。
 わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え
 この国に正義と恵みの業を行う。
 彼の代にユダは救われ
 イスラエルは安らかに住む。
 彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。

○ヨハネによる福音書 18章33節~37節
 そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」

出所:聖書日課編集委員会編集「日毎の糧2019」(日本キリスト教団出版局、2018年12月1日発行)より作成

2019年10月27日「砂漠に花がさくとき」

○左近  豊師 イザヤ書35章1-10節

 旧約聖書の知恵の教師は教えた。「幻なき民は滅びる」、ヴィジョンを持たない国民は堕落する、と(箴言29:18)。
 神の言葉が語られるところ、そこに、幻、ヴィジョンが創られる。それによって開かれる世界がある。今、目の前にある、行き詰ってしまっている世界が、闇が待ち構えている、苦しいだけの世界が、それで全てではない、絶対ではないのだ、ということに気づかされる。
 信仰の先達たちが証ししてきた、聖書が語る生き方は、浮世に身を沈めて、そこで泣き、笑い、しながら、しかし、そこに溺れない生き方。浮世に溺れない、しかし浮世離れしない生き方と言えよう。
 クリスチャンとは、浮世を脱して精神世界の高みに登る者のことではない。むしろ高きにいます方が低く下ってくださって、私たちの地平に身を沈められ、涙を流し、共に笑ってくださり、血を流し、共に死んでくださった、そうやって私たちの弱く、よろめき、おののく生命の確かな礎となってくださった、この原点に常に立ち帰る者のこと。贖われた者として帰ってくる、それが聖書の信仰、教会の礼拝なのだ。
 私たちは礼拝で、先に召された信仰の先達たちも望み見ていた神の国、神の御業の幻を見る。そのただ中に復活の主がおられるのを見る。ここに私たちの命の基があること、原点があることを思い起こす。日々の生活で纏わりついた様々な重荷をここで降ろし、曇って霞んでしまった目を、ここで洗っていただいて、もう一度、神の御業の幻を見ることができるようにされる。
 イエス・キリストは喜びにあふれて言われた。「あなた方の見ているものを見る目は幸いだ!」と。