エノクの生涯が示すもの 神と共に歩む信仰生活を 創世記五章二一節~二四節

○ぶどうの枝第54号(2021年6月27日発行)に掲載(執筆者:金 南錫牧師)

 創世記五章には「アダムの系図」という小見出しが付けられていて、二一節にエノクという人物が出てまいります。二一節から二四節です。
 「エノクは六十五歳になったとき、メトシェラをもうけた。エノクは、メトシェラが生まれた後、三百年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。エノクは三百六十五年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」
 五章に出てくる他の人は、何百年生きて、そして死んだというふうに書いてありますが、このエノクに関してだけは、「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」と書かれています。
 神に創造された人間は、神の息を受けて初めて生きるものとなりました。つまり、人間は神と共に歩くように造られたのです。そして、エノクはそのように神と共に歩みました。だから、「神と共に歩み」ということが二度も強調されて記されています。ところが、「神と共に歩み」という表現は、エノクが正しい人間であったとか、罪を犯さない人間であったとか、そういうことではありません。エノクも人間としての限界を持っていたでしょう。しかし、そういう人間が平凡な生活の中で、神に出会い、神に支えられて生きていくことが「神と共に歩み」という言葉の中に含まれていると思います。
 ここで、エノクは地上で何をしたということは一切書かれていません。どういう仕事をして、どういう業績を残したなど、何にも書かれていません。ただ、一つ言えることは、エノクは神と共に歩んだのです。それだけが彼の人生について言える事柄でした。だから、ひょっとしたら彼は仕事に失敗し、何回か挫折した経験があったかもしれません。また、罪を犯したかもしれません。エノクは弱さと限界を持つ普通の人間でありました。しかし、そういう人間が神と共に歩んだのです。そして、エノクは死んだのではなく、「神が取られたのでいなくなった」とあります。 このところをヘブライ人への手紙一一章五節、六節では、こう解釈しています。
 「信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです」。

 エノクの召天の意味

 神様が不思議な形で介入されることによって、エノクだけが他の人とは違った形で、天に上げられました。それは、イエス・キリストによって示される復活の予告のような気がいたします。イエス様は、まさに神の子として、最も忠実に「神と共に歩んだ」方でありました。それゆえに、神の意志として十字架につけられました。私たち人間の代表として、「死」を経験されます。そこはエノクと違うところですが、神様は、そのイエス・キリストを死者の中から復活させて、天へと移されました。ですから、エノクの生涯は、イエス・キリストのことを指し示していると言えます。
 また、そのイエス・キリストに続く私たちの命をも、エノクは指し示しているのです。それは、イエス・キリストに続いて、神の言葉を受け入れて、神と共に歩む者は、エノクのような生涯を送るということです。
 ですから、「神と共に歩む」とは、神の言葉に従う信仰生活のことです。信仰生活は、劇的な体験より、日々の平凡な日常生活の繰り返しの方が多いのです。エノクは日々の生活の中、良いときも都合の悪いときも、神の言葉に従う信仰によって生き抜きました。ここに神に喜ばれる彼の信仰の生涯があったのです。

 神が私たちを捉える

 「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」とあるように、エノクの命は、そのまま神の御手に委ねられました。私たちは「神と共に歩む」ならば、たとえこの地上の死を経験しようとも、それは完全な終わりではないのです。永遠の命が約束されているのです。イエス様はこう言われました。
 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネによる福音書一一章二五、二六節)。
 エノクの人生を一言で言い表せば、「神と共に歩む人生」であります。私たち一人一人の人生、これを一言で言い表したら、どういうことになるでしょうか。「私は生涯家族のために、一生を過ごした」。このような生涯も、それなりに意味があるに違いありません。しかし、「彼は神と共に歩んだ」と要約されるような生涯を送りたいものです。三浦綾子さんが書いた『旧約聖書入門』という本の中、こう書いてあります(六六頁)。
 『「神と共に歩み」と書かれているのは、エノクだけである。エノクの生涯はわずか一行に過ぎない記述だが、これは偉大なる生涯なのかもしれぬと、説教に聞いたことがある。彼はその信仰のゆえに、死なずに、神に取り去られて天に昇ったと当時の人々は思ったに違いない。私たちが死んだとき、一行で私たちの生涯を誰かが記すとしたら、果たして何と記してくれるだろう。「彼は一代にして財をなし、七十五歳で死んだ」「彼は、何某と結婚し、男と女を産み、九十歳で死す」といったところであろうか。それともスタンダールのごとく、「生きた、恋をした、死んだ」であろうか。「神を信じ、人を愛して死んだ」と書かれる生涯は送る人は、まれであろう』
 聖書は、神と共に歩んだエノクを、「神が取られたので、いなくなった」と語っています。つまり、神が主体なのです。エノクが苦労して、道を開いて、どこかに到達したという話ではなくて、神の方が手を伸ばして、エノクを取られたのです。つまり、自分が一生懸命神に向かっていたつもりですが、神の方が自分を捉えていてくださるのです。それが信仰の歩みです。
 私たちの人生も同じです。私が主体となって、一生懸命神の手を握りしめて生きるのですが、その手はやがて衰えていきます。しかし、神の方が私をしっかりと捉えるのです。そして、ご自分の元に引き寄せてくださるのです。私たちの人生の歩みはいろいろな難しい問題を一杯抱えています。
 今年も、まだ終わりの見えないコロナ禍の中、神と共に歩むことによって、やがて神が私たちを捉えて、ご自分の元に引き寄せてくださることを信じ、すべてを神に委ねましょう。そして、二〇二一年度の歩みが、神と共に歩む信仰の歩みとなりますように、祈り願います。
 「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」(創世記五章二四節)

随想 御言葉に励まされ

○ぶどうの枝第54号(2021年6月27日発行)に掲載(執筆者:MK)

 佐倉に移り住むことになった当時のことです。今は亡き友人が贈ってくれた詩編の言葉が折に触れ思い出され、慰められたことを思います。
「主は人の一歩一歩を定め
 御旨にかなう道を備えてくださる
 人は倒れても、打ち捨てられるのではない
 主がその手をとらえていてくださる」(詩編三七編二三~二四節)
 悩んだり思い煩うことが多い私ですが、これまでの歩みを導いてくださり、今、信仰の仲間と共に礼拝ができ、心が整えられるこのかけがえのない今の生活を有り難く心から感謝に思います。
 しかし、今、世界を覆う新型コロナウイルスのために私たちの生活は大きく揺さぶられています。教会も大きな制限を受け、従来のような活動はできなくなっています。
 私自身、人との交わりも失われるような状況の中で、しぼんでしまいそうな思いを味わいました。そんなとき、聞いた御言葉です。
 「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようにしなさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」(フィリピの信徒への手紙四章四~六節)
 喜ぶことの難しさを思ってしまう私がいます。喜び得ない状況の中で語るパウロの言葉を繰り返し聞きました。喜びの源である主イエス・キリストをいつも思い起こすことにおいてこそ可能になると語っていると思いました。
 どんな時にもイエス様が一緒に歩んでくださっているから安心して進むようにと、励ますパウロの信仰の言葉が迫ってくるように響きます。素直な心で聞き、祈ることによって、開かれていくことを教えられました。
 五月には定期総会が行われました。今年は役員選挙も行われ、導かれ、整えられて歩み出すことができて感謝に思います。役員の一人に選ばれましたが、このことを神様の御心と受け止め務めていきたく思います。

転入会者より 主の備えの許に 沖縄の旅を終えて思う

○ぶどうの枝第54号(2021年6月27日発行)に掲載(執筆者:FI)

 懐かしい佐倉教会に再び帰り、教会生活ができることを感謝します。しばらく私は、沖縄でフードバンク活動をライフワークに、十三年間過ごしました。沖縄は、亜熱帯の自然豊かなリゾートではありますが、歴史的、文化的、民族のDNAも違う、日本語が通じる異国。ここで自らが「ヤマト(大和、本土)の人間」という異質なタイプの日本人であることを初めて意識させられました。
 そんな異文化の中で、明るく屈託ないウチナーンチュたちにも、ふとしたときに表れる心の陰りを感じることがありました。それは、沖縄戦で受けた今も癒えない傷がヤマトンチュウ(大和の人)には理解されないことへのわだかまりなのか、特に高齢者から感じさせられました。お互いに違和感を持ちながらも、お互いを受け入れ文化を分かち合いながら、志を共にする、「NPOフードバンクセカンドハーベスト沖縄」(第二の畑の意)を通じての生活が始まりました。
 メディアでは報道されない実情も次第に分かってきました。温暖な地ゆえに流れてくるホームレスの人たちも多く、母子・父子家庭の困窮世帯の多い中で、本来の「ゆいまーる(助け合い)」の精神がお互いを支え合う原動力になっていることも分かりました。
 私は、なぜここにいるのだろう。縁もゆかりもないここに導かれた意味は何だったのかとふと思うことがありました。
 二〇〇三年、伴侶の死を機に十五年関わっていた「いのちの電話」を退局、そのときの喪失感のつらさから逃れるようにたどり着いた沖縄でした。生きる目標をなくしていたこの頃、東京のフードバンクのことを知りました。「これからはこれだ」と直観、何度目かの沖縄旅行中、友人から沖縄にもフードコートというものができて、近日、勉強会があるとの知らせに、「主の山に備えあり」と喜び、直ちに出席しました。熱っぽく語る三十歳代の主婦の姿に心打たれ、趣旨にも賛同できて、旅行中にもかかわらず、ボランティア登録をして帰宅しました。そして、車に荷物を積み、一か月後には那覇市民になっていました。
 「フードバンク」とは、まだ十分食べられるにもかかわらず、期限が間近などの理由で捨てられてしまう「もったいない食品」を企業や個人から無償で譲り受け、適切な管理の下に生活困窮者や必要とする支援団体などへ無償で提供する活動です。沖縄は、貧困率も高く、その必要性が求められています。
 一方、食料を輸入に頼る我が国は、輸送にかかる二酸化炭素により環境負荷がかかり環境汚染や地球温暖化の一因にもなっています。
 聖書には、初め天地を創られた神様は、人間を祝福して「産めよ、増えよ、地に満ちて、地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這う生き物をすべて支配せよ」とあります。しかし、「従わせよ」「支配せよ」の意味は、「お互いに支え合って一緒に住む」というそうです。神の見えない御手に支えられてこそ「非常に良かった」状態が継続できるのです。けれども今や人は、海も空も地上も支配し、殺りくを繰り広げ、支配の限りを尽くしています。
 多くの飢えた人たちのいることも忘れ、食物は常にあるのだという錯覚の中で、食べ物を無駄にしたり、飽食に走る人間に、「父よ彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ二三章三四節)との御言葉が胸に響きます。そして、「この地を滅ぼすことがないように、わたしはわが前に石垣を築き、石垣の破れ口に立つ者を彼らの中から探し求めたが、見いだすことができなかった」(エゼキエル書二二章三〇節)。この厳しく迫る御言葉の前で、ただ立ち尽くすことしかできない者です。
 それでもなおも赦し憐れんで愛の御手の下にお取り成しくださる主に希望を持って、御旨に叶うような歩みが少しでもできるように願うばかりです。この沖縄での日々は、私自身の生き方が問われ、歩みを軌道修正させてくれた、誠に主が備えてくださった学びの場となり、心を癒やされた旅となりました。深い感謝をもって。
(注)
・ウチナーンチュ…沖縄生まれの人のこと
・ヤマトンチュウ…沖縄県以外の人のこと

転入会者より 迷える一匹の羊 今故郷に帰る

○ぶどうの枝第54号(2021年6月27日発行)に掲載(執筆者:IT)

 私どもの長女は、某国立女子大学卒業の春、前年の国家公務員試験に合格後内定をいただいていました宮内庁に女子総合職第一号として勤務することになりました。入庁後は順調に職務をこなし、三年後には侍従職(しき)に抜てきされ、平成時代の両陛下の身近にお仕えすることとなりました。陛下や当時の皇后美智子さまの御名代として赴く侍従様の供をして、各所に出向く娘を持つ母親である私は、誠に得意の極みにありました。
 順調と思っていた娘が出勤前のある日の朝、突然「仕事に行きたくない」と大粒の涙を流し、泣き出しました。長い欝病との闘いの日々の始まりです。その当時は事情を飲み込めぬまま、医師の言う一時の「疲れ」なら数か月の休養で回復するとばかりの軽い気持ちで楽観視しておりました。がしかし、一向に職場に復帰する兆しがありません。やっと事の重大さに気が付き焦った私は、知り得る限りの癒し信仰を掲げるカリスマ系牧師たちを訪ね、あちらこちらの教会をさ迷っておりました。
 罪を告白せよと言われればその様にし、身の丈に合わない献金を要求されれば従いました。しかし、薬石も祈りの効もないまま病は重くなる一方で、私は半狂乱になっていたと思います。そんな折、上司の侍従次長様のお誘いで東京芝教会の礼拝へ家族で参加させていただくようになりました。思えば子供の頃、私は教団CSに参加しており、また、高校時代に通うよう学校から指示されていたのも教団教会でしたので、芝教会に違和感はありませんでした。その後の様々な道のりを経て十年程前から同じ教団の佐倉教会に出席させていただいておりました。
 迷える一匹の羊であった私を神様は探し出し、正式に転会を許された今やっと故郷に帰してくださいました。不思議な御手と、温かく迎え入れてくださいました金牧師様を始め多くの方々のご愛を思い、心から感謝とお礼を申し上げます(なお芝教会は遠過ぎるのとその後娘の退職に伴い、御無沙汰となりました)。同じ日に転会式に臨まれたI姉には、ご自身の過ぎしのこと等を話し信仰を分かち合って下さいました影響で、私もやっとありのままの自分をここに披瀝することができましたことを感謝しております。このような私ではありますが、どうぞ皆様仲よいお交わりをよろしくお願い申し上げます。
 「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(コリントの信徒への手紙一 一〇章一三節)

召天礼拝弔辞 Kさんありがとう

○ぶどうの枝第54号(2021年6月27日発行)に掲載(執筆者:MT)

 Kさん。
 今までこんな私をかわいがってくださり、大事にしてくださり、本当にありがとうございました。
 今日は、Kさんがきれいな澄んだお声で歌っている姿を思い浮かべながら、愛唱讃美歌の「山路越えて」(四六六番)を皆様と賛美させていただきました。

(四節)
 みちけわしく ゆくてとおし
こころざすかたに いつか着くらん。
(五節)
 されども主よ、われいのらじ
 旅路のおわりの ちかかれとは。

 この詞のとおり、この世の旅路は苦難のときも悲しみのときもおありだったと思います。それでも精一杯神様に心を向けて、この世を愛し、人に尽くし、楽しみながら安心してご奉仕に命を注ぎ、懸命に生きられたお姿に心から感動します。
 私にとっては突然の教会生活の具体的な欠落で、しばらく言葉を失っておりました。日曜の朝ごとに同じ電車に乗り、「Mさん!」と呼び、すいている電車なのにお尻をよけて「ここよ!」と席をくださいます。京成佐倉駅に到着すると、Sさんがお待ちくださり、車でまずは三人で教会学校の礼拝にご一緒させていただきました。
 Kさん、Kさんが焼いてくださったクッキーで教会学校の子供たちが大きくなりました。
 小さく、やんちゃだった子供たちが、この春社会人になりました。神学校に入学した子供もいます。今一生懸命に自分の道をつかもうと模索している子供もいます。クリスマスには毎年二百枚ものクッキーを作ってくださいましたね。「二週間かけて缶の中に貯めて、冷蔵庫に入れておけば大丈夫よ。楽しみなのよ」とにこにことおっしゃって。食べやすい優しい甘いKさんのクッキーとマドレーヌ。忘れません。
 見習うことばかりでしたのに、何も実行できなかったのが悔やまれます。Kさんからの宿題をたくさんいただいたので、これから一つ一つ果たしていけたらと願っています。とても私には全部はできませんが、今度お会いしたとき褒めていただけるように、一つでも多くできるようにしたいと思います。
 Kさん、本当にお世話になりました。
 心からありがとうございます。
 感謝を込めて。

随想 S姉をしのんで

○ぶどうの枝第54号(2021年6月27日発行)に掲載(執筆者:MA)

 S姉に初めてお会いしたのは三十年ほど前で、第一印象で「なんて美しい方だろう」と思ったことを今も鮮明に覚えています。
 その後、佐倉教会で出会い、彼女の深い信仰を知りました。共に、神様に導かれ全てを委ねて歩むことを語り合い、長いお付き合いになったのです。
 近年、施設に入所された彼女を、お見舞いに行く度に「Aさん ありがとう」と笑顔で迎えてくださり、会えたことを共に喜び合ったものです。
 彼女と最後にお会いしたのが佐倉教会の事務室のパソコン画面を通してでした。やはりいつもの笑顔で「何度もありがとう」と言ってくださった。
 彼女の葬儀で金牧師が彼女の好きな聖句を読まれました。それは詩編三七編五節~六節(あなたの道を主に委ねよ、口語訳)
「主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、
 あなたの義を光のように明らかにし、
 あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる」
 このことで彼女の信仰の歩みに再び心を打たれました。今日この頃、世の中がコロナウイルスの脅威下にあって、このように励まし語り合うことは難しく、人びとのつながりも希薄になってきています。外に出れば人を避けることが当たり前になっています。
 佐倉教会においても例外ではなく、心晴れない寂しい日々が続いています。
 今は、かつて彼女と共に祈りをささげた穏やかな教会生活が再び戻ってくるのを祈るばかりです。
 Sさん、私も言うね。「ありがとう」。

美子の取材日記(七) 陣内孝則さんとミッションスクール

○ぶどうの枝第54号(2021年6月27日発行)に掲載(執筆者:YK)

 何年か前、ミュージカル『プリシラ』の稽古場に俳優の陣内孝則さんを訪ねた。錦糸町駅から徒歩二十分ほどのところにあるその「すみだパークスタジオ」では、様々な劇場で演じられる幾つかの舞台作品のお稽古が同時に行われていて、いろんな衣裳を着けた俳優たちがあちこちにいる。彼が出る『プリシラ』は、ドラァグクイーン(女装家)たちが主人公の涙あり笑いありのコメディ。彼の役は陽気な三人のドラァグクイーンのうちの一人で、網タイツ姿で大奮闘だ。
 トレンディドラマ『君の瞳をタイホする!』や『愛しあってるかい!』、日本アカデミー賞で主演男優賞をとった映画『ちょうちん』、NHK大河ドラマ『独眼竜正宗』などに絶え間なく出演してきた男前は今、トレードマークのメガネに白髪交じりで網タイツ。それにしてもトレンディなあの時代って、今から三十年以上も前のことなのだ。
 『プリシラ』で取材に行くと、稽古の合間に稽古場の敷地内に新しくオープンしたカフェに現われた彼は、窓から日が差し込む明るいテーブルに、体を乗り出すようにしてしゃべった。なんとなくギョロッとした大きな瞳で、涼しげに見える。
 福岡出身で、キリスト教の学校に通ったそうだ。その学校は芸能人はじめ文化人や政治家を多く輩出している。
 「僕?ぜーんぜん熱心なクリスチャンじゃありませんよ。ただ、礼拝に出られるときにだけ教会に行ってただけ。『エリザベート』とかのミュージカルの人気者、井上芳雄さんもクリスチャンで、僕とは年齢は離れてるけど同じ福岡出身。彼は、奥さんで女優の知念里奈さんと週末には教会に通っているそうだね。芸能界にはほかにもあの学校の出身者はいるよ。『孤独のグルメ』の松重豊さんとか。それから、同じ福岡出身の女優の吉田羊さんはね、たしか実家のお父さんがプロテスタントの教会の牧師さんのはずだよ」
 同世代だからか話しやすく、彼が出演してきたドラマもなじみがあって会話が楽しくて、人気者のトレンディ俳優と向かい合って話している気がしない。網タイツ姿の男優さんとお茶しながら教会の話をしているなんて、とてもシュール。
 それにしても彼と同じ学校の出身者はみんな「いいかげんなクリスチャン」などと自分を評しているようだけど、多忙な生活の中では食事やお茶のテーブルに着いてもお祈りは省略しているようだ。

2021年7月の主日聖書日課から

7月4日
○歴代誌下6章17-21節
 イスラエルの神、主よ、あなたの僕ダビデになさった約束が、今後も確かに実現されますように。神は果たして人間と共に地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。そして、昼も夜もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが御名を置くと仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。僕とあなたの民イスラエルがこの所に向かって祈り求める願いを聞き届けてください。どうか、あなたのお住まいである天から耳を傾け、聞き届けて、罪を赦してください。

○マタイによる福音書7章7-14節
 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

7月11日
○エレミヤ書7章1-7節
 主からエレミヤに臨んだ言葉。主の神殿の門に立ち、この言葉をもって呼びかけよ。そして、言え。「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。そうすれば、わたしはお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。

○マタイによる福音書7章24-27節
 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」

7月18日
○創世記21章14-20節
 アブラハムは、次の朝早く起き、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた。ハガルは立ち去り、ベエル・シェバの荒れ野をさまよった。革袋の水が無くなると、彼女は子供を一本の灌木の下に寝かせ、「わたしは子供が死ぬのを見るのは忍びない」と言って、矢の届くほど離れ、子供の方を向いて座り込んだ。彼女は子供の方を向いて座ると、声をあげて泣いた。神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。」神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた。神がその子と共におられたので、その子は成長し、荒れ野に住んで弓を射る者となった。

○マタイによる福音書8章5-13節
 さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。

7月25日
○ホセア書6章4-6節
 エフライムよ
 わたしはお前をどうしたらよいのか。
 ユダよ、お前をどうしたらよいのか。
 お前たちの愛は朝の霧
 すぐに消えうせる露のようだ。
 それゆえ、わたしは彼らを
 預言者たちによって切り倒し
 わたしの口の言葉をもって滅ぼす。
 わたしの行う裁きは光のように現れる。
 わたしが喜ぶのは
 愛であっていけにえではなく
 神を知ることであって
 焼き尽くす献げ物ではない。

○マタイによる福音書9章9-13節
 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

出所:聖書日課編集委員会編集「日毎の糧2021」(日本キリスト教団出版局、2020年12月25日発行)より作成

2021年度 年間行事

時刻集会・行事
10:30イースター合同礼拝
2310:30ペンテコステ
1310:30花の日合同礼拝
1910:30敬老・子ども祝福合同礼拝
1110:30召天者記念礼拝
11午後墓前礼拝
112810:30教会創立記念礼拝
121910:30クリスマス合同礼拝
122417:00クリスマスイブ礼拝
1225午後子どもクリスマス会
10:30新年礼拝

2021年6月の主日聖書日課から

6月6日
○エゼキエル書18章30-32節
 それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。

○使徒言行録17章29-31節
 わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」

6月13日
○イザヤ書60章19-22節
 太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず
 月の輝きがあなたを照らすこともない。
 主があなたのとこしえの光となり
 あなたの神があなたの輝きとなられる。
 あなたの太陽は再び沈むことなく
 あなたの月は欠けることがない。
 主があなたの永遠の光となり
 あなたの嘆きの日々は終わる。
 あなたの民は皆、主に従う者となり
 とこしえに地を継ぎ
 わたしの植えた若木、わたしの手の業として
 輝きに包まれる。
 最も小さいものも千人となり
 最も弱いものも強大な国となる。
 主なるわたしは、時が来れば速やかに行う。

○フィリピの信徒への手紙2章12-16節
 だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。

6月20日
○申命記26章5-11節
 あなたはあなたの神、主の前で次のように告白しなさい。「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。エジプト人はこのわたしたちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。わたしたちが先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました。」あなたはそれから、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前にひれ伏し、あなたの神、主があなたとあなたの家族に与えられたすべての賜物を、レビ人およびあなたの中に住んでいる寄留者と共に喜び祝いなさい。

○コリントの信徒への手紙二8章9-15節
 あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。この件についてわたしの意見を述べておきます。それがあなたがたの益になるからです。あなたがたは、このことを去年から他に先がけて実行したばかりでなく、実行したいと願ってもいました。だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。進んで行う気持があれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。
 「多く集めた者も、余ることはなく、
 わずかしか集めなかった者も、
 不足することはなかった」と書いてあるとおりです。

6月27日
○イザヤ書49章14-18節
 シオンは言う。
 主はわたしを見捨てられた
 わたしの主はわたしを忘れられた、と。
 女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
 母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
 たとえ、女たちが忘れようとも
 わたしがあなたを忘れることは決してない。
 見よ、わたしはあなたを
 わたしの手のひらに刻みつける。
 あなたの城壁は常にわたしの前にある。
 あなたを破壊した者は速やかに来たが
 あなたを建てる者は更に速やかに来る。
 あなたを廃虚とした者はあなたを去る。
 目を上げて、見渡すがよい。
 彼らはすべて集められ、あなたのもとに来る。
 わたしは生きている、と主は言われる。
 あなたは彼らのすべてを飾りのように身にまとい
 花嫁の帯のように結ぶであろう。

○使徒言行録4章32-37節
 信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。

出所:聖書日課編集委員会編集「日毎の糧2021」(日本キリスト教団出版局、2020年12月25日発行)より作成