「キリスト・イエスの心を心にせよ」 謙遜と尊敬の心を持って フィリピの信徒への手紙二章一~五節

○ぶどうの枝第61号(2024年12月22日発行)に掲載(執筆者:金 南錫牧師)

 今日のところでは、キリストにあって、思いを一つにするようにという勧めがなされています。一節、二節に「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、〝霊〟による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」とあります。「そこで」と始まっていますが、これは、それまで述べてきたことを言っています。そして、あなたがたはイエスの十字架の愛によって、天の御国に属する市民となったので、御国の一員として、同じ思いとなりなさいと勧めています。
 ところが、フィリピ教会の中には一致できない問題があったようでした。一章一五節に「ねたみと争いの念にかられてする者もいれば」とあります。教会の中で、妬みや争いの念に駆られて、イエス様のことを宣べ伝える人がいたようです。それから、四章二節にはエボディアとシンティケという二人の女性が出てきますが、その二人の間に一致できない問題があったことが伺えます。パウロはこの二人に「主において同じ思いを抱きなさい」と言っています。恐らく、この二人はイエス様のことを熱心に伝えたい、その熱心さのゆえに、お互いに譲らないことがあったようです。同じ信仰の仲間なのに、同じ思いになれない現実がありました。
 それは、この手紙を書いたパウロ自身もかつて経験したことでした。パウロが、第二回目の伝道旅行に出かけたときのことです。それまで一緒に働いてきたバルナバがいとこのマルコを連れていきたいと言い出しました。それに対して、パウロは強く反対します。それは、マルコが第一回目の伝道旅行のときに、途中で家に帰ってしまったからです。パウロはそんな者は一緒に連れていくべきではないと考えました。そこで、意見が激しく衝突して、二人はついに別行動を取ることになってしまいました(使徒一五章三九節)。後になって、二人は和解をするのですが、パウロにとってつらい出来事であったと思います。
 では、パウロはどのようにして、思いを一つにしなさいと言っているのでしょうか。一節をもう一度お読みします。「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、〝霊〟による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら」とあります。これは、条件というよりも、私たちには「キリストによる励まし、愛の慰め、〝霊〟による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるのだから」という意味合いがあります。つまり、教会の真ん中にはイエス・キリストがおられ、お互いがつながっているのです。そして、その教会にはキリストによる励まし、愛の慰めが注がれています。また、同じ聖霊の交わりによって、お互いの間に慈しみや憐れみの心が満ちています。だから、思いを一つにすることできるということです。
 でもそうは言っても、実際には中々同じ思いになれない現実があります。三節前半に「何事も利己心や虚栄心からするのではなく」とあります。ここに教会の一致を妨げるものとして、二つのことが挙げられています。一つは、利己心です。自分の利益だけを求めることです。教会の心を優先するのではなく、自分の心、自分の願い、自分の利益を優先することです。そうした自分のことを優先すると、どうしても意見がぶつかってしまいます。同じ思いになることが難しくなります。もう一つは、虚栄心です。実際の自分よりも、良く見せようとすることです。見えを張ることです。人は誰でも、このような利口心や虚栄心があるので、中々思いを一つにすることが難しくなります。

 「へりくだる」ことと謙遜な者になること

 ところが、パウロは思いを一つにするために、三節後半で「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」と勧めています。ここにも二つのことが挙げられています。一つは「へりくだる」ことです。自分を低くすること、謙遜な者になることです。本来、人は本能的に自分を低くすることが中々できない存在なのかも知れません。それでも、神様は私たちに謙遜な者になることを求めておられます。そして、もう一つのことは、「相手を自分よりも優れた者と考えること」です。他者を敬うこと、尊敬することです。これも心から実行することは中々難しいことです。でも、なぜ、謙遜と尊敬の心を持たなければならないのでしょうか。それは、神様の前には誰も誇れる者はいないからです。皆、神様の前に罪深く、傲慢な者です。この私たちのために、御子なるイエス様が低くなって、人となり、家畜小屋の硬い飼い葉桶で生まれ、十字架で尊い命をささげてくださいました。私たちに代わって、私たちの罪をあがなってくださいました。それが、どれほど大きな恵みなのか、本当に分かるときに、謙遜と尊敬の心が与えられるのではないでしょうか。そして、本当の意味で、自らへりくだり、相手を自分よりも優れた者と考えることができるのだと思います。
 今年、創立百二十周年を迎えている佐倉教会のこれまでの営みの中、いろんな意見の対立があったと思われます。その中で、どうやって一つの思いになっていくのか、そのことを信仰の先輩たちが大事にしてこられたので、今、創立百二十周年という大きな恵みを受けているのだと思います。フィリピの教会は、利己心と虚栄心のために信仰生活を送るような悲しい現実がありました。パウロはそういう状況を聞いて、勧めています。「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」
 最後の五節に「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです」とあります。「このこと」というのは、一節から四節まで記されてきたこと、つまり、思いを一つにすることを心掛けなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものなのだというのです。文語訳聖書では「汝らキリスト・イエスの心を心にせよ」と訳しました。あなたたちは、キリストの心を自分の心にしなさいということです。教会の一致を求めるキリストの心を、自分の心としてしっかりと受け止めることです。その集まりこそ、一致が得られるのだろうと思います。
 星野富弘さんの詩の中、「強いものが集まったよりも、弱いものが集まったほうが、真実に近いような気がする」という一節があります。自分の弱さを知り、キリストの力のみを頼るとき、初めて教会の一致が得られるのではないかと思います。「汝ら、キリスト・イエスの心を心にせよ」キリストが示してくださった心を、自分の心としてしっかりと受け止めて、主にある一致を求めてまいりたいと思います。

転入会者より 父との八年の介護生活 神様のご計画を受け入れる

○ぶどうの枝第61号(2024年12月22日発行)に掲載(執筆者:YK)

 このたび佐倉教会の会員として十一月十日に迎え入れていただきました。大変うれしく思っております。佐倉教会を最初に訪れたのは父の洗礼式で、二〇一二年四月八日でした。教会堂一杯に美しいオルガンの音色が響き渡っていました。聖歌隊の歌声が奇麗だったのも印象的でした。百二十年もの間、佐倉の地で福音を宣べ伝える教会として守られてきたことに、神様からの祝福を感じます。また私を佐倉教会に導いていただいた大きな主の恵みに感謝しています。
 二〇二四年六月十七日が父とのお別れの日となりました。「介護生活がいつまで続くか分かりませんが、神様に全てを委ねていきます」と六月発行のぶどうの枝第六十号に載せていただきました。その直後に父は神様の元へ旅立ちました。主に全てを委ねつつもお別れがくる日が怖くて、毎晩「今まで守ってくれてありがとう」と伝えていました。神様のご計画だと思うと、感謝とともに受け入れることができた気がします。父との介護生活は八年間でした。大変でくじけそうな時期もありましたが、体が不自由になっても不平不満一つ言わなかった父から見習うことも多々ありました。
 ベッド上での生活が主になった父の自宅を、金牧師と教会員の方々が何度となく訪問してくださいました。聖書の学び、祈り、励ましで支えていただいた日々は忘れられない体験です。また祈祷会でのお祈りなど、たくさんのお支えがありました。金牧師、会員の皆様に心より感謝いたします。母は八年前に神様の元へ導かれましたので、両親とも地上での歩みを終えました。両親との別れはつらいものでありますが、救いと祝福を与えてくださる主に感謝の気持ちで一杯です。
 皆様に支えていただきながら、感謝と祈りを忘れず、謙遜に歩んでいきたいと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。

随想 教会はイエス様を乗せた舟

○ぶどうの枝第61号(2024年12月22日発行)に掲載(執筆者:MO)

 佐倉教会は百二十周年を共に祝う記念礼拝を守ることができました。礼拝後の愛餐会で思い出の写真がスクリーンに映し出され懐かしい方々のお顔があり、その中にTIさんのお顔もありました。
 黒田先生の時代に、「これからの佐倉教会、こんな教会になれば良いな」と佐倉教会の在り方を話し合ったことがありました。礼拝者人数がどんどん増えていた頃で大きな建物が必要との意見が多い中、Iさんが、「器のハード面ばかりに重きを置くのではなく、近い将来高齢化が進み、少子化も必ず問題になる。教会も同じであり、これからの少子高齢化時代を見据えソフト面の対応を考えるべき」と話されたことが思い出されます。私は、四世代八人家族で生活し、主人の祖父母を家族で看取り、人が最後に向う道のりを生活の中で経験していたので、Iさんの意見は当時強く心に残りました。
 現在、正にその状況で不安が大きかったのですが、記念礼拝の何日か前に所用で教会をお訪ねしたら金先生が思い出の写真を四竃さんが持ってきてくださった。と私にも見せてくださいました。そして金先生が思ったよりたくさんの方の出入りがありますね。とおっしゃいました。私も懐かしいお顔を拝見しながら同じことに気が付きました。そしてちょっとだけ、大丈夫かもと漠然と思いました。
 百二十周年記念礼拝は木下宣世先生の説教「どんな時も、主は共に」をお聞きしました。教会は舟であり「板子一枚下は地獄」私は海辺の町で育ちましたので子供の頃から聞いていた言葉でした。教会はいつも順調な時ばかりではない。様々な問題で漕いでも、漕いでも前に進めないような逆風。前にも後ろにも進めない状況。そこにイエス様は湖面を歩いてきてくださり「私だ。恐れることはない。」とおっしゃいました。イエス様は私達には考え付かないような形で来てくださいます。百二十年航海を続けた佐倉教会、様々な問題があったけれど百二十年礼拝を守ることができたのは神様がいてくださった印です。これからの航海も、様々な困難が待ち受けていても、どこからでも駆けつけてくださるイエス様の御言葉を信じて目的地に向かって進んでいける舟であります。
 木下先生の説教により、不安な気持ちは消えて大丈夫。教会はイエス様を乗せた舟として進んでいける。教会員それぞれができることをできるように力を合わせ、金先生を中心に祈りを合わせ進んでいけばよいのだと少し明るい気持ちになりました。

奨励 私たちの信仰の土台 復活されたキリストと歩む

○ぶどうの枝第61号(2024年12月22日発行)に掲載(執筆者:TI)

 礼拝奨励の務めをすることが決まってから、何を取り上げたらよいのかと考えていました。毎日の習慣として、できる限り新約と旧約を一章ずつ読むようにしていますが、たまたまある日の聖書箇所で、とても力強く響くパウロの言葉に出会いました。ここだと思いました。コリントの信徒の手紙一の一五章で、復活について述べたパウロの言葉です。
 「そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。(中略)そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」(コリントの信徒の手紙一 一五章一四節~一九節)
 私たちは、キリスト者として信仰において歩もうと努めています。そうした私たちの歩み自体は、キリストの復活により支えられていること、キリストの復活が私たちの信仰の土台であることを改めて確認したいと思います。
 私は、愛知県名古屋市内で生まれ育ちました。高校三年の秋に教会の礼拝に初めて出席し、その一年後、一九七四年の秋、大学一年のとき、両親の反対を顧みず、東京都新宿区の大久保教会においてバプテスマを受けました。通っていた教会は、日本バプテスト連盟の教会でしたので、バプテスマ(浸礼)を受けました。
 佐倉市への転居や年齢的なことを考え、佐倉教会に転入したのは、二〇〇八年三月、五十二歳のときでした。転入してきた頃、佐倉教会では、信仰生活五十年を迎えた方々を十一月の教会創立記念日にお祝いすることを始めました。信仰の諸先輩の皆さんのお祝いを見て、信仰生活五十年なんてまだまだ遠い先のことと考えていましたが、いつのまにか私自身が信仰生活五十年となり、感慨深いものがあります。
 私の信仰は、若い頃に主イエス・キリストに出会い、主を見上げ、励まされて歩んできただけという素朴な信仰です。ただ、私は、今も主イエス・キリストが私たち一人一人と歩んでくださっていることを実感として強く感じます。特に、教会の礼拝の場では、主が正にここにいらっしゃると思うのです。もちろん、それはあくまで私のうちの思いであって、他の人にそう説明しても、中々実感として理解してもらうことは難しいかもしれません。

 主イエス・キリストと私たちを結ぶもの

 主イエスが救い主キリストであることは、もちろん聖書を読めば繰り返し言われていることです。しかし、聖書に書いてあることを過去に起こった一度限りの出来事として捉えるならば、確かにそういうことがありましたね、で終わってしまうかもしれません。
 でもそうではないと思います。今から約二千年前にユダヤの地において主イエスが宣教されたことと、今を生きる私たちを主イエス・キリストへと結ぶものがあります。それが復活です。私も、主イエス・キリストが救い主であるとの信仰を持っている皆さんも、キリストの復活がなければ、本日の聖書の箇所でパウロが強く説いているように、私たちは空しい者となります。キリストの復活がなければ、私の信仰五十年の生活は何だったのか、すべて無駄であったということだと思います。もちろん、私も皆さんもこれまでの歩みが空しいものだったとは考えたくありません。キリストの復活は、私たちにとって一種の賭けとも言えるかもしれません。一方、信仰を持たない方から見れば、私たちは正に負ける賭けをしているのではないかと思うでしょう。
 信仰において、私たちには、時に、迷い、疑い、不信に悩まされることがあるかもしれません。弱ったときには、目に見えない主イエス・キリストをどのように信じ、歩んでいけば良いのか迷うこともあるかもしれません。もし、キリストが復活しなかったのならば、私たちの信仰は空しく、この世の生活でキリストに望みを掛けている私たちは、全ての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。
 私が信仰を決心したのは、キリストが十字架につけられたとき、私も一人の惨めな人間としてキリストの十字架の下に立っており、キリストが私の身代わりとなってくださったことを実感として受け入れることができたからでした。でも、信仰生活を続けていくことは、一時の気持ちだけでは中々難しいところがあります。理想とは違い、実生活では、いろいろなことがあります。私にも人間的に欠けたところ、足りないところが多々ありますので、もちろん、何度も苦しい思いをしました。就職がうまくいかず、大学を一年留年せざるを得なかったとき、人生経験豊かな父の友人たちからは、人生とは何かをこんこんと説教されました。一言で言えば、「君は、キリスト教信仰を持っていても、世の中のことは何も分かっていないのだよ」ということでした。私には何も返すべき言葉がありませんでした。
 これまで、決して信仰の確信に満ちた人生でも、順風満帆の人生でもありません。でも、私は、今生きています。思い、悩み、迷いながらも今立っているのは、キリストの恵みであると思いますし、復活されたキリストご自身が共に歩んでくださっているからだと思います。私たちの望みはキリストの復活にかかっていること、今日も、明日も、人生の最後の時を迎えるまで覚えていたいものです。
 (本稿は本年八月二十五日の礼拝奨励の原稿をまとめ直したものです)

わたしの家は祈りの家でなければならない 祈りの重要性を思う ルカによる福音書一九章四一~四八節

○ぶどうの枝第60号(2024年6月30日発行)に掲載(執筆者:牧師 金 南錫)

 エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエス様は泣いておられたのです。そしてこうおっしゃいました。「やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう」(四三、四四節)。
 これはイエス様の預言の言葉です。これから四十年後に、エルサレムの都はローマ軍によって、崩壊してしまうのです。そのことを「お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう」と予告しているわけです。そして、なぜそのようなことが起こるか、「それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである」とあります(四四節b)。
 つまり、イエス様がエルサレムを訪れようとしている今が、神の訪れのときなのに、エルサレムの人々はそれをわきまえなかったのです。それどころか、これからイエス様を十字架につけて、殺してしまうのです。イエス様はそのような未来を見据えながら、今、涙を流しておられるのです。
 四五節以下は、エルサレムの未来を見据えながら、泣いておられるイエス様が、エルサレム神殿に入って、行われた出来事が記されています。イエス様がエルサレム神殿の境内に入って、最初になさったことは商売人たちを追い出すことでした。当時、神殿には両替人がいました。というのは、いろんなところから集まってくるユダヤ人たちは、普段使っているお金をユダヤの貨幣に両替して、神殿にささげる必要がありました。そのときに、商売人たちは手数料を取るわけです。また、神殿で祈りをささげるには、いけにえの動物が必要でした。しかし、その動物を自分の家から連れてくるというのは至難の業です。ですから、エルサレム神殿の境内で、何倍ものする値段で買うようになります。
 このように、神殿の境内で商売をしていた人々は、神殿にやってくる人たちのお金を奪い取ったのです。祈りの家である神殿が商売のために変わってしまったのです。その姿を見て、イエス様は神殿の境内で商売をしていた人々を追い出して、言われました。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』 ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」(四六節)。祈りの家としての神殿は、神様の御心を受け取って、悔い改めて、自分を変えていただく場所です。ところが、その神殿が、神様を利用して、自分の願いを成し遂げようとする強盗の巣になってしまったのです。イエス様は商売人たちを追い出して、神殿を清められました。そして、毎日、イエス様は神殿の境内で教えておられました。それまでお金を奪い取られた人たちは、もう「夢中になってイエス様の話に、聞き入るようになった」とあります(四八節)。
 このようにして、イエス様は強盗の巣になってしまったエルサレム神殿を祈りの家として、回復しようとなさいました。教会は祈りの家です。それでは、その祈りというのは、どういうことでしょうか。「自分の願いを聞いてください」とお願いする、そういう祈りなのでしょうか。イエス様が「わたしの家は、祈りの家でなければならない」と言われたときの「祈り」は、そういう祈りではないと思います。自分の願いを祈る、それも大事でありますが、それ以上に、神様の願いは何であるのか、神様の御心はどこにあるのか、それを祈ることです。そのために、神様が私たちを取り扱われる方法は、私たちの限られた頭脳では理解できないことが多いのです。むしろ私たちの願いに逆らって行われることが多いのではないでしょうか。「応えられた祈り」という詩があります。
 「功績を立てようと、神に力を祈り求めたのに、謙遜に服従するようにと、弱さを与えられた。より大きなことをしようと、健康を祈り求めたのに、より良いことをするようにと、病気を与えられた。幸福になるようにと、富を祈り求めたのに、賢くなるようにと、貧しさを与えられた。人々の賞賛を得ようと、力を祈り求めたのに、神の必要を感じるようにと、弱さを与えられた。人生を楽しもうと、あらゆるものを祈り求めたのに、あらゆるものを楽しむようにと、人生を与えられた。祈り求めたものは何一つ与えられなかったのに、実は私が望んでいたすべてのものが与えられた。」
 この祈りのように、神様が私たちを取り扱われる方法は、私たちの願いに逆らって行われることが多いのです。しかし、結局のところ、私たちの祈りはいつも聞かれているのです。神様の導きによって、私たちは「祈り求めたものは何一つ与えられなかったのに、実は私が望んでいたすべてのものが与えられた」という恵みにあずかるのです。また、その神の導きの中で、自分の願いではなくて、神様の願い、神様の御心を受け取っていくのです。

 百二十周年を迎えた佐倉教会

 今年、佐倉教会がこの地に建てられて、百二十周年を迎えます。この百二十年の歩みの中、佐倉教会は、戦前、戦後、時代の流れと共に様々な荒波や、混乱を乗り越えて、今日に至っています。改めて、佐倉教会の創立八十周年記念誌や、百周年記念誌を読みながら、石川キク先生時代、島津虔一先生時代、有馬尊義先生時代、黒田直人先生時代、それぞれの時代に、本当に多くの信徒たちの支えと祈りがあったからこそ、佐倉教会が今日までに至っていると思わされました。
 一九八四年、佐倉教会八十周年記念誌に、STさんが「祈りの大切さ」という短い文章を書いてくださいました。
 「埼玉県の礼拝出席者数が毎週五十名を超す教会で、高校生活、青年会を経験し、一家を持って当教会にお世話になっては早や十七年。移った当時は、故石川キク牧師、薄暗い会堂で、女性ばかりのもの静かな老人の教会という印象だった。私も信仰的にピンチだったため、しばらく遠ざかっていたが、やがて石川先生の神への信頼度一〇〇%の信仰に打たれ、己の愚かな態度を猛省し、再び礼拝に出席するようになったが、今でも私のどこかで先生がおられるような気がしてはならない。そして今の島津先生に引き継がれ現在至っているが、この佐倉教会は、確かに主にあって守られ、導かれている教会、牧師であることを感じる今である。さらに尚更祈りの重要性を思う。」
 STさんが四十年前に書いた文章です。その中で最後に「さらに尚更祈りの重要性を思う」と書いてありますが、その文章を読んでいるとき、まさに今佐倉教会に求められていることではないかと、思わされました。教会員一人一人が、自分の願いではなく、主の御心を求めていくときに、佐倉教会は「祈りの家」として変えられていくのでしょう。
 「わたしの家は、祈りの家でなければならない。」
 教会はまさに祈りの家です。毎週、私たちはこの祈りの家に招かれて祈るのですが、それは、自分の願いばかりではなく、神様の願いは何であるのか、神様の御心はどこにあるのか、そう祈ることによって、自分も変えられていくし、佐倉教会も祈りの家へと変えられていくのです。それが「祈りの家」である教会の本来の姿ではないでしょうか。この恵みに生かされて、祈る人として共に歩んでいきたいと思います。

随想 緑奏でる主の庭を目指して 庭造りを始めて半世紀

○ぶどうの枝第60号(2024年6月30日発行)に掲載(執筆者:KH)

 私たち夫婦が和と洋の庭造りを始め、半世紀以上になります。住居は佐倉市南部にある農村和田地区に位置し、国道五十一号線のそば、佐倉インターに三分。成田空港へは約十五分。国内外旅行には大変便利で快調と若い頃には喜んでおりました。しかし昭和五十年頃でしょうか、佐倉第三工業団地に大きな会社群が姿を見せ始め、巨大な建物が庭先から見えるようになってきました。いずれは、我が家の近くまで迫ってくるであろうことに一抹の不安を持たずにはいられませんでした。
 そのようなとき、当時主人が勤務していた佐倉市役所内に園芸部が発足。毎年市長さんはじめ職員家族を交え、大型バスにて埼玉県川口市の植木の町・安行(あんぎょう)や東京神代植物園等の緑化視察を兼ね、出かけるたび珍しい植物・植木等を買い求めては植えました。繰り返すうちに、我が家の自主緑化が進み、日本庭園造りに発展しました。
 後、私は四十半ばで職を辞し、茶道・生花教室を自宅にて開き、出稽古等に忙しく、充実感に満ちていました。本来ならこのような働きができることをまず神様に感謝すべきところですが、私は全く神様から離れていたのです。
 そのような折、永く兼業農家をしつつ会社勤めをしていた義母が六十歳定年を迎え、退職をした翌日、「この畑は和子さんに譲るから」と宣言。退職日さえ知らされていなかった私は、びっくり噓のような出来事でした。それでは花畑にでも、とのんびり気分でいました。しかし、現実は厳しく、肥沃な畑は手を加えなければ草は容赦なく生え、伸び茂ります。約二百坪ある畑を前に既に思考回路は断たれ、それでも自力本願でどうにかしなければと畑の前にたたずむことの日々。だんだん肩の荷が重くなり、うつ気味に。そんなある日、ふと「これは神様が私に与えてくれた畑」と素直に受け入れた時、不思議に(汝思い煩うことなかれ……主は耐えらぬ試練を与えられることはない、空の鳥を見なさい)等々主のいたわりある御言葉が次々と私を覆い包んでくれました。涙があふれ、感謝の祈りをしたことを今もはっきりと覚えています。本当に苦しいとき、主は祈りに応えてくれることを実感しました。
 その後、体調も徐々に回復。固まっていた頭も快調、創作意欲も全開。私たちの庭は「神様から預かった庭」をコンセプトに造っていこうと思い、取り組みました。
 主人は造形物を造るのが上手な人で注文した物をしっかりと造り上げてくれ、二人三脚でどんどん庭は変化していきました。
 五月の洋風の庭は、バラを中心に様々な草花が咲き乱れ、多種の蝶やトンボ、かわいらしい小鳥が庭を舞います。また、和風の庭は四季折々、木々に花をつけ、落ち着いた心静まる場となります。
 私は詩篇二三編が大好きです。
 「主は我が牧者なり我乏しきことあらじ、主は我を緑の野にふさせ憩いの汀に伴い給う 主は我が魂を 生き返らせたもう」 と 私たちの庭を訪れてくださる方たちが、安らかな気持ちで、ここにとどまってくれたら本当にうれしいです。
 庭も年数を重ね、充実期を迎えつつあるとき、英国The NGS(ナショナルガーデンスキム) 母体のNGSジャパンより庭園福祉活動を通しての協力依頼を受け、庭を開放し十年になります。
 主が「あなたの隣人を愛しなさい」と教えられたことを大切に思い、主人と共に造りあげてきた庭です。しかし、神様から預かった物はいずれ神様に返す日がきます。後はどうしようと思い煩うことなく、神様に委ね、これからも守っていきたいと思います。

随想 「ゆうゆうの里」の聖書を読む会 施設開設と同時に発足

○ぶどうの枝第60号(2024年6月30日発行)に掲載(執筆者:YA)

 今から三十六年前の一九八八年五月、「佐倉ゆうゆうの里」の開所式に佐倉教会の島津虔一牧師が出席したと、記録にあります。施設の建設が計画されたとき、浜松の聖隷福祉事業団がその構想に関わったことに由来します。
 聖隷福祉事業団の始まりは一九三〇年に長谷川保青年をリーダーとする若いキリスト者たちが結核で苦しむ人たちを助けるために起こしたもので、彼らは資金も援助もない中で結核患者らの食べ残した食事を大鍋で煮て食べながら働いた、と言われています。長谷川保はその後もイエス・キリストの教えを実践する生涯を送り、後に参議院議員にもなりました。聖隷福祉事業団はその後も「ゆうゆうの里」に有形無形の支援をしてきました。「ゆうゆうの里」は設立当初からキリスト教とのつながりがあったのです。
 開設と同時に「聖書を学ぶ会」が発足しました。その翌年には入居者のFGさんが島津牧師によって受洗しました。さらに一九九四年十二月から九か月間、佐倉教会が新会堂建設の期間中、「ゆうゆうの里」の施設を借りて礼拝を行った歴史があります。以後、この集会は「賛美歌と聖書の会」、「賛美歌の会」と呼称を変えながら、有馬尊義牧師、黒田直人牧師の指導に引き継がれて、金南錫牧師の今日に至ります。
 現在は毎月第二火曜日の午前十時三十分から一時間、集会室を借りて「聖書を読む会」を開いています。昨年の出席者は平均十四名/月で、そのうちの半数が佐倉教会の会員、半数が入居者です。その月の誕生日の人を歌でお祝いしてケーキをいただきます。呼び物はその日の聖書の箇所を再現するパフォーマンスです。寸劇の演出は某教会員、配役は某牧師と夫人及び某教会員と夫人、その熱演はここだけにしておくのはもったいないほどです。さらにクリスマス特別集会などには佐倉教会の有志の皆さんや追加の入居者の参加があり、正に教会の伝道の一端となっていると言ってもよいでしょう。これは紛れもなく宗教活動であり通常の公共施設では問題視されても仕方がないはずです。なのに「ゆうゆうの里」は佐倉教会のこの活動には寛容であるばかりでなくスタッフの皆さんは大変協力的です。それは先にご紹介したようにこの施設がスタートしたときからキリスト教の理念を胚胎していたことを知れば不思議ではないでしょう。
 以上、簡単ながら「ゆうゆうの里」の「聖書を読む会」のご紹介をしました。佐倉教会の皆様のお出でを歓迎します。余談になりますが聖隷佐倉市民病院は国立病院であったものが民営化されたときに浜松の聖隷福祉事業団が経営に参画するようになりました。その故に、この病院の増築工事の起工式などの式典には必ず佐倉教会の牧師が招かれているのです。

随想 父と共に生かされて 皆様の祈りに支えられる

○ぶどうの枝第60号(2024年6月30日発行)に掲載(執筆者:YK)

 「同期二十四人のうち、元気なのはあと三人になりました。N君は元気ですか?」長く勤めた職場の同期の方から、今年九十歳になった父宛てに電話がありました。その方とは同じ囲碁の趣味を持ち、親しくさせていただいたようです。体は徐々に弱って思うように動けないですが、神さまが守ってくださり、長く生かされているのだと改めて実感しました。
 母は二〇一六年一月、天に召されました。ある寒い朝、胸が強く痛むと救急車で病院に運ばれ、その日のうちに旅立ってしまいました。あまりに突然でした。父はその時期に腸が悪く、開腹手術を受けたばかりで入院中でした。「きょう悦子(母の名前)は来ないの?」父からの問いかけに、母の死を告げるのが何ともつらかったです。腸の病でやせ細った体を震わせて、病院のベッドで号泣していました。父を支える存在が急にいなくなってしまったので、そこから私と父が共に暮らす日々が始まりました。最初は要介護三でしたが、今では要介護五になりました。父と二人暮らし、はや七年。八年目に入ります。
 今より体が動かせた頃は、佐倉教会の礼拝に月に一、二度出席しておりました。「教会に行こう」と言うと、うれしそうに準備をしていたのがついこの前のようです。牧師の説教を聞き、讃美歌を歌い、安心したような表情をしていました。デイサービスに「今日は行きたくないなあ」と言ったことはありましたが、「今日は教会に行きたくない」と言ったことは不思議と一度もありませんでした。最近は礼拝のYouTube配信を視聴させていただいております。
 父は温厚な性格です。腹を立てず不平不満を言ったことがなく、人の悪口を言うのを聞いたこともありません。若い頃は何とも思っていなかったのですが、最近は父の人柄をいとおしく感じます。神様が私に与えてくださった大切な存在であると素直に思えるのです。
 数年前に私自身の体調が悪くなり、うまく睡眠も取れなくなり、体のあちこちが痛くなり、痛み止めの薬が手放せなくなった時期がありました。父の介護はもう無理かもしれないと諦めかけたこともありましたが、進むべき道へお導きくださいと祈りました。諦めかけた頃、不思議と体調が回復して痛みが減り、生きる力が湧いてきたのです。また介護生活が順調にいくようになりました。神さまが導いてくださったのだと心から感じました。
 この生活をいつまで続けられるか、先が見えないことは心配ごとの一つではあります。悩むことも多いですが、人の力で悩みを解決しようとしても、解決できたことはほとんどない気がします。神さまを信頼して祈り、すべてをお任せすることが大切だと思っています。
 とはいいつつ、理想通りにいかないことも多々あります。自分自身の欲深いところ、自分の現状に不平不満を感じるところ、イライラすること、人のことを羨む心、日々反省しています。謙虚さと感謝の気持ちを忘れず生活していくのが目標です。
 金牧師、会員の方々が自宅訪問をしてくださることに心より感謝しています。神様、教会、会員の方々とつながっていると感じます。皆様の祈りに支えられています。小さな存在でも愛されていることを教えていただく機会が多いです。
 父は外出できなくなり、礼拝には出席できませんが、神さまのことは忘れず生活しております。神様どうか穏やかな心で過ごせますようにお守りください。
(KNさんは、二〇二四年六月十七日、天に召されました)

随想 東京基督教大学での四年目の学び 神様の召しに応えて

○ぶどうの枝第60号(2024年6月30日発行)に掲載(執筆者:SK)

 佐倉教会の皆様、お久しぶりです。現在は、八千代聖書教会という八千代市にある教会で礼拝生活を送っています。長期休みの際に佐倉教会に戻るといつも「何年生になったの?」と声を掛けていただく機会があります。私は大学四年生になりました。小学生のときからいつもそのように話しかけていただいていました。答えるといつも、「もうそんなに大きくなったのね!前はこんなに小さかったのに!」と言っていただいていたのを覚えています。自分自身、大きくなったなと実感することはあまり多くなかったように思いますが、皆様に成長を見守っていただけたことはとてもうれしいことです。しかし、最近は「大学四年生になりました」と言っている自分に大変驚きます。この間まで自分はあんなに小さかったのに……。皆様の気持ちがやっと分かるようになりました。(笑)
 さて、私は二〇二一年に東京基督教大学に入学をしました。時がたつのはあっという間で、もう四年生、最終学年です。と言っても同大学の大学院に進みたいと願っているので学生生活はもう少し続きそうです。ただ、学部の学びは最終学年になるので昨年よりも少し特別な思いを持っています。入学する前は聖書を一人で読むことなんてあり得なかった私が今では、聖書を書かれたそのままの言語で、つまり旧約聖書はヘブライ語、新約聖書はギリシャ語で読むことができるように勉強しています。また、今年は卒業研究にも取り組んでいます。「幼児洗礼」についての研究を進めたいと考えています。まだテーマを絞る作業をしている途中なのですが、私自身もこの佐倉教会で幼児洗礼を授けられ、教会に育てられましたので実存的なテーマでもありとても楽しく研究を進めています。
 東京基督教大学はとてもユニークな場所です。年齢、国籍、性格、また教会の教派、信仰の背景などそれぞれ全く異なる人たちが同じ神様を見上げて学んでいます。社会での働きを経験してから学ばれている人生の先輩が同じ学年の仲間として与えられています。先輩なのか、友達なのか、はたまた兄弟のように感じる瞬間もあり、共に祈り支え合いながら学んでいます。また、留学生の割合は全体の三分の一ほどとなっており、英語を使ってコミュニケーションを取る機会も割と多くあります。英語を話せるようになったのか……会話は理解してもらえる程度……と表現するのがよいでしょうか。(笑)拙い英語ではありますが、コミュニケーションを取ることができ、留学生と信仰や神様の話をすることもあります。言語の壁を越えて、同じ神様を賛美し礼拝できる喜びがあります。
 また、「賛美」は新しい世界に出会った感覚があります。「ワーシップソング」と呼ばれる讃美歌のよりポップな音楽があります。ギターやドラムなどバンド演奏を用いて賛美をささげます。母が教会でオルガンを弾いていますが、私は「カホン」という箱のような形をしたドラムのような役割をする楽器で奏楽をすることがあります。また今は「ギター」や「ドラム」などの楽器を練習しています。賛美にも様々な形があるのだなということを教えられ、それぞれに良さがあって、神様を賛美することにも多様性があり、神様が与えてくださった「賛美」の恵みの深さを体験しています。
 もっと皆様にお話ししたいことがたくさんあるのですが、そろそろまとめに入らなければいけないようです。私は牧師になるために学んでいます。いずれはどこかの教会に遣わされ、送り出していただくことになります。ずっと佐倉教会にいたい気持ちもありますが、神様の召しに応えてこの身を献げたいと願います。どこで働くとしても、この佐倉教会を通して私が神様に育てていただいたことは変わりがありません。神様を理解することは本当に難しいことであると、学んでいる中で度々思います。しかし、私が信頼できるのは神様しかいないことも教えられています。佐倉教会の皆様お一人お一人にも神様は触れてくださり、日々御言葉を語ってくださっています。神様と共に歩む人生が祝福され、喜びのあるものとなりますように心から祈ります。
「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず
 常に主を覚えてあなたの道を歩け。
 そうすれば
 主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」
 (箴言三章五、六節))

随想 一枚の宝物の絵葉書 「神様はどんな時でも」

○ぶどうの枝第60号(2024年6月30日発行)に掲載(執筆者:KO)

 今、私の手元に一枚の古びた絵葉書があります。何年もの間、私の暮しの中で大切にしてきたものです。私の「宝物」といってもいいでしょう。
 いつの頃だったか定かではありませんが、ある人が「お元気ですか?」という言葉を添えて、送ってくれたものです。はじめは私が育った瀬戸内の海の、波がひたひたと寄せては、静かにすーっと返す浜辺の情景を思い起こして懐かしく、手にするのがうれしい一枚でしたが、その絵葉書の波打ち際に続く一筋の足跡が、ブラジル人の詩人アデマール・デ・パロスの『神われらと共に(浜辺の足跡)』に基づく情景であることに気づくのにそう時間はかかりませんでした。その詩の全文を知りたいと思いながら、時は過ぎましたが、セピア色に色あせはじめたある日、曽野綾子の『老いの才覚』を読んでいて、『神われらと共に(浜辺の足跡)』の全文をとうとう発見したのです。「これだ!」と私は心の中で狂喜しました。
 『神様はどんな時でも共に居てくださる』
 佐倉を離れ、所沢で過ごした五年間は、壁のよく見えるところにその絵葉書を貼って、その詩を思い浮かべながら日々眺めて暮らしていました。近くに教会はなく、コロナ禍の上に体調不良が重なり、出歩くこともままならなかった五年間の中で、この一枚はセピア色に色を変えながら、私にとっての支えになってくれました。
 『神様はどんな時でも共に居てくださる』
 その思いをより深めてくれ、そして〝祈り〟へと導いてくれたのです。そして今、再び佐倉に戻り、すっかりセピア色に変わってしまったその絵葉書を壁に貼って、部屋の窓から、そよ風に揺らぐ新緑の木々の向こうの遠くの空を眺めながら、加齢にあらがうことなく、神様に導かれるままに、平穏な一日一日を暮らしたいと願っているところです。