恐れることはない ただ信じなさい 主イエスに委ねて歩む ルカによる福音書八章四〇~五六節

○ぶどうの枝第58号(2023年7月2日発行)に掲載(執筆者:金 南錫牧師)

 二〇二〇年から始まった新型コロナウイルス感染症によって、約三年間、いろいろな活動や計画が中断されました。今日の聖書箇所に出てくる会堂長ヤイロも、そうした計画を中断された一人です。
 イエス様がゲラサの地からガリラヤ湖を通って、戻ってこられると、群衆は喜んで迎えました。またそれだけではなく、待っていたのです。その中、ヤイロという人が来て、イエス様の足もとにひれ伏し、自分の家に来てくださるように願いました。それは、十二歳ぐらいの一人娘が死にかけていたからです。そして、イエス様がそこに向かう途中で、群衆が周りに押し寄せて来ました。一分一秒を争う中、群衆が道を阻むわけです。
 そこに、一人の女性まで現れます。彼女は十二年間も出血が止まらない病を患っていました。当時、そのような病気の女性は、ユダヤの律法によって、汚れている病気とされて、言わば日陰者のような生活を強いられました。自分の病気が治らず、絶望の中を生きていたのです。医者に全財産を使い果たしましたが、誰からも治してもらえなかったのです。そういうときに彼女は、イエス様と出会ったのです。彼女はこの方によって、病気を癒やしていただけると思い、群衆の中に紛れ込んで、後ろからイエス様の服の房に触れたのです。
 彼女は必死でした。イエス様の服の房に触れたときに、その出血が止まったのです。癒やされたのです。彼女は、その癒しを自分自身感じながらも、一切秘密にして、このまま去ろうと思っていました。しかし、イエス様は自分の内から力が出ていったのを感じて、「わたしに触れたのはだれか」と言われました(四五節)。周りの人はびっくりしました。皆、「私ではない」と答えます。すると、ペトロが見かねて「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言いました。つまり、これほど密になっているのだから、誰が主イエスに触れたのか分かるはずがない、と言いたかったのです。
 では、イエス様はなぜこの人を探すのでしょうか。また、イエス様が「わたしに触れたのはだれか」と尋ねていますが、イエス様は本当に分からなかったのでしょうか。そうではないと思います。ここでイエス様はある意図があって「わたしに触れたのはだれか」と尋ねていたのです。それは、彼女を公の場に引き出して、励まし信仰を育てるためです。
 四七節に「女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した」とあります。この女は皆の前で、証をしたのです。なぜ主イエスに触ったのか、その理由とたちまち癒やされた次第を証しました。この十二年間どんな思いで、人生を歩んできたのか。その中、主イエスの服に触れれば治るという必死の思いをもって、イエスの服の房に触ったときに、出血が止まったことを証しました。この証は、彼女の信仰告白となりました。
 その信仰の証を表した彼女に、イエス様は言われました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(四八節)。 このイエス様の言葉は、共同体の生活に復帰するために、必要な宣言でした。こうして十二年間も、出血の止まらない病を患っていた一人の女が、イエス様と出会い救われました。癒やされました。

 会堂長ヤイロの恐れ

 ところが、この救いの出来事を目撃した会堂長ヤイロは、心の中で「イエス様、一人娘が死にかけているんです。早く切り上げて、私の家に向かっていきませんか」と叫んでいたと思います。そして、何が起きるのでしょうか。「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。『お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。』」(四九節)。ヤイロは家から来た人から、お嬢さんは亡くなったという知らせを聞くのです。これを聞いたときのヤイロの反応は、聖書に書いてありません。むしろ、イエス様が傍らで驚いているヤイロに、直ちに語りかけるのです。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」
 恐れというのは、心配することです。今ヤイロは、イエス様なら助けてくれるかも知れない、癒やしてくれるかもしれない、その望みをかけて出かけてきたのです。それなのに、途中で十二年間も出血が止まらない女が現れ、彼女から「イエス様」と呼び止めたわけでもないのに、誰かがわたしに触れたとイエス様の方から、探し出すわけです。ヤイロにとっては、この割り込み、中断さえなければ、助かったかもしれない、そう思ったのかもしれません。
 私たちの人生の中でも、このように中断せざるを得ない出来事、想定外の出来事が起こります。まさに三年間続いたコロナ禍がそういうことです。そのコロナ禍によって、私たちは活動を制限され、立てた計画を中止、変更され続けてきました。そのときに、「なぜですか」と問うのが私たちであります。しかし、想定外のことで計画などが中断されるときに、神様は私たちの目をご自身に向けさせるのです。そして、言われるのです。「恐れることはない。ただ信じなさい。」
 今ヤイロは、イエス様から「恐れることはない。ただ信じなさい」という言葉、また彼の家から来た人から「娘は死んだ。もうイエス様には来てもらう必要はない」という言葉、この二つの言葉を同時に聞いています。このとき皆さんがヤイロなら、どちらを選ぶでしょうか。目の前の現実に苦しみ、悩み、恐れても、イエス様の言葉を選んでいくのが信仰です。この後、イエス様はヤイロの家に向かっていきます。つまり、ヤイロはイエス様の言葉を選んだのです。そして、そこで娘が命を吹き返すことを体験することができました。
 三年間のコロナ禍を通ってきた佐倉教会は、二回の教会員懇談会を経て、今年から新しく選出された役員と共に、新しい歩みを始めようとしています。高齢化の中、誰がご奉仕できるのか、という不安の声もありますが、こういうときこそ、何を信じ、どんな言葉に耳を傾けるのかが問われます。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」(四八節)。これからの歩みの中、想定外の出来事が起こるかもしれません。でも先のことを神に、主イエスに委ねていこうではありませんか。そして、「恐れることはない。ただ信じなさい」と語りかけてくださる主イエスの言葉に耳を傾けつつ、またその言葉に励まされて、共に歩んでいきたいと思います。

転入会者より 初めまして お世話になります

○ぶどうの枝第58号(2023年7月2日発行)に掲載(執筆者:YS)

 御名を讃美します。ユーカリが丘教会から新規転入会しましたYSと申します。
 昭和十四年六月十八日に旧満州国撫順市(ぶじゅんし)にて出生、父の病死に伴い家族四人で鹿児島市へ帰国。ラサール高校二年時にウイルキンソン宣教師の司式で鹿児島バブテスト鴨池教会において受洗しました。
 一浪した後、京都大学薬学部に入学。卒業後武田薬品工業研究所に就職。六年の勤務の後、一念発起して大阪大学蛋白質研究所に戻りました。
 二年間の研究所生活を経て、星薬科大学の衛生化学研究室に就職。ドイツフンボルト財団の給費でドイツギーセン大学薬理学研究所へ二年間留学しました。
 ドイツではギーセン教会のワイデマン牧師ほか皆様にお世話になりました。二年後に帰国。その後ユーカリが丘教会を経てこの度転入会いたしました。

転入会者より 生まれ育った信仰は恵み 何度も生を与えられた人生

○ぶどうの枝第58号(2023年7月2日発行)に掲載(執筆者:MT)

 本年四月の復活祭礼拝において、佐倉教会に転会させていただきました。それは私にとっては、新たなる生を与えられた日でもありました。転入式の間に、私の命は神さまに与えられていると確信しました。
 明治時代初期に曽祖父母が同時に受洗してからのクリスチャンファミリー第四世代として、七十五年前に最初の生を与えられた私は、二年後に教団戸山教会(東京・新宿)にて幼児洗礼を受けました。
 幼児期から日曜学校に通い、兄弟姉妹のいない一人っ子であった私は、そのまま大人の礼拝に「参加」していたのです。当時、十歳ほど年上で、戸山教会の現役長老によると、私が礼拝中、皆が讃美歌を歌っているときですら、礼拝堂内を「自由に」歩き回っていても、それは誰からもとがめられていなかったそうです。
 アメリカ人宣教師が、聖書研究会で講話をしてくれたときには、それを父が通訳していました。私は、その始まりには母の膝の上に「おとなしく」座っていましたが数分すると、そこからするりと降りて、勝手気ままに大人たちの間を動いていたそうです。恥ずかしながら、私の信仰生活はそのように始まっていたのです。
 ともあれ、私が今回の転入式の最中に思い出したことがあります。日曜学校の先生から、「クリスチャンがイエスさまの誕生と復活をお祝いするのは、私たち人間はそれぞれの人生の中で、何度も生まれる経験をする。それは神さまからの祝福の印なのだよ」という趣旨のことを話してくれたことです。
 私は日曜学校のほか、クエーカー系の幼稚園に通いました。現在に至るまで影響を受けています。公立中学卒業にあたって、父の勧めで青山学院(曽祖父仙が創立者の一人)高等部を受験することになりました。幸い合格はしましたが、高等部入学よりも中学卒業の頃で思い出すことがあります。その頃、一人の親戚から、卒業というのは「これで終わり」ということではなく、英語でコメンスメントと言い表されるように、今から始まる」の意味なのだ、というのを学んだことです。言い換えれば、入学式だけではなく卒業式も「新たな生」を与えられるときだったのです。その意味では、何事につけ終了する、修了する、別れる、死去するなどは全て、生まれることでもあるのでしょう。
 青学高等部は授業の合間に礼拝のある学校でした。宗教部に入った私は「大人の聖書」を読むようになりました。三年生のときでしたか、講堂に集められた全校生や教員の前で、証しをする機会を与えられました。多人数の前で話をする最初の経験でした。何を話したかは覚えていません。
 堅信礼(教団戸山教会)を受けたのもその頃でした。私がキリストにあって生まれる(生きる)意義を強烈に体感したのは、宗教部の夏休みの活動、「キャラバン」でした。埼玉、千葉、神奈川など近隣地方都市や農村へ、教員(物理の先生でした)に引率され「キャラバン」と称して、そのときの日曜学校のプログラムを担ったのでした。自分たちと年齢差のある小中学生と接することで、教えることは教えられることを学びました。
 青山学院大学教育学科に進学しました。教師になりたいということよりも、教育というものの社会的意味と可能性について関心があったからです。教会ではなぜか、青年会長を務めていました。キリスト教界というコミュニティにどっぷりつかった「ごく普通の真面目な青年キリスト者」でした。
 私の人生観を大きく揺るがしたのは、やはり大学一年夏(一九六六年)のことでありました。国際エキュメニカルワークキャンプを体験したからでした。世界各国の青年たちが集いました。東京奥多摩にて、福祉施設の敷地整備をし、汗を流したのです。宗派を超え、国際基督教大学チャップレン夫妻、イエズス会神父、カトリック修道女は日本人でしたが、三、四名の日本人学生以外は国際色豊かな若者たちでした。共に祈り、支え合い、丸二週間、寝食を共にしたのです。毎日が新発見の連続でした。幾つもの言語が飛び交っていましたが、共通語は多様ながらも英語でした。
 教育学専攻の私は、国連教育科学文化機関(ユネスコ)に興味を持つようになりました。当時の私の夢は、ユネスコ職員になることでした。それはそれとして(実現しませんでしたが)、日本ユネスコ連盟という団体が学生国際交流の一環として、韓国訪問ツアー計画のあることを知ったのです。早速応募しました。それは、いわゆる日韓条約締結の一九六五年十二月から一年も経過していないときでした。
 滞在は一週間ほどでしたが、生まれて初めての外国で、韓国人学生やホストファミリーの温かい対応に恵まれました。一つ、ビジュアルに私の記憶に残っているのは、ソウルの夜の街中にたくさんの灯り付きの十字架が輝いている風景です。
 帰国後、父にそういった報告をしました。そこで初めて知らされたことがありました。「明治十四年、朝鮮朝廷は新生日本に使節団を派遣した。アンジョンスは農業担当であったため、農学者仙(私の曽祖父)を訪問。仙は農業事情講義のあと、〈山上の垂訓〉の掛け軸の寄贈を申し出た。アンは朝鮮では基督教が禁止されているためと、辞退した。ともあれ、そういう交流が、朝鮮にキリスト教(プロテスタンティズム)がもたらされる契機となった」とのことです。私は不思議なつながりを感じました。
 さて、私は大学二年の春休み(一九六八年)に一人、米国とカナダをバスで一周する旅をしました。六六年夏のエキュメニカルキャンプ、親交、そして信仰を深め合った仲間を訪ねながら移動したのです。ちょうどベトナム戦争の真っただ中でもありました。各地の大学キャンパスでは、反戦と和平のための運動が盛んでした。男子学生とっては自分たち、女子大生にとってはボーイフレンドの命に関わる切実な問題だったのです。ベトナムに行けば死ぬかもしれない、敵を殺すかもしれないのが戦争であることを現実として認識していたのです。
 同じアジアの隣国ベトナムが南北に分断され、戦争を起こしていたのです。そこに生きている人々について、知識も関心も全く持っていなかったこと、つまりは平和ボケしている日本人である自分に気付かされました。
 更に強い印象を受けたのが、アメリカ人、カナダ人を問わず学生たちに見られる、キリスト教諸宗派のみならず、宗教の壁を超え、「無神論者」をも含めて、和平の実現を求める姿勢のあることでした。
 以上述べてきた様々な見聞があり、大学卒業までには、少しばかり、日本人らしくない日本人(?!)、クリスチャンらしからぬクリスチャン(?!)になっていたようです。
 卒業後に決意した私の進路は、フィリピン国立大学大学院への進学でした。日本人留学生はほとんどいませんでしたが、ホストファミリーに恵まれました。たまたま、フィリピンは国民の九割近くがクリスチャンという、アジア最大の「キリスト教国」でしたので、私はまたまた新しい社会に生まれることになりました。文字通り、エキュメニズムの精神をもって社会変革をしていこうとする強い人々に出会ったのです。生涯の友となる配偶者も与えられました。
 それからおよそ五十二年間がたちました。生を幾度も与えられている恵みに感謝するこの頃です。
 私たちは転入会したり入学したりするだけでなく、卒業する、修了する、終了する、別れる、など生きているうちには、何度でも生まれるのです。確実に一回だけの出来事は死去することです。しかしそれが天国に召される(召天する)ときなのでしょう。

奨励 最も影響を受けたヒト 闘病生活の中での確信と喜び

○ぶどうの枝第58号(2023年7月2日発行)に掲載(執筆者:FH)

 私が佐倉教会に転入会を許されたのは二〇二一年八月で、その前年の九月に埼玉から千葉へ引っ越してきました。そして、その契機は、二〇一六年二月に妻が五十二歳で天に召されたことにあります。
 妻は四十二歳で乳がんと診断され、四十四歳のときに胸腰椎に転移が見付かりました。乳がんと診断されたときは、看護師だったせいか、病名を聞いても大きな動揺はなく冷静に受け止めることができたと言っていましたが、転移が見付かった際には、これだけの痛みや苦しみに耐えて治療を進めてきたのに再発してしまった、もう完治は望めないのではないかという脱力感が大きかったように見えました。
 召される一年くらい前から痛み止めにモルヒネを常用するようになり、半年前には一人で通院することも難しくなりました。
 一月に入って、主治医から「打つ手がなくなってきている」と告げられた際には「まだ心の準備ができていません。でも、主に叫んで助けを求め続けていくしかありません。どうぞ共に祈ってください。」と何人かの方々へメールしていました。また月末に緊急入院して「腫瘍マーカーが三週間で三倍になっている」と言われたときには「体が辛いと気持ちが萎えそうなりますが、そばにいてくださるイエスさまに安心して、癒やしの御手を信じて過ごします」「やはり神様を信じるクリスチャンとして神様に呼ばれたときは穏やかに従いたいと思います。それが私の生き方だから。」とメールしていました。
 召される十日ほど前に、私は担当医から「余命数ヶ月、今の状態だと数日でもおかしくない」と話をされ「会わずじまいになっている友だちにも近況報告をしたら?」と説得して、妻の想いを私が口述筆記した手紙は「今後のことは、よく解りませんが、全て御存知で壮大な御計画をされている神様を信じて、一日一日を過ごそうと思います。不安や恐れがないと言えば嘘になりますが、不思議に心は平安です。出会いを作ってくださった神様の恵みに心から感謝しています。本当に、ありがとうございました。」と結んでいました。たぶん、状況が解っていたのでしょう。
 新約聖書の「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケの信徒への手紙一 五章一六~一八節)は、妻が『私の葬儀の備え』にメモしていた箇所です。妻は、最期の一~二年、少し聖書を読み祈って就寝することを習慣にしていました。がんになって、失ったものは測り知れなかったと思いますが、神様がいつも一緒にいてくださるという確信と喜び、今日一日を何事もなく送れたという安堵と感謝を心の底から感じるようになったように見えました。
 もう一か所、旧約聖書の「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」(エレミヤ書二九章一一節)もメモしてありました。「どうして自分がなったんだろうなぁ」といった思いが、聖書を読み祈る中で、人間の目には災いと見えても、神様が私たちのために立てられた計画には、全て平安と希望があると信じられるようになっていったのだと思います。
 私自身「ナゼ妻をお取り去りになったのですか?僕が自分のことしか頭になく、妻に想いが至らなかったせいですか?」と何回となく祈り尋ねました。答えがおぼろげながら浮かんでくることはあっても、ほとんどの場合、神様は沈黙されたままです。しかし、人生を歩む中で、時にナゼと問わざるを得ないことが起こっても、たとえ神様は沈黙されたままであっても、いつでも祈り尋ねることができる唯一無二の方がいらっしゃること、そして喜びのときも悲しみのときもその方が共に人生の歩みを担ってくださっていることは、本当に有り難いことです。
 今、私は新しい家族との歩みを始めています。新しいパートナーとは、お互い五十年、六十年と生きてきたわけですから、それぞれの生活習慣や価値観があって、時にぶつかることもあります。でも、全て神様が立てられた計画、妻も応援してくれているに違いないと信じ、思い悩んだら信頼できる唯一無二の方に祈り尋ねることを繰り返しながら、乗り越えていこうと思っています。
 そして、妻のように、喜びと感謝を絶やさない揺るぎないクリスチャンになれればと思っています。
 (本稿は、本年二月十二日におけるHさんの礼拝奨励からご寄稿いただきました)

証し いつも私たちを呼ばれる主 神様の招きに応えたい

○ぶどうの枝第58号(2023年7月2日発行)に掲載(執筆者:SK)

 佐倉教会の皆様、お久しぶりです。現在、八千代聖書教会にて学んでいるSKです。
 愛する佐倉教会の『ぶどうの枝』に原稿を載せさせていただけること感謝いたします。三月に奨励をさせていただく機会をありがとうございました。その中から、私が強く伝えたいと思っていた部分を抜粋させていただきました。二つの御言葉です。
 佐倉教会の歩みを覚えて祈ります。この小さき者のことも祈り覚えていただければ幸いです。
 「それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。」[申命記八章三節](新改訳二〇一七)
 この御言葉を読んで私は牧師への召命を確信しました。ある旧約聖書の授業で出会いました。この言葉を読むとすごく自分のことが語られているような気がするんです。「あなたを苦しめて、飢えさせて」。苦しみ、困難さをきっかけとして神様のことをよりよく知るという経験をした私の姿が思い浮かぶのです。「それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。」神様の言葉によって、御言葉によって、神様とともに生きるべきであることを語り続けたいという思いが与えられました。神様ご自身が正に私に語ってくださり、私を呼んでくださったと確信しています。神様はいつも語ってくださいます。そのことを私は叫び続けたいのです。
 このような神様から与えられた幾つかの出来事や御言葉によって私は自分の召命を確信しました。これからあと数年間、牧師として仕えていくための学びに全力で向かっていきたいと願います。
 「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」[ピリピ人への手紙四章四節~七節](新改訳二〇一七)
 この御言葉は、私が困難の中にあり、行き詰まりを覚えていたときに与えられたものです。どんなに苦しい状況であったとしても、一度立ち止まって、冷静になって、自分のたどってきた道を見ると必ず、うれしいこと、幸せなことがあるはずです。悪いものばかりに目を留めてしまいがちですが、神様がお創りになったこの世界は良いもので満ちあふれています。その良いものを見つめて喜べる者となりたいのです。また、「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」この言葉は本当に心に刻まれました。
 神様は、私たちにただ与えるだけではありません。私たちが、神様から与えられる糧、一つ一つに感謝してささげる祈りによって、神様に私たちの願いを知っていただくべきであると書かれています。すると、なんと、私たちの理解を超えた神の平安が私たちの心をキリストにあって守ってくださる。
 神様と共に生きるということはどのようなことでしょうか。聖書を読んでお祈りする。もちろんそうです。しかし、私たちには、神様に願いを伝えることが許されています。ただ受けるのみならず、私たちが神様にリクエストすることができる。私たちと神様の思いが、一方通行ではなく、交互に行ったり来たりする、まさに神様との交わりです。これこそ生きた信仰なのだなと気付かされました。私たちの心の内を神様に知っていただく。このことを大切にしたいのです。そうすることによって、神様が与える一つ一つの出来事の意味をよく考えることができます。私たちが何を求めているかを神様が知っていることになるからです。
 神様は私たちがどうしたいのかを知りたがっている、興味を持っていてくださっているということを心に刻みたいと思います。
 私は、牧師としての働きに神様が呼んでくださったと確信しています。神様は、私たち人間全員のことを愛しています。全員のことを呼んでいます。皆さんお一人お一人のことをいつも呼んでいます。私も呼ばれたし、皆さんも呼ばれています。
 私たちがどうしたいのか、そのことを神様に伝え、そこで何が返ってくるのかを楽しみ、よく味わって生きる者とされたいと思います。その一つ一つの出来事によって、神様は私たちを呼んでいるのではないでしょうか。
 本当に幼い頃からこの教会で育てられ、神様の声を聞いて私がいつも呼ばれていたことに気付くことができました。心から感謝いたします。しばらくの間、他の教会で学ばせていただくこととなっています。毎週お会いすることはできなくなってしまいますが、いつも佐倉教会を覚えお祈りしています。
 私も、神様の招きに応えて、一生懸命学んでいきたいと思います。

報告 ユーチューブで礼拝の配信を開始

○ぶどうの枝第58号(2023年7月2日発行)に掲載(執筆者:MK)

 近年、教会に足を運ぶことが難しい方が増えてまいりました。また、コロナ禍で教会に集まることが難しくなったことを機会に、礼拝のオンラインによる配信を行なう教会も多くなりました。昨年十月に行われた教会員懇談会でも、礼拝の配信を行なうべきだという意見がすべての班から出されましたので、役員会はこれを受けて機材をそろえ、十二月からYouTube(ユーチューブ)による配信の試行を始めました。
 しかし実際にやってみると、内容の問題と技術的な問題の両方が生じました。
 まず内容的には、YouTubeで限定を付けずに公開すると、全世界の人がいつでもどこでも見られる状態になるため、映っている人や語っている人のプライバシーが問題になります。礼拝は、その場に集まった人の、そのときだけのものであったわけですが、それを場所も時間も対象も無限大に拡大してしまうと、やはり問題が生じます。カメラとマイクの向こうに誰がいるか分からない、そのときだけで消えるはずの言葉がいつまで残るか分からない、という状態を好まない方がいれば、それを無視して進めることはできないわけです。他教会の実際のオンライン配信を見てみると、一部始終を公開している所もありますが、多くは牧師説教のみで、この点の難しさが分かります。
 YouTubeには「限定公開」という方法もあり、リンク先のアドレスを知っている人だけが視聴できるようにすることは可能ですが、その場合は、対象者を決めて一回ごとにメールでリンク先を連絡しないといけないので、そこをどうするかが問題になります。またアドレスが漏れた場合は、やはり誰が見るか分からない状態になる、というリスクもあります。
 このため、さまざまな協議をした結果、現在は、説教と説教前後の讃美歌、および聖書朗読の部分を配信しています。これですと、見られる又は聞かれるのは、(司会者の朗読などの声は入りますが)内容的には牧師のみですので、先生が差し支えなければ可能、ということになります。礼拝の全体ではなくても、説教だけよりは良いのではと思います。
 技術的には、「ライブ配信」と「録画のアップ」の二つの方法があり、当初は、実際に礼拝を行なっている時間に視聴できる「ライブ配信」(後からの視聴も可)でやってみたのですが、音の歪みがかなりひどく、また実際はあまり同じ時間には視聴されておらず、後から視聴する方が便利だと分かりましたので、無理に「同時中継」にはせずに、一度ビデオを撮って、その録画を礼拝が終わってからすぐにアップするように変更しました。
 また、使用するWebカメラも、司会者が映り込まないように画角の狭いものが必要でしたし、マイクの性能も様々なので、いろいろと試行が必要でした。YouTubeの操作自体は難しくないのですが、やってみないと分からないことは多いものです。
 結果としては、ふだんお出でになれない五名ほどの教会員の方々がいつも視聴しているそうです。このほか、視聴回数を見ると、だいたい三十回は超えていて、百回以上のときもあるので、教会員以外の方もかなり視聴していると思われます。いずれ「YouTubeで見ました」と言って教会を訪ねる方もいらっしゃるのではと期待しています。
 視聴方法は、パソコンでもスマホでも、ネットを見られる環境があれば簡単です。佐倉教会のホームページにはリンク先が表示してありますし、YouTubeで「佐倉教会」を検索してもすぐに出てきます。
 なお、配信の作業は、現在、私と、SMさん、YHさん、CKさんで行なっています。お手伝いいただける方は私までご連絡ください。よろしくお願いいたします。

神様の御心を受け入れる マリアの信仰と決心 ルカによる福音書一章二六~三八節

○ぶどうの枝第57号(2022年12月25日発行)に掲載(執筆者:金 南錫牧師)

 この聖書箇所は、「受胎告知」と呼ばれるところで、天使ガブリエルがマリアに神の御子を宿すことを告げる場面です。二六節、二七節です。 「六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。」 この「六か月目に」というのは、洗礼者ヨハネが高齢になっていた母エリサベトの胎に宿ってから六か月目ということです。その時に、天使ガブリエルがマリアの元に遣わされました。神様はこのマリアに目を留めて、天使を遣わしたということです。 では、マリアという女性はどんな人だったのでしょうか。まず、ガリラヤ地方のナザレの町に住んでいました。ガリラヤ地方というのは、イスラエルでは、北のはずれの方に位置します。中心のエルサレムからは遠く離れた辺境の地です。しかも、ナザレの町は田舎の小さな町にすぎませんでした。また、マリアはヨセフという若者と婚約をしていました。相手のヨセフはダビデ家の人であったとあります。これは、ヨセフと結婚することで生まれてくる子どもは、ダビデの子孫となることを意味しています。マリアについてはこれだけのことしか分かりません。ところが、イスラエルの女性の中から、たった一人選ばれるにしては余りにも普通の人のように思われます。マリアはナザレという小さな町の普通の若い女性でした。神様はそのマリアを救い主の母となる人として選ばれました。 次に、天使ガブリエルはマリアにどんなことを告げたのでしょうか。三一節です。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」なんとまだ結婚していないのに、「あなたは身ごもる」というのです。しかも、生まれてくる子どもは男の子で、「イエス」という名前まで指定されます。続いて、三二節、三三節です。 「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」 生まれてくる男の子が「いと高き方の子と言われる」ということは、その子が神の子であることを意味しています。そして、その子はかつてイスラエルの王であったダビデのような王様になって、永遠にこの国を治めるようになると告げるのです。それは、イスラエルの民が昔から待ち望んできた救い主なるお方が、ようやくマリアのお腹から生まれてくることを意味していました。

 天使のお告げを受け止める

 マリアは天使のお告げをどう受け止めたのでしょうか。まず、天使の挨拶に戸惑いました。いきなり天使が現れて「おめでとう、恵まれた方」と言われても、「いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」わけです(二九節)。また、告げられたことを聞いて、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と言っています(三四節)。つまり、「あなたは男の子を産む」と告げられても、まだ結婚前の身でしたので、子どもが生まれるということは常識ではあり得ない、理解できないというのです。 これに対して、天使はこう答えます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(三五節)。聖霊なる神の力によって、あなたは身ごもるのだというのです。そして、さらにこう言いました。「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない」(三六、三七節)。これを聞いて、マリアはこう言いました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(三八節)。マリアは天使の言葉を信じて、告げられたことをすべて受け入れて、これから自分の身に起こることを委ねる決心をしました。 では、マリアはどうして天使の言葉を受け入れることができたのでしょうか。マリアに告げられたことは、確かにイスラエルの人々にとっては喜ばしい知らせでした。なぜなら、昔から待ち望んでいた救い主であり、この国の王となる方がようやく来られるというからです。しかし一方で、マリア個人にとって、それは都合の悪いことでもありました。まず、婚約相手のヨセフがこんな話を信じてくれるだろうかという心配があったわけです。常識ではあり得ないこと、理解できないことですから、信じてもらえないだろうと予測をされます。そうなると、ヨセフから婚約を破棄されます。また、婚約中で身ごもるということは、当時の掟では、石で殺されなければならない姦淫の罪であり、社会の交わりから疎外され、共同体から分断されることを意味しました。要するに、イスラエル全体にとっては喜ばしい知らせでしたが、マリアにとっては都合の悪いことでした。また、マリアの命に関わるようなことでした。 ところが、マリアはそれが自分にとって都合が悪いというようなことは考えなかったようです。彼女の言葉を見ると、驚いたり、戸惑ったりはしていますが、天使の言葉を拒んではいないのです。普通であれば、自分にとって都合がいいか、悪いかを考えるのです。そして、自分にとって都合が悪ければ、「いいえ、結構です」とお断りすると思います。でもマリアは、そういうことを一切考えないで、イスラエルにとって、これは良いことだと受け止めたわけです。そして、何よりもそれが、神様が望んでおられることで、神様の御心だということを素直に受け入れたのです。つまり、天使から告げられたことは常識では理解できないことでした。しかし、マリアは天使の言葉を聞いて、それを神様の御心であり、民全体にとって喜ばしい知らせだと受け止めたのです。また、「神にできないことは何一つない」という言葉を素直に受け入れて信じました。一切を委ねる決心をしたのです。そして自分の身を通して、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と応答しました(三八節)。 ここには、全能の神様を信じて、一切を委ねていくマリアの信仰が表されています。そして、神様はそのマリアの信仰を用いてくださったのです。こうして考えてみると、マリアがなぜ選ばれて、救い主の母として用いられたのか、分かるような気がします。マリアのように、私たちも神様の言葉に、信仰によって応えていきたいと思います。

随想 我が父 舒宗啓をしのぶ

○ぶどうの枝第57号(2022年12月25日発行)に掲載(執筆者:YH)

 中国西安市の中心部、にぎやかな街の隅に陝西省(せんせいしょう)図書館がありました。父 舒宗啓(じょそうけい)が勤めた所です。私は一九六八年六月二十四日に陝西省図書館の寮に生まれました。二年間、父と母と三人で暮らしました。当時キッチンは寮の中にはなく、館員は家族でドアの外でご飯を作っていました。父は日曜日は開館日なので働き、月曜日は閉館日で休みでした。
 私は二歳のときに引っ越して、碑林区鉄路局の母が勤めていた中学校の寮に住み始めました。一九七〇年頃、文化大革命の時期、童話の本は「毒草」に指定されて、「燃やせるゴミ」になりました。父は命を賭けて童話の本を持ち帰りました。百冊以上ありました。『亀と兎の競争』『長髪妹(髪長姫、ラプンツェル)』『カラスの智慧』など、母は毎日、夜私が寝る前に読んでくれました。幸せな日々でした。
 今思い出したのですが、父は一日の仕事を終えて私を連れて家に帰るとき、陝西省著書間の出入口にあったぶどうの棚の道で、父に肩車されて、小さな青いぶどうを取って持ち帰りました。大体八月から九月に、ぶどうは熟して酸っぱい渋さのある味でした。今でも記憶に新鮮です。

 (父をしのぶ俳句)
  我が父の背中を包む夕日かな

 舒宗啓は一九三八年生まれ、湖北省鄂州市(がくしゅうし)出身。二〇二二年七月一日夜八時二十分に天に召されました。享年八十四歳。一九九二年九月二十四日、中国西安市南新街教会でキリスト教を受洗し、当時五十四歳でした。娘と息子をもうけ、私は長女です。
 経歴:中国西北大学物理系卒業、中国陝西省図書館副館長、中国西安市信息研究所文献館館長、中国西安市経済信息中心国際信息部経理

随想 他利側楽(たりはたらく) がんウイルスが示す命共生の選択

○ぶどうの枝第57号(2022年12月25日発行)に掲載(執筆者:KM)

 私は去る五月、小さな自伝を発行しました。大変僭越ながら、促されるままここに自己紹介させていただきます。
 命育む地球を初めて宇宙のかなたから見たガガーリンの「地球は青かった」という言葉は有名です。彼の後、多くの人が宇宙から地球を眺め、いとおしむ感情を述懐しています。命育む状態は壊れやすいということでしょうか。
 衆知のとおり、今や地球環境は危機的状態にあります。先日アフリカで開催されたCOP27の議論を聴くまでもなく、地球温暖化は命の存続を脅かしています。この危機的状態の改善にとって、国際間のエゴが大きな障害になっています。
 私の若い頃、日本は第二次世界大戦を引き起こし、敗戦という史上未曽有の経験の最中にありました。この間私は、自己責任で生きることの大切さを体験し、このことで聖書に出会う機会に恵まれました。代々家業であった医者の道に進むことにしたその入口で、目指す医師像についてアンケートがありました。聖書を読んでいた私は「食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても神の栄光を現すため」(コリント信徒への手紙1 一〇章三一節)というパウロの言葉を究極の目標として医道に励みたいと書きました。自力でそのようなことを実践できないことを、私自身が一番よく分かっていました。しかし、この選択は私に大きな影響をもたらしたと思います。
 ジャン・ポール・サルトルは言っています。人の一生は誕生(B=birth)に始まり、死(D=death)で終わる。そのBとDの間の選択(C=choice)が一人ひとりの人生を彩ると。私は、自分の真のふるさとに錨(A=anchor)を下ろすことができることが大切だと思います。つまりABCDの人生です。
 旧約聖書の記述によれば、創造主の神は、天地創造の最後に人を造られ、そして選択の自由を与えられて、神が良しとした楽園に住まわせました。人は自らの選択で禁断の木の実を食べて、失楽園の結果を招きました。
 創造の最後に造られた人に、神は「生めよ増えよ地に満てよ、地を治めよ」と祝福を与えられ、自分の周りに利益をもたらすこと、つまり私の言うところの「他利側楽」を期待されましたが、人は自ら失楽園の道を選択してしまいました。人はそのことを悔い改め、創造の神のお赦しを受けなければ状況は悪化するばかりです。
 私は自分の選択により、半世紀以上にわたりがんウイルスとお付き合いすることになりました。地球上の最も小さい生命であるウイルスは、自分の子孫を残すためにそれぞれ特殊な機能を持った生きた宿主細胞が必要なのです。自分の子孫を増やし過ぎれば宿主細胞は死滅し、結果としてウイルス自身も死滅してしまいます。存続のためには宿主と共に生きる条件を見いださなければならないのです。ウイルスは遺伝子の発現を調整してこれを達成させています。
 ウイルスとの長いお付き合いからいろいろなことを学びましたが、その中でもこの命共存の法則は、極小の生命であるウイルスが発信しているとても大切なメッセージであることを知りました。己の英知にのみ頼るのではなく、周囲との共生を図ることが、自分の健康寿命の延伸につながることを教えられました。現在人類を悩ませている新型コロナウイルスへの対応においても、ウイルスとの共生は大切なことだと思います。
 私の選択によって生じた困難な経験を通して、私を守り導いてくださった神の大きな愛のエネルギーの一端を、下記の拙文に託しました。お目通しいただければ、私にとって「他利側楽」の思いであり、感謝です。

詩 ベツレヘムの星

○ぶどうの枝第57号(2022年12月25日発行)に掲載(執筆者:MS)

ほのかに瞬く光
部屋の中でゲームなんかして
寝てばかりだった小さな星は
春深まるラジオから
地球星のこどもたちの 鈴なりの歌声を聞いたんだ

イエスさまはいつ来られるのかと
背伸びして遠く東を眺めるこどもたち
「今度は私たちがまぶねをつくろう
その次にマリアさまを連れてきて
赤ちゃんイエスが生まれたら 花の茂みに寝かせよう
羊飼いがやってきたら 焚火をたいてあげなくちゃ」
だからお小遣いをためているというエピソードまで聞いたんだ

ある日こどもたちが道で讃美歌を歌っていたら
「あんたたち ここで何してるの!」
通りかかる人たちの石ころのような視線に
こどもたちは道に隠れ
道はこどもたちの後ろに隠れ
壊れた風の音ばかりが聞こえたんだ

日ごとにこどもたちの讃美歌を聞きながら
きらきらと夢を見ていた小さな星は
いくら周波数を合わせても
こどもたちの歌が聞こえない

通りすがりの明けの明星に
遊牧民のように流れ行く天の川に道を尋ね
夢見るように地球星の町にやって来たのに

こどもたちは どこにも姿が見えず

家の門の前
路地
町をぐるりと囲む
神社と寺
曲がり角
野原で

鈴なりに 歌声だけが光っていたんだ
こどもたちを探す周波数だけが
つやつやきらきらと光っていたんだ