わたしの家は祈りの家でなければならない 祈りの重要性を思う ルカによる福音書一九章四一~四八節

○ぶどうの枝第60号(2024年6月30日発行)に掲載(執筆者:牧師 金 南錫)

 エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエス様は泣いておられたのです。そしてこうおっしゃいました。「やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう」(四三、四四節)。
 これはイエス様の預言の言葉です。これから四十年後に、エルサレムの都はローマ軍によって、崩壊してしまうのです。そのことを「お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう」と予告しているわけです。そして、なぜそのようなことが起こるか、「それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである」とあります(四四節b)。
 つまり、イエス様がエルサレムを訪れようとしている今が、神の訪れのときなのに、エルサレムの人々はそれをわきまえなかったのです。それどころか、これからイエス様を十字架につけて、殺してしまうのです。イエス様はそのような未来を見据えながら、今、涙を流しておられるのです。
 四五節以下は、エルサレムの未来を見据えながら、泣いておられるイエス様が、エルサレム神殿に入って、行われた出来事が記されています。イエス様がエルサレム神殿の境内に入って、最初になさったことは商売人たちを追い出すことでした。当時、神殿には両替人がいました。というのは、いろんなところから集まってくるユダヤ人たちは、普段使っているお金をユダヤの貨幣に両替して、神殿にささげる必要がありました。そのときに、商売人たちは手数料を取るわけです。また、神殿で祈りをささげるには、いけにえの動物が必要でした。しかし、その動物を自分の家から連れてくるというのは至難の業です。ですから、エルサレム神殿の境内で、何倍ものする値段で買うようになります。
 このように、神殿の境内で商売をしていた人々は、神殿にやってくる人たちのお金を奪い取ったのです。祈りの家である神殿が商売のために変わってしまったのです。その姿を見て、イエス様は神殿の境内で商売をしていた人々を追い出して、言われました。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』 ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」(四六節)。祈りの家としての神殿は、神様の御心を受け取って、悔い改めて、自分を変えていただく場所です。ところが、その神殿が、神様を利用して、自分の願いを成し遂げようとする強盗の巣になってしまったのです。イエス様は商売人たちを追い出して、神殿を清められました。そして、毎日、イエス様は神殿の境内で教えておられました。それまでお金を奪い取られた人たちは、もう「夢中になってイエス様の話に、聞き入るようになった」とあります(四八節)。
 このようにして、イエス様は強盗の巣になってしまったエルサレム神殿を祈りの家として、回復しようとなさいました。教会は祈りの家です。それでは、その祈りというのは、どういうことでしょうか。「自分の願いを聞いてください」とお願いする、そういう祈りなのでしょうか。イエス様が「わたしの家は、祈りの家でなければならない」と言われたときの「祈り」は、そういう祈りではないと思います。自分の願いを祈る、それも大事でありますが、それ以上に、神様の願いは何であるのか、神様の御心はどこにあるのか、それを祈ることです。そのために、神様が私たちを取り扱われる方法は、私たちの限られた頭脳では理解できないことが多いのです。むしろ私たちの願いに逆らって行われることが多いのではないでしょうか。「応えられた祈り」という詩があります。
 「功績を立てようと、神に力を祈り求めたのに、謙遜に服従するようにと、弱さを与えられた。より大きなことをしようと、健康を祈り求めたのに、より良いことをするようにと、病気を与えられた。幸福になるようにと、富を祈り求めたのに、賢くなるようにと、貧しさを与えられた。人々の賞賛を得ようと、力を祈り求めたのに、神の必要を感じるようにと、弱さを与えられた。人生を楽しもうと、あらゆるものを祈り求めたのに、あらゆるものを楽しむようにと、人生を与えられた。祈り求めたものは何一つ与えられなかったのに、実は私が望んでいたすべてのものが与えられた。」
 この祈りのように、神様が私たちを取り扱われる方法は、私たちの願いに逆らって行われることが多いのです。しかし、結局のところ、私たちの祈りはいつも聞かれているのです。神様の導きによって、私たちは「祈り求めたものは何一つ与えられなかったのに、実は私が望んでいたすべてのものが与えられた」という恵みにあずかるのです。また、その神の導きの中で、自分の願いではなくて、神様の願い、神様の御心を受け取っていくのです。

 百二十周年を迎えた佐倉教会

 今年、佐倉教会がこの地に建てられて、百二十周年を迎えます。この百二十年の歩みの中、佐倉教会は、戦前、戦後、時代の流れと共に様々な荒波や、混乱を乗り越えて、今日に至っています。改めて、佐倉教会の創立八十周年記念誌や、百周年記念誌を読みながら、石川キク先生時代、島津虔一先生時代、有馬尊義先生時代、黒田直人先生時代、それぞれの時代に、本当に多くの信徒たちの支えと祈りがあったからこそ、佐倉教会が今日までに至っていると思わされました。
 一九八四年、佐倉教会八十周年記念誌に、STさんが「祈りの大切さ」という短い文章を書いてくださいました。
 「埼玉県の礼拝出席者数が毎週五十名を超す教会で、高校生活、青年会を経験し、一家を持って当教会にお世話になっては早や十七年。移った当時は、故石川キク牧師、薄暗い会堂で、女性ばかりのもの静かな老人の教会という印象だった。私も信仰的にピンチだったため、しばらく遠ざかっていたが、やがて石川先生の神への信頼度一〇〇%の信仰に打たれ、己の愚かな態度を猛省し、再び礼拝に出席するようになったが、今でも私のどこかで先生がおられるような気がしてはならない。そして今の島津先生に引き継がれ現在至っているが、この佐倉教会は、確かに主にあって守られ、導かれている教会、牧師であることを感じる今である。さらに尚更祈りの重要性を思う。」
 STさんが四十年前に書いた文章です。その中で最後に「さらに尚更祈りの重要性を思う」と書いてありますが、その文章を読んでいるとき、まさに今佐倉教会に求められていることではないかと、思わされました。教会員一人一人が、自分の願いではなく、主の御心を求めていくときに、佐倉教会は「祈りの家」として変えられていくのでしょう。
 「わたしの家は、祈りの家でなければならない。」
 教会はまさに祈りの家です。毎週、私たちはこの祈りの家に招かれて祈るのですが、それは、自分の願いばかりではなく、神様の願いは何であるのか、神様の御心はどこにあるのか、そう祈ることによって、自分も変えられていくし、佐倉教会も祈りの家へと変えられていくのです。それが「祈りの家」である教会の本来の姿ではないでしょうか。この恵みに生かされて、祈る人として共に歩んでいきたいと思います。

随想 緑奏でる主の庭を目指して 庭造りを始めて半世紀

○ぶどうの枝第60号(2024年6月30日発行)に掲載(執筆者:KH)

 私たち夫婦が和と洋の庭造りを始め、半世紀以上になります。住居は佐倉市南部にある農村和田地区に位置し、国道五十一号線のそば、佐倉インターに三分。成田空港へは約十五分。国内外旅行には大変便利で快調と若い頃には喜んでおりました。しかし昭和五十年頃でしょうか、佐倉第三工業団地に大きな会社群が姿を見せ始め、巨大な建物が庭先から見えるようになってきました。いずれは、我が家の近くまで迫ってくるであろうことに一抹の不安を持たずにはいられませんでした。
 そのようなとき、当時主人が勤務していた佐倉市役所内に園芸部が発足。毎年市長さんはじめ職員家族を交え、大型バスにて埼玉県川口市の植木の町・安行(あんぎょう)や東京神代植物園等の緑化視察を兼ね、出かけるたび珍しい植物・植木等を買い求めては植えました。繰り返すうちに、我が家の自主緑化が進み、日本庭園造りに発展しました。
 後、私は四十半ばで職を辞し、茶道・生花教室を自宅にて開き、出稽古等に忙しく、充実感に満ちていました。本来ならこのような働きができることをまず神様に感謝すべきところですが、私は全く神様から離れていたのです。
 そのような折、永く兼業農家をしつつ会社勤めをしていた義母が六十歳定年を迎え、退職をした翌日、「この畑は和子さんに譲るから」と宣言。退職日さえ知らされていなかった私は、びっくり噓のような出来事でした。それでは花畑にでも、とのんびり気分でいました。しかし、現実は厳しく、肥沃な畑は手を加えなければ草は容赦なく生え、伸び茂ります。約二百坪ある畑を前に既に思考回路は断たれ、それでも自力本願でどうにかしなければと畑の前にたたずむことの日々。だんだん肩の荷が重くなり、うつ気味に。そんなある日、ふと「これは神様が私に与えてくれた畑」と素直に受け入れた時、不思議に(汝思い煩うことなかれ……主は耐えらぬ試練を与えられることはない、空の鳥を見なさい)等々主のいたわりある御言葉が次々と私を覆い包んでくれました。涙があふれ、感謝の祈りをしたことを今もはっきりと覚えています。本当に苦しいとき、主は祈りに応えてくれることを実感しました。
 その後、体調も徐々に回復。固まっていた頭も快調、創作意欲も全開。私たちの庭は「神様から預かった庭」をコンセプトに造っていこうと思い、取り組みました。
 主人は造形物を造るのが上手な人で注文した物をしっかりと造り上げてくれ、二人三脚でどんどん庭は変化していきました。
 五月の洋風の庭は、バラを中心に様々な草花が咲き乱れ、多種の蝶やトンボ、かわいらしい小鳥が庭を舞います。また、和風の庭は四季折々、木々に花をつけ、落ち着いた心静まる場となります。
 私は詩篇二三編が大好きです。
 「主は我が牧者なり我乏しきことあらじ、主は我を緑の野にふさせ憩いの汀に伴い給う 主は我が魂を 生き返らせたもう」 と 私たちの庭を訪れてくださる方たちが、安らかな気持ちで、ここにとどまってくれたら本当にうれしいです。
 庭も年数を重ね、充実期を迎えつつあるとき、英国The NGS(ナショナルガーデンスキム) 母体のNGSジャパンより庭園福祉活動を通しての協力依頼を受け、庭を開放し十年になります。
 主が「あなたの隣人を愛しなさい」と教えられたことを大切に思い、主人と共に造りあげてきた庭です。しかし、神様から預かった物はいずれ神様に返す日がきます。後はどうしようと思い煩うことなく、神様に委ね、これからも守っていきたいと思います。

随想 「ゆうゆうの里」の聖書を読む会 施設開設と同時に発足

○ぶどうの枝第60号(2024年6月30日発行)に掲載(執筆者:YA)

 今から三十六年前の一九八八年五月、「佐倉ゆうゆうの里」の開所式に佐倉教会の島津虔一牧師が出席したと、記録にあります。施設の建設が計画されたとき、浜松の聖隷福祉事業団がその構想に関わったことに由来します。
 聖隷福祉事業団の始まりは一九三〇年に長谷川保青年をリーダーとする若いキリスト者たちが結核で苦しむ人たちを助けるために起こしたもので、彼らは資金も援助もない中で結核患者らの食べ残した食事を大鍋で煮て食べながら働いた、と言われています。長谷川保はその後もイエス・キリストの教えを実践する生涯を送り、後に参議院議員にもなりました。聖隷福祉事業団はその後も「ゆうゆうの里」に有形無形の支援をしてきました。「ゆうゆうの里」は設立当初からキリスト教とのつながりがあったのです。
 開設と同時に「聖書を学ぶ会」が発足しました。その翌年には入居者のFGさんが島津牧師によって受洗しました。さらに一九九四年十二月から九か月間、佐倉教会が新会堂建設の期間中、「ゆうゆうの里」の施設を借りて礼拝を行った歴史があります。以後、この集会は「賛美歌と聖書の会」、「賛美歌の会」と呼称を変えながら、有馬尊義牧師、黒田直人牧師の指導に引き継がれて、金南錫牧師の今日に至ります。
 現在は毎月第二火曜日の午前十時三十分から一時間、集会室を借りて「聖書を読む会」を開いています。昨年の出席者は平均十四名/月で、そのうちの半数が佐倉教会の会員、半数が入居者です。その月の誕生日の人を歌でお祝いしてケーキをいただきます。呼び物はその日の聖書の箇所を再現するパフォーマンスです。寸劇の演出は某教会員、配役は某牧師と夫人及び某教会員と夫人、その熱演はここだけにしておくのはもったいないほどです。さらにクリスマス特別集会などには佐倉教会の有志の皆さんや追加の入居者の参加があり、正に教会の伝道の一端となっていると言ってもよいでしょう。これは紛れもなく宗教活動であり通常の公共施設では問題視されても仕方がないはずです。なのに「ゆうゆうの里」は佐倉教会のこの活動には寛容であるばかりでなくスタッフの皆さんは大変協力的です。それは先にご紹介したようにこの施設がスタートしたときからキリスト教の理念を胚胎していたことを知れば不思議ではないでしょう。
 以上、簡単ながら「ゆうゆうの里」の「聖書を読む会」のご紹介をしました。佐倉教会の皆様のお出でを歓迎します。余談になりますが聖隷佐倉市民病院は国立病院であったものが民営化されたときに浜松の聖隷福祉事業団が経営に参画するようになりました。その故に、この病院の増築工事の起工式などの式典には必ず佐倉教会の牧師が招かれているのです。

随想 父と共に生かされて 皆様の祈りに支えられる

○ぶどうの枝第60号(2024年6月30日発行)に掲載(執筆者:YK)

 「同期二十四人のうち、元気なのはあと三人になりました。N君は元気ですか?」長く勤めた職場の同期の方から、今年九十歳になった父宛てに電話がありました。その方とは同じ囲碁の趣味を持ち、親しくさせていただいたようです。体は徐々に弱って思うように動けないですが、神さまが守ってくださり、長く生かされているのだと改めて実感しました。
 母は二〇一六年一月、天に召されました。ある寒い朝、胸が強く痛むと救急車で病院に運ばれ、その日のうちに旅立ってしまいました。あまりに突然でした。父はその時期に腸が悪く、開腹手術を受けたばかりで入院中でした。「きょう悦子(母の名前)は来ないの?」父からの問いかけに、母の死を告げるのが何ともつらかったです。腸の病でやせ細った体を震わせて、病院のベッドで号泣していました。父を支える存在が急にいなくなってしまったので、そこから私と父が共に暮らす日々が始まりました。最初は要介護三でしたが、今では要介護五になりました。父と二人暮らし、はや七年。八年目に入ります。
 今より体が動かせた頃は、佐倉教会の礼拝に月に一、二度出席しておりました。「教会に行こう」と言うと、うれしそうに準備をしていたのがついこの前のようです。牧師の説教を聞き、讃美歌を歌い、安心したような表情をしていました。デイサービスに「今日は行きたくないなあ」と言ったことはありましたが、「今日は教会に行きたくない」と言ったことは不思議と一度もありませんでした。最近は礼拝のYouTube配信を視聴させていただいております。
 父は温厚な性格です。腹を立てず不平不満を言ったことがなく、人の悪口を言うのを聞いたこともありません。若い頃は何とも思っていなかったのですが、最近は父の人柄をいとおしく感じます。神様が私に与えてくださった大切な存在であると素直に思えるのです。
 数年前に私自身の体調が悪くなり、うまく睡眠も取れなくなり、体のあちこちが痛くなり、痛み止めの薬が手放せなくなった時期がありました。父の介護はもう無理かもしれないと諦めかけたこともありましたが、進むべき道へお導きくださいと祈りました。諦めかけた頃、不思議と体調が回復して痛みが減り、生きる力が湧いてきたのです。また介護生活が順調にいくようになりました。神さまが導いてくださったのだと心から感じました。
 この生活をいつまで続けられるか、先が見えないことは心配ごとの一つではあります。悩むことも多いですが、人の力で悩みを解決しようとしても、解決できたことはほとんどない気がします。神さまを信頼して祈り、すべてをお任せすることが大切だと思っています。
 とはいいつつ、理想通りにいかないことも多々あります。自分自身の欲深いところ、自分の現状に不平不満を感じるところ、イライラすること、人のことを羨む心、日々反省しています。謙虚さと感謝の気持ちを忘れず生活していくのが目標です。
 金牧師、会員の方々が自宅訪問をしてくださることに心より感謝しています。神様、教会、会員の方々とつながっていると感じます。皆様の祈りに支えられています。小さな存在でも愛されていることを教えていただく機会が多いです。
 父は外出できなくなり、礼拝には出席できませんが、神さまのことは忘れず生活しております。神様どうか穏やかな心で過ごせますようにお守りください。
(KNさんは、二〇二四年六月十七日、天に召されました)

随想 東京基督教大学での四年目の学び 神様の召しに応えて

○ぶどうの枝第60号(2024年6月30日発行)に掲載(執筆者:SK)

 佐倉教会の皆様、お久しぶりです。現在は、八千代聖書教会という八千代市にある教会で礼拝生活を送っています。長期休みの際に佐倉教会に戻るといつも「何年生になったの?」と声を掛けていただく機会があります。私は大学四年生になりました。小学生のときからいつもそのように話しかけていただいていました。答えるといつも、「もうそんなに大きくなったのね!前はこんなに小さかったのに!」と言っていただいていたのを覚えています。自分自身、大きくなったなと実感することはあまり多くなかったように思いますが、皆様に成長を見守っていただけたことはとてもうれしいことです。しかし、最近は「大学四年生になりました」と言っている自分に大変驚きます。この間まで自分はあんなに小さかったのに……。皆様の気持ちがやっと分かるようになりました。(笑)
 さて、私は二〇二一年に東京基督教大学に入学をしました。時がたつのはあっという間で、もう四年生、最終学年です。と言っても同大学の大学院に進みたいと願っているので学生生活はもう少し続きそうです。ただ、学部の学びは最終学年になるので昨年よりも少し特別な思いを持っています。入学する前は聖書を一人で読むことなんてあり得なかった私が今では、聖書を書かれたそのままの言語で、つまり旧約聖書はヘブライ語、新約聖書はギリシャ語で読むことができるように勉強しています。また、今年は卒業研究にも取り組んでいます。「幼児洗礼」についての研究を進めたいと考えています。まだテーマを絞る作業をしている途中なのですが、私自身もこの佐倉教会で幼児洗礼を授けられ、教会に育てられましたので実存的なテーマでもありとても楽しく研究を進めています。
 東京基督教大学はとてもユニークな場所です。年齢、国籍、性格、また教会の教派、信仰の背景などそれぞれ全く異なる人たちが同じ神様を見上げて学んでいます。社会での働きを経験してから学ばれている人生の先輩が同じ学年の仲間として与えられています。先輩なのか、友達なのか、はたまた兄弟のように感じる瞬間もあり、共に祈り支え合いながら学んでいます。また、留学生の割合は全体の三分の一ほどとなっており、英語を使ってコミュニケーションを取る機会も割と多くあります。英語を話せるようになったのか……会話は理解してもらえる程度……と表現するのがよいでしょうか。(笑)拙い英語ではありますが、コミュニケーションを取ることができ、留学生と信仰や神様の話をすることもあります。言語の壁を越えて、同じ神様を賛美し礼拝できる喜びがあります。
 また、「賛美」は新しい世界に出会った感覚があります。「ワーシップソング」と呼ばれる讃美歌のよりポップな音楽があります。ギターやドラムなどバンド演奏を用いて賛美をささげます。母が教会でオルガンを弾いていますが、私は「カホン」という箱のような形をしたドラムのような役割をする楽器で奏楽をすることがあります。また今は「ギター」や「ドラム」などの楽器を練習しています。賛美にも様々な形があるのだなということを教えられ、それぞれに良さがあって、神様を賛美することにも多様性があり、神様が与えてくださった「賛美」の恵みの深さを体験しています。
 もっと皆様にお話ししたいことがたくさんあるのですが、そろそろまとめに入らなければいけないようです。私は牧師になるために学んでいます。いずれはどこかの教会に遣わされ、送り出していただくことになります。ずっと佐倉教会にいたい気持ちもありますが、神様の召しに応えてこの身を献げたいと願います。どこで働くとしても、この佐倉教会を通して私が神様に育てていただいたことは変わりがありません。神様を理解することは本当に難しいことであると、学んでいる中で度々思います。しかし、私が信頼できるのは神様しかいないことも教えられています。佐倉教会の皆様お一人お一人にも神様は触れてくださり、日々御言葉を語ってくださっています。神様と共に歩む人生が祝福され、喜びのあるものとなりますように心から祈ります。
「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず
 常に主を覚えてあなたの道を歩け。
 そうすれば
 主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」
 (箴言三章五、六節))

随想 一枚の宝物の絵葉書 「神様はどんな時でも」

○ぶどうの枝第60号(2024年6月30日発行)に掲載(執筆者:KO)

 今、私の手元に一枚の古びた絵葉書があります。何年もの間、私の暮しの中で大切にしてきたものです。私の「宝物」といってもいいでしょう。
 いつの頃だったか定かではありませんが、ある人が「お元気ですか?」という言葉を添えて、送ってくれたものです。はじめは私が育った瀬戸内の海の、波がひたひたと寄せては、静かにすーっと返す浜辺の情景を思い起こして懐かしく、手にするのがうれしい一枚でしたが、その絵葉書の波打ち際に続く一筋の足跡が、ブラジル人の詩人アデマール・デ・パロスの『神われらと共に(浜辺の足跡)』に基づく情景であることに気づくのにそう時間はかかりませんでした。その詩の全文を知りたいと思いながら、時は過ぎましたが、セピア色に色あせはじめたある日、曽野綾子の『老いの才覚』を読んでいて、『神われらと共に(浜辺の足跡)』の全文をとうとう発見したのです。「これだ!」と私は心の中で狂喜しました。
 『神様はどんな時でも共に居てくださる』
 佐倉を離れ、所沢で過ごした五年間は、壁のよく見えるところにその絵葉書を貼って、その詩を思い浮かべながら日々眺めて暮らしていました。近くに教会はなく、コロナ禍の上に体調不良が重なり、出歩くこともままならなかった五年間の中で、この一枚はセピア色に色を変えながら、私にとっての支えになってくれました。
 『神様はどんな時でも共に居てくださる』
 その思いをより深めてくれ、そして〝祈り〟へと導いてくれたのです。そして今、再び佐倉に戻り、すっかりセピア色に変わってしまったその絵葉書を壁に貼って、部屋の窓から、そよ風に揺らぐ新緑の木々の向こうの遠くの空を眺めながら、加齢にあらがうことなく、神様に導かれるままに、平穏な一日一日を暮らしたいと願っているところです。

随想 母との時間 神様からのプレゼント

○ぶどうの枝第60号(2024年6月30日発行)に掲載(執筆者:MO)

 昨年十月に母が亡くなり、千葉に連れてきて我が家で一緒に暮らした部屋をいろんな想いを抱えながら整理しています。暖かくなるのを待って四月に父が待つ霊園に納骨しました。この霊園は日当たりがよく長男である弟の家の方を眺める高台だから気に入っているとまだ父が元気だった頃、帰省した私を連れていき説明され、お墓の日当たりねえ……と思ったことを思い出しました。霊園の近くには賀川豊彦記念館やドイツ人捕虜収容所であったドイツ館もあり、父につながる思い出が多い所でなるほどと納得したものでした。
 納骨すれば気持ちに区切りがつくと思っていましたが逆にいろんな思い出が湧き出てきて部屋の整理も心の整理も全くできなくなりました。今でも部屋のボードに「蒸気船堂浦防潮堤に描く」という新聞の記事が貼ってあります。私の友人が送ってくれた新聞記事で、鳴門市の海辺の町で八十五才まで育った母には懐かしい記事であり、私には蒸気船が定期船として就航していたことを初めて知り驚いた出来事でした。
 母の字で眉山丸、鶴羽丸、と書いてあり、四泊五日、伊勢、京都、奈良、大阪と書いてあります。とてもきれいな字を書く母でしたが、九十才を過ぎてからは指が曲がってしまい字が書けないと悲しんでいました。この船に乗って小学校のときに伊勢、京都などの修学旅行に行ったことや、二〇一八年十二月の『ぶどうの枝』に「転入者より」として書かせていただいた中で、小学校三年生のときに友達に誘われ初めてキリスト教の家庭集会に出席し教会が大好きになり、女学校一年生の十二月八日、太平洋戦争が勃発し家庭集会が中止になるまで、町から船に乗って港に着かれる牧師先生を出迎えていた、その船であることを私は知ることができました。絵を見ることでイメージが湧き、歴史的なことも知り、母が小学生の頃から家庭集会に行っていたことは何も知らなかったので驚きでした。そのことで母が洗礼を受ける下地を持っていたことが理解でき、これは母が父の亡き後、千葉に来てくれなければ分からなかったことでした。
 まだ元気で毎晩電話をかけてきていたとき、話が終わると二人で一緒に「主の祈り」を唱えます。ろれつが回らなくなってからも母は、使徒信条までスラスラ言うので驚くと「言えるよ」と得意な声で言いました。その母の声が心に残っています。
 まだいろんな思いが交錯しますが、母と過ごした千葉での生活は、子供の頃に忙しかった母との時間を埋めてくれた幸せな時間であり、神様からのプレゼントだったと思います。
 体調のこともあり、まだ気持ちの安定が伴わない日々ですが、良き思い出に支えられながら焦らず整えていけたらと願っています。

報告 虹の会(信徒懇話会)発足の経緯 開かれた集いを目指して

○ぶどうの枝第60号(2024年6月30日発行)に掲載(執筆者:FI)

 佐倉教会は二〇二二年まで、「麦の会」(壮年男性)、「婦人会」の二つのグループに希望者が毎月集い、学びと情報交換の交わりの場がありました。しかし、コロナ禍と同時に高齢化も進み、二つの会の出席者数も減少したことに加え、今日的理由として、男性・女性のどちらにも当てはまらない性、LGBTQが一般的に広く認識されるようになり、佐倉教会も性別を超え、どのような人でも自由に参加できる居場所が用意された、キリストの愛に根差した教会でありたいとの願いから、協議の上で合同に至りました。
 次に、会の名称を募集しましたが、三件の応募があり、多数決で「虹の会」と決まりました。「虹」という言葉は、創世記九章一二~一三節、「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。」から来ています。
 私たちの二つの会に希望の虹が架けられ、前途を祝福されているように思えました。
 発足後の会は、信徒に限らず希望者が集い、近況報告や考えなど自由に発言して交流しています。最近は新来会者も加わって裾野が広がりつつあり、ジェンダー平等の観点からも、佐倉教会の開かれた集いとなっています。会の始めに歌う讃美歌は、どなたかにリクエストしていただいていることも話題のきっかけになっています。
 「男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラテヤの信徒への手紙三章二八節)
 「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソの信徒への手紙二章一四~一六節)

随想 デイサービスの恵み 利用してはや三年

○ぶどうの枝第60号(2024年6月30日発行)に掲載(執筆者:AS)

一、健康チェック(血圧等)
二、お風呂 血圧が安定した方が入れる、洗いも手助け
三、昼食(バランスの良い)
四、日によって車で外出
・季節の花々(佐倉風車 ひまわり チューリップ)を見にいく
・企画によって、いちご園、つり堀等
五、ボケないように軽い問題のプリント、トンチ問題
六、テレビによる体操、職員による体操指導
七、季節ごとのイベント
八、歌つきカラオケ
九、利用のいろいろ
・週三回、二回、一回来る人
・午前中で帰る人
・一か月一回(働いている)
十、体の具合が悪い方の、それぞれに合った手助け
 車イス、歩行器、食事の食べ方等
 健康の方もデイサービスに来て楽しんでいます。
十一、その日の体調によってベッドで寝る
十二、行き帰りの車で、自宅←→施設 補助
十三、職員さんの優しさ
 私たちを慰め励ましてくれて安心
十四、来園希望の方は御来園ください。見学もできます。
十五、場所 佐倉東邦病院の下方
以上、佐倉Kのデイサービスの紹介です。

 神様は私の健康管理をしてくださり、最近は血圧も安定してきました。私が良いことをしたときは食事が一番早く運ばれたりして、共にいてくださる神様を感じます。

不正な管理人の例えから 世の富を生かして神の愛を伝える ルカによる福音書一六章一~一三節

○ぶどうの枝第59号(2023年12月24日発行)に掲載(執筆者:牧師 金 南錫)

 イエス様は弟子たちに、不正な管理人の例えを語られました。ある金持ちに一人の管理人がいました。その男は主人の財産を管理していました。ところが、その管理人について、主人の財産を無駄遣いしているという告げ口がありました。そこで、主人は彼を呼びつけて「お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない」と言ったのです。管理人にとって、会計報告を出すというのは、罪を問われる大変なことでした。管理人は考えます。「どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう」ということで、思いついたことは「管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ」ということでした。
 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼び出します。そして、最初の人に問います。「わたしの主人にいくら借りがあるのか。」すると「油百バトス」と言います。一バトスは約二十三リットルですから、油百バトスというのは、油二千三百リットル、結構な量です。管理人は「これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい」と言って、半分にしてやったのです。また別の人は「小麦百コロス」と言います。一コロスは、十バトスなので、二万三千リットルです。この人には、小麦百コロスを「八十コロスと書き直しなさい」と言ったのです。「主人に借りのある者を一人一人呼んで」とあるから、この二人だけではなくて、もっと何人もの人にそうやってあげたのだと思います。こうして、管理人は、この人たちに恩を売っておけば、自分が首になっても、将来自分の世話をしてくれるだろうと考えたのです。

 この時代においてどう振る舞えばよいか

 ところが、「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」とあります(八節)。ここで主人は、イエス様のことを指しています。つまり、イエス様はこの不正な管理人の抜け目のないやり方をほめたことになります。なぜでしょうか。その理由について「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」とあります。「この世の子ら」は、神を信じていない人たち、ここで言えば「不正な管理人」のことです。一方、「光の子ら」は信仰を持っている弟子たちのことです。そして、その弟子たちよりも、神を信じていない人たちの方が、自分の仲間に対して、賢く振る舞っていると言うのです。「自分の仲間に対して」というのは「自分たちの世代に対して」という言葉でもあります。つまり、彼らは自分たちが生きる時代の中で、自分がどう振る舞えばよいか、その賢いやり方を分かっているということです。不正な管理人は、その代表として語られているのです。
 イエス様は続けてこうおっしゃいました。「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」(九節)。ここで「不正にまみれた富で友達を作りなさい」というのは、神を信じない人と同じように、不正をしなさいということでしょうか。そうではないのです。ここで「不正にまみれた富」という言葉は、「この世の富」のことです。その富を使って、他の人が永遠の住まい、天の御国に入ることができるように、用いなさいという意味です。そうしておけば、私たちが人生でお金を使うことがなくなったとき、つまり私たちが死んだとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえるというのです。神の国、天の御国に入るときに、既に天に入った友が出迎えてくれるのだと、イエス様は言われたのです。このことを別の言葉で言うならば、この世の富を福音伝道のために用いなさい、神の愛を伝えるために用いなさいということなのです。

 佐倉教会を生み出したヘブジバ・ミッション

 今年、佐倉教会は創立百十九周年を迎えています。佐倉教会が今、この地に立っているのは、今から百十九年前にアメリカのヘブジバ・ミッションを支える信徒たちが献金をしてくれたからです。彼らは何とかして、日本の地に、特に日本の伝道未開拓地に生きる人たちにも、神様の愛を伝えたいと考えたのです。そして、ヘブジバ・ミッションという伝道団体からアグネス・グレンという婦人宣教師が派遣されました。でも、宣教師は無一文で行けるわけではありません。だから、宣教師を送り出すために、皆で献金をしようと思ったのでしょう。具体的には、アメリカから日本までの旅費が必要です。日本での滞在費も必要です。また、日本で日本語を勉強するための費用も必要です。さらには、住む家を購入する費用、生活費も必要です。このように、ヘブシバ・ミッションを支えるアメリカ教会の信徒たちが、日本でのアグネス・グレン宣教師の福音伝道の働きを覚えて献金をしてくれたから、佐倉教会が生み出されました。そして、今私たちはここに集って、礼拝を献げているのです。宣教師が来てくれたから、また、その宣教師を派遣するためにアメリカ教会の信徒たちが献金を献げてくれたから、佐倉教会があります。
 また、その後、佐倉教会の信仰の先達が献金を献げてくれたから、今私たちはここにいるのです。そしてそれと同じように、私たちも後に続く誰かのために、「この世の富」を使うことができるのです。それが、教会の様々な働きのために、献げる献金ではないでしょうか。すると、その一つ一つの働きによって、救われた人たちがやがて天において私たちを迎えてくれると言うのです。

 神のものを神のご栄光のために用いる

 イエス様は言われました。「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか」(一〇~一二節)。ここで、ごく小さな事、不正にまみれた富というのは、「他人のもの」と言われています。私たちが持っている富は、神のものだということです。本来、富は神様のものです。それを神様のご栄光のために用いることができるならば、それは本当に価値あるものをあなたがたのものとして与えてくださるというのです。そして、本当に価値あるもの、それは正に天の御国、永遠の命です。友を神の国、天の御国に導くために、与えられた富を用いていく。それこそ富に仕えるのではなく、富を生かして、神に仕える生き方なのです。その生き方に忠実であることが私たちに求められているのです。