苦難の夜から賛美の朝へ 「主イエスを信じなさい」 使徒言行録一六章一六~三四節

○ぶどうの枝第62号(2025年6月29日発行)に掲載(執筆者:金 南錫牧師)

 パウロがヨーロッパに渡って、最初に伝道した町はフィリピという町です。パウロたちはフィリピに到着し、祈りの場に向かっていく途中、占いの霊に取りつかれている一人の女奴隷に出会います。彼女はフィリピの人たちに人気があったようです。人々はお金を払って、この占い女の語ることを聞いていました。しかし、彼女は新しくやってきたパウロたちが気になったのでしょうか。パウロたちの後ろについてきて、こう叫びました。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」(一七節)彼女が叫んでいることは正しいことです。ところが、彼女はまことの信仰を持って叫んだのではありません。

 彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて、彼女を支配している霊に向かって「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」と命じました(一八節)。すると即座に、占いの霊が彼女から追い出され、占うことができなくなりました。彼女を通して、金もうけをしていた主人たちは憤慨し、パウロとシラスを捕らえ、町の高官たちに引き渡しました。すると、高官たちはちゃんと調べもせず、二人の衣服をはぎ取り、何度もむちで打ってから、牢に投げ込みました。そして、看守に厳重に見張るように命じたのです(二三節)。
 この命令を受けた看守は、二人を一番奥の牢に入れて、木の足かせをはめておきました。何度もむち打たれ、投獄されたパウロとシラスは大変な苦しみの中にあったと思われます。よくこのような苦難のときは「夜」に例えられます。信仰生活を歩むとき、時として家族による苦しみ、病気による苦しみ、経済的な苦しみなど、苦しみの夜のときがあります。人はその苦しみの夜に出会うことを嫌います。ところが、人生の夜に出会ったとき、信仰者だけが味わう特権があります。それは、人生の夜に出会ったときにも「賛美することができる」という恵みです。パウロの状況から見ると、神様を恨み、不平不満を言うしかない状況でした。パウロ自身は、アジアで福音伝道をしましたが、ある日、「マケドニア州に渡ってきて、私たちを助けてください」という幻を見るのです。
 パウロは聖霊の導きに従い、ヨーロッパのフィリピに渡って福音を伝えました。しかし、その結果は、むちで打たれ、牢に閉じ込められてしまったのです。パウロは「神様、どうして、こんな目に遭わなければなりませんか」と、神に嘆くそういう状況でした。しかし、パウロとシラスは、牢の中で賛美の歌を歌い、神に祈っていました(二五節)。

 パウロとシラスの賛美と祈り

 真夜中、牢屋の中、二人の傷だらけの信仰者が賛美の歌を歌い、神に祈っていると、他の囚人たちはこれに聞き入っていました。ここに、教会の真の姿が現れていると思います。信仰者の賛美と祈り、それがあれば、そのところが礼拝の場となります。二六節を見ますと、そのとき、「突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった」とあります。
 パウロたちの賛美の歌と祈りに応えるように、突然、大地震が起こったのです。しかし、もっと不思議なことは、その地震によって牢の扉が皆開き、すべての囚人の鎖も外れてしまったのに、牢の中から逃げ出す者は一人もいなかったことでした。なぜこんなことが起こったのでしょうか。パウロたちの賛美と祈りを聞いていたからとしか考えられないのです。パウロとシラスが歌った賛美と祈りは、囚人たちの心を深く捉え、逃げなくて構わない自由をもたらしたのではないでしょうか。
 この地震に目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとしました(二七節)。そのときパウロが大声で叫びます。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」看守は暗いので、明かりを持ってきて、声がする一番奥の牢に向かいました。確かにパウロもシラスもいました。開け放しになった牢から逃げ出す者は一人もいなかったのです。
 看守はパウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出して言いました。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」(三〇節)看守は自分に起こったこと、そしてパウロたちの姿を見て強く心を揺さぶられたのです。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」この問いは、全ての人を代表した問いでもあります。
 看守の問いに対して、パウロとシラスは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と答えました。「そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った」とあります(三二節)。恐らくパウロは、主イエスの十字架と復活について語ったと思います。特に私たちの全ての罪を背負って、私たちの身代わりとして、御自分の命を捨ててくださった主イエスの愛について語ったと思います。
 讃美歌四九三番「いつくしみ深い」は、主イエスについて、私たちの友であると歌っています。
  いつくしみ深い 友なるイエスは
  うれいも罪をも ぬぐいさられる。
  悩み苦しみを  かくさず述べて、
  重荷のすべてを み手にゆだねよ。
  いつくしみ深い 友なるイエスは
  愛のみ手により 支え、みちびく
  嘆き悲しみを  ゆだねて祈り
  つねに励ましを 受けるうれしさ。
  いつくしみ深い 友なるイエスは
  われらの弱さを 共に負われる
  世の友われらを 捨てさるときも
  祈りに答えて  なぐさめられる。
 この讃美歌は、友なき者の友となってくださった主イエスに出会ったうれしさを歌っています。この讃美歌がなぜ多くの方から愛されるようになったのでしょうか。それは、この讃美歌の歌詞と、自分の信仰生活で受けた主の恵みが重なっているからではないかと思います。最後の三三節、三四節にこう書いてあります。
 「まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族共々喜んだ」
 真夜中という状況は変わりません。しかし、看守の心は嘆きから賛美に変わったのです。洗礼を受けて、神を信じる者になったことを家族共々喜んだのです。
 二〇二五年度が始まり、二か月がたちました。今年一年、佐倉教会の歩みはどうなるのでしょうか。また、私たち一人一人の歩みはどうなるのでしょうか。いろいろ心配なことがたくさんあると思います。いろんな悩み、苦しみ、悲しみ、恐れが待っています。でも、夜が深ければ深いほどパウロとシラスのように、より大きな声で神様を賛美し、祈る者となりますように。そしてその賛美の歌とともに、友なるイエスが私たち一人一人を守り、導いてくださる一年となりますよう、祈り願います。

受洗者より 亡き妻に背中を押されて 受洗、カタツムリの歩みの如く

○ぶどうの枝第62号(2025年6月29日発行)に掲載(執筆者:HA)

 五月十一日に受洗式を終え皆様のお仲間入りをさせていただくことになりました。ほやほやの一年生です。
 これから先、信仰の道において多くのことを学んでいかなければなりません。どうぞご指導よろしくお願いいたします。
 クリスチャンだった妻、美智子との出会いから六十年余りの長い間、私は求道者として教会に足を運んでいました。しかし、実態は彼女についていくという程度の思いでしたから「入信」への積極的な気持ちは薄く、なんとなくこのままで過ぎていくのだろうと漠然と考えていました。
 二人が八十歳を前にした頃、私の「受洗」を望んでいた彼女が、時々「お父さん、もうそろそろどう?」と言うようになりました。私は「そうだねえ、そのうちにね」と、その度に曖昧に答えていました。ただ、いずれはという気持ちはあったのです。
 そのときは二人共元気で、まだまだ先があると考えていましたから、彼女が突然のように、旅立っていくとは思いもしませんでした。
 二年ほど前、妻ががんに侵され、やがて入院生活を余儀なくされるようになりました。折しもコロナウイルスの影響による面会制限があって一日にわずか十五分しか会って話をすることができませんでした。私たちにはつらい日々でした。
 病状が悪化するにつれて四人部屋では対応が困難との病院側の意見もあり、個室に移ることになりました。そして、私も一緒に宿泊することになりました。
 二十四時間彼女の世話をし、三度の食事を共にし、毎夕食の後は並んだベッドから手を差し伸べ握り合い、声を合わせて讃美歌の「いつくしみ深い」を歌って過ごしました。
 私たち夫婦にとって大切な、そして最も充実した時間でした。しかし、それはわずか五日間で終わってしまいました。妻は六日目の夜を越せなかったのです。長くつらいベッド生活の中で、彼女が〝神様にどのような祈りを奉げ、どのようなお願い〟をしたのか知るすべはありません。それ以来、私は妻が一生を通し守り続けた信仰について考えるようになりました。同時に私自身の信仰についても考えるようになりました。しかし、依然として「入信すること」をちゅうちょする気持ちは変わりませんでした。
 ある日曜礼拝の朝、親しくさせていただいているAさんとお話する機会があり心境をお話しました。Aさんは「百パーセント神を信じてから入信する人なんていませんよ。入ってからの信仰が大事なんですよ」と、また「奥様の思いにお応えなさったら」などと自らの経験も含め丁寧にお話してくださいました。
 娘たちも「いいと思うよ」と賛成してくれたこともあり、やっと気持ちの整理ができました。もちろん、亡き妻が背中を押してくれたのは言うまでもありません。
 その翌週、金先生に「入信の意志」をご報告し、ご無理を言って妻の一周忌の翌日のこの日に「受洗式」を行っていただけるようお願いしました。
 二人の娘が見届けてくれた「受洗式」、そしてこの日は私が長い年月を経てやっと妻が望んだ「クリスチャン」になった記念すべき特別な日になりました。

転入会者より 転入に当たり思うこと 人を愛すことのイメージ

○ぶどうの枝第62号(2025年6月29日発行)に掲載(執筆者:KN)

 私は、一九七九年(二十歳)のときに沼津教会で受洗しました。
 その後、すぐに就職のために千葉県に住むこととなり、千葉教会を経て佐倉教会に通うようになりました。
 初めて佐倉教会に来た頃、私は三十代半ばであり子どもたちは小学生でした。それから現在に至る長い年月で、「人を愛す」ということのイメージが変化したように思います。
 原罪とは、アダムとエバが神様のようにこの世を支配したいと願うことだと聞きました。このことが心に残りました。良かれと思い子どもにアドバイスすることも、場合によっては私の好みに合った方向付けとなり、支配につながるからです。子ども自身が心の奥に持っているものを引き出す関わりが必要であり、それが「愛」です。そんなことは当然だと思う人は多いと思います。けれども、場合によってはアドバイスが支配につながり、それは原罪につながるという発想はありませんでした。
 少し前のことですが、テレビをつけると田中ウェルベ京さんが話していました。
 「子どもたちが悩んでいるときに、すぐに共感したり解決できる助言をしたりしてはいけません。まず話を聞いて、本当の悩みは何かということを子どもと二人で探る。そうすることで、お互いに実態把握の力と解決する力を養うことができます。また、解決してあげないで問題をそのままにしておくこともよいことです。私たちは、先の見えない困ったことが起きると本能で恐怖を感じます。それなので早く解決してモヤモヤから抜け出したいと思います。けれども、解決しないでそのままにとどめておける力が必要であり、そういう力を付けることが大切です」
 この話を聞き「人を愛す」ということのイメージが、より具体的になってきました。
 私の子どもたちは何年も前に成人しているので、成長期の子どもとして向き合う必要はありません。にもかかわらず田中ウェルベ京さんのお話が心に残っているのは、受洗してから「人を愛す」ということの方法を無意識に模索していたのかもしれません。「隣人愛」という言葉は、私たちにとってとても大切な言葉ですが、私にとっては難しい言葉でした。
 神様の愛に気付いてほしいと願う人に会ったら、遠回りではありますが田中ウェルベ京さんのお話のように対応することが良いと思います。そうすることで、人はたくさんの可能性を持ち、神様に愛されていると伝えることになると思います。
 佐倉教会に、再び迎えてくださりありがとうございます。私にとっての「人を愛すことのイメージ」を書かせていただきました。佐倉教会には、在籍する人の数だけ「人を愛すことのイメージ」と「信仰の形」があると思います。皆様の尊い「愛」と「信仰」に敬意をもって、共に礼拝を守っていきたいと思います。
 どうぞよろしくお願いたします。

草創期の佐倉教会の人びと―百二十周年記念誌の編纂から―

○ぶどうの枝第62号(2025年6月29日発行)に掲載(執筆者:MK)

 二〇二四年度の事業として取り組んでいた百二十周年記念誌は、皆様のさまざまな御尽力・御協力により、本年三月三〇日に無事刊行することができました。歴史についての部分では、草創期の教会について新しく判明したことも多かったのですが、記念誌には書ききれなかったことや、その後さらに分かってきたこともあり、四月二〇日のイースター祝会でお話させていただきました。

 草創期の牧師たち

 歴代の牧師については、百周年記念誌には一三人の方の写真が載っていますが、他にもお名前が挙げられている方がいます。嶋津虔一先生が編纂された「八十年史」(百周年誌に転載)では、一九〇四年(明治三七)に宣教を始めたソルントン宣教師夫妻が佐倉教会の「生みの親」とされていますが、同年七月には佐倉を離れており、最初の総会は同年一一月二七日(創立記念日)ですから、その時に牧師だった木村定三師が初代ということになると思います(敬称は以下略)。木村定三は同年六月に弘前から赴任しており、詳細は不明ですが、ヘフジバ・ミッションと密接な関係があったホーリネスの中心人物である中田重治が弘前出身なので、その縁なのかもしれません。この年には、手塚千織子も「伝道婦」として二月に静岡から赴任しています。
 翌一九〇五年一〇月以降は資料が乏しいが、井上伊之助・三谷碩五郎が定住伝道者と思われる、とされており、この内、井上伊之助(在職一九〇七~〇九か)は、台湾伝道者として有名であることが分かりました。聖書学院(中田重治らの東洋宣教会・中央福音伝道館の神学校)の神学生時代に、当時日本の植民地だった台湾で父親が原住民に殺害されたが、「敵を愛せ」と示され、さらに台湾伝道の召命を受けて、佐倉教会の牧師を辞した後、台湾に渡って医療と伝道に尽くした人です。自らは一人の受洗者も出せなかったが、一九四七年の帰国直前に山地の原住民がリバイバル(信仰復興)的な状態になったことを知らされ、一九七七年時点で八〇%がキリスト教徒になっているそうです。台湾で色々な紹介動画が作られており、高尾日本語教会が一〇年前に作った「父の仇討ちを乗り越えた青年―井上伊之助」には、一九〇八年(明治四一)ちょうど佐倉で牧師をしていた時期の新婚当時の写真が出ています。
 https://www.youtube.com/watch?v=OB0tQVVF-Nk&t=517s
 この二人に続く牧師は、菱谷(ひしや)与三郎(在職一九一一~一三)と鈴木仙之助(同一九一三~一六)ですが、記念誌にも書いたように元警察官だった人で、菱谷与三郎の写真は初めて見つかりました。二人とも、銚子教会の牧師だった平出(ひらいで)慶一が受洗に導き、東京の聖書学院に送った、と『主のあわれみ限りなく 平出慶一自伝』(一九八二年、日本福音基督教団成城キリスト教会)にあります。平出慶一は自らの経歴の中で、聖書学院卒業後、二年間のオブリゲーション(義務)としてヘフジバ・ミッションの銚子町の教会に赴任したと書いていますので、井上伊之助以降の佐倉教会の牧師も、聖書学院卒業後に同じ形で来ていたものと思われます。

 初代会堂前の写真

 銚子教会で一九〇六~〇八年に牧師をつとめた平出慶一のことは、同教会の米沢講治先生から教えていただき、自伝があるのに気づいて入手した所、口絵に佐倉教会(佐倉福音伝道館)が現在地に移る前の、最初の会堂の写真があって驚きました。
 この写真は百二十周年記念誌にも掲載させていただきましたが、写っている人物について、もう少し分かってきました。中央で大太鼓をたたいている平出慶一の右二人目は、当時佐倉の牧師だった井上伊之助、平出慶一の後ろの西洋人は、日英国旗が掲げられていることから、英国人(聖公会牧師)で松江で伝道して多くの弟子を育てたバックストン、その左はバックストンの弟子の一人で、聖書学院の校長をつとめ、佐倉にも何度か来援している笹尾鉄三郎、左端の方にいるのは、この後に佐倉の牧師になる菱谷与三郎と思われます。バックストンを迎えての特別伝道集会に関係者が集結した際の写真と思われ、この集会自体についての記録は見当たらないのですが、関係者の年譜から、年代は一九〇八年に特定できます。今後さらに人物やその背景が判明するかもしれません。なお、英国国旗があるのは、一九〇二年に日英同盟が結ばれ、一九〇四~五年に日露戦争があったことも背景として考えられます。
 銚子教会で見つかったグレン師関係の六点の写真については記念誌に書いたとおりですが、廻船の時代は物流の拠点として栄えた銚子に、まず宣教師館などの伝道の拠点が作られ、そこから佐倉などに伝道が進められたことが分かります。
 草創期の佐倉教会に関わった人びとの生き様に、多くのことを感じさせられます。

随想 神様の御旨にすべて委ねる

○ぶどうの枝第62号(2025年6月29日発行)に掲載(執筆者:YH)

 ヨルダン川を渡る……全地の主である主の箱を担ぐ祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると、川上から流れてくる水がせき止められ、ヨルダン川の水は壁のように立つであろう。(ヨシュア記三章一三節)
 ヨシュアと祭司たちにとって、ヨルダン川を渡ることは、信仰によって望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することでした。神の導きを疑う気持ちはありませんでした。魂の中に何か引っかかるものを感じるのならば、そのまま前進せずに明らかな道が与えられるまで待ちました。その御声を聞く、自分の意思などはない、小指より小さな信仰によって、自分の計画も目的も全て愛の神の御旨の中に注ぎ入れ、何も持たないが、神にあって全てを得ていました。ヨルダン川の水は壁のように立つでありましょう。不思議な解放感に満たされ、罪の綱からの解放、疑いと恐れからの解放、心配、重荷、悲しみ、不安、一切からの解放でした。神の力の奥底へと漕ぎ出し、しっかりと守り救われる。その力の奥底へと聖霊に全てを委ね、沈んでいきます。
 自我を捨てるまでアブラハムは、イサクを献げました。「イサクから生まれる者があなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。アブラハムは神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。
 聖霊が私たちを満たし、私たちは満たされ、完全にされます。私たちの魂の中にある光が陰ることなどあり得ません。すべてを委ねるという契約を守っている限り。

随想 初めて教会に行ったとき

○ぶどうの枝第62号(2025年6月29日発行)に掲載(執筆者:SK)

 女学校で隣の席だったSさん、日常の会話の中で自分の家とは何か違うものを感じていました。
 ある日「教会へ行きませんか。」と誘われ、日曜の朝六時前、彼女と一緒に着いた先はカトリック教会のミサだったのです。その日は祝祭日だったのか、ピカピカで荘厳な感じでした。教会に対して全く無知だった私はカトリック、プロテスタントなど知る由もありません。ミサの間中、友達も私自身もどんな行為をしたのか……。
 終了後「うちへ寄って朝食をどうぞ」に黙って雪解けの道を歩いていき朝食をいただきました。温かな千六本の大根の味噌汁、なんとおいしかったことか。忘れられない味です。その後、半年程何度か行きましたが詳しい記憶はありません。
 卒業後、県庁に勤めた私。国道四号線を隔てた所に模造紙の貼られた立て看板によって教会のあることに気付きました。歩いて十二、三分。教会はどこも同じとしか知らない私です。
 冬を控え大根干しがあちこちに見られる秋晴れの日曜日、見つけた教会に行きました。木造、平屋建て十二、三坪六畳二間にたくさんの人が正座をしているのです。そこで背広にネクタイ、六十代半ばの牧師が説教されました。内容は全く不明です。土曜午後の十名ほどの聖書研究には和服に袴を着けて定刻に来られ、四、五名のときであっても同様で、内容は不明ながら、なぜか引かれるものがあり毎週出席しました。
 一九四九年四月イースター、多方面からの支援によって建てられた新会堂(日本キリスト教団青森長島教会)で十数名と共に、中山真平牧師より洗礼を受けました。

私の好きな讃美歌 四九三番「いつくしみ深い」

○ぶどうの枝第62号(2025年6月29日発行)に掲載(執筆者:YT)

 いつくしみ深い 友なるイエスは
 うれいも罪をも ぬぐい去られる。
 悩み苦しみを かくさず述べて、
 重荷のすべてを み手にゆだねよ。

 いつくしみ深い 友なるイエスは
 われらの弱さを 共に負われる。
 嘆き悲しみを ゆだねて祈り
 つねに励ましを 受けるうれしさ。

 いつくしみ深い 友なるイエスは
 愛のみ手により 支え、みちびく。
 世の友われらを 捨てさるときも
 祈りに応えて なぐさめられる。
      *
 私が初めて行った教会の礼拝で賛美した曲で、以前から好きな讃美歌です。そのときの様子を今も感慨深く思い出します。
 一九九五年、夫の転勤先の静岡で受洗し、礼拝や結婚式、葬儀等、様々な場面でこの曲をたくさんの人々と賛美する機会が与えられました。
 その都度心が癒やされ、喜びは増し、悲しみや苦しみは軽減され、心に安らぎと平安が与えられてきました。
 心が騒ぎ不安を感じる弱さの中にいるときも、楽しく幸せなときにも自然と口ずさんでおります。
 詩や旋律に神様の深い愛といつくしみを感じ、困難な中にあっても、乗り越える勇気を与えられ感謝です。
 「重荷のすべてをみ手にゆだねよ」と口ずさみ安らぎを得ております。
 神様が私に信仰を与えてくださいました恵みを深く感謝し、賛美しております。

「キリスト・イエスの心を心にせよ」 謙遜と尊敬の心を持って フィリピの信徒への手紙二章一~五節

○ぶどうの枝第61号(2024年12月22日発行)に掲載(執筆者:金 南錫牧師)

 今日のところでは、キリストにあって、思いを一つにするようにという勧めがなされています。一節、二節に「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、〝霊〟による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」とあります。「そこで」と始まっていますが、これは、それまで述べてきたことを言っています。そして、あなたがたはイエスの十字架の愛によって、天の御国に属する市民となったので、御国の一員として、同じ思いとなりなさいと勧めています。
 ところが、フィリピ教会の中には一致できない問題があったようでした。一章一五節に「ねたみと争いの念にかられてする者もいれば」とあります。教会の中で、妬みや争いの念に駆られて、イエス様のことを宣べ伝える人がいたようです。それから、四章二節にはエボディアとシンティケという二人の女性が出てきますが、その二人の間に一致できない問題があったことが伺えます。パウロはこの二人に「主において同じ思いを抱きなさい」と言っています。恐らく、この二人はイエス様のことを熱心に伝えたい、その熱心さのゆえに、お互いに譲らないことがあったようです。同じ信仰の仲間なのに、同じ思いになれない現実がありました。
 それは、この手紙を書いたパウロ自身もかつて経験したことでした。パウロが、第二回目の伝道旅行に出かけたときのことです。それまで一緒に働いてきたバルナバがいとこのマルコを連れていきたいと言い出しました。それに対して、パウロは強く反対します。それは、マルコが第一回目の伝道旅行のときに、途中で家に帰ってしまったからです。パウロはそんな者は一緒に連れていくべきではないと考えました。そこで、意見が激しく衝突して、二人はついに別行動を取ることになってしまいました(使徒一五章三九節)。後になって、二人は和解をするのですが、パウロにとってつらい出来事であったと思います。
 では、パウロはどのようにして、思いを一つにしなさいと言っているのでしょうか。一節をもう一度お読みします。「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、〝霊〟による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら」とあります。これは、条件というよりも、私たちには「キリストによる励まし、愛の慰め、〝霊〟による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるのだから」という意味合いがあります。つまり、教会の真ん中にはイエス・キリストがおられ、お互いがつながっているのです。そして、その教会にはキリストによる励まし、愛の慰めが注がれています。また、同じ聖霊の交わりによって、お互いの間に慈しみや憐れみの心が満ちています。だから、思いを一つにすることできるということです。
 でもそうは言っても、実際には中々同じ思いになれない現実があります。三節前半に「何事も利己心や虚栄心からするのではなく」とあります。ここに教会の一致を妨げるものとして、二つのことが挙げられています。一つは、利己心です。自分の利益だけを求めることです。教会の心を優先するのではなく、自分の心、自分の願い、自分の利益を優先することです。そうした自分のことを優先すると、どうしても意見がぶつかってしまいます。同じ思いになることが難しくなります。もう一つは、虚栄心です。実際の自分よりも、良く見せようとすることです。見えを張ることです。人は誰でも、このような利口心や虚栄心があるので、中々思いを一つにすることが難しくなります。

 「へりくだる」ことと謙遜な者になること

 ところが、パウロは思いを一つにするために、三節後半で「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」と勧めています。ここにも二つのことが挙げられています。一つは「へりくだる」ことです。自分を低くすること、謙遜な者になることです。本来、人は本能的に自分を低くすることが中々できない存在なのかも知れません。それでも、神様は私たちに謙遜な者になることを求めておられます。そして、もう一つのことは、「相手を自分よりも優れた者と考えること」です。他者を敬うこと、尊敬することです。これも心から実行することは中々難しいことです。でも、なぜ、謙遜と尊敬の心を持たなければならないのでしょうか。それは、神様の前には誰も誇れる者はいないからです。皆、神様の前に罪深く、傲慢な者です。この私たちのために、御子なるイエス様が低くなって、人となり、家畜小屋の硬い飼い葉桶で生まれ、十字架で尊い命をささげてくださいました。私たちに代わって、私たちの罪をあがなってくださいました。それが、どれほど大きな恵みなのか、本当に分かるときに、謙遜と尊敬の心が与えられるのではないでしょうか。そして、本当の意味で、自らへりくだり、相手を自分よりも優れた者と考えることができるのだと思います。
 今年、創立百二十周年を迎えている佐倉教会のこれまでの営みの中、いろんな意見の対立があったと思われます。その中で、どうやって一つの思いになっていくのか、そのことを信仰の先輩たちが大事にしてこられたので、今、創立百二十周年という大きな恵みを受けているのだと思います。フィリピの教会は、利己心と虚栄心のために信仰生活を送るような悲しい現実がありました。パウロはそういう状況を聞いて、勧めています。「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」
 最後の五節に「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです」とあります。「このこと」というのは、一節から四節まで記されてきたこと、つまり、思いを一つにすることを心掛けなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものなのだというのです。文語訳聖書では「汝らキリスト・イエスの心を心にせよ」と訳しました。あなたたちは、キリストの心を自分の心にしなさいということです。教会の一致を求めるキリストの心を、自分の心としてしっかりと受け止めることです。その集まりこそ、一致が得られるのだろうと思います。
 星野富弘さんの詩の中、「強いものが集まったよりも、弱いものが集まったほうが、真実に近いような気がする」という一節があります。自分の弱さを知り、キリストの力のみを頼るとき、初めて教会の一致が得られるのではないかと思います。「汝ら、キリスト・イエスの心を心にせよ」キリストが示してくださった心を、自分の心としてしっかりと受け止めて、主にある一致を求めてまいりたいと思います。

転入会者より 父との八年の介護生活 神様のご計画を受け入れる

○ぶどうの枝第61号(2024年12月22日発行)に掲載(執筆者:YK)

 このたび佐倉教会の会員として十一月十日に迎え入れていただきました。大変うれしく思っております。佐倉教会を最初に訪れたのは父の洗礼式で、二〇一二年四月八日でした。教会堂一杯に美しいオルガンの音色が響き渡っていました。聖歌隊の歌声が奇麗だったのも印象的でした。百二十年もの間、佐倉の地で福音を宣べ伝える教会として守られてきたことに、神様からの祝福を感じます。また私を佐倉教会に導いていただいた大きな主の恵みに感謝しています。
 二〇二四年六月十七日が父とのお別れの日となりました。「介護生活がいつまで続くか分かりませんが、神様に全てを委ねていきます」と六月発行のぶどうの枝第六十号に載せていただきました。その直後に父は神様の元へ旅立ちました。主に全てを委ねつつもお別れがくる日が怖くて、毎晩「今まで守ってくれてありがとう」と伝えていました。神様のご計画だと思うと、感謝とともに受け入れることができた気がします。父との介護生活は八年間でした。大変でくじけそうな時期もありましたが、体が不自由になっても不平不満一つ言わなかった父から見習うことも多々ありました。
 ベッド上での生活が主になった父の自宅を、金牧師と教会員の方々が何度となく訪問してくださいました。聖書の学び、祈り、励ましで支えていただいた日々は忘れられない体験です。また祈祷会でのお祈りなど、たくさんのお支えがありました。金牧師、会員の皆様に心より感謝いたします。母は八年前に神様の元へ導かれましたので、両親とも地上での歩みを終えました。両親との別れはつらいものでありますが、救いと祝福を与えてくださる主に感謝の気持ちで一杯です。
 皆様に支えていただきながら、感謝と祈りを忘れず、謙遜に歩んでいきたいと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。

随想 教会はイエス様を乗せた舟

○ぶどうの枝第61号(2024年12月22日発行)に掲載(執筆者:MO)

 佐倉教会は百二十周年を共に祝う記念礼拝を守ることができました。礼拝後の愛餐会で思い出の写真がスクリーンに映し出され懐かしい方々のお顔があり、その中にTIさんのお顔もありました。
 黒田先生の時代に、「これからの佐倉教会、こんな教会になれば良いな」と佐倉教会の在り方を話し合ったことがありました。礼拝者人数がどんどん増えていた頃で大きな建物が必要との意見が多い中、Iさんが、「器のハード面ばかりに重きを置くのではなく、近い将来高齢化が進み、少子化も必ず問題になる。教会も同じであり、これからの少子高齢化時代を見据えソフト面の対応を考えるべき」と話されたことが思い出されます。私は、四世代八人家族で生活し、主人の祖父母を家族で看取り、人が最後に向う道のりを生活の中で経験していたので、Iさんの意見は当時強く心に残りました。
 現在、正にその状況で不安が大きかったのですが、記念礼拝の何日か前に所用で教会をお訪ねしたら金先生が思い出の写真を四竃さんが持ってきてくださった。と私にも見せてくださいました。そして金先生が思ったよりたくさんの方の出入りがありますね。とおっしゃいました。私も懐かしいお顔を拝見しながら同じことに気が付きました。そしてちょっとだけ、大丈夫かもと漠然と思いました。
 百二十周年記念礼拝は木下宣世先生の説教「どんな時も、主は共に」をお聞きしました。教会は舟であり「板子一枚下は地獄」私は海辺の町で育ちましたので子供の頃から聞いていた言葉でした。教会はいつも順調な時ばかりではない。様々な問題で漕いでも、漕いでも前に進めないような逆風。前にも後ろにも進めない状況。そこにイエス様は湖面を歩いてきてくださり「私だ。恐れることはない。」とおっしゃいました。イエス様は私達には考え付かないような形で来てくださいます。百二十年航海を続けた佐倉教会、様々な問題があったけれど百二十年礼拝を守ることができたのは神様がいてくださった印です。これからの航海も、様々な困難が待ち受けていても、どこからでも駆けつけてくださるイエス様の御言葉を信じて目的地に向かって進んでいける舟であります。
 木下先生の説教により、不安な気持ちは消えて大丈夫。教会はイエス様を乗せた舟として進んでいける。教会員それぞれができることをできるように力を合わせ、金先生を中心に祈りを合わせ進んでいけばよいのだと少し明るい気持ちになりました。