神の導きを信じるヨセフの信仰 創世記四五章一~二八節

○ぶどうの枝第56号(2022年6月26日発行)に掲載(執筆者:金 南錫牧師)

 今まで、自分の身をあかそうとしなかったヨセフはいよいよ兄たちに身をあかしました。また、同時にヨセフはこれまでの人生に起こった出来事を振り返って、神の視点から自分の人生を再発見することができました。それはどんなことだったのでしょうか。
 兄たちの悔い改める姿を見て、ヨセフは自分を抑えきれなくなりました。そして、家来たちを部屋から出させて、声をあげて泣きました。ヨセフは、兄たちが以前とは違って、末の弟ベニヤミンを守ろうとした姿を見て、二十二年前に自分を見捨てたときの兄たちとは違うことが、よく分かったわけです。そして、ようやく自分がヨセフであることを兄弟たちに告白します(三節)。当然ながら、兄たちは驚きのあまり、答えることができませんでした。また、同時にかつて自分たちがヨセフに対して犯した罪のことを思い出し、ヨセフの復しゅうを恐れていました。驚き恐れる兄たちにヨセフは、「わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」と言っています(五節)。ヨセフは兄たちをゆるしていました。かつて兄たちに憎まれてエジプトに売られたことを一切言わないで、逆に兄たちのことを心配し、気遣っているのです。
 では、ヨセフはどうして兄たちをゆるすことができたのでしょうか。それは、ヨセフが神の方を見ていたからです。兄たちからされた理不尽なこと、売られた者としての悲しみ、奴隷としてのつらい生活、ポティファルの家で誤解された者としての孤独、そして無実の罪によって監禁されなければならなかったときの絶望感など、ヨセフの人生は悲しいもの、つらいもの、そして傷に満ちたものでした。その心の傷はエジプトの総理大臣になったとしても、消えることはありませんでした。そのように、人だけを見ていたら、恨みつらみが湧いてきて、心の傷を忘れずに、根に持ってしまうのです。
 しかし、ヨセフは神の方を見ていました。神の視点から自分の人生を見ようとするとき、そこに起こるすべての出来事が、神の導きの中にあることを信じるようになりました。「なぜ、自分がエジプトに売られてこなければならなかったのか」「なぜ、自分が理不尽な苦しみが絶え間ない人生を過ごさなければならなかったのか」。自分の人生のすべての「なぜ」に意味があったことに目覚める瞬間でした。

 神の大きなご計画

 エジプトに売られる前のヨセフの言動を見ると、ヨセフもはじめは父親に甘やかされた、生意気な人間でした。しかし、ヨセフは今「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」と言っています。つまり、自分がエジプトに売られたのは、神の導きによるものであると受け止めることができたのです。このヨセフの言葉は、神の視点から自分の人生を見ようとするとき、どのような素晴らしい変化が起こるかを私たちに教えています。
 なお、六節以下を見ると、飢きんはあと五年続くことが、ヨセフに示されていました。家族がその飢きんを生き延びるために、先にエジプトに来た自分が権力者となって、家族をここに招くように、神様が取り計らってくださったと言うのです。九節、一〇節に「急いで父上のもとへ帰って、伝えてください。『息子のヨセフがこう言っています。神が、わたしを全エジプトの主としてくださいました。ためらわずに、わたしのところへおいでください。そして、ゴシェンの地域に住んでください。そうすればあなたも、息子も孫も、羊や牛の群れも、そのほかすべてのものも、わたしの近くで暮らすことができます』」とあります。
 確かにヨセフがエジプトに来たのは、兄たちがヨセフを憎んだからでした。でも、そのことも神の方から見れば、神様の大きなご計画の中でなされたことだと、ヨセフは受け止めたのです。こうしてヨセフは兄弟たちに、父と家族を連れて、このエジプトに移り住んでくださいと、彼らを招待します。
 その後、ヨセフの兄弟たちがエジプトに来たという知らせは、ファラオの宮廷にも伝えられました。それを聞いて、「ファラオも家来たちも喜んだ」とあります(一六節)。なんとファラオが自分のことのように喜んだのです。そして、ファラオは最高のもてなしをして、ヨセフの家族をエジプトに迎えようとしました。
 ファラオの命令に従って、ヨセフは兄たちに車と食糧を与え、さらに晴れ着をそれぞれに与え、父の贈り物も用意されました。やがて兄たちは、父親の元に戻り、すべてを報告します。「ヨセフがまだ生きています。しかも、エジプト全国を治める者になっています」(二六節)。これを聞いて、ヤコブは「気が遠くなった」とあります。信じることができなかったのです。しかし、ヨセフから自分を乗せるために送った車を見て、気を取り直すことができたのです。それほどヤコブにとっては衝撃的な報告でした。ですから、ヤコブが「よかった。息子ヨセフがまだ生きていたとは。わたしは行こう。死ぬ前に、どうしても会いたい」と言ったときには、死んだと思っていた息子に会いたい一心であったのです(二八節)。こうして、ヤコブはエジプトに向かうことを決心しました。

 神の視点から再発見

 今日の箇所において、ヨセフは、自分の人生のすべての出来事が、神の導きの中にあったことを信じるようになりました。ですから、ヨセフは、五節の後半で「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」と告白しています。
 また、七節に「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは」とあります。そして、八節、九節で「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神が、わたしを全エジプトの主としてくださいました」と証しているのです。これが、ヨセフの信仰でした。神の導きを信じる信仰です。神の導きを信じることは、自分の人生の全ての出来事を神の視点から再発見することです。人生に起こる喜怒哀楽の全てを神の視点から見ようとするとき、意味のない苦しみは一つもないことにつながります。ヨセフの場合、かつて見た夢のことも、兄たちに憎まれてエジプトに売られたことも、また、牢獄に入れられて、そこで二人の役人に出会ったこと、そしてエジプトの総理大臣になって、今兄たちと再会を果たしたことも、全部つながっていたのです。
 その背後には神様の導きがあったのです。私たちもそれぞれにいろんな不思議な出会いや出来事があって、今につながっているのです。「わたしをここへ遣わしたのはあなたたちではなく、神です」と言ったヨセフの信仰は、神の導きを信じる信仰です。その神に全てを委ねて、残された人生を全うすることができますよう、祈り願います。

受洗者より 受洗祝福の言葉に感激

○ぶどうの枝第56号(2022年6月26日発行)に掲載(執筆者:NH)

 年内に受洗しなくてはと、命も終わるのではと、牧師先生のご指導で日にちも定まり、受洗できました。八十一歳です。
 両親の伝道所のお陰で、家には男女年齢問わず集まり、にぎやかでした。中学生の頃より奉仕活動に参加。楽しかったことは、土曜日讃美歌の練習会です。好奇心旺盛な頃で帰り道に、先生のお宅には珍しい物や、あんなのがあった、あれは何する物?とか。勉強は苦手でしたが、十二年間我が家姉妹は全員皆勤でした。
 貧乏生活でしたが、両親は一生懸命でしたから、何の不足も感じず、頑丈な体を作っていただきました。友だちもたくさん、今も続いています。結婚が決まったときに、母からNという名前は、お父さんと一緒に考え、正しことを宣べる子どもになってほしいからNとしたと聞き、「大丈夫だよ、悪いことはしないから」と言いました。そのときに「キリストの道」と分かりましたが、聖書は思うように進まず今になりましたが、行く先々で教会は探してきました。これから一年生になりましたことを母に伝えて、先の見えた毎日を大切に頑張ります。
 金牧師ありがとうございました。佐倉教会の皆様が暖かく見守り励まし、受洗後の祝福のうれしいお言葉を大勢の皆様からいただきました。名前と顔がまだ分からずごめんなさい。感謝です。車に乗ってから感激の涙でした。うれしい、思い出の深い受洗でした。
 ありがとうございました。これからもよろしくご指導ください。神様と共に歩もうと主に仕える志をいただき、感謝いたします。乱筆失礼。

随想 MIさんとの思い出 「ばあちゃんドクターヘリに乗る」

○ぶどうの枝第56号(2022年6月26日発行)に掲載(執筆者:MO)

 MIさんが天に召されとても寂しくなりました。Iさんとの思い出はたくさんありますが、一番の思い出は「ありがとう神様」の本をいただいたことから始まりました。その中には、Iさんが急性心筋梗塞の発作を起こし、ドクターヘリで運ばれた経験を書かれた「ばあちゃん ドクターヘリに乗る」が載っていました。
 当時私は、N大学C病院、内科医局秘書として勤務しており、研修医の先生方が読まれたら、きっと良い参考になると思いました。ドクターヘリで運ばれた患者目線で書かれたリアルな文章だったからです。
 研修医は、二年間の間に進む専門を決めます。医局には各自の机のほかにソファーとテーブルがあり、外来が終わった後など、休憩できるようになっています。そのテーブルの上に「ありがとう神様」の本を置いておきました。すると何人かの研修医が興味深く読んでおられました。
 それなら救命救急に配属されている研修医こそ、ご参考になるのではと思い、救命救急の秘書さんにお願いして医局に置いていただきました。何日かたって救命救急の秘書さんから、「M先生がこれはとても良い。HEM―Netに掲載したいから原稿のデータが欲しいとおっしゃっている」と伺い、驚きました。
 M先生は、当時千葉北総病院の救命救急教授で、ドクターヘリを立ち上げた先生です。救急ヘリ病院ネットワークHEM―Netとは、ドクターヘリによる医療システムの普及を目的として活動している組織です(現在のようにドクターヘリが全国的に知られておらず、普及にご苦労されていた時期でした)。
 研修医の先生に、患者さん目線でのIさんの作品はきっと何かを感じてくださるだろう、良いお医者様になっていただきたい、そんな軽い気持ちでの行動でしたので、私も驚きましたがうれしくて、すぐにIさんに連絡を取りましたが、Mさんはお留守で、電話に出られたI先生からは、「データはありません」とのお返事。
 データでお渡しできなければ、掲載はできないとのことで、それは残念なので、私が入力して提出することにしました。
 HEM―NeTに掲載されたIさんの「ばあちゃんドクターヘリに乗る」を私も拝見しとてもうれしく思っていたところに、Iさんからご家族がとても喜んでくださったと伺い、より一層うれしかったことを思い出しました。
 医局秘書の仕事は、先生方の事務的なことから多種多様です。若い先生は息子や娘の年代でもありいろいろ相談も受けました。
 そんな先生方がご立派になられる成長過程を拝見できるのは、日々神経を使う仕事でもありましたが、楽しい仕事でもありました。そんな中で「ありがとう神様」を読んでいただきたいと思ったもう一つの理由としては、前編にI先生の「マタイによる福音書」が載っていますので、聖書との出会いになればとの思いもありました。そのときの研修医の先生がお一人、急命救急に進まれ現在活躍されております。私は勝手にIさんの本との出会いが少しあるのでは……とひそかに思っています。

神様と共に歩んだアブラハム 満ち足りた人生への導き 創世記二五章一~一八節

○ぶどうの枝第55号(2021年12月31日発行)に掲載(執筆者:金 南錫牧師)

 創世記一二章から始まるアブラハムの物語の最後です。アブラハムが晩年になって、息子のイサクに妻をめとるために、信頼していた忠実な僕を故郷の町に遣わしました。僕はその町で、アブラハムの親類のリベカという女性に出会って、彼女の家族と交渉して、承諾を得ます。そして、リベカも「はい、まいります」と決心をして、その日のうちに両親の下から離れて、遠いカナンの地に嫁いでいきました。このとき、アブラハムは百四十歳になっていました。今日の箇所には、その後、アブラハムが百七十五歳で召されるまでのことが記されています。
 「アブラハムは、再び妻をめとった。その名はケトラといった」(一節)。
 アブラハムは、妻サラが亡くなった後、ケトラと再婚しました。このケトラとの間に六人の子どもたちが生まれます。そのことが二節から四節に示されています。そして、ケトラとの間に生まれた子孫たちは、やがてアラビア半島に暮らすようになって、後のアラブ人の祖先となっていきます。
 「アブラハムは、全財産をイサクに譲った。側女の子供たちには贈り物を与え、自分が生きている間に、東の方、ケデム地方へ移住させ、息子イサクから遠ざけた」(五~六節)。アブラハムにはサラとの間に、百歳のときに与えられた約束の子イサクがいて、その前にサラの女奴隷であったハガルとの間に、イシュマエルという息子がいました。それに、先ほどのケトラとの間に生まれた六人の子どもたちを含めると、全部で八人の子どもたちがいたわけです。
 アブラハムは約束の子イサクに全財産を譲ったとき、他の七人の子どもたちにも贈り物を与え、彼らに十分な配慮をしました。そして、彼らを東の方に移住させ、イサクから遠ざけました。それは、相続を巡って、兄弟間での争いを避けるためでした。そうしてアブラハムは神様の祝福のバトンをイサクにしっかりと渡しました。

 アブラハムの人生と信仰

 神様は、そのようなアブラハムの人生を大いに祝福されます。
 「アブラハムの生涯は百七十五年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」(七~八節)。
 ここで三つのことを考えたいと思います。
 第一に、アブラハムは「満ち足りた」晩年を迎えました。満ち足りた晩年とは、神様との関係において、「満ち足りた」ことです。それまで、アブラハムは神様によって導かれてきて、神様にいつも祈っていました。ですから、アブラハムの人生の晩年においても、いつも神様のことを思い、神様との交わりの中で過ごしていたと思います。そして神様と共にいることを本当に喜んでいたのです。
 第二に、アブラハムは「長寿を全う」しました。「アブラハムの生涯は百七十五年であった」とあります。アブラハムは、七十五歳のときに、神様に召し出されて、それまで暮らしていたカルデアのウルという町を離れて、カナンの地へと旅立ちました。そのとき以来、ちょうど百年間生きたことになります。百年間にわたって、神様に導かれ、神様と共に歩みました。
 その間、失敗もありました。カナンの地を通り過ぎて、エジプトまで来たときに、エジプトの王ファラオを恐れて、妻のサラを自分の妹だと偽ったことがありました。また、神の約束を信じ切れずに、妻のサラが女奴隷ハガルをアブラハムに与えて、イシュマエルを得たこともそうでした。
 また、試練もありました。一緒に旅をしてきた甥ロトと別れたこと。それから、百歳になってようやく与えられた息子イサクを焼き尽くす献げ物としてささげなさいと、神様に命じられたことも大きな試練でした。また、最愛の妻サラが召されたこともつらいことでした。それでもアブラハムは、自分を召し出してくださった神様に従い、神様と共に歩み続けました。
 第三に、「先祖の列に加えられた」とあります。これは、神様の下に迎え入れられたことで、死んで「先祖の列に加えられる」という表現は、聖書の一つの希望を語っています。いくらこの地上で満ち足りても、死んだ先で独りぼっちであるならば、どうでしょうか。天の故郷では、先に召された信仰の先輩たちが私たちを迎えてくださるのです。新約聖書のヘブライ人への手紙一一章一三節にこう書いてあります。
 「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」。
 それから、一六節に「ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです」とあります。ここで、彼らとは、神様に忠実に従って生きた人々のことを言っています。彼らは、地上ではよそ者であって、天の故郷を熱望していました。地上の生涯で終わりではないと、その先にある天の故郷を見詰めていました。それは、私たちを創造し、私たちを愛してくださった神様の下で永遠に過ごすことで、そこに希望を置いていたのです。アブラハムはその望み通り、神様が許されたときまで生きて、先祖の列に加えられたのです。
 このように、神様は、アブラハムという人を選び、その人生を導いて、大いに祝福されました。私たちの人生もそうでしょう。神様は、私たちにも目を留めてくださり、これまでの人生を恵みによって、導いてくださったのではないでしょうか。

 イサクとイシュマエル

 続いて、アブラハムが召されたとき、イサクとイシュマエルが一緒に父アブラハムを葬りました。 「息子イサクとイシュマエルは、マクペラの洞穴に彼を葬った。その洞穴はマムレの前の、ヘト人ツォハルの子エフロンの畑の中にあった」(九節)。
 サラの女奴隷ハガルの子であったイシュマエルは、十四歳のときにイサクが生まれたことで、アブラハムの家から追い出されていました。しかし、父の死の知らせを聞いて数十年ぶりにイサクと会って、彼と協力して父親の葬りを行ないます。普通であれば、自分を追い出したアブラハムとイサクに対するわだかまりがあったはずですが、それが消えていたようです。アブラハムは息子たちの手によって、妻サラが葬られたところに、一緒に葬られました。そして、「アブラハムが死んだ後、神は息子のイサクを祝福された」とあるように(一一節)、神様はアブラハムの跡取りとなったイサクを祝福されます。
 こうしてみると、アブラハムは「満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」ことが分かります。アブラハムは七十五歳のときに、神様に召し出されて以来、百年間にわたり、神様に導かれ、神様に信頼し、神様と共に歩んだ人生でした。その間、失敗や試練もありましたが、神様の声に聞き従ってきました。このところに「満ち足りた人生」があると思います。

転入会者より 落ち着き、包容感、穏やかさ、真摯さに引かれて

○ぶどうの枝第55号(2021年12月31日発行)に掲載(執筆者:FH)

 昨年九月に引っ越してきたが、当時所属していた教会から今年四月までは籍を置いたまま役責を全うして欲しいとの要請があったため、今回は転入会させていただく教会をゆっくりと探すことができた。
 受洗してから今まで、出戻りも含め国内外九つの教会にお世話になり、豊かなお交わりをいただいた。ただ今回は、ひょっとしたらこの世で所属する最後の教会になるかもしれないという思いを抱きながらの教会探しとなった。
 千葉市から成田市までの日本基督教団の教会の中から、公共交通機関でもクルマでも四十五分以内で通えるところで、ホームページ等でここはどうかなあと思った教会の礼拝に出席させていただいた。一度切りのところ、数回行ったところ……。
 その中で、佐倉教会は、会堂のたたずまい、牧師のメッセージ、教会員の雰囲気等、何か引かれるところがあり、転入会を決めさせていただいた。何かを一言で表すのは難しいが、「落ち着き」「穏やかさ」「包容感」「真摯さ」といった感覚の中に神様の導きを感じたのかもしれない。
 それにしても、教会というところは入り難いところだと改めて感じた。「初めての方もお気兼ねなくお越しください」等とよく書かれているが、扉を開けると上から下まで観察され、どなたですかと目で訴えてくる。初めて教会を訪ねる方は、何かしらの課題を抱え勇気を奮ってこられることが多いのではと思うので、それはあまり心地良いことではないだろう。
 コロナ禍で、多くの教会が所属する教会員のためにインターネットを活用し始めたが、これからは教会の敷居を越えられない方や日曜日も働かざるを得ない方をも視野に入れ、訪ねてこられるのを待つだけでなく、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイによる福音書二八章一九節)を実践するべく、インターネットでの宣教を考えていく必要があるだろう。
 イエス・キリストに倣って教会は率先して弱い立場にある人々の傍らにいようとしてきた。昨今、多様性についての認知が世の中では進んでいるが、教会の中では年齢や性の扱いは旧来のままのように感じる(例えば、壮年会/青年会、○○兄/○○姉)。訪ねてこられる様々な背景を持つ方々の障壁にならないよう、こういったことも再考していくべきであろう。
 少子高齢化の波は、既に教会に及んでいる。各個教会の存続問題につながるという認識の下、変えてはいけないことと変えるべきことを見極めながら、皆様とのお交わりを深められたらなあと思っている。

日々与えられる神様の恵み 勇気を出して生きられる

○ぶどうの枝第55号(2021年12月31日発行)に掲載(執筆者:TI)

 今から八年前の二〇一三年にこの場所で「イエス・キリストの体なる共同体としての教会」と題して奨励をするときを与えられました。本日お話するのは、それから八年余りが過ぎて、その間に、主より与えられたときを、どのように生きてきたかの一端をお話させていただくことにしました。
 私は、奨励をした同じ年、つまり六十七歳の二〇一三年春先に東邦大学病院に入院し、身体のホルモンバランス機能が低下する難病の「下垂体機能低下症」という病名をいただきました。以後今日まで服薬生活をして、命を長らえております。この病気は、遺伝的要素が強く、七十歳で死亡した私の父親も、六十代前半で死亡した私の叔父も今日的に考えれば同じ病気だったのだと思います。神様のみ力による医学の進歩と担当された医師との出会い・診断で、私は父の年を越えて今日の日を迎えられたのです。
 神様からの恵みのこの八年間を与えられて、それにふさわしい時を過ごしてきたかどうか、改めて、今回、振り返る時が与えられました。この間に心に残ったことを幾つかお話したいと思います。
 まず、二〇一三年に教会役員として教会の墓地管理委員となりました。仕事は教会墓地に納骨する方のお手伝いをすることが主なる仕事でした。この八年間の間に十三名の方々の納骨のお手伝いをさせていただきました。納骨に当たっては、それぞれのご家庭の事情があり、悲しみ・喜び等を、直接肌で感じる機会を与えられました。これも神様の恵みと思いました。
 例えば、ご家族との関係を断ち切られ、一人で人生後半を生きてこられた方、ご遺族が心の病の中にあり、そのご遺族を思いながら天に召された方、ご遺族が社会的に孤立しており、葬儀もなく納骨された方等々が今思い出されます。これが、生前信仰を共にしていた方々の地上での最後の別れなのかと思いました。神様のなさりようは、厳しいものだとも思いました。

 義母との交わりから

 次に、二〇一九年四月かねてから「ゆうゆうの里」に入居していた義理の母が、天に召されました。生前中は、毎週金曜日、夫婦で「ゆうゆうの里」を訪問し、午前中一時間余が私と義理の母との散歩時間でした。義母は日本百名山を走破した健脚で、九十歳になっても足腰は強く、私との散歩でも、アップダウンを難なく歩く人でした。
 特に、印旛沼の風車からユーカリが丘の我家まで、距離にすると七~八キロメートルぐらいでしょうか。義母と妻で、何回となく歩いてきました。また、我家に来たときは、庭の草取りをよくしてくれました。草取りをした後には雑草が一本もないような丁寧な草取りでした。
 しかし、八十歳ぐらいから認知症が徐々に現れ始めました。義母は、大変きちょうめんで働き者でしたので、「ゆうゆうの里」でのゆったりした生活の中では、自分の「役割」を見いだせず、「生きている意味がない。死にたい。」と頻繁に口にするようになりました。ただ、散歩の途中はいつも楽しそうにしていました。義母は、信仰を持てなかったため、自分で意思表示ができる最後まで自己肯定感、即ちありのままの自分を受け入れることができませんでした。骨折してから、一年余の車椅子生活の後、天に召されました。
 義母との「ゆうゆうの里」での十四年にわたる交わりのときは、私たち夫婦にとっては、貴重な体験でした。年をとって様々な役割を担えなくなった日々を受け入れ、神様から与えられた命に感謝することの難しさも学びました。このような機会を神様から与えられたことに、今は感謝しております。
 このような経験をする機会を与えられた中で、自分の信仰について改めて考えてみよう、学んでみようとの思いが沸いてきました。まず、説教集を読むことを始めました。本来、怠け者の私は、聖書を開き、説教集を読み始めると、すぐに眠くなってしまうのです。金牧師の主日の説教を聞く度に、これではいけないと思うようになり、少しずつ勉強が始まりました。
 主として元鎌倉雪の下教会の加藤常昭牧師の説教集の中からパウロ書簡、ヨハネによる福音書、ヘブライ人への手紙を中心に読みました。この中でヘブライ人への手紙は、特に印象に残りました。ヘブライ人への手紙一二章五~六節に、「わが子よ、主の鍛練を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は、愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」とあります。
 この八年間に経験したことは、まさに、神様が私に与えてくださった鍛錬の日々でした。病を告知されたことにより、他の病に苦しむ方々を思いやることを学びました。教会墓地管理委員としては、自分の力だけでお世話することの限界を自覚しました。私たちが神様からいただいた人生の終わりの時には、各人各様の終焉の迎え方があるということも、改めて学びました。そして、信仰を持てなかった義母からは、いかなるときも主イエス・キリストと共に歩むことのできる喜びを気付かされました。これら一つ一つが、私を育ててくれた「糧」となったと思います。

 全てを神様に委ねて

 このような時を経て今思うことは、私たちは、いつも自分の生活を見直さなければならない。そしてその生活が「主イエス・キリストにおける神の愛」から引き離されていないか振り返る必要があるということでした。私たちは、苦難・艱難に遭うと、自分の殻に閉じこもりがちになります。そのようなときこそ、気を取り直し、「主イエス・キリストの父なる神様」への祈りのときを持ち、福音に帰っていくべきだと思います。
 しかも、神の恵みは、日々新たに与えられるもので、それによって、私たちは弱いながらも信仰の旅を続けられることを確信しました。このためには、毎週の主日礼拝は、神の恵みに気付く機会であり、欠かすことはできません。
 私たちは、祈りのときには、「主イエス・キリストの御名によって」と言って祈りを結びます。私たちは、「イエス・キリストの御名」の中に生きている者として、「イエス・キリストの御名」を身に帯びている者として、いつもキリスト者として祈っていることが理想です。しかし、現実は、主イエス・キリストの父なる神を信じるということは、自分の弱さ、愚かさ、恥を告白し、さらに自分が罪人であることを勇気を出して神様に伝える、即ち、そのような不確かな・ほころびの多い自分を、神様を信頼して全てを神様に委ねることだと思うようになりました。さらに、全てを神様に委ねることから心の平安が与えられるのだと思いました。そして、それは私たち、取り分け高齢の方々にとりましては、主イエス・キリストが死に向かう歩みの友となっていてくださることでもあります。
 「その主イエス・キリスト」と共に歩むことは、この世に生きている中で、平安を得るためであります。しかし、平安を得るということは、これまで知らない苦難に遭うこともあります。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望へと導かれます。ですから主イエス・キリストに囲まれている私たちは、恐れることなく生きられます。
 本日の聖書箇所、ヨハネによる福音書一六章三三節には、主イエス・キリストが十字架につけられる前夜に、弟子たちに「しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」と励ましの言葉を述べています。私たちは、主イエス・キリストに囲まれて生きています。このことはいかなるときでも「勇気を出して生きられる」ということではないでしょうか。
 祈り:御在天の父なる神様、本日は、奨励の機会を与えられ感謝いたします。今後とも勇気を出して主イエス・キリストと共に歩む人生をお導きください。アーメン。
(二〇二一年八月二十二日の主日礼拝奨励より)

随想 見つかった迷子の子羊

○ぶどうの枝第55号(2021年12月31日発行)に掲載(執筆者:HK)

 洗礼を受けてから、気が付けば五十年以上たっています。神様の大きな御手に包まれ、守られて信仰を支えられてきたとつくづく思います。
 私の実家ではクリスチャンは母だけでしたが、祖母も父も母の信仰を大事にしてくれ、母は教会中心の生活を送ってきました。幼い頃日曜学校に連れていかれたことはあまり記憶にないのですが、キリスト教、佐倉教会は身近な存在でした。中学生になったとき、ふらっと教会へ行き始めました。同学年の友達四、五人ぐらいで日曜学校が終わった後、礼拝中の会堂の隣の部屋でおしゃべりをしたり、テスト前は勉強したりとお昼頃まで過ごしていました。教会に通っていたというより、友達と遊んでいたという方が正しかったくらいです。
 高校生になっても相変わらずだった私たちは、石川深香子先生から「礼拝に出なさい!」と言われ、後ろの方で小さくなって座っていました。熱心さには程遠い私たちでしたが、教会員の方々の神様に向き合っている姿勢がとても印象に残っています。
 高校卒業後は佐倉に残っていたのは私だけでしたが、教会学校を手伝ったりしながら教会生活を続けていました。二十歳になったとき、石川キク牧師から「浩子ちゃんそろそろいいんじゃない?」との言葉に、なぜか何の疑問もなく当たり前のように「はい」と答えていました。受洗に当たって、いろいろ悩んだ末の決断とか、新たな出発への感動などはなかったけれど、教会員の方々の祝福を受け、あのまっすぐ前を向いている方々の仲間入りをさせていただいたという緊張感は忘れられません。
 結婚して佐倉を離れてからは毎日の生活の忙しさの中、段々教会から遠ざかり、そのうちに聖書を読むことも、祈ることからも離れてしまう時期もあったり、またハッとして戻るの繰り返しでした。
 二十七年ほど前に佐倉に戻ってきて、佐倉教会のあの古い木造の会堂を見て、とても懐かしくうれしかったです。新たな教会生活の出発となりました。それでも自分には強い決断や体験もないままのこんな信仰でいいのかとの思いもありました。
 そんなとき、西千葉教会のグドゥルン・シェーア先生の「捜索願い」という講演がありました。有名な迷子の子羊の例え話です。
 「この羊飼いのように、神様は一人一人の人間を迷子になった子どものように捜しておられる。人間を救うため、イエス・キリストを生きた捜索願いとしてこの世にお遣わしになり、人間を見つけ出し、その罪、神様に対する不平不満を負うて十字架に掛けられた。そしてイエス・キリストの十字架上の死において人間は救われ、完全に神様に見つけられた。イエスキリストに見つけていただき、神様の歓迎パーティーに連れて帰ってもらう」。
 迷子の子羊は私なんだ、イエス様に見つけていただいたんだとの感謝の思いを強くしました。また見つかったことを喜んでくださり、大切に思い、ずっと見守ってくださっている。なんて大きな恵みなんだろう。自分の受けたものに応えていけばいいのかなと、少し吹っ切れたことを覚えています。何事にも時がある、私にはこれだけの時が必要だったとも思いました。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネによる福音書三章一六、一七節)。
 相変わらず頼りなく迷ってばかりの私ですが、祈りつつ共に歩いてくださるイエス様に従っていきたいと思います。

随想 神様の摂理を受け入れて

○ぶどうの枝第55号(2021年12月31日発行)に掲載(執筆者:NI)

 「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(ヨブ記一章二一節)。
 長かった人生の旅路も、いよいよ残り少なくなってきました。思い返しますと、聖歌二九二番の歌詞「きょうまでまもられきたりしわがみ……」の正にこの一言に尽きます。
 私は、墨田区本所の桜並木の大変美しい隅田川の近くで生まれました。その地で、昭和二十年の終戦の年に東京大空襲に遭遇し、火事の熱さを避けるために、祖父に抱かれて隅田川に入水しました。幸いなことに、そのときは祖父の気転もあり、無事に助かりました。
 ところで先日は、思いがけなくも佐倉市役所の玄関ロビーで、そのとき体験した東京大空襲の展示会がありました。私は、どんなものかと興味深く見にいきました。展示物の中に、無残にも着のみ着のままの多くの死体が、隅田川に流されていく光景を見ました。その瞬間ショックを受けて思わず立ちすくんでしまいました。
 誰の人生においても、本当に思いがけない事件事故など、人知では測り知れないことが起こってきます。私は、終戦直後の飢餓や疫病のような困難から守られ、今日まで何とか生かされてまいりました。ところが、思い返しますと、時には希望と現実との間に大きなギャップを感じる苦難を体験しました。正直に告白しますと、受洗後もそんな苦難に出会いますと、神様を信じていくことに疑いが生じたことがありました。
 しかしながら、これまでヨブ記を何度となく読み、私なりに神義論を学んできました。そこで、悔い改めて幸も不幸も全てを神様の摂理として受け入れるべきと、確信するようになりました。その結果、半世紀以上にわたり、神様はわたしをキリスト者として持続させて、今日までお守りくださいました。
 ところで、病気などの「不幸」は、全て具体的かつ客観的で誰にも共通すると思えます。他方、「幸福」は極めて抽象的かつ主観的で、万人に共通ではないように思えてなりません。
 私は若い頃から、長く生きれば生きるほど、分からないことが次第になくなってくると思っていました。しかしながら、年をとるにつれて、かえって分からないことが多くなってきたようです。
 このことに関して、ギリシャ哲学者のソクラテスが提唱した、有名な「無知の知」ということが思い出されます。即ち、知らない(無知である)ということを知っている時点で、知っていると勘違いしている人よりも、優れているという考えです。例えば、死後の運命についても、正にそのように考えられます。そういう問題は、一生かかって聖書を通して、自分自身の信仰を高めていくことが大切ではないでしょうか。従いまして、無理に今すぐ分からなくても良いのではないかと思うようになりました。
 最後になりましたが、前代未聞の世界的コロナ禍の中、今日まで守られてきましたことが、何よりも幸いと思います。この不条理の世においては、運命はいかに厳しくとも、「神様の摂理」が最も優しいものと、ようやく確信できるようになりました。
 晩年の私は「恵まれた幸せな人生でした。今日までお守りくださり本当にありがとうございます」と、神様に心から感謝するばかりです。ハレルヤ

報告 佐倉教会の里親活動

○ぶどうの枝第55号(2021年12月31日発行)に掲載(執筆者:TI)

 佐倉教会では、一九八八年十月にチャイルド・ファンド・ジャパンの支援活動に参加し、以後三十三年余にわたってフィリピンの子どもたちのスポンサー(里親)を続けています。
 チャイルド・ファンド・ジャパンについて、紹介します。
 同団体のホームページによれば、始まりは一九四八年、アメリカの民間団体であるキリスト教児童基金(CCF)が日本の児童養護施設で生活する戦災孤児たちへの支援を開始したことでした。CCFからの支援を届けるために、日本事務所として社会福祉法人キリスト教児童福祉会(CCWA)が設立され、アメリカ・カナダの人々からの支援を受けました。
 大きな転機は一九七四年でした。日本の子どもたちを取り巻く環境は大きく改善され、一方でフィリピンやタイなどのアジア諸国における圧倒的な貧困を目の当たりにして、CCWAは、CCFからの支援を辞退し、日本がアジアの貧しい子どもたちを支援する、「順送りの恩返し」をすることを決定しました。
 一九七五年、当時東南アジアの中でも特に厳しい貧困状況にあったフィリピンが支援の対象に選ばれ、六十七名の子どもたちへの送金が開始されました。最初の五年間で五百名を超える方々がスポンサー(里親)となりました。
 その後、二〇〇六年にスリランカ、二〇一〇年にネパールを支援先に追加し、スポンサーシップ・プログラム(「里親的」支援)の対象は三か国となっています。
 同団体の二〇二〇年度年次報告によれば、支援者は、スポンサー三千三百八十六人、マンスリー・サポーター五百四人、プロジェクト・サポーター一千三百五十人など。支援チャイルドの数は、フィリピン三千六百二十七人、ネパール五百三十一人、スリランカ三百一人の計四千四百五十九人となっています。現在、佐倉教会は、スポンサーとして一人のチャイルドの支援を行っています。
 佐倉教会が参加している「スポンサーシップ・プログラム」は、一対一で一人の子どもとつながり、成長を支え見守る支援です。手紙での交流や成長記録(年に一度届きます)などを通じて成長を見守ります。月々四千円(一日百三十円)の支援で、小学校に通いながらも家庭の貧しさのゆえに卒業ができないなど、支援を必要としている子どもたちを支えます。
 これまでに佐倉教会がスポンサーとして支援してきた子どもたちは十一名です(資料一参照)。
 現在、支援しているチャイルドは、プリンセス・カイラ・ミメイさん、フィリピンの十四歳の少女です。二〇二〇年の成長記録では小学校を卒業、家での復習を継続。教理問答を学び、家では弟、妹に福音を伝えているとあります。彼女の夢は、将来子どもたちの読み書きを助ける教師になることです。
 佐倉教会では、主日礼拝の際、受付にチャイルド・ファンド・ジャパン募金箱を置き、その献金をもってスポンサー寄付金(年間四万八千円)やその他の寄付金などを賄うこととしています(近年における献金額は資料二参照)。
 佐倉教会としてフィリピンの子どもたちの「里親的」支援を続けていくため、引き続き皆様のご協力をお願いいたします。

プリンセス・カイラ・ミメイさん

随想 大学生になりました

○ぶどうの枝第55号(2021年12月31日発行)に掲載(執筆者:SK)

 皆さんこんにちは。私は四月に印西市にある東京基督教大学という大学に入学しました。TCUと言った方がお分かりになる方も多いかもしれません。新型コロナウイルス感染拡大の影響で大学での学びはオンライン中心となっていました。幸いなことにオンラインでの学びでも楽しく、また多くの友と仲良くなることができました。
 しかし、早く対面で皆に会いたいという気持ちも持ちながら過ごしていました。そして、七月頃に大学の方から八月から始まる秋学期には寮に入ることが許されるとの連絡をいただきました。入寮を目指し、期待をしながら準備を進めていました。しかしながら、再びコロナウイルスの感染が拡大し、秋学期からの入寮はかないませんでした。
 このように中々思うようにいかなかった大学生活ではありましたが、ついに十一月二十九日より入寮することができ、パソコンの画面上でしか見たことのなかった先生方や友と顔を合わせることができました。ですが、ご安心ください!寮に入っても佐倉教会に通うので皆様にも会えます♪まだ寮に入って数日しかたっておらず緊張が続いていますが、食堂で食べるご飯はとてもおいしく楽しく生活することができています。
 私がTCUでどのような勉強をしているのか、短くご紹介させていただきたいと思います。TCUは神学部の単科大学です。なので皆さんは聖書や神学をがっつり勉強していることを想像するのではないでしょうか。もちろんそのような勉強もすることになります。ですがそれだけではなく、教養科目も充実しています。私は秋学期に心理学の授業を受講しました。そこでは、発達心理学について学びました。人間の成長と心の関係について詳しく勉強することができとても楽しく、良い学びとなりました。
 また、「日本宗教論」という授業も受講しました。この授業は簡単にいうと日本における宗教はどのような意味を持つのか、そして神道や仏教のような宗教がどのようなものなのかを学ぶ授業です。クリスチャンである私が、それらの日本の文化的な側面を持つ宗教にどう関わっていけば良いのか深く考える機会を得ることができた楽しい授業でした。
 TCUでは聖書、神学はもちろんのこと、それ以外の教養科目も全てクリスチャンの先生方が教えてくださいます。冬学期からは、新約聖書に関する学びが始まるので全力で当たって砕けて、頑張ります。
 入学してから約八か月がたちました。あっという間でした。私をTCUへ導いてくださった神様に感謝し、これからも楽しく、一生懸命TCU生活を送っていきたいと思います。皆様、どうかTCUを覚えてお祈りいただければと思います。