○ぶどうの枝第61号(2024年12月22日発行)に掲載(執筆者:金 南錫牧師)
今日のところでは、キリストにあって、思いを一つにするようにという勧めがなされています。一節、二節に「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、〝霊〟による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」とあります。「そこで」と始まっていますが、これは、それまで述べてきたことを言っています。そして、あなたがたはイエスの十字架の愛によって、天の御国に属する市民となったので、御国の一員として、同じ思いとなりなさいと勧めています。
ところが、フィリピ教会の中には一致できない問題があったようでした。一章一五節に「ねたみと争いの念にかられてする者もいれば」とあります。教会の中で、妬みや争いの念に駆られて、イエス様のことを宣べ伝える人がいたようです。それから、四章二節にはエボディアとシンティケという二人の女性が出てきますが、その二人の間に一致できない問題があったことが伺えます。パウロはこの二人に「主において同じ思いを抱きなさい」と言っています。恐らく、この二人はイエス様のことを熱心に伝えたい、その熱心さのゆえに、お互いに譲らないことがあったようです。同じ信仰の仲間なのに、同じ思いになれない現実がありました。
それは、この手紙を書いたパウロ自身もかつて経験したことでした。パウロが、第二回目の伝道旅行に出かけたときのことです。それまで一緒に働いてきたバルナバがいとこのマルコを連れていきたいと言い出しました。それに対して、パウロは強く反対します。それは、マルコが第一回目の伝道旅行のときに、途中で家に帰ってしまったからです。パウロはそんな者は一緒に連れていくべきではないと考えました。そこで、意見が激しく衝突して、二人はついに別行動を取ることになってしまいました(使徒一五章三九節)。後になって、二人は和解をするのですが、パウロにとってつらい出来事であったと思います。
では、パウロはどのようにして、思いを一つにしなさいと言っているのでしょうか。一節をもう一度お読みします。「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、〝霊〟による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら」とあります。これは、条件というよりも、私たちには「キリストによる励まし、愛の慰め、〝霊〟による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるのだから」という意味合いがあります。つまり、教会の真ん中にはイエス・キリストがおられ、お互いがつながっているのです。そして、その教会にはキリストによる励まし、愛の慰めが注がれています。また、同じ聖霊の交わりによって、お互いの間に慈しみや憐れみの心が満ちています。だから、思いを一つにすることできるということです。
でもそうは言っても、実際には中々同じ思いになれない現実があります。三節前半に「何事も利己心や虚栄心からするのではなく」とあります。ここに教会の一致を妨げるものとして、二つのことが挙げられています。一つは、利己心です。自分の利益だけを求めることです。教会の心を優先するのではなく、自分の心、自分の願い、自分の利益を優先することです。そうした自分のことを優先すると、どうしても意見がぶつかってしまいます。同じ思いになることが難しくなります。もう一つは、虚栄心です。実際の自分よりも、良く見せようとすることです。見えを張ることです。人は誰でも、このような利口心や虚栄心があるので、中々思いを一つにすることが難しくなります。
「へりくだる」ことと謙遜な者になること
ところが、パウロは思いを一つにするために、三節後半で「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」と勧めています。ここにも二つのことが挙げられています。一つは「へりくだる」ことです。自分を低くすること、謙遜な者になることです。本来、人は本能的に自分を低くすることが中々できない存在なのかも知れません。それでも、神様は私たちに謙遜な者になることを求めておられます。そして、もう一つのことは、「相手を自分よりも優れた者と考えること」です。他者を敬うこと、尊敬することです。これも心から実行することは中々難しいことです。でも、なぜ、謙遜と尊敬の心を持たなければならないのでしょうか。それは、神様の前には誰も誇れる者はいないからです。皆、神様の前に罪深く、傲慢な者です。この私たちのために、御子なるイエス様が低くなって、人となり、家畜小屋の硬い飼い葉桶で生まれ、十字架で尊い命をささげてくださいました。私たちに代わって、私たちの罪をあがなってくださいました。それが、どれほど大きな恵みなのか、本当に分かるときに、謙遜と尊敬の心が与えられるのではないでしょうか。そして、本当の意味で、自らへりくだり、相手を自分よりも優れた者と考えることができるのだと思います。
今年、創立百二十周年を迎えている佐倉教会のこれまでの営みの中、いろんな意見の対立があったと思われます。その中で、どうやって一つの思いになっていくのか、そのことを信仰の先輩たちが大事にしてこられたので、今、創立百二十周年という大きな恵みを受けているのだと思います。フィリピの教会は、利己心と虚栄心のために信仰生活を送るような悲しい現実がありました。パウロはそういう状況を聞いて、勧めています。「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」
最後の五節に「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです」とあります。「このこと」というのは、一節から四節まで記されてきたこと、つまり、思いを一つにすることを心掛けなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものなのだというのです。文語訳聖書では「汝らキリスト・イエスの心を心にせよ」と訳しました。あなたたちは、キリストの心を自分の心にしなさいということです。教会の一致を求めるキリストの心を、自分の心としてしっかりと受け止めることです。その集まりこそ、一致が得られるのだろうと思います。
星野富弘さんの詩の中、「強いものが集まったよりも、弱いものが集まったほうが、真実に近いような気がする」という一節があります。自分の弱さを知り、キリストの力のみを頼るとき、初めて教会の一致が得られるのではないかと思います。「汝ら、キリスト・イエスの心を心にせよ」キリストが示してくださった心を、自分の心としてしっかりと受け止めて、主にある一致を求めてまいりたいと思います。