神様の御心を受け入れる マリアの信仰と決心 ルカによる福音書一章二六~三八節

○ぶどうの枝第57号(2022年12月25日発行)に掲載(執筆者:金 南錫牧師)

 この聖書箇所は、「受胎告知」と呼ばれるところで、天使ガブリエルがマリアに神の御子を宿すことを告げる場面です。二六節、二七節です。 「六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。」 この「六か月目に」というのは、洗礼者ヨハネが高齢になっていた母エリサベトの胎に宿ってから六か月目ということです。その時に、天使ガブリエルがマリアの元に遣わされました。神様はこのマリアに目を留めて、天使を遣わしたということです。 では、マリアという女性はどんな人だったのでしょうか。まず、ガリラヤ地方のナザレの町に住んでいました。ガリラヤ地方というのは、イスラエルでは、北のはずれの方に位置します。中心のエルサレムからは遠く離れた辺境の地です。しかも、ナザレの町は田舎の小さな町にすぎませんでした。また、マリアはヨセフという若者と婚約をしていました。相手のヨセフはダビデ家の人であったとあります。これは、ヨセフと結婚することで生まれてくる子どもは、ダビデの子孫となることを意味しています。マリアについてはこれだけのことしか分かりません。ところが、イスラエルの女性の中から、たった一人選ばれるにしては余りにも普通の人のように思われます。マリアはナザレという小さな町の普通の若い女性でした。神様はそのマリアを救い主の母となる人として選ばれました。 次に、天使ガブリエルはマリアにどんなことを告げたのでしょうか。三一節です。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」なんとまだ結婚していないのに、「あなたは身ごもる」というのです。しかも、生まれてくる子どもは男の子で、「イエス」という名前まで指定されます。続いて、三二節、三三節です。 「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」 生まれてくる男の子が「いと高き方の子と言われる」ということは、その子が神の子であることを意味しています。そして、その子はかつてイスラエルの王であったダビデのような王様になって、永遠にこの国を治めるようになると告げるのです。それは、イスラエルの民が昔から待ち望んできた救い主なるお方が、ようやくマリアのお腹から生まれてくることを意味していました。

 天使のお告げを受け止める

 マリアは天使のお告げをどう受け止めたのでしょうか。まず、天使の挨拶に戸惑いました。いきなり天使が現れて「おめでとう、恵まれた方」と言われても、「いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」わけです(二九節)。また、告げられたことを聞いて、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と言っています(三四節)。つまり、「あなたは男の子を産む」と告げられても、まだ結婚前の身でしたので、子どもが生まれるということは常識ではあり得ない、理解できないというのです。 これに対して、天使はこう答えます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(三五節)。聖霊なる神の力によって、あなたは身ごもるのだというのです。そして、さらにこう言いました。「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない」(三六、三七節)。これを聞いて、マリアはこう言いました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(三八節)。マリアは天使の言葉を信じて、告げられたことをすべて受け入れて、これから自分の身に起こることを委ねる決心をしました。 では、マリアはどうして天使の言葉を受け入れることができたのでしょうか。マリアに告げられたことは、確かにイスラエルの人々にとっては喜ばしい知らせでした。なぜなら、昔から待ち望んでいた救い主であり、この国の王となる方がようやく来られるというからです。しかし一方で、マリア個人にとって、それは都合の悪いことでもありました。まず、婚約相手のヨセフがこんな話を信じてくれるだろうかという心配があったわけです。常識ではあり得ないこと、理解できないことですから、信じてもらえないだろうと予測をされます。そうなると、ヨセフから婚約を破棄されます。また、婚約中で身ごもるということは、当時の掟では、石で殺されなければならない姦淫の罪であり、社会の交わりから疎外され、共同体から分断されることを意味しました。要するに、イスラエル全体にとっては喜ばしい知らせでしたが、マリアにとっては都合の悪いことでした。また、マリアの命に関わるようなことでした。 ところが、マリアはそれが自分にとって都合が悪いというようなことは考えなかったようです。彼女の言葉を見ると、驚いたり、戸惑ったりはしていますが、天使の言葉を拒んではいないのです。普通であれば、自分にとって都合がいいか、悪いかを考えるのです。そして、自分にとって都合が悪ければ、「いいえ、結構です」とお断りすると思います。でもマリアは、そういうことを一切考えないで、イスラエルにとって、これは良いことだと受け止めたわけです。そして、何よりもそれが、神様が望んでおられることで、神様の御心だということを素直に受け入れたのです。つまり、天使から告げられたことは常識では理解できないことでした。しかし、マリアは天使の言葉を聞いて、それを神様の御心であり、民全体にとって喜ばしい知らせだと受け止めたのです。また、「神にできないことは何一つない」という言葉を素直に受け入れて信じました。一切を委ねる決心をしたのです。そして自分の身を通して、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と応答しました(三八節)。 ここには、全能の神様を信じて、一切を委ねていくマリアの信仰が表されています。そして、神様はそのマリアの信仰を用いてくださったのです。こうして考えてみると、マリアがなぜ選ばれて、救い主の母として用いられたのか、分かるような気がします。マリアのように、私たちも神様の言葉に、信仰によって応えていきたいと思います。

随想 我が父 舒宗啓をしのぶ

○ぶどうの枝第57号(2022年12月25日発行)に掲載(執筆者:YH)

 中国西安市の中心部、にぎやかな街の隅に陝西省(せんせいしょう)図書館がありました。父 舒宗啓(じょそうけい)が勤めた所です。私は一九六八年六月二十四日に陝西省図書館の寮に生まれました。二年間、父と母と三人で暮らしました。当時キッチンは寮の中にはなく、館員は家族でドアの外でご飯を作っていました。父は日曜日は開館日なので働き、月曜日は閉館日で休みでした。
 私は二歳のときに引っ越して、碑林区鉄路局の母が勤めていた中学校の寮に住み始めました。一九七〇年頃、文化大革命の時期、童話の本は「毒草」に指定されて、「燃やせるゴミ」になりました。父は命を賭けて童話の本を持ち帰りました。百冊以上ありました。『亀と兎の競争』『長髪妹(髪長姫、ラプンツェル)』『カラスの智慧』など、母は毎日、夜私が寝る前に読んでくれました。幸せな日々でした。
 今思い出したのですが、父は一日の仕事を終えて私を連れて家に帰るとき、陝西省著書間の出入口にあったぶどうの棚の道で、父に肩車されて、小さな青いぶどうを取って持ち帰りました。大体八月から九月に、ぶどうは熟して酸っぱい渋さのある味でした。今でも記憶に新鮮です。

 (父をしのぶ俳句)
  我が父の背中を包む夕日かな

 舒宗啓は一九三八年生まれ、湖北省鄂州市(がくしゅうし)出身。二〇二二年七月一日夜八時二十分に天に召されました。享年八十四歳。一九九二年九月二十四日、中国西安市南新街教会でキリスト教を受洗し、当時五十四歳でした。娘と息子をもうけ、私は長女です。
 経歴:中国西北大学物理系卒業、中国陝西省図書館副館長、中国西安市信息研究所文献館館長、中国西安市経済信息中心国際信息部経理

随想 他利側楽(たりはたらく) がんウイルスが示す命共生の選択

○ぶどうの枝第57号(2022年12月25日発行)に掲載(執筆者:KM)

 私は去る五月、小さな自伝を発行しました。大変僭越ながら、促されるままここに自己紹介させていただきます。
 命育む地球を初めて宇宙のかなたから見たガガーリンの「地球は青かった」という言葉は有名です。彼の後、多くの人が宇宙から地球を眺め、いとおしむ感情を述懐しています。命育む状態は壊れやすいということでしょうか。
 衆知のとおり、今や地球環境は危機的状態にあります。先日アフリカで開催されたCOP27の議論を聴くまでもなく、地球温暖化は命の存続を脅かしています。この危機的状態の改善にとって、国際間のエゴが大きな障害になっています。
 私の若い頃、日本は第二次世界大戦を引き起こし、敗戦という史上未曽有の経験の最中にありました。この間私は、自己責任で生きることの大切さを体験し、このことで聖書に出会う機会に恵まれました。代々家業であった医者の道に進むことにしたその入口で、目指す医師像についてアンケートがありました。聖書を読んでいた私は「食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても神の栄光を現すため」(コリント信徒への手紙1 一〇章三一節)というパウロの言葉を究極の目標として医道に励みたいと書きました。自力でそのようなことを実践できないことを、私自身が一番よく分かっていました。しかし、この選択は私に大きな影響をもたらしたと思います。
 ジャン・ポール・サルトルは言っています。人の一生は誕生(B=birth)に始まり、死(D=death)で終わる。そのBとDの間の選択(C=choice)が一人ひとりの人生を彩ると。私は、自分の真のふるさとに錨(A=anchor)を下ろすことができることが大切だと思います。つまりABCDの人生です。
 旧約聖書の記述によれば、創造主の神は、天地創造の最後に人を造られ、そして選択の自由を与えられて、神が良しとした楽園に住まわせました。人は自らの選択で禁断の木の実を食べて、失楽園の結果を招きました。
 創造の最後に造られた人に、神は「生めよ増えよ地に満てよ、地を治めよ」と祝福を与えられ、自分の周りに利益をもたらすこと、つまり私の言うところの「他利側楽」を期待されましたが、人は自ら失楽園の道を選択してしまいました。人はそのことを悔い改め、創造の神のお赦しを受けなければ状況は悪化するばかりです。
 私は自分の選択により、半世紀以上にわたりがんウイルスとお付き合いすることになりました。地球上の最も小さい生命であるウイルスは、自分の子孫を残すためにそれぞれ特殊な機能を持った生きた宿主細胞が必要なのです。自分の子孫を増やし過ぎれば宿主細胞は死滅し、結果としてウイルス自身も死滅してしまいます。存続のためには宿主と共に生きる条件を見いださなければならないのです。ウイルスは遺伝子の発現を調整してこれを達成させています。
 ウイルスとの長いお付き合いからいろいろなことを学びましたが、その中でもこの命共存の法則は、極小の生命であるウイルスが発信しているとても大切なメッセージであることを知りました。己の英知にのみ頼るのではなく、周囲との共生を図ることが、自分の健康寿命の延伸につながることを教えられました。現在人類を悩ませている新型コロナウイルスへの対応においても、ウイルスとの共生は大切なことだと思います。
 私の選択によって生じた困難な経験を通して、私を守り導いてくださった神の大きな愛のエネルギーの一端を、下記の拙文に託しました。お目通しいただければ、私にとって「他利側楽」の思いであり、感謝です。

詩 ベツレヘムの星

○ぶどうの枝第57号(2022年12月25日発行)に掲載(執筆者:MS)

ほのかに瞬く光
部屋の中でゲームなんかして
寝てばかりだった小さな星は
春深まるラジオから
地球星のこどもたちの 鈴なりの歌声を聞いたんだ

イエスさまはいつ来られるのかと
背伸びして遠く東を眺めるこどもたち
「今度は私たちがまぶねをつくろう
その次にマリアさまを連れてきて
赤ちゃんイエスが生まれたら 花の茂みに寝かせよう
羊飼いがやってきたら 焚火をたいてあげなくちゃ」
だからお小遣いをためているというエピソードまで聞いたんだ

ある日こどもたちが道で讃美歌を歌っていたら
「あんたたち ここで何してるの!」
通りかかる人たちの石ころのような視線に
こどもたちは道に隠れ
道はこどもたちの後ろに隠れ
壊れた風の音ばかりが聞こえたんだ

日ごとにこどもたちの讃美歌を聞きながら
きらきらと夢を見ていた小さな星は
いくら周波数を合わせても
こどもたちの歌が聞こえない

通りすがりの明けの明星に
遊牧民のように流れ行く天の川に道を尋ね
夢見るように地球星の町にやって来たのに

こどもたちは どこにも姿が見えず

家の門の前
路地
町をぐるりと囲む
神社と寺
曲がり角
野原で

鈴なりに 歌声だけが光っていたんだ
こどもたちを探す周波数だけが
つやつやきらきらと光っていたんだ

随想 御言葉に導かれて 信じて祈り急がないで待つこと

○ぶどうの枝第57号(2022年12月25日発行)に掲載(執筆者:KI)

 私は終戦の次の年、東京中野で三人姉妹の次女として生まれました。戦後の混乱した食糧事情の悪いときでした。家は日用品、雑貨などを売る小間物店をしていました。家族共に懸命に働きましたが、暮らしは楽ではありませんでした。子どもたちには、学習塾、習字、ソロバン等を習わせてくれました。父は優しく子煩悩な人でした。母は、おそろいの服やセーターなど手作りしてくれました。
 母はそのような生活の中で、心のよりどころを信仰に求めるようになりました。最後に導かれた所は、「単立シオンの群教会」でした。その頃は、早天祈祷会があり、朝早くから祈りが熱心にささげられておりました。今でも目に浮かぶのは、一心に祈っている母の姿です。
 母の影響で家族全員教会に行くようになり、私たちは日曜学校に休まず行くようになりました。御言葉のカードをいただくのが楽しみでした。小学校六年のクリスマスの写真には、五十数名の日曜学校の生徒の中に、プレゼントを抱えている私と妹、懐かしい友が写っていました。日付は、昭和三十四年十二月二十一日と記してありました。
 高校二年生のときに夏の奥多摩「鳩の巣聖会」で高校生二人と共に洗礼を受けました。
 「事実、あなたがたは恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(エフェソ二章八節)
 神様に罪許され、救われた喜びと新しい出発でした。
 昭和四十六年、牧師の司式により同じ教会員の石橋信雄兄と結婚式を挙げました。青年会員は、二十数名いましたが、熱心に主に仕えていました。夜の集会の前には、「ただ信ぜよ」と歌い、太鼓をただきながら、所々で証しをして路傍伝道をしていました。献身して牧師になられた方が何人かいました。ある方は召命をいただき、それぞれの所に導かれていきました。
 その頃実家ではお店をやめて「しらゆり学習塾」を経営し、姉と私は小中学生に学習、父は書道、母は和裁を教えていました。
 結婚してから十年過ぎた昭和五十七年、主人の両親と一緒に住むために市川に引っ越しました。船橋の「中山キリスト教会」に導かれました。市川の地で子どもたちは育っていき、学校を卒業し就職して家を離れていきました。父は、大正、昭和と生きて平成元年に亡くなり、母は晩年主を信じて天に召されました。やがて二人となり、自然豊かな田舎に住みたいと思うようになりました。
 祈りが応えられ、平成十一年いすみ市岬町に引越しすることができました。教会は太東駅から二分の「岬キリスト教会」に導かれました。引越の日は、台風のような大雨の中、引越しの車がぬかるみにタイヤをとられ「主よ、主よ」と声をかけながら荷物を運び入れることができました。その年の秋に田舎暮らしに必要な車の免許を取ることができました。私は五十三歳、主人は仕事を辞めて取ったのは六十六歳のときでした。自然あふれる田舎での生活は、身も心も癒やされて信仰生活を送ることができました。
 「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(フィリピ二章十三節)
 試練の中も通りました。ヘルパーの仕事をしていたときのことです。雪の道で滑り膝を骨折しました。一か月入院し、手術・リハビリと順調に回復しましたが、ボルトを抜く二回目の手術を待っていました。逆流性食道炎から食べられなくなり、体重は減り痩せて夜も寝られなくなりました。病院で診てもらえば治るとの思いで次々と病院を巡りました。最後に行った鴨川の亀田病院では、心療内科へ行くようにとの結果でした。体だけではなく心も病むんでいました。
 「苦しみにあったことはわたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました」(詩篇一一九篇七一節口語訳)
 私が学んだことは、必ず癒やされると信じて祈ること、静かに忍耐強く急がないで待つことでした。平成二十六年家と車を処分して、終活のために京成佐倉の駅近くに引越しました。主は時と場所を備えてくださいました。近くの「佐倉教会」に導かれ、神の家族とさせていただきました。
 「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(マルコ三章三五節)
 聖書の御言葉は、若いときから今日に至るまで、悲しみの日には慰めと平安、生きる勇気を、また、喜びの日には感謝をもって更に前進する力を与えてくれました。
 私の好きな御言葉は、
「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人は」日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほどの重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(コリント二 四章一六~一八節)
 私たちが神を信じて従っていくとき「内なる人」を強くし、その人は見えない世界を見えるかのように信じて望んでいく生き方がされます。日々新しくされて、御言葉に立って生きる者でありたいと願っております。

詩 急がない

○ぶどうの枝第57号(2022年12月25日発行)に掲載(執筆者:NI)

急がない、急がない
神様から頂いた大切な命だから
丁寧にゆっくり生きよう急がない
嫌でも死は必ず来るから
辛くても焦って死に急がない
病気になったら心から神様に祈り
必ず癒して頂けると信じて
静かに忍耐強く急がない
出入り口でかち合ったら
笑顔で相手を先に急がない
老人や子供が前を歩いていたら
あおり追い立てずに急がない
エレベーターでは後ろの人のために
自然に閉まるまで急がない
何事も準備万端急がない
二度とない人生だから天国を目指し

神の導きを信じるヨセフの信仰 創世記四五章一~二八節

○ぶどうの枝第56号(2022年6月26日発行)に掲載(執筆者:金 南錫牧師)

 今まで、自分の身をあかそうとしなかったヨセフはいよいよ兄たちに身をあかしました。また、同時にヨセフはこれまでの人生に起こった出来事を振り返って、神の視点から自分の人生を再発見することができました。それはどんなことだったのでしょうか。
 兄たちの悔い改める姿を見て、ヨセフは自分を抑えきれなくなりました。そして、家来たちを部屋から出させて、声をあげて泣きました。ヨセフは、兄たちが以前とは違って、末の弟ベニヤミンを守ろうとした姿を見て、二十二年前に自分を見捨てたときの兄たちとは違うことが、よく分かったわけです。そして、ようやく自分がヨセフであることを兄弟たちに告白します(三節)。当然ながら、兄たちは驚きのあまり、答えることができませんでした。また、同時にかつて自分たちがヨセフに対して犯した罪のことを思い出し、ヨセフの復しゅうを恐れていました。驚き恐れる兄たちにヨセフは、「わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」と言っています(五節)。ヨセフは兄たちをゆるしていました。かつて兄たちに憎まれてエジプトに売られたことを一切言わないで、逆に兄たちのことを心配し、気遣っているのです。
 では、ヨセフはどうして兄たちをゆるすことができたのでしょうか。それは、ヨセフが神の方を見ていたからです。兄たちからされた理不尽なこと、売られた者としての悲しみ、奴隷としてのつらい生活、ポティファルの家で誤解された者としての孤独、そして無実の罪によって監禁されなければならなかったときの絶望感など、ヨセフの人生は悲しいもの、つらいもの、そして傷に満ちたものでした。その心の傷はエジプトの総理大臣になったとしても、消えることはありませんでした。そのように、人だけを見ていたら、恨みつらみが湧いてきて、心の傷を忘れずに、根に持ってしまうのです。
 しかし、ヨセフは神の方を見ていました。神の視点から自分の人生を見ようとするとき、そこに起こるすべての出来事が、神の導きの中にあることを信じるようになりました。「なぜ、自分がエジプトに売られてこなければならなかったのか」「なぜ、自分が理不尽な苦しみが絶え間ない人生を過ごさなければならなかったのか」。自分の人生のすべての「なぜ」に意味があったことに目覚める瞬間でした。

 神の大きなご計画

 エジプトに売られる前のヨセフの言動を見ると、ヨセフもはじめは父親に甘やかされた、生意気な人間でした。しかし、ヨセフは今「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」と言っています。つまり、自分がエジプトに売られたのは、神の導きによるものであると受け止めることができたのです。このヨセフの言葉は、神の視点から自分の人生を見ようとするとき、どのような素晴らしい変化が起こるかを私たちに教えています。
 なお、六節以下を見ると、飢きんはあと五年続くことが、ヨセフに示されていました。家族がその飢きんを生き延びるために、先にエジプトに来た自分が権力者となって、家族をここに招くように、神様が取り計らってくださったと言うのです。九節、一〇節に「急いで父上のもとへ帰って、伝えてください。『息子のヨセフがこう言っています。神が、わたしを全エジプトの主としてくださいました。ためらわずに、わたしのところへおいでください。そして、ゴシェンの地域に住んでください。そうすればあなたも、息子も孫も、羊や牛の群れも、そのほかすべてのものも、わたしの近くで暮らすことができます』」とあります。
 確かにヨセフがエジプトに来たのは、兄たちがヨセフを憎んだからでした。でも、そのことも神の方から見れば、神様の大きなご計画の中でなされたことだと、ヨセフは受け止めたのです。こうしてヨセフは兄弟たちに、父と家族を連れて、このエジプトに移り住んでくださいと、彼らを招待します。
 その後、ヨセフの兄弟たちがエジプトに来たという知らせは、ファラオの宮廷にも伝えられました。それを聞いて、「ファラオも家来たちも喜んだ」とあります(一六節)。なんとファラオが自分のことのように喜んだのです。そして、ファラオは最高のもてなしをして、ヨセフの家族をエジプトに迎えようとしました。
 ファラオの命令に従って、ヨセフは兄たちに車と食糧を与え、さらに晴れ着をそれぞれに与え、父の贈り物も用意されました。やがて兄たちは、父親の元に戻り、すべてを報告します。「ヨセフがまだ生きています。しかも、エジプト全国を治める者になっています」(二六節)。これを聞いて、ヤコブは「気が遠くなった」とあります。信じることができなかったのです。しかし、ヨセフから自分を乗せるために送った車を見て、気を取り直すことができたのです。それほどヤコブにとっては衝撃的な報告でした。ですから、ヤコブが「よかった。息子ヨセフがまだ生きていたとは。わたしは行こう。死ぬ前に、どうしても会いたい」と言ったときには、死んだと思っていた息子に会いたい一心であったのです(二八節)。こうして、ヤコブはエジプトに向かうことを決心しました。

 神の視点から再発見

 今日の箇所において、ヨセフは、自分の人生のすべての出来事が、神の導きの中にあったことを信じるようになりました。ですから、ヨセフは、五節の後半で「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」と告白しています。
 また、七節に「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは」とあります。そして、八節、九節で「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神が、わたしを全エジプトの主としてくださいました」と証しているのです。これが、ヨセフの信仰でした。神の導きを信じる信仰です。神の導きを信じることは、自分の人生の全ての出来事を神の視点から再発見することです。人生に起こる喜怒哀楽の全てを神の視点から見ようとするとき、意味のない苦しみは一つもないことにつながります。ヨセフの場合、かつて見た夢のことも、兄たちに憎まれてエジプトに売られたことも、また、牢獄に入れられて、そこで二人の役人に出会ったこと、そしてエジプトの総理大臣になって、今兄たちと再会を果たしたことも、全部つながっていたのです。
 その背後には神様の導きがあったのです。私たちもそれぞれにいろんな不思議な出会いや出来事があって、今につながっているのです。「わたしをここへ遣わしたのはあなたたちではなく、神です」と言ったヨセフの信仰は、神の導きを信じる信仰です。その神に全てを委ねて、残された人生を全うすることができますよう、祈り願います。

受洗者より 受洗祝福の言葉に感激

○ぶどうの枝第56号(2022年6月26日発行)に掲載(執筆者:NH)

 年内に受洗しなくてはと、命も終わるのではと、牧師先生のご指導で日にちも定まり、受洗できました。八十一歳です。
 両親の伝道所のお陰で、家には男女年齢問わず集まり、にぎやかでした。中学生の頃より奉仕活動に参加。楽しかったことは、土曜日讃美歌の練習会です。好奇心旺盛な頃で帰り道に、先生のお宅には珍しい物や、あんなのがあった、あれは何する物?とか。勉強は苦手でしたが、十二年間我が家姉妹は全員皆勤でした。
 貧乏生活でしたが、両親は一生懸命でしたから、何の不足も感じず、頑丈な体を作っていただきました。友だちもたくさん、今も続いています。結婚が決まったときに、母からNという名前は、お父さんと一緒に考え、正しことを宣べる子どもになってほしいからNとしたと聞き、「大丈夫だよ、悪いことはしないから」と言いました。そのときに「キリストの道」と分かりましたが、聖書は思うように進まず今になりましたが、行く先々で教会は探してきました。これから一年生になりましたことを母に伝えて、先の見えた毎日を大切に頑張ります。
 金牧師ありがとうございました。佐倉教会の皆様が暖かく見守り励まし、受洗後の祝福のうれしいお言葉を大勢の皆様からいただきました。名前と顔がまだ分からずごめんなさい。感謝です。車に乗ってから感激の涙でした。うれしい、思い出の深い受洗でした。
 ありがとうございました。これからもよろしくご指導ください。神様と共に歩もうと主に仕える志をいただき、感謝いたします。乱筆失礼。

随想 MIさんとの思い出 「ばあちゃんドクターヘリに乗る」

○ぶどうの枝第56号(2022年6月26日発行)に掲載(執筆者:MO)

 MIさんが天に召されとても寂しくなりました。Iさんとの思い出はたくさんありますが、一番の思い出は「ありがとう神様」の本をいただいたことから始まりました。その中には、Iさんが急性心筋梗塞の発作を起こし、ドクターヘリで運ばれた経験を書かれた「ばあちゃん ドクターヘリに乗る」が載っていました。
 当時私は、N大学C病院、内科医局秘書として勤務しており、研修医の先生方が読まれたら、きっと良い参考になると思いました。ドクターヘリで運ばれた患者目線で書かれたリアルな文章だったからです。
 研修医は、二年間の間に進む専門を決めます。医局には各自の机のほかにソファーとテーブルがあり、外来が終わった後など、休憩できるようになっています。そのテーブルの上に「ありがとう神様」の本を置いておきました。すると何人かの研修医が興味深く読んでおられました。
 それなら救命救急に配属されている研修医こそ、ご参考になるのではと思い、救命救急の秘書さんにお願いして医局に置いていただきました。何日かたって救命救急の秘書さんから、「M先生がこれはとても良い。HEM―Netに掲載したいから原稿のデータが欲しいとおっしゃっている」と伺い、驚きました。
 M先生は、当時千葉北総病院の救命救急教授で、ドクターヘリを立ち上げた先生です。救急ヘリ病院ネットワークHEM―Netとは、ドクターヘリによる医療システムの普及を目的として活動している組織です(現在のようにドクターヘリが全国的に知られておらず、普及にご苦労されていた時期でした)。
 研修医の先生に、患者さん目線でのIさんの作品はきっと何かを感じてくださるだろう、良いお医者様になっていただきたい、そんな軽い気持ちでの行動でしたので、私も驚きましたがうれしくて、すぐにIさんに連絡を取りましたが、Mさんはお留守で、電話に出られたI先生からは、「データはありません」とのお返事。
 データでお渡しできなければ、掲載はできないとのことで、それは残念なので、私が入力して提出することにしました。
 HEM―NeTに掲載されたIさんの「ばあちゃんドクターヘリに乗る」を私も拝見しとてもうれしく思っていたところに、Iさんからご家族がとても喜んでくださったと伺い、より一層うれしかったことを思い出しました。
 医局秘書の仕事は、先生方の事務的なことから多種多様です。若い先生は息子や娘の年代でもありいろいろ相談も受けました。
 そんな先生方がご立派になられる成長過程を拝見できるのは、日々神経を使う仕事でもありましたが、楽しい仕事でもありました。そんな中で「ありがとう神様」を読んでいただきたいと思ったもう一つの理由としては、前編にI先生の「マタイによる福音書」が載っていますので、聖書との出会いになればとの思いもありました。そのときの研修医の先生がお一人、急命救急に進まれ現在活躍されております。私は勝手にIさんの本との出会いが少しあるのでは……とひそかに思っています。

神様と共に歩んだアブラハム 満ち足りた人生への導き 創世記二五章一~一八節

○ぶどうの枝第55号(2021年12月31日発行)に掲載(執筆者:金 南錫牧師)

 創世記一二章から始まるアブラハムの物語の最後です。アブラハムが晩年になって、息子のイサクに妻をめとるために、信頼していた忠実な僕を故郷の町に遣わしました。僕はその町で、アブラハムの親類のリベカという女性に出会って、彼女の家族と交渉して、承諾を得ます。そして、リベカも「はい、まいります」と決心をして、その日のうちに両親の下から離れて、遠いカナンの地に嫁いでいきました。このとき、アブラハムは百四十歳になっていました。今日の箇所には、その後、アブラハムが百七十五歳で召されるまでのことが記されています。
 「アブラハムは、再び妻をめとった。その名はケトラといった」(一節)。
 アブラハムは、妻サラが亡くなった後、ケトラと再婚しました。このケトラとの間に六人の子どもたちが生まれます。そのことが二節から四節に示されています。そして、ケトラとの間に生まれた子孫たちは、やがてアラビア半島に暮らすようになって、後のアラブ人の祖先となっていきます。
 「アブラハムは、全財産をイサクに譲った。側女の子供たちには贈り物を与え、自分が生きている間に、東の方、ケデム地方へ移住させ、息子イサクから遠ざけた」(五~六節)。アブラハムにはサラとの間に、百歳のときに与えられた約束の子イサクがいて、その前にサラの女奴隷であったハガルとの間に、イシュマエルという息子がいました。それに、先ほどのケトラとの間に生まれた六人の子どもたちを含めると、全部で八人の子どもたちがいたわけです。
 アブラハムは約束の子イサクに全財産を譲ったとき、他の七人の子どもたちにも贈り物を与え、彼らに十分な配慮をしました。そして、彼らを東の方に移住させ、イサクから遠ざけました。それは、相続を巡って、兄弟間での争いを避けるためでした。そうしてアブラハムは神様の祝福のバトンをイサクにしっかりと渡しました。

 アブラハムの人生と信仰

 神様は、そのようなアブラハムの人生を大いに祝福されます。
 「アブラハムの生涯は百七十五年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」(七~八節)。
 ここで三つのことを考えたいと思います。
 第一に、アブラハムは「満ち足りた」晩年を迎えました。満ち足りた晩年とは、神様との関係において、「満ち足りた」ことです。それまで、アブラハムは神様によって導かれてきて、神様にいつも祈っていました。ですから、アブラハムの人生の晩年においても、いつも神様のことを思い、神様との交わりの中で過ごしていたと思います。そして神様と共にいることを本当に喜んでいたのです。
 第二に、アブラハムは「長寿を全う」しました。「アブラハムの生涯は百七十五年であった」とあります。アブラハムは、七十五歳のときに、神様に召し出されて、それまで暮らしていたカルデアのウルという町を離れて、カナンの地へと旅立ちました。そのとき以来、ちょうど百年間生きたことになります。百年間にわたって、神様に導かれ、神様と共に歩みました。
 その間、失敗もありました。カナンの地を通り過ぎて、エジプトまで来たときに、エジプトの王ファラオを恐れて、妻のサラを自分の妹だと偽ったことがありました。また、神の約束を信じ切れずに、妻のサラが女奴隷ハガルをアブラハムに与えて、イシュマエルを得たこともそうでした。
 また、試練もありました。一緒に旅をしてきた甥ロトと別れたこと。それから、百歳になってようやく与えられた息子イサクを焼き尽くす献げ物としてささげなさいと、神様に命じられたことも大きな試練でした。また、最愛の妻サラが召されたこともつらいことでした。それでもアブラハムは、自分を召し出してくださった神様に従い、神様と共に歩み続けました。
 第三に、「先祖の列に加えられた」とあります。これは、神様の下に迎え入れられたことで、死んで「先祖の列に加えられる」という表現は、聖書の一つの希望を語っています。いくらこの地上で満ち足りても、死んだ先で独りぼっちであるならば、どうでしょうか。天の故郷では、先に召された信仰の先輩たちが私たちを迎えてくださるのです。新約聖書のヘブライ人への手紙一一章一三節にこう書いてあります。
 「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」。
 それから、一六節に「ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです」とあります。ここで、彼らとは、神様に忠実に従って生きた人々のことを言っています。彼らは、地上ではよそ者であって、天の故郷を熱望していました。地上の生涯で終わりではないと、その先にある天の故郷を見詰めていました。それは、私たちを創造し、私たちを愛してくださった神様の下で永遠に過ごすことで、そこに希望を置いていたのです。アブラハムはその望み通り、神様が許されたときまで生きて、先祖の列に加えられたのです。
 このように、神様は、アブラハムという人を選び、その人生を導いて、大いに祝福されました。私たちの人生もそうでしょう。神様は、私たちにも目を留めてくださり、これまでの人生を恵みによって、導いてくださったのではないでしょうか。

 イサクとイシュマエル

 続いて、アブラハムが召されたとき、イサクとイシュマエルが一緒に父アブラハムを葬りました。 「息子イサクとイシュマエルは、マクペラの洞穴に彼を葬った。その洞穴はマムレの前の、ヘト人ツォハルの子エフロンの畑の中にあった」(九節)。
 サラの女奴隷ハガルの子であったイシュマエルは、十四歳のときにイサクが生まれたことで、アブラハムの家から追い出されていました。しかし、父の死の知らせを聞いて数十年ぶりにイサクと会って、彼と協力して父親の葬りを行ないます。普通であれば、自分を追い出したアブラハムとイサクに対するわだかまりがあったはずですが、それが消えていたようです。アブラハムは息子たちの手によって、妻サラが葬られたところに、一緒に葬られました。そして、「アブラハムが死んだ後、神は息子のイサクを祝福された」とあるように(一一節)、神様はアブラハムの跡取りとなったイサクを祝福されます。
 こうしてみると、アブラハムは「満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」ことが分かります。アブラハムは七十五歳のときに、神様に召し出されて以来、百年間にわたり、神様に導かれ、神様に信頼し、神様と共に歩んだ人生でした。その間、失敗や試練もありましたが、神様の声に聞き従ってきました。このところに「満ち足りた人生」があると思います。