転入会者より 生まれ育った信仰は恵み 何度も生を与えられた人生

○ぶどうの枝第58号(2023年7月2日発行)に掲載(執筆者:MT)

 本年四月の復活祭礼拝において、佐倉教会に転会させていただきました。それは私にとっては、新たなる生を与えられた日でもありました。転入式の間に、私の命は神さまに与えられていると確信しました。
 明治時代初期に曽祖父母が同時に受洗してからのクリスチャンファミリー第四世代として、七十五年前に最初の生を与えられた私は、二年後に教団戸山教会(東京・新宿)にて幼児洗礼を受けました。
 幼児期から日曜学校に通い、兄弟姉妹のいない一人っ子であった私は、そのまま大人の礼拝に「参加」していたのです。当時、十歳ほど年上で、戸山教会の現役長老によると、私が礼拝中、皆が讃美歌を歌っているときですら、礼拝堂内を「自由に」歩き回っていても、それは誰からもとがめられていなかったそうです。
 アメリカ人宣教師が、聖書研究会で講話をしてくれたときには、それを父が通訳していました。私は、その始まりには母の膝の上に「おとなしく」座っていましたが数分すると、そこからするりと降りて、勝手気ままに大人たちの間を動いていたそうです。恥ずかしながら、私の信仰生活はそのように始まっていたのです。
 ともあれ、私が今回の転入式の最中に思い出したことがあります。日曜学校の先生から、「クリスチャンがイエスさまの誕生と復活をお祝いするのは、私たち人間はそれぞれの人生の中で、何度も生まれる経験をする。それは神さまからの祝福の印なのだよ」という趣旨のことを話してくれたことです。
 私は日曜学校のほか、クエーカー系の幼稚園に通いました。現在に至るまで影響を受けています。公立中学卒業にあたって、父の勧めで青山学院(曽祖父仙が創立者の一人)高等部を受験することになりました。幸い合格はしましたが、高等部入学よりも中学卒業の頃で思い出すことがあります。その頃、一人の親戚から、卒業というのは「これで終わり」ということではなく、英語でコメンスメントと言い表されるように、今から始まる」の意味なのだ、というのを学んだことです。言い換えれば、入学式だけではなく卒業式も「新たな生」を与えられるときだったのです。その意味では、何事につけ終了する、修了する、別れる、死去するなどは全て、生まれることでもあるのでしょう。
 青学高等部は授業の合間に礼拝のある学校でした。宗教部に入った私は「大人の聖書」を読むようになりました。三年生のときでしたか、講堂に集められた全校生や教員の前で、証しをする機会を与えられました。多人数の前で話をする最初の経験でした。何を話したかは覚えていません。
 堅信礼(教団戸山教会)を受けたのもその頃でした。私がキリストにあって生まれる(生きる)意義を強烈に体感したのは、宗教部の夏休みの活動、「キャラバン」でした。埼玉、千葉、神奈川など近隣地方都市や農村へ、教員(物理の先生でした)に引率され「キャラバン」と称して、そのときの日曜学校のプログラムを担ったのでした。自分たちと年齢差のある小中学生と接することで、教えることは教えられることを学びました。
 青山学院大学教育学科に進学しました。教師になりたいということよりも、教育というものの社会的意味と可能性について関心があったからです。教会ではなぜか、青年会長を務めていました。キリスト教界というコミュニティにどっぷりつかった「ごく普通の真面目な青年キリスト者」でした。
 私の人生観を大きく揺るがしたのは、やはり大学一年夏(一九六六年)のことでありました。国際エキュメニカルワークキャンプを体験したからでした。世界各国の青年たちが集いました。東京奥多摩にて、福祉施設の敷地整備をし、汗を流したのです。宗派を超え、国際基督教大学チャップレン夫妻、イエズス会神父、カトリック修道女は日本人でしたが、三、四名の日本人学生以外は国際色豊かな若者たちでした。共に祈り、支え合い、丸二週間、寝食を共にしたのです。毎日が新発見の連続でした。幾つもの言語が飛び交っていましたが、共通語は多様ながらも英語でした。
 教育学専攻の私は、国連教育科学文化機関(ユネスコ)に興味を持つようになりました。当時の私の夢は、ユネスコ職員になることでした。それはそれとして(実現しませんでしたが)、日本ユネスコ連盟という団体が学生国際交流の一環として、韓国訪問ツアー計画のあることを知ったのです。早速応募しました。それは、いわゆる日韓条約締結の一九六五年十二月から一年も経過していないときでした。
 滞在は一週間ほどでしたが、生まれて初めての外国で、韓国人学生やホストファミリーの温かい対応に恵まれました。一つ、ビジュアルに私の記憶に残っているのは、ソウルの夜の街中にたくさんの灯り付きの十字架が輝いている風景です。
 帰国後、父にそういった報告をしました。そこで初めて知らされたことがありました。「明治十四年、朝鮮朝廷は新生日本に使節団を派遣した。アンジョンスは農業担当であったため、農学者仙(私の曽祖父)を訪問。仙は農業事情講義のあと、〈山上の垂訓〉の掛け軸の寄贈を申し出た。アンは朝鮮では基督教が禁止されているためと、辞退した。ともあれ、そういう交流が、朝鮮にキリスト教(プロテスタンティズム)がもたらされる契機となった」とのことです。私は不思議なつながりを感じました。
 さて、私は大学二年の春休み(一九六八年)に一人、米国とカナダをバスで一周する旅をしました。六六年夏のエキュメニカルキャンプ、親交、そして信仰を深め合った仲間を訪ねながら移動したのです。ちょうどベトナム戦争の真っただ中でもありました。各地の大学キャンパスでは、反戦と和平のための運動が盛んでした。男子学生とっては自分たち、女子大生にとってはボーイフレンドの命に関わる切実な問題だったのです。ベトナムに行けば死ぬかもしれない、敵を殺すかもしれないのが戦争であることを現実として認識していたのです。
 同じアジアの隣国ベトナムが南北に分断され、戦争を起こしていたのです。そこに生きている人々について、知識も関心も全く持っていなかったこと、つまりは平和ボケしている日本人である自分に気付かされました。
 更に強い印象を受けたのが、アメリカ人、カナダ人を問わず学生たちに見られる、キリスト教諸宗派のみならず、宗教の壁を超え、「無神論者」をも含めて、和平の実現を求める姿勢のあることでした。
 以上述べてきた様々な見聞があり、大学卒業までには、少しばかり、日本人らしくない日本人(?!)、クリスチャンらしからぬクリスチャン(?!)になっていたようです。
 卒業後に決意した私の進路は、フィリピン国立大学大学院への進学でした。日本人留学生はほとんどいませんでしたが、ホストファミリーに恵まれました。たまたま、フィリピンは国民の九割近くがクリスチャンという、アジア最大の「キリスト教国」でしたので、私はまたまた新しい社会に生まれることになりました。文字通り、エキュメニズムの精神をもって社会変革をしていこうとする強い人々に出会ったのです。生涯の友となる配偶者も与えられました。
 それからおよそ五十二年間がたちました。生を幾度も与えられている恵みに感謝するこの頃です。
 私たちは転入会したり入学したりするだけでなく、卒業する、修了する、終了する、別れる、など生きているうちには、何度でも生まれるのです。確実に一回だけの出来事は死去することです。しかしそれが天国に召される(召天する)ときなのでしょう。