2024年4月14日「まことの権威」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書20章9-19節

「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。」そして、収穫の時になったので、ぶどう園の主人はぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところに送ったのです。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返しました。主人は二番目、三人目の僕を送ったのですが、彼らは袋だたきにされたのです。主人は考えます。「どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。」しかし、農夫たちは主人の愛する息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまったのです。

イエス様はこのたとえ話をした後に、詩編の言葉を語ってくださいます。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」律法学者や祭司長たちは、イエス様を殺そうとしたのです。しかし、神様は十字架の上で命を捨てることになるイエス様を、親石として、用いてくださるのです。そして、その神様は、主イエスにつながる石として、私たちを用いようとしています。今こそ、その時です。

2024年4月7日「祈りの家」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書19章41-20章8節

イエス様がエルサレムの神殿に入って、最初になさったことは、商売人たちを追い出すことでした。当時、神殿には両替人がいました。彼らは神殿にやってきた人たちのお金を、ユダヤの貨幣に両替して、手数料を取りました。また、巡礼者たちは神殿で祈りを献げるために、傷のないいけにえの動物を神殿の境内で、何倍ものする値段で買いました。

 このように、神殿という祈りの場所が商売のために変わってしまったのです。その姿を見て、イエス様は憤られました。そして、商売をしていた人々を追い出して、言われました。「わたしの家は、祈りの家でなければならない。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」イエス様は強盗の巣になってしまったエルサレム神殿を、祈りの家として、回復しようとなさいました。

教会は祈りの家です。毎週、私たちはこの祈りの家に招かれて、祈るのですが、それは、自分の願いばかりではなく、神様の願い、神様の御心はどこにあるのか、そう祈ることによって、自分だけではなく、教会も祈りの家へと変えられていくのです。それが「祈りの家」である教会の本来の姿であります。

2024年3月31日「信じる幸い」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書20章24-29節

復活されたイエス様が弟子たちと再会していました。しかし、そこにトマスはいませんでした。「そこで、ほかの弟子たちが、『わたしたちは主を見た』と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。』」(25節)。

イエス様が復活されて、八日が経ちました(26節)。弟子たちと共にトマスもそこにいました。イエス様はトマスに言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」イエス様のこの語りかけに、トマスは答えました。「わたしの主、わたしの神よ」(28節)。彼は今、神を見たのです。その声を聞いたのです。主イエスの体に触れて確かめていないのに、「わたしの主、わたしの神よ」と、信仰を告白することができたのです。イエス様はトマスに言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(29節)

2024年3月24日「平和の王のエルサレム入城」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書19章28-40節

イエス様はエルサレムの直前までやってきて、二人の弟子たちを使いに出そうとして、言われました。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」

二人の弟子は、イエス様に言われた通りに、向こうの村に行きます。すると、確かにそこに小さな子ろばが繋がれていました。その紐を解いていると、持ち主が「なぜ、ほどくのか」と聞きました。二人の弟子は「主がお入り用なのです」と答えると、ろばの子を連れていくのを許してくれたのです。イエス様はその子ろばに乗って、これからエルサレムに登っていくのです。子ろばはイエス様をお乗せする器として用いられたのです。同じように、イエス様はこの弱くて、頼りのない私たちを選んで、用いてくださっています。そこにキリスト者としての喜びがあります。

2024年3月17日「ムナのたとえ」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書19章11-27節

ある立派な家柄の主人は、自分が遠い国に行って、不在の間に、十人の僕に一ムナずつ渡したのです。そして、主人が帰ってくると、僕たちを呼んで、どれだけ利益を上げて増やしたかを調べるのです。一つ目の僕は一ムナを十ムナにしました。二人目の僕は一ムナを五ムナにしました。しかし、三番目の僕は一ムナを布に包んでそのままにしておきました。この僕は、託されたムナを用いることをしませんでした。だから、取り上げられてしまうのです。

この一ムナを巡って、ある方は信仰だと言います。またある方は愛だと言います。また命だという人もいます。神様から等しく与えられた一ムナ、それは信仰であったり、愛であったり、命であったりそれぞれ言えると思います。しかし、何よりも私たちに等しく託された一ムナは「聖書の言葉」ではないかと思います。その聖書の言葉をどう用いていくのか、それが問われているのです。そして、私たちはその聖書の言葉によって生かされています。何があっても、この聖書の言葉を大切に用いて行きたいと思います。

2023年3月3日「今日救いがあなたの家を訪れた」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書19章1-10節

ザアカイは徴税人の頭で、金持ちでした。当時のユダヤはローマ帝国に支配されていたから、税金をローマに納めなければなりません。ザアカイはそのローマの手先となって、同胞のユダヤ人たちから税金を取り立てて、ローマに納めていました。ザアカイは同胞のユダヤ人から憎まれ、嫌われていたのです。

あるとき、ザアカイはイエス様が近くにお通りになることを知り、その場所に行ってみるのですが、群衆に遮られて見ることができなかったのです。それで、いちじく桑の木に登ったのです。イエス様は、ザアカイが木の上にいることを知っておられ、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」そう言ってくださいました。イエス様の愛が込められた言葉です。イエス様と出会ったザアカイは「主よ」と呼びます。イエス様を「主」として生きる新しい生き方へと変えられて行きました。私たちもどんなことがあっても、「主よ」とお呼びすることができる、その恵みの中に、新しい一歩を共に歩み出していきたいと思います。

2024年2月25日「あなたの信仰があなたを救った」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書18章35-43節

イエス様がこのエリコの町に入ろうとしたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていました。ある日、群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねました。「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、この盲人は「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだのです。イエス様は立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられました。彼が近づくと、「何をしてほしいのか」とお尋ねになります。盲人は「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言ったのです。つまり、「再び見えるようになりたい」と言いました。そこで、イエス様は「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と語ってくださいました。

では、この盲人の信仰というのは、どういう信仰だったのでしょうか。彼は、かつて目が見えていたのですが、今は見えていない。だから、もう一度「目が見えるようになりたい」という願いをもって、イエス様に率直に申し上げるだけでした。イエス様はそのことを、「あなたの信仰」と呼んでくださり、この人の願いを聞き入れてくださったのです。

2024年2月18日「神にはできる」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書18章18-34節

ある議員がイエス様に「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねました。また、「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」という掟はみな、子供の時から守ってきましたと答えました。この議員の言葉を聞いて、イエス様は「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と仰いました(22節)。しかし、議員はイエス様の言葉を聞いて非常に悲しんだのです。大変な金持ちだったからです。

彼の悲しむ姿を見て、イエス様が「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と仰いました。これを聞いた人々が「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、イエス様は「人間にはできないことも、神にはできる。」と仰いました。つまり、神から遣わされた主イエスの十字架と復活を通して、私たちは救われたのです。

2024年2月11日「神の国に入るには」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書18章9-17節

イエス様は、自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して、だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められることを、たとえを用いて教えられました。

二人の人が祈るために神殿に上ったのです。まず、ファリサイ派の人は「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と祈ったのです。彼の祈りは、自分がほかの人に比べていかにすごいか、律法を守れないほかの人たちと違う自分であることを感謝しますという心の中の祈りです。

それに対して、徴税人の祈りはただ胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」という短い祈りでした。彼は自分の罪深さを心の中から悲しむしかできなかったのです。ただ、神様の前に立って「神様、私を憐れんでください」そう祈ったわけです。イエス様はこの二人の中に、義とされて家に帰ったのは、徴税人であったと仰いました。