○安藤 博子牧師 ヨシュア記1章1ー9節、マタイ福音書28章16ー20節

佐倉教会は、1904年11月ここ佐倉市において設立されたキリスト教(プロテスタント)の教会です。礼拝は、毎日曜日の午前10時30分より行っており、どなたでも参加できます。
礼拝説教の要旨です。
○安藤 博子牧師 ヨシュア記1章1ー9節、マタイ福音書28章16ー20節
○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書12章1ー11節
「過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。」(1節)イエス様は、ユダヤ人たちの殺意から逃れ、退いていたエフライムから、エルサレムに近いベタニアに行かれます。そこには、親しいマルタとマリア、そしてイエス様がよみがえらせたラザロがいました。イエス様は彼らの家に入られたのです。そこではマルタが給仕をして、夕食が用意されていました。皆が夕食をとっていたその時、マリアが「純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ」持って来て、イエス様の足にナルドの香油を塗って、自分の髪でその足をぬぐったのです(3節)。この香油は非常に高価なものでした。
では、マリアはなぜ、このような行為をしたのでしょうか。イエス様はその足で、ガリラヤの方々を巡り歩いて、特に悲しんでいる人や、病で苦しんでいる人、涙を流している人を訪ね、その人たちを励まし、癒し、救いへと導いてくださったのです。マリアもそうやって、イエス様に訪ねていただいた一人です。愛する兄弟ラザロが重い病気にかかって、死んでいく中で、マリアは涙に暮れていました。でもその時、イエス様が来てくださいました。そして、「ラザロ、出て来なさい」と叫んで、兄弟ラザロを復活させてくださったのです。マリアは自分のところに来てくださったそのイエス様の足に感謝して、献身のしるしとして、自分の持っているナルドの香油をささげたのです。

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書11章38ー44節
ラザロの墓は洞穴で、石でふさがれていました。当時の墓は、岩場に横穴を掘って、そこに遺体を納め、入り口は大きな石で蓋をするというものでした。イエス様はその石を見て、「その石を取りのけなさい」とマルタに言われました。すると、死んだラザロの姉妹マルタが「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言ったのです(39節)。これが死に飲み込まれていた人間の常識です。でもイエス様はそのマルタに仰いました。「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか。」(40節)確かに11章の最初のところで、イエス様が仰いました。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」(4節)ここでイエス様はマルタに「私を信じなさい。ラザロの病気は死で終わらない。神の栄光がそこに輝いている」そう招いているのです。イエス様はラザロの墓の前に立って、大声で叫んだのです。「ラザロ、出て来なさい」すると、何か起こったのでしょうか。44節に「死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た」とあります。今、死んだはずのラザロが、復活し、出てきたのです。死んだ人が蘇ったのです。ここで、ラザロが「墓から出て来た」とは書いていません。「死んだ人が、手と足を布で巻かれたまま出てきた」と言っています。これは、私たちにも、イエス様が来てくださって、復活の力を与えてくださる、そのことを指し示していると思います。

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書11章17ー27節
ラザロは二人の姉妹マルタとアリアと共に、ベタニアに住んでいました。そのベタニアで、ラザロが重い病気にかかって、死んでしまいました。イエス様がベタニアに来てみると、「ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた」のです。兄弟ラザロを失ったマルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が慰めに来ていました。そのところに、イエス様が来られました。マルタはイエス様が来られたと聞いて、迎えに行きます。そして、マルタがイエス様に言います。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」(21節)この言葉の中には、イエス様がなぜ、もっと早く来てくださらなかったんだろうかというニュアンスが込められています。ところがマルタは続けてこう語っています。「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」(22節)マルタとマリアは、イエスこそ、苦しみの中に、悲しみの中にある自分たちに救いを与えてくださるお方であると信じて、そのイエスによる救いになお期待しているのです。
そのマルタに、イエス様が仰います。「あなたの兄弟は復活する。」(23節)すると、マルタは答えます。「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」(24節)マルタは、「終わりの日の復活」を将来の話として受け止めたわけです。そこでイエス様は「わたしは復活であり、命である」とおっしゃいました。これは、将来、終わりの日に始まる救いではなく、今既にイエスによって始まっている救いのことを語っているのです。復活は、終わりの日の出来事ですが、今ここでの出来事でもあることを伝えようとしています。

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書11章1ー16節
マルタとマリアはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と、ラザロの病状を伝えました。それを聞いてイエス様が仰いました。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」(4節)普通、病気で死んだら、終わりだと思いますが、イエス様は「この病気は死で終わるものではない」とおっしゃったのです。死というのは、人間にとって、決して避けられない現実です。しかし、そこから先は神の栄光である。この病気が現わすのは神の栄光であるということです。そして、その栄光とは、神の子の栄光と結びつくのです。神の子、イエスキリストは、十字架に付けられることによって、復活されるという栄光を受けるのです。ですから、ここでイエス様は、死に打ち勝つ復活があることを仰っています。イエス様はラザロを通して死に打ち勝つ神の栄光の力、復活を示し、それによって一人でも多くの人が神の力と愛を信じるように願われたのです。

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書10章22ー42節
神殿奉献記念祭の時に、イエス様は神殿の境内におられ、ソロモンの回廊を歩いておられました。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」と言います。このユダヤ人たちの問いに対して、イエス様は「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行なう業が、わたしについて証しをしている」とおっしゃいました(25節)。
イエス様はさらに仰いました。「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」(29、30節)ここで、「わたしの父がわたしにくださったもの」とは、イエスに従う信仰者のことです。私たちのことです。その信仰者たちは永遠の命が与えられるから、すべてのものより偉大な存在である。父なる神はその信仰者たちを愛しておられ、誰もご自分の手から奪うことができない。それをイエスの言葉は語り、証しているのです。だから、「わたしと父とは一つである」私を信じなさい。そうイエス様は語りかけておられます。しかし、ユダヤ人たちは「わたしと父とは一つである」というイエスの言葉を聞いて、神を冒涜したと思い、イエスを石で打ち殺そうとしました。そこでイエス様は、あなたたちが信じて来た律法の書でも、神の言葉を受けた人が「神々」と呼ばれているではないか、あなたたちは私と同じように、神の言葉を受けているではないか。だから、父なる神から世に遣わされた私が「わたしは神の子である」と言っても、神を冒涜していると言えるだろうか、そう言うのです。でもユダヤ人たちは、イエスが行っている業をも認めようとせず、イエスを捕らえ殺そうとしました(39節)。

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書10章11ー21節
イエス様はご自分のことを「わたしは良い羊飼いである」と仰います。さらに、その良い羊飼いは「羊のために命を捨てる」とあるように、命を差し出すのです。ところが、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げてしまいます。なぜなら、その羊は自分のものではないからです。
また、イエス様は言われます。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。」(16節)イエス様は囲いに入っていない、つまり、まだイエスを信じていない人たちにも、羊飼いとしての務めがあると言うのです。そして、私たちに語った同じ言葉で、語り続けるのです。すると、「その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」のです。その羊たちの群れが、信仰の仲間たちとなって、信仰共同体を造り上げていきます。そして、やがて教会になっていくのです。

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書10章1ー10節
「門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」(2-3節)囲いの中には、ほかの羊飼いの羊もいるので、羊飼いが自分の羊の名を呼んで連れ出します。羊は羊飼いの声を聞き分けます。「自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」(4-5節)羊飼いは、羊を自分の子どものように、一匹一匹名を呼んで、連れ出すのです。羊たちはその声を知っているので、ついていくのです。そして、羊飼いは、羊たちを後ろの方から追うようにして、前進させるのではなく、羊たちの先頭に立って歩んでいきます。しかし、「ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る」とあります。飼い主でないほかの人が門から入って来て、羊を外に連れ出そうとしても、羊たちはついて行かず、逃げ去るのです。それは、語っている声が違うからです。
イエス様は「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。」と言われました(9節)。また「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」と言われました(10節)。本当に豊かな命に通じる門はただ一つです。それがイエス・キリストとの出会いなのです。イエス様は羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるために、来たと言われます。

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書9章35ー41節
イエス様は癒された盲人が会堂から追い出されたことを聞いて、心配して彼を探しに来てくださったのです。そして、彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われました。人の子と言うのは、救い主のことです。癒やされた盲人は目の前にいるイエス様が、自分の目を癒してくださった方だと、まだわかっていないのです。だから「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」と尋ねます。
イエス様は仰います。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」(37節)イエス様は、あなたが信じたいと言っているのは、このわたしのことだと、ご自分を示されました。すると、癒された盲人は、「主よ、信じます」と言って、ひざまずきます。イエス様を礼拝したのです。イエス様は生まれつき目の見えないのは、「神の業がこの人に現れるためである」と仰いました(3節)。癒やされた盲人が肉の目だけではなく、霊的な目が開かれて、イエス様を主として、礼拝するようになった。これこそ、この人に起こった神の業なのです。

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書9章13ー34節
人々は盲人であった人が見えるようになったので、彼をファリサイ派の人々に連れて行きました。聖書に詳しいファリサイ派の人々に、この出来事をどう捉えたらよいのかを、確かめようとしたのです。彼らのイエスについての意見が分かれていました。そこで彼らは盲人に、「いったい、お前はあの人をどう思うのか」と問いました。盲人ははっきりと「あの方は預言者です」と答えました。
癒やされた盲人はさらに「わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ」と決めつけているファリサイ派の人々に対して、「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません」と言っています。そして彼は、「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見える」そのことは紛れも無い事実であると、はっきりと語ったのです。生まれつき目の見えなかった彼は、自分が体験した癒しの救いの業を、「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見える」と告白したのです。
