○金 南錫牧師 フィリピの信徒への手紙4章10ー14節
2025年1月12日「喜び、祈り、神の平和」
○金 南錫牧師 フィリピの信徒への手紙4章1ー9節
パウロはフィリピの信徒たちに「わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち」と呼び掛けています。また、パウロがそんな彼らに「このように主によってしっかりと立ちなさい」と勧めています。信仰にしっかり立って、どんなことがあっても、動揺をしないように、ということです。「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようにしなさい。主はすぐ近くにおられます。」(5節) ここでの「あなたがた」とは、フィリピの信徒たちを指しています。パウロは、世のすべての人ではなく、主イエスを信じる信徒たちに対して、広い心を求めているのです。なぜなら、この広い心(寛容)は、キリスト者たちが聖霊によっていただく九つの賜物の一つであるからです(ガラ5:23-24)。しかし、実際には広い心を示すのがなかなか難しいことだと思います。自分のことを理解してくれる人たちに対しては、広い心を示すのかもしれません。しかし、パウロは「すべての人に」と言っています。どんな人に対しても、自分に反対する人に対しても、です。では、どうすればすべての人に広い心を示すことができるのでしょうか。パウロが「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようにしなさい」と勧める前に、先に「主において常に喜びなさい」と言いました(4節)。つまり、広い心は自分の力でできるものではなく、心の中に真の喜びがあるときにできることだと思います。「主において」とは「主の中に」ということです。主の中にいる時に、人は本当の喜びに満たされます。そして、その主が与えてくださる喜びがあるとき、すべての人に広い心を示すことができるのです。
2025年1月5日「目標を目指して」
○金 南錫牧師 フィリピの信徒への手紙3章12ー16節
「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(13、14節) パウロは今まで3回も伝道旅行をしながら、多くの人々を救いに導きました。また、行く先々で教会を立て上げました。普通なら、そうした過去の実績を振りかえて、自分はこれまで十分やって来たと思ってもおかしくないと思います。でも、パウロは「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」と語っています。今まで自分が為してきたもの、後ろのもの、過去のものを忘れて、前のものに向けて、前進したのです。過去のことを振り返って、神の恵みを思い起こし、感謝をささげることも大事なことです。しかしそこで止まってしまうと、前に進むことができなくなるのです。パウロは「後ろのものを忘れ、・・・目標を目指してひたすら走る」と告白しました。私たちもこのパウロのように、後ろのものを忘れ、前を向いて、生きていきたいと思います。
2024年12月29日「キリストとその復活の力を知り」
○金 南錫牧師 フィリピの信徒への手紙3章9bー11節
パウロは熱心に律法を守りました。律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、パウロはもうその道を捨てました。復活のキリストに出会うことによって、新しい道、つまり、キリストへの信仰による義に従う者となりました。「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」(11節)
新しい翻訳では「キリストの真実による義」と訳しています。これは、人が義とされるのは、キリストを信じるからではなく、キリストが十字架の死に至るまで神に誠実であった、そのキリストの真実によって、救われているということです。パウロはこのキリストの真実のゆえに、今まで大事にしてきたもの、すべてを失いましたが、キリストを得、「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」と言っています。
2024年12月22日「星に導かれて」
○金 南錫牧師 マタイによる福音書2章1ー12節
占星術の学者たち(東方の博士たち)は東の方から星に導かれてエルサレムにやって来ました。そして、ヘロデ王に言いました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱きます。自分が今、ユダヤの王であるのに、ユダヤの王が生まれたということが、もし本当であれば、自分の王位が揺るがされるからです。ヘロデ王は「民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした」のです。祭司長たちや律法学者たちは、預言書の言葉から、新しい王、救い主が生まれた場所は、「ユダヤのベツレヘム」であると教えます。
東方の博士たちは、ベツレヘムに向かっていきます。その時、東の方で見た星が現れて、彼らを導きます。そして幼子のいる家の上に止まりました。聖書にはその時、「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」と記しています。博士たちは自分たちを東の方から導いた星を見て、喜びにあふれました。そして、その星に導かれて、彼らは救い主のところにたどり着くことができたのです。
2024年12月15日「キリストのゆえに」
○金 南錫牧師 フィリピの信徒への手紙3章1ー9a節
パウロはユダヤ人として正しい生き方を求めて、一生懸命努力してきました。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」(5-6節)。
ところが、パウロはキリストに出会って、その生き方は全く変えられました。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです」(7節)。パウロにとって、それまで「有利であった」価値あるものが、キリストに出会ったことによって、「損失」価値のないものと思うようになったと言うのです。つまり、自分が今まで一生懸命、努力して築いてきたこと、それ以上にパウロにとって、価値のあるものを見つけたのです。パウロはこう語っています。「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」それまで大事にしてきたことを「塵あくた」とまで言っています。そう言わしめるほどに、キリストとの出会いが素晴らしかったということです。
2024年12月8日「エパフロディト」
○金 南錫牧師 フィリピの信徒への手紙2章20ー30節
エパフロディトはフィリピの教会から選ばれて、ローマの獄中にいるパウロのもとへ送られて来た人でした。彼はパウロのもとに留まって、自分を送ってくれたフィリピ教会の期待に応えるために、精一杯働いたのです。ところが、ローマに来てひん死の重病にかかってしまいました。彼は自分の病気で、フィリピの教会に知られたことを心苦しく思っていました。パウロはエパフロディトがフィリピに帰って、休む必要があると判断し、フィリピの教会の信徒たちに、彼を「主に結ばれている者として大いに歓迎してください」とお願いをしているのです。フィリピの教会はこのエパフロディトを心から迎えることによって、ますます主にあって、成長して行ったのでしょう。
2024年12月1日「パウロとテモテ」
○金 南錫牧師 フィリピの信徒への手紙2章19ー24節
パウロは今、ローマ皇帝の前で裁判を受けるために、囚われの身となっています。ですから、フィリピの教会に行きたくても、行くことはできません。それで、パウロは自分に代わって、自分と同じ思いで、フィリピ教会のことを心から心配し、祈っていたテモテを遣わそうとします。また、それだけではありません。そうすることによって、パウロ自身も、力づけられたいと願っていたのです。さらに、パウロはこう言っています。「そこで、わたしは自分のことの見通しがつきしだいすぐ、テモテを送りたいと願っています。わたし自身も間もなくそちらに行けるものと、主によって確信しています。」(23、24節)パウロは死を予感していたにもかかわらず、主によって生きようとしていたのです。
2024年11月17日「キリストの日に誇る」
○金 南錫牧師 フィリピの信徒への手紙2章12ー18節
パウロは「こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう」と言っています(16節)。キリストの日とは、終わりの日のことです。復活なさって、天に帰られたイエス様がもう一度この世に来られるのですが、そのキリストの日に、パウロはフィリピの信徒たちと一緒に、イエス様の前に出ていくのです。その日のことを思って、パウロは「自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう」と言っています。このキリストの日にこそ、フィリピの信徒たちの救いが完成する日であるので、パウロにとって大きな喜びでした。
ですから、パウロは更にこう言っています。「更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、私は喜びます。あなたがた一同と共に喜びます」(17節)。ここでパウロは、自分はもうすぐ殉教することを予感しています。それでも、フィリピの信徒たちが信仰に基づいて、一生懸命礼拝生活をしていることを思うと、喜びがあふれて来る。それがパウロの誇りであり、喜びでした。
2024年11月10日「キリスト賛歌」
○金 南錫牧師 フィリピの信徒への手紙2章6ー11節
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(6-8節)。キリストは神と等しい者でした。それにもかかわらず、神と等しくあることを固執しないで、この世に来てくださったのです。これは、キリストが神であることをやめたというのではなくて、神でありながらも、その神としての権利を放棄されたということです。そして、天から下って来たキリストの歩みは、十字架において極まります。私たちのために、十字架で命をささげてくださいました。神であるお方が、神としての特権を放棄して、徹底的に無力になって、どん底まで下られました。これが、イエス様が私たちに示されたへりくだり、謙遜なのです。神様はどん底まで下られたキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました(9節)。キリストは再び神の栄光を受けられました。そして、すべてのものの主となられ、今、父なる神様の右の座に座しておられ、この世界を治めておられます。