2024年8月18日「昇天と祝福」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書24章44ー53節

「エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(48,49節) ここで「父が約束されたもの、高い所からの力」とは「聖霊」のことです。復活なさったイエス様は、この聖霊を「あなたがたに送る」と約束してくださったのです。また、その聖霊に覆われるまでは、エルサレムにとどまっていなさいと言うのです。そして、復活なさったイエス様は、祝福しながら、天に上げられました(50節)。

「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」(52,53節)復活のイエス様が見えなくなってしまったのに、弟子たちは大喜びをしたのです。なでしょうか。それは、復活のイエス様が見えなくなっても、いつも良い言葉、救いの言葉をもって、自分たちを祝福してくださることを、確信したからです。弟子たちは、その大きな喜びの中で、「神をほめたたえていた」のです。つまり、神様に感謝と賛美の言葉を捧げるのです。

2024年8月11日「平和があるように」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書24章33ー43節

復活なさったイエス様に出会った二人の弟子は、もう日は暮れていましたが、すぐにエルサレムに引き返していきます。エルサレムに戻ってみると、仲間たちが集まって、主は本当に復活して、シモンペトロに現れたという話をしているのです。そこで、二人も「道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第」を皆に話すのです(35節)。

その時、イエス様ご自身がその真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。しかし、「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」と言うのです。彼らに向かって、復活のイエス様は「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか」と語ってくださいました。また、イエス様は、ご自分が幽霊ではなく、肉体をもって復活したことを、弟子たちにはっきりと示すために、ご自分の手と足を見せ、さらに弟子たちの目の前で、焼いた魚を食べてくださったのです。この姿を通して、イエス様が本当に復活なさったのだと気づくのです。

2024年8月4日「エマオの途上」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書24章13-32節

二人の弟子がエルサレムからエマオという村へ向かって、とぼとぼ歩いていました。この時、復活なさったイエス様が彼らと一緒に歩いていたのですが、彼らには目が遮られていて、イエスだとは分からなかったのです。

イエス様が「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と声をかけられると、二人の弟子は「ナザレのイエスのことです」と言って、自分たちが望みをかけていたイエス様が死んでしまったと言うのです。目の前に復活なさったイエス様が共に歩んでいるのに、二人は自分たちの経験に捕らわれて、何も見えていないのです。そこで、復活なさったイエス様は、弟子たちの心の鈍さを取り除くために、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明してくださいました。こうして、イエス様の話を聞いている内に、二人の弟子の心は、静かに燃え始めました。復活なさったイエス様は御言葉をもって、私たちの心も燃やしてくださいます。この復活の主に信頼し、日々歩んでいきましょう。

2024年7月28日「復活の主」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書23章56b-24章12節

日曜日の明け方早く、婦人たちは準備していた香料を持って、イエス様の墓に急ぎました。ところが墓に着いて見ると、石が墓のわきに転がしてあって、中にイエス様の遺体は見当たりません。彼女たちは「そのために、途方に暮れていた」のです。すると、そこに輝く衣を着た二人の人がそばに現れて、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」と告げます。

この天使たちの言葉を聞いて、婦人たちは、イエス様がご自分の十字架と復活を語っておられたことを思い出したのです。でも、この時、彼女たちはまだ復活の主には出会っていないのです。では、婦人たちは、どうやって、イエス様の復活を信じるようになったのでしょうか。それは、今、生きて働いておられる復活の主に出会ったからです。

2024年7月21日「イエスの死と埋葬」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書23章44-56節

昼の十二時頃から、三時まで、イエス様は闇の只中で、十字架の上で苦しみを受けておられました。その闇の中で、イエス様は大声で叫ばれました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」イエス様は深い死の闇の中で、神の子として、父なる神を仰ぎ、叫んでおられたのです。その叫びは祈りでもありました。そして、主イエスを信じる私たちも、闇や苦しみの中で「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と叫んで、祈れるように、十字架の上で死んでくださったのです。

アリマタヤ出身のヨセフは、総督ピラトのところに行って、イエスの遺体を渡してくれるように願い出たのです。この行動はとても勇気のいることでした。それは、イエスに対する信仰が明らかになっていた時に、迫害される危険があるからです。しかし、彼は勇気を出して、イエス様のご遺体を求めたのです。これは、イエス様が亡くなれた後に、イエスの弟子として勇気を出していくのですが、決して遅すぎることではなく、神様が備えられた時であったと言えます。

2024年7月14日「三本の十字架」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書23章26-43節

「人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。」(26節)いきなり十字架を背負わされたシモンは、どうして自分が罪人として処刑される男の十字架を、担いで歩かなければいけなかったのか、と思って過ごされたかも知れません。でもある時、イエスの十字架の出来事を聞くのです。そして、あの時、自分が運んだ十字架は、実はキリストが自分の身代わりとなって、死んでくださった十字架なのだということに気づかされ、キリスト者になったのです。

また、イエス様と一緒に十字架にかけられていた二人の犯罪人の一人も、人生の最後に十字架上のイエスと出会って、この方以外に自分を救ってくれる存在はないと思い、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったのです。イエス様はそのことを受け止め、この名もなき犯罪人に対して「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと共に楽園にいる」と仰って下さいました。この救いの約束に生きる共同体が教会です。

2024年7月7日「十字架につけろ」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書23章13-25節

ピラトはユダヤの祭司長たちや議員たち、そして民衆に、イエスは「死刑に当たるようなことは何もしていない」という結論を告げ、「だから、鞭で懲らしめて釈放しよう」と言いました。ピラトは、イエス様がユダヤの指導者たちの妬みによって、ここに連れて来られていることを見抜いていました。そして、鞭で打って、懲らしめるから、それであなたたちは満足しなさいと言っているのです。

「しかし、人々は一斉に、『その男を殺せ。バラバを釈放しろ』と叫んだ」(18節)。当時、ユダヤには、お祭りの時に、一人の囚人を恩赦する習わしがありました。なので、人々は「バラバを釈放しろ」と言っているわけです。暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバは、イエス様と違って、罪状もはっきりしており、死刑にされても誰も文句を言わない人物でした。しかし、人々はイエスではなく「バラバを釈放しろ」と叫んでいるのです。そのように叫んだ人々は、誰のことでしょうか。ユダヤの指導者たちや民衆です。彼らの「十字架につけろ」という声はますます強くなって、結局ピラトも、イエスを十字架に付ける決定を下してしまうのです。

2024年6月30日「沈黙するイエス」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書23章1-12節

当時のユダヤはローマ帝国の支配下にあって、自分たちの裁判で死刑を決定しても、ローマが有罪を認めなければ、執行できませんでした。そこで最高法院の全会衆は、ユダヤ総督であるピラトに訴える必要がありました。彼らはイエスをこう訴え始めました。「この男は我が民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また自分が王たるメシアだと言っております。」

これを受けて、ピラトはイエスを尋問します。「お前がユダヤ人の王なのか。」それに対して、イエス様は「それは、あなたが言っていることです」とお答えになりました。イエス様は肯定も否定もしないのです。この時、イエス様は人間の言葉を耐え忍び、ご自分の口を閉ざされ、父なる神様に心を向けておられました。そして、神様がなそうとしておられる御心を見つめて、十字架への道を歩んでおられたのです。私たちの罪の赦し、救いの御業は、イエス様がこのように沈黙して耐え忍び、実現してくださったものなのです。

2024年6月23日「神の子イエス」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書22章63-71節

夜中に逮捕されたイエス様は、大祭司の家で、夜が明けるまでの時間、見張りの人たちから、侮辱されたり、目隠しをされ「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と馬鹿にされたのです。夜が明けると、今度は、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まりました。そして、イエス様を最高法院に連れ出します。「お前がメシアなら、そうだと言うがよい。」最高法院の人たちは最初から、イエス様がメシア、救い主であることを思っていませんでした。ただ神を冒涜した罪で、イエスを有罪にするために、「そうだ」という答えを言わせたいだけです。イエス様は答えます。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。わたしが尋ねても、決して答えないだろう。しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」最高法院の人たちはさらに尋問するのです。「では、お前は神の子か。」イエス様は答えます。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」そう言われたのです。

2024年6月16日「振り向かれる主」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書22章54-62節

ペトロは、イエス様に従っていくことにおいて、自分が一番だと、誰よりも自信を持っていました。でもイエス様はそのペトロに対して、言うのです。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」その通りにペトロは、三度イエス様のことを知らないと言ってしまいました。

その時に、「主は振り向いてペトロを見つめられた。」鶏が鳴いたその瞬間、主は振り向いて、ペトロを見つめられたのです。そのイエス様のまなざしを見たペトロは、数時間前のイエス様の言葉「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」この言葉を思い起こし、自分が何をしたのか、そのことに気づきます。そして、外に出て、激しく泣いたのです。教会はペトロのように、主イエスを裏切り、失敗し、挫折する罪人の集まりです。だから、互いに信仰が無くならないように祈るのです。