2026年9月27日「イエスは父に至る道」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書14章1ー11節

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」(1節)イエス様はいましばらく、弟子たちと共にいるが、これからいなくなっていく。十字架への道を一人で歩もうとしているのです。その中で、弟子たちの心は穏やかではない状況にありました。それは単に、自分たちが愛しているイエス様と別れなければならないという辛さ、悲しさだけではありません。弟子たちはこれから、これまで自分たちを守り導いてくださったイエス様がいなくなるこの世において、イエスの弟子たちとして生きなければなりません。そのことを思うときに、弟子たちは心を騒がせ、動揺せざるを得ませんでした。そのような弟子たちに対して、イエス様が「心を騒がせるな」と声をかけます。

「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」(2-4節)。イエス様はこれからご自分がいなくなっていくのですが、そのことで心を騒がせている弟子たちに、父の家には住むところがたくさんある。そこに、イエス様が弟子たちを迎えてくださる。だから、「騒がせるな」と言うのです。

では、イエス様が用意してくださったその場所に、私たちはどのように向かっていくことはできるのか。イエス様は答えています。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(6節)聖書は、イエス様を通して、神のもとに帰っていくことができる。イエス様がその救いに至る「道」であると教えています。なぜなら、イエス様は真理であり、命であるからです。

 

2026年9月20日「新しい掟」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書13章31ー38節

ユダはイエス様から足を洗っていただいたそのイエスの愛を、信頼をもって受け止めることができませんでした。そして、夜の中に、闇の中に去って行ったのです。 そのことを受けて、イエス様はこう語られました。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。」(31節)人の子とはイエス様ご自身のことで、その人の子イエスは「栄光を受けた」とあります。これは、これから起こる十字架のことを指しています。ユダの裏切りによって、イエス様はこれから逮捕され、十字架につけられ、死んでいくわけです。そのイエス様の十字架上の苦しみと死を通して、人間は救われる。その時がすでに始まっているというのがイエス様の「今や、人の子は栄光を受けた」時の理解でした。イエス様は今、弟子たちに向かって「子たちよ」と親しく呼びかけて、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいるが、これからいなくなっていく(33節)。すると、その残された弟子たちがこれからどう生きるべきか、その指針を与えようとしている。それが、34節、35節です。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」ここで「あなたがたに新しい掟を与える。」とありますが、一体何が新しいのでしょうか。旧約聖書のレビ記19章18節を見ると、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」とあるように、「愛しなさい」というのは、昔から、すでに言われていました。では、「新しい掟」その新しさとは何のことでしょうか。それは「わたしがあなたがたを愛したように」、互いに愛し合うことです。これは、ただ単に人間同士が、自分たちの親切さや愛情をもって、お互いに愛し合いなさい、そういうことではないのです。イエス様が私たちを愛してくださった、そのイエスの愛に基づいて、愛し合うことです。

2026年9月13日「裏切りの予告」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書13章21ー30節

イエス様は、ユダが裏切ることをご存じでした。でもほかの弟子たちと同じように、ユダの足を洗い、愛を示されました。しかし、ユダはイエス様に背を向けて、イエスを裏切ろうとしているのです。「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。『はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。』」(21節)。イエス様はユダの裏切りについて語るとき、心が乱れているのです。ユダもまた愛した弟子の一人だったからです。ペトロがこの弟子に、「イエス様が言っておられるのが、誰のことなのか」尋ねるように合図をしました。すると、その弟子はイエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と尋ねました。イエス様は「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられました。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになったのです。
「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」(30節)ユダはパン切れを受け取ると、外に飛び出しました。そこは夜の闇であったのです。後ろには、イエス様と弟子たちの明かりのある部屋があります。ユダはその部屋から暗闇の中に出て行ったのです。この夜、イエス様は裏切ろうとしているユダのことを分かって、彼の足を洗いました。このユダのためにも、救い主の愛は注がれているのです。しかし、ユダは自分に注がれているその愛から、逃げてしまったのです。しかし、イエス様はそのユダのために、心を痛めるのです。裏切られるイエス様のほうが心を痛めるのです。それが、21節の「心を騒がせて」というイエス様の心ではないでしょうか。

2026年9月6日「互いに足を洗い合う」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書13章12ー20節

イエス様は奴隷のように、上着を脱いで、弟子たちの足を洗った後、今度は上着を着て、足を洗うという行為が何を意味するのか、分からないでいる弟子たちをご覧になって、「わたしがあなたがたにしたことが分かるか」と語り掛けました。そして、イエス様ご自身が足を洗うことの意味を説明してくださいます。「あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(13b-15節)
 もうすぐイエス様は十字架にかかり、この地上からいなくなってしまいます。その前に今、イエス様は「模範」を示してくださったのです。弟子たちはイエス様に洗っていただいたように、これからは互いに洗い合い、仕え合って生きることを求められています。
でも、それは嫌でも無理して、互いの足を洗わなければならないという倫理的なお話を求めているのではないのです。つまり、頑なで、弱さをもっている私たちのために、誰もやりたくない足を洗う仕事を、主であり、師であるイエス様が奴隷のようになって、私たちの汚れた足を洗ってくださったその出来事の上で、「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と語っておられるのです。

2026年8月31日「洗足」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書13章1ー11節

ヨハネ福音書13章に入りまして、イエス様は群衆から離れて、御自分がお選びになった弟子たちに大切な教えを語って行かれます。今日の箇所は、イエス様がその弟子たちと一緒に最後の夕食を囲む最後の晩餐の場面です。ヨハネ福音書では、この最後の晩餐が1節にある通り、「過越祭の前のこと」とされています。また、ヨハネ福音書だけは、イエス様がこの最後の晩餐において、弟子たちの足を洗ったという出来事が記されています。1節後半に「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」とあります。「この上なく」とは、「最後まで」とも訳されます。また、「世にいる弟子たち」というのは、この世にあって、イエスに従う弟子たちのすべて、そこには私たちも含まれているのです。イエス様は世にいる弟子たちを、私たちを愛して、最後まで、この上なく愛し抜いてくださいました。この大きな愛を、行動で示してくださったのが、洗足の場面です。

2026年8月23日「イエスと父なる神」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書12章44ー50節

「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。」イエス様はこれまでも、ご自分と父なる神が一つであることを語って来られましたが、ここではそのことをもう一度確認されました。そして、多くのしるしを行っても受け入れない群衆に対して、イエス様は突き放すような言葉ではなくて、「わたしを信じる者は・・・、わたしを見る者は・・・」というふうに、救いの言葉をおっしゃっています。また、「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである」とおっしゃいます。ここで、イエス様は、光として世に来てくださって、救いを目的として、その働きをなさっていることが語られています。暗闇とは、人間の罪のことですが、その暗闇にとどまってしまうような私たちを、そのままでは裁かれて行くしかないので、暗闇から引き出して、救うために、イエス様は光として世に来てくださったと言うのです。さらに「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない」と言うのです。本当に愛と慰めに満ちた言葉です。

2026年8月9日「神の誉れと人間の誉れ」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書12章36bー43節

今日の12章まで、イエス様は人々に多くのしるしを彼らの目の前で行われました。それなのに、人々はイエスを信じなかったのです(37節)。ヨハネはそのことを、イザヤ書からの言葉を引用して、「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」(40節)。つまり、人々がイエスを信じることができなかったのは、神ご自身が人々の目を見えなくし、心をかたくなにされた。神ご自身のご意志によることだと言うのです。しかし、あのかたくなに見える議員たちの中にも、イエスを信じる者は多かったのです。ただ、会堂から追放されることを恐れて、イエス様を信じることを公に言い表されなかったのです。そのことを、ヨハネは「彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。」と語っています。人間は、人間からの誉れを求めてしまう弱さがあります。私たちは人間からの誉れよりも、神からの誉れのほうを愛していきたいと思います。

2026年8月2日「光を信じなさい」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書12章27ー36a節

イエス様が十字架の死を前にして「今、わたしは心騒ぐ。父よ、わたしをこの時から救ってください」と祈っていると、天からの声が聞こえました。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」これは、父なる神がイエス様の十字架の死によって、栄光を現わしてくださることを意味しています。

天からの声に対して、そばにいた群衆には何が語られたのか分かりませんでした。「雷が鳴った」と言う人もいれば、「天使がこの人に話しかけたのだ」と言う人もいました。その群衆の無理解に対して、イエス様は言われました。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」(35、36節)「光」とはイエス様のことです。イエス様が生きておられるうちに、光である主イエスを信じて、光の子となりなさい、と勧めています。

2026年7月26日「一粒の麦」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書12章20ー26節

過越の祭りの時、何人かのギリシア人がイエスの弟子であるフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたい」と頼んだのです。フィリポはアンデレに相談し、アンデレと二人で、イエス様にその旨を伝えました。23節以下は、何人かのギリシア人が訪ねて来た知らせを耳にしたイエス様の返答です。イエス様はこう言われます。「人の子が栄光を受ける時が来た。」イエス様は今まで何度も「わたしの時はまだ来ていない。」と言われました。ところが、いよいよ栄光を受ける時が来たと仰います。この栄光とは、十字架のことです。続いてイエス様はこう仰います。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ。」(24節)。これは明らかに、イエス様の十字架と復活によって、多くの人が救われることを示しています。イエス様は迫って来るご自分の十字架の死を、この一粒の麦に重ねました。そして、ご自分の十字架の死は決して無駄には終わらない。必ず多くの実を結んでいくその栄光をイエス様は見ておられたのです。そして、このイエス様の言葉は確かに実現されました。今から二千年前に起こったイエス様の十字架の出来事は、私たちのための出来事として、イエス様がこの私たちの罪を十字架上で身代わりとなって負ってくださったのです。その福音を受け入れた人たちが、今度十字架のもとで礼拝を捧げているのです。私たちもその一人です。つまり、イエス様は今、私は十字架につけられ、死んでいくのですが、その十字架は決して無駄ではない。多くの実を結ぶ。あなたたちがその一人であるとおっしゃっています。