2025年10月26日「まこころの礼拝」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書4章16ー26節

当時、サマリアの人たちは、ゲリジム山という山で礼拝をしていました。これに対して、ユダヤの人たちはエルサレム神殿で礼拝をしてきました。サマリアの女はどこで礼拝すれば神に出会い、まことの礼拝をすることができるのか、とイエス様に尋ねました。

このサマリアの女の質問に対して、イエス様は「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。」と仰いました。つまり、まことの礼拝というのは、場所の問題ではなくて、霊と真理をもって行われる礼拝だと教えています。「霊」というのは、神の霊、聖霊の働きの中で礼拝をするということです。そして「真理」というのは、「私は真理であり、道であり、命である」と言われた主イエス・キリストの真理、その中で礼拝を捧げるということです。父なる神様はイエス様を通して、聖霊の働きの中で、礼拝する者を求めておられるのです。

2025年10月19日「渇くことのない水」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書4章1ー15節

イエス様は、サマリアのシカルという町に来られました。そこにはヤコブの井戸があったのです。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられたのです(6節)。そこにサマリアの女が水を汲みに来たのです。イエス様はサマリアの女に「水を飲ませてください」と声をかけました。すると、彼女は「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言ったのです(9節)。というのは、サマリア人とユダヤ人は敵対関係にあったので、こう言ったわけです。

イエス様は彼女にこう答えます。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」彼女は今、自分の目の前にいる人が「水を飲ませてください」と言ったのに、どうして、その人が私に生きた水を与えることができるのだろうと不思議に思ったのです。そこで、イエス様はこう仰いました。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」泉というのは湧き出てきます。ですから、イエス様が与える水は、よどんでいない、いつも流れている水です。サマリアの女は、その人の内で泉となり、決して渇かない、湧き出るそんな水があるなら、「その水をください」と願いました(15節)。

2025年10月12日「友なるイエス、父なる神」

○朝来野泰宏 ヨハネ15章14-15、マタイ18章2-3

中東やアメリカで出会った友人たちがイエスを友達のように呼ぶことに驚いたことがあります。「わたしはあなた方を友と呼ぶ(ヨハネ15:15)」、このイエスの言葉を受け止めてもっとイエスと親しく友達として接したいと思わされました。イエスはまた「子供のようにならなければ、決して天国に入ることはできない(マタイ18:2-3)」と言われました。子供は親を無条件に信頼することで生きています。人は大人になっても子供の心をどこかに持ち続けています。その心にたち返り、父なる神の子として生きなさい、というのがイエスの教えだと思います。

2025年10月5日「天から来られる方」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書3章31ー36節

31節に「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。」とあります。洗礼者ヨハネは、自分は地から出た者、地に属する者なので、地上のことしか語れないのですが、主イエスは天から来られた方なので、天において、見聞きしたことを証しすることができると言うのです(32節)。だから、ヨハネは「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と言ったわけです。

ところが、32節後半には「だれもその証しを受け入れない」とあります。主イエスがこの世に来られ、神の言葉を語り、神の愛を告げ知らせても、人間はそれを受け入れないのです。しかし、主イエスの救いの証しを聞いても受け入れない人々が多い中で、それを受け入れる人がいるのです。そのことについて、33節に「その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる」と述べられています。当時、教会は主イエスが語る救いの証しを受け入れ、神が真実であることを確認したのです、なぜなら、主イエスを遣わされたのは、父なる神であられるからです。また、私たちも、聖霊の助けをいただいて、神の真実を受け入れることができたのです(34節)。

2025年9月28日「主を誇る幸い」

○藤盛  純子牧師 ローマの信徒への手紙2章17ー29節

29節「その誉れは人からではなく、神から来るのです。」普通、「自分を誇れる」ことは人間の成長にとって大事なことです。けれども使徒パウロは、NOと言います。「自分を誇る」生き方は、いつか破綻してしまうからです。ユダヤ人は、律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮りました。神の民であるしるしの「割礼」も、律法を破れば意味がありません。神から律法を与えられたユダヤ人たちは、自らを「神から選ばれた民」だと愛しましたが、「隣人を愛せ」という律法を守れず、他の民族を見下しました。私たちは、主の霊によって心に割礼を施された時、真の意味で神の民となります。「主を誇る」とは、自分が罪深く無力であることを認め、主に信頼し、困難の中で祈ることです。自分を無にして、隣人に仕え、神に感謝することです。私たちは罪人ですが、同時に神の霊の割礼を心に施されているので、自分を誇る誘惑に勝ち、神を誇る者とされるのです。

2025年9月21日「喜びの告白」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書3章22ー30節

洗礼者ヨハネはサリムの近くのアイノンで洗礼を授けていました。そのヨハネの弟子たちが、ヨハネにこう告げました。26節「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を受けています。みんながあの人の方へ行っています。」つまり、イエス様が洗礼を授けていて、そのすく近くでヨハネも洗礼を授けていたのです。すると、多くの人たちは、イエス様の方に行っている。それを見たヨハネの弟子たちが「先生、見て下さい。ヨルダン川の向こう側で、あなたと一緒にいて、あなたが証されたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています」と言ったわけです。ヨハネの弟子たちにしてみたら、洗礼はヨハネ先生の方が先駆者でした。ところが、27節以下からの洗礼者ヨハネは悔しがっている弟子たちに優しく告げています。自分はメシアではない、あの方の前に遣わされた者だと、そう言っただろう。その私の言葉を、今度はあなたがたが証ししてくれるだろうと、ヨハネの心からの願いを弟子たちに託したのです。そして、ヨハネは「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と言っています。「衰える」というギリシア語は、「低くなる」という意味もあります。即ち、イエス様が栄え、高められ、わたしは低くなる。そこにわたしの喜びがある、と告白しています。私たちはどうでしょうか。自分が認められない場合、悔しがっているのではないでしょうか。

2025年9月14日「神の愛」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書3章16ー21節

 今日のヨハネ福音書3章16節は、黄金の聖句と呼ばれ、福音のエッセンスが凝縮された聖句です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」この言葉はまず、神が御子イエスキリストをこの世に遣わしてくださったことを示しています。私たちが一生懸命頑張って神の所へ行くのではなく、神の方が私たちの所に来てくださったということです。神は私たちを愛するために、「その独り子をお与えになった」その「お与えになった」という言葉の中に、イエス・キリストの十字架上での叫び、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という父なる神と引き裂かれて行くその苦しみがあります。また、それを聞く父なる神の痛み、そのすべてがこの言葉に含まれています。それほどの愛をもって、神は私たちを愛しておられたのです。その神の愛について、3章16節の後半には「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とあります。ヨハネ福音書17章3節に「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることである」とあります。神は御子を信じる者が一人も滅びないで、この永遠の命に生きることを願っておられます。そのことをさらに語っているのが、続く17節の言葉です。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」神が御子イエスキリストを遣わされたのは、世である私たちが裁かれるのではなく、御子によって救われるためです。この神の愛があるから、私たちに希望があるのです。

2025年9月7日「新たに生まれる」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書3章1ー15節

ニコデモは、ユダヤの社会では人々から尊敬される最高議会の議員であり、ファリサイ派に属していて、信仰においても非常に尊敬されていました。そのニコデモが、真っ暗な夜、隠れるように向かった先はイエス様のもとでした。イエス様はニコデモの心の全てをご存知なので、言われました。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」すると、ニコデモは、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と言うのです(4節)。人は生まれ変わりたくても、母親のお腹の中には、もう戻れません。誰にも見せたことのない、そのままのニコデモがイエス様の前に立っているのです。イエス様が仰った新たに生まれるというのは、もう一度生まれ直すことではありません。水と霊によって、上から生まれることです。それは、神様の力によって、聖霊によって心が新しくされることです。神を抜きにした自分の力だけで生きる生活ではなく、神の言葉に聞き、祈り、助けていただきながら、生きる人になるということです。

2025年8月31日「イエスと神殿」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書2章13ー25節

過越祭が近づいたので、イエス様はエルサレムに上って行かれました。そこでは多くの人々が神殿に訪れて、神様を礼拝しようと、やって来ます。ところが、その神殿の境内では捧げものをするために、動物を売ったり、お金の両替が行われていました。イエス様はそのような姿を見て、怒りをあらわにされました。「縄で鞭を作り、牛や羊を境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒した」とあります(15節)。また、イエス様は「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と言われました。神殿は神様と出会い、祈る場所です。その場所が商売をするような、人々の思いや自分の利益とかで、汚されていたのです。

イエス様はその光景を見て、ここは祈りの場所じゃない、神様と出会う場所じゃないと思って、激しく怒ったのです。このイエス様の怒りというのは、深いところでは、私たち一人一人が神様の前に真実であってほしい、形だけの信仰ではなくて、心から神様とつながってほしいという願いから来ています。イエス様はその思いで、神殿の境内で激しく怒り、宮清めをされたのです。