2023年1月22日「洗礼者ヨハネとイエス」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書7章18-35節

ガリラヤの領主ヘロデの結婚に対して、洗礼者ヨハネは恐れず批判したために、捕えられ、牢に閉じ込められてしまいました。ヨハネが牢獄にいる間、公の生涯を始められた主イエスは、悪魔の試みに打ち勝ち、汚れた霊に取りつかれた男をいやし、漁師のシモン達を弟子として招きました。そしてそれまで誰も聞いたことのない新しい、権威ある教えを説かれたのです。そして今日の箇所の直前には、百人隊長の僕を癒したり、やもめの息子を生き返らせたりする軌跡を起こされています。こうした主イエスの様々な活動を、牢獄に捕らわれていたヨハネは見ることができませんでした。そしてヨハネは、弟子たちの中から二人を呼んで、主イエスのもとに送り、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねさせました(19節)。彼が牢獄に閉じ込められる前に語って来たことは、神の裁きの宣言でした。そして、ヨハネは来るべき方、ナザレのイエスが、いつ聖なる裁きを為してくださるのか、期待していました。けれどもいつまで経ってもそのような動きが見られないので、「来るべき方は、あなたでしょうか」と聞いたわけです。

このヨハネの問いに対して、主イエスはイザヤの預言の言葉を引用して、「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」と言いました。つまり、主イエスは今この預言が成就していることを、ヨハネに伝えなさい、今起きていることこそ、メシアのしるしであると言ったのです。

2023年1月15日「イエスの洗礼」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書3章15-38節

洗礼者ヨハネは民衆から、この人がメシア、救い主ではないかと、心の中で思われていたのです。ところが、ヨハネは「わたしより優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」と言って(16節)、この後、救い主が来られることを告げています。さらに、領主ヘロデが、自分の悪事をヨハネから非難されることで、「ヨハネを牢に閉じ込めた」とあります(18節)。これは、ヨハネの役割は主イエスをお迎えするための、主の道を整えること、それまでのことを示しています。この後、イエス様は洗礼を受けられました。

イエス様が洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のような姿でイエスの上に降って来ました。そして、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた」とあります。これは、洗礼を受けて、人と同じようにして生きたいとされた主イエスに対する、父なる神の祝福の宣言であったのです。

2023年1月8日「主の道を整えるもの」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書3章1-14節

ヨハネは荒れ野で神の言葉を聞き、それからヨルダン川に行って、洗礼を通して人々に罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。悔い改めとは、神の方に向きを直す。そして、神のもとに帰ることです。ヨハネは神へと向きを直した人々に、救いのしるしとして洗礼を授けていました。

また、彼が何よりも強く批判したのは、イスラエルの民の安易な選民思想でした。当時のユダヤ人たちは、自分たちは神に選ばれた特別な民、アブラハムの子孫だから、神の怒りを受けるのは自分たちではなく、異邦人の者たちだと考えていたのです。しかし、神の前にはすべての者が救いを必要としています。ユダヤ人もまた、主に立ち帰って救いを受ける必要があります。5節、6節に「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」と書いてある通りです。

2023年1月1日「少年イエス」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書2章39-52節

イエス様の両親ヨセフとマリアは、毎年過越祭にはエルサレムへ旅をしました。イエス様が12歳になった時も、慣習に従って、都へ上りました。祭りが終わり、帰路に着いた時、少年イエスが、両親とはぐれてしまいました。一日分の道のりを行ってから、イエスがいないことに気付かされました。そして、知人や親類の間を捜し回ったが、見当たらなかったのです。三日後にようやく神殿の境内で、イエスを見つけました。

母マリアがイエスを呼びかけます。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」その時、イエス様の言葉が不思議な言葉でした。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」両親はイエス様の言葉の意味が分かりませんでした。ところが、マリアは「これらのことをすべて心に納めていた」とあります(51節)。私たちもすぐには受け入れられない御言葉があるかもしれません。それでも、まず心に納めていることが信仰への第一歩です。

2022年12月25日「万民のための救い」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書2章21-38節

シメオンは、信仰があつく、神様の前に正しく生きてきた人でした。また、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいたのです。慰められることは、救われることを意味しています。シメオンは、自分だけが救われることを願うのではなく、神の民イスラエル全体が救われ、慰められることを願い、救い主が到来するのを待ち望んでいました。そして、「主が遣わすメシアに会うまでは、決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」のです(26節)。その日、シメオンは、霊に導かれて神殿の境内に入っていきました。すると、ちょうどその時に、幼子イエスを抱いたヨセフとマリアがやって来たのです。「あの幼子が、イスラエルの民全体のために、神がお遣わしになった救い主、メシアである」。

シメオンは、その幼子の姿を見て、なぜか畏れと清らかな思いに満たされました。そして、幼子を腕に抱き、神をたたえたのです。シメオンは自分が、70年、80年、もっとかもしれませんが、この日のために生きてきたことを確信するようになったのです。この幼子から、シメオンだけではなく、すべての人を照らし、慰める光が満ちてくるのです。

2022年12月18日「救い主と天使」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書2章8-20節

周囲は真っ暗です。突然、天使が現れて、主の栄光が周りを照らしました。その時、恐れている羊飼いたちに、主の天使が「恐れるな、わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。・・・あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう」と告げました。羊飼いたちは、天使の突然の知らせを聞いて、「どうして、私たちにこんな大切なことが知らされたのか」と思ったのかも知れません。

しかし、天使たちが離れて、天に去ったとき、羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合いました。そして急いで、ベツレヘムに向かいました。ベツレヘムの町中を探し回して、飼い葉桶に寝ておられるイエス様を見つけることができました。救い主に出会うことができたのです。私たちも、彼らがしたように、日々イエス様を探し求めることが必要です。特に、礼拝を捧げることを通して、新たに主に出会い、自分の生活を変えて行くことができます。

2022年12月11日「飼い葉桶の救い主」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書2章1-7節

アウグストゥスはローマが支配する全領土の住民に、「登録をせよ」と命令を出しました。ヨセフとマリアは、ガリラヤの町ナザレに住んでいました。ヨセフの本籍地はユダヤのベツレヘムでした。身重のマリアはロバに載せられて、長旅をしたと思います。本当に命懸けの旅でした。けれども、何とか守られて、二人はベツレヘムの町に到着します。そこで、宿屋を探していましたが、今度は、泊まる場所がなかったのです。ようやく彼らが宿った場所は、粗末な「家畜小屋」でした。家畜のいるところですから、とても清潔ではない、匂いも漂ってくるようなところでした。マリアはそこで無事男の子を産みます。それが救い主なるイエス様です。

では、なぜ救い主イエス様は家畜小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされたのでしょうか。生まれたばかりのあかちゃんが清潔ではない、飼い葉桶に寝かされたということは、神である清いお方が罪で汚れたこの世界のただ中に入ってきてくださった。それは私たちを罪の汚れから救い出すために、ということを物語っているのです。

2022年12月4日「あけぼのの光が我らを訪れ」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書1章57-80節

ザカリアが長い沈黙の期間を破り、最初に発した言葉は、「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を」という主なる神をほめたたえる歌でした。その理由として、「主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」とあります(68、69節)。ここで「主はその民を訪れて解放し」とあります。主なる神とその救いは、まさに神の方から私たちを訪れてくださるのです。年老いたザカリア夫婦に、思いがけない神の訪れがあって、ヨハネが誕生したように、神による救いは思いがけない仕方で、私たちを訪れるのです。

78節、79節に「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」とあります。神の御子イエス・キリストが高い所から、あけぼのの光となって、暗闇と死の陰に座している私たちを訪れ、光を照らし、私たちの歩みを平和の道へ導いてくださる、とザカリアは歌います。これは「神の憐れみの心による」のです。

2022年11月27日「目を留めてくださる神」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書1章39-56節

天使ガブリエルからの受胎告知があってから、マリアは親戚のエリサベトのところを訪ねました。エリサベトは「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言って、マリアを励ましています(45節)。マリアはエリサベトに励まされて、神様に感謝の歌を捧げています。それが46節以降にある「マリアの賛歌」です。

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。」ここに彼女の信仰と喜びがよく現わされています。マリアは自分のことを「主のはしため」と言っています。彼女は、こんな小さなものに神は目を留めてくださった。なんという感謝のことでしょう、と言っているのです。