2023年11月26日「ごく小さな事に忠実な人」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書16章1-13節

ある金持ちに一人の管理人がいました。その管理人について、主人の財産を無駄使いしている、という告げ口がありました。そこで、主人は彼に「会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない」と言いました。そこで、彼は考えます。そして、思いついたことは「管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ」ということでした。

管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、油百バトスと言った人は五十バトス、小麦百コロスと言った人は八十コロスにしてあげたのです。こうして、彼は人たちに恩を売っておけば、将来自分の世話をしてくれるだろうと考えたのです。ところが、「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」とあります(8節)。主人とはイエス様のことです。そのイエス様は続いて「不正にまみれた富で友達を作りなさい」と言うのです。ここでイエス様が言われたのは、不正にまみれた富、即ちこの世の富を使って、他の人が永遠の住まい、天国に入ることができるように、伝道のために用いなさいということです。

2023年11月19日「失われた息子」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書15章25-32節

弟息子は失われた息子でした。財産を相続して遠い国に行って、そこで放蕩の限りを尽くして、全財産を使い果たしてしまったのです。ところが、兄息子はどこにも出かけてないのです。ずっと父親の家で真面目に働いて来ました。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。」(27-28節)

この兄息子が言っていることは分からないわけではありません。正しいことを言っていると思います。私たちは放蕩を尽くした弟息子よりも、兄息子のほうに似ているかも知れません。正しい自分は真面目に父親に仕えて来たあの家出した弟息子とは違うということを言いたいのです。この兄息子に、父親は「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」と言うのです。父親のすぐ近くにいるのに、その父の愛が分かりませんでした。この意味で、兄息子は父から遠く離れた失われた息子でした。

2023年11月12日「大きな喜びが天にある」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書15章1-10節

イエス様がたとえを話されました。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(7節)

一人の人が悔い改めて、教会に行こうと思い始めた時に、大きな喜びが天にあると、イエス様は仰っています。

すぐにもとの生活に戻ってしまう罪深い私たちが、主イエスの招きに応えて、何度でも主イエスに方向転換して生きたいものです。 私たちは、主イエスが命をかけて、迷子だった私たちを見つけ出してくださったこと。そして、イエス様が大きな喜びをもって、肩に担いで、帰って来られたことを、礼拝の度に思い出し、共に喜びたいと思います。

2023年11月5日「父のもとに帰る」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書15章11-24節

弟息子が父親に「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」と要求します。息子たちに財産が相続されるのは、普通親が死んだ後のことですが、父親は怒ることなく、息子の言う通りに、財産を弟と兄の二人息子に分けてやるのです。

 弟息子はその財産を売り払ってお金に換え、遠い国に行ってしまいます。そこで放蕩の限りを尽くして、財産をすべて使い果たしてしまいます。とうとう、豚の餌で腹を満たしたいと思うほどになってしまいます。そうなって初めて彼は、自分の非を悟り、父親のもとに帰りたいと思います。

「彼はそこをたち、父親のもとに行った。」弟息子は方向転換して、一歩一歩父親のもとに歩き始めました。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は弟息子を見つけて、「憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」父なる神様は、私たちが父のもとに一歩踏み出すならば、まだ遠く離れていたのに、私を見つけて、駆け寄ってくださるのです。神様は一人でも多くの人が神のもとに帰ってくることを望んでおられるのです

2023年10月29日「弟子になる道」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書14章25-35節

「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」(26節) これは、文字通り「父、母、妻、子供、兄弟姉妹、自分の命を憎みなさい」と言うのではありません。それよりももっと主イエスを愛しなさい、主を愛することを一番としなさいと言っているのです。

「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」(27節)主イエスを第一にする時に、担うべき課題が見えてくるのです。そして、改めて主イエスに従っていく献身の思いが与えられるのです。「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」(33節)これも、文字通り「自分の持ち物を一切捨てなさい」と言うのではありません。それよりも自分の持ち物で生きるのではなく、神様が自分を生かしてくださる、それを信じるということです。

2023年10月22日「礼拝の本質」

○金 南錫牧師 レビ記1章1-4節

1節から4節まで最も多く出てくる言葉があります。それは「ささげる、献げ物」という言葉です。「あなたたちのうちの誰かが、家畜の献げ物を主にささげるときは、牛、または羊を献げ物としなさい。牛を焼き尽くす献げ物とする場合には、無傷の雄をささげる」(2-3節)。ここで、4回も「献げ物、ささげる」という言葉が出て来ます。ここで気づくのは、礼拝は受けることではなく、献げるということなのです。

3節を見ると、「牛を焼き尽くす献げ物とする場合には、無傷の雄をささげる」とあります。「無傷」ということは、体に何の異常もない完全なものを指しています。ところが、無傷のものを探すのは、易しいことではありません。ですから、献げ物を献げる人は時に苦労しなければなりません。傷のないものを見つけるためには、努力しなければなりません。目に触れるどんな牛でも引いて行けばよい、ということではなく、献げ物を慎重に選んで、心をこめて献げなげればならないのです。つまり、礼拝者の精一杯の献身が求められていたのです。

2023年10月15日「神の国の祝宴」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書14章15-24節

ある家の僕が招待された客に、「もう用意ができましたから、おいでください」と呼びに行きましたが、「皆、次々に断った」とあります。最初の人は、「畑を買ったので、見に行かねばなりません」と言います。またある人は「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです」と言います。また別の人は「妻を迎えたばかりなので、行くことができません」というのです。皆、この日に宴会があると分かっていたのに、いざとなると、いろんな理由を述べて、断ったというのです。

最後の24節に「言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」とあります。ここで「あの招かれた人たち」とは、畑のこと、牛のこと、妻のことを言いながら、断った人たちのことです。自分の用事を優先させて、主人からの招きを後回しにしている人たちのことです。ですから、イエス様はこのたとえで、私たちに問うておられるのではないでしょうか。神様はご自分の盛大な宴会の席に、救いの恵みに、私たちを招いておられる。それなのに、あなたは、それを後回しにしていないか。そのように問うておられるのです。

2023年10月8日「高ぶる者、へりくだる者」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書14章1-14節

イエス様はファリサイ派のある議員が用意した食事の席で、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、たとえを話されました。それは、もし自ら上席に着いたら、後から自分よりも身分が高い人が来た時に、席を譲らされて、恥をかいて、末席に着くことになる。だから、最初から末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、もっと上席に進んでくださいと言ってくれるというたとえです。そして、イエス様は「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と仰いました(11節)。

また、イエス様はお返しができる人よりも、むしろ「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」、そうすれば、あなたは幸いだ、と仰いました。神様はお返しなど何にもできない、ただ恵みを受け取るしかできない、そういう者をこそ、招いて、救ってくださるのです。それが「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という言葉の意味です。

2023年10月1日「自分の道を進む」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書13章31-35節

「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。」イエス様はヘロデのことを「あの狐」と呼びました。そのヘロデに、イエス様は「今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える」と仰っています。聖書協会訳では「行って、あの狐に『私は今日も明日も三日目も、悪来を追い出し、癒やしを行うことをやめない』伝えよ」と訳されています。

「だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。」イエス様は預言者として死ぬために、エルサレムに向かっています。それは、すべての人を救うためです。そして、救いを完成しようとしています。その救いの業を、「わたしはやめない。進まねばならない」そう語っています。それは、十字架の道こそが、私たちにとって、救いの道であるからです。