2024年4月の主日聖書日課から

4月7日
○出エジプト記15章1-11節
 モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。
 主に向かってわたしは歌おう。
 主は大いなる威光を現し
 馬と乗り手を海に投げ込まれた。
 主はわたしの力、わたしの歌
 主はわたしの救いとなってくださった。
 この方こそわたしの神。
 わたしは彼をたたえる。
 わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。
 主こそいくさびと、その名は主。
 主はファラオの戦車と軍勢を海に投げ込み
 えり抜きの戦士は葦の海に沈んだ。
 深淵が彼らを覆い
 彼らは深い底に石のように沈んだ。
 主よ、あなたの右の手は力によって輝く。
 主よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く。
 あなたは大いなる威光をもって敵を滅ぼし
 怒りを放って、彼らをわらのように焼き尽くす。
 憤りの風によって、水はせき止められ
 流れはあたかも壁のように立ち上がり
 大水は海の中で固まった。
 敵は言った。
 「彼らの後を追い
 捕らえて分捕り品を分けよう。
 剣を抜いて、ほしいままに奪い取ろう。」
 あなたが息を吹きかけると
 海は彼らを覆い
 彼らは恐るべき水の中に鉛のように沈んだ。
 主よ、神々の中に
 あなたのような方が誰かあるでしょうか。
 誰か、あなたのように聖において輝き
 ほむべき御業によって畏れられ
 くすしき御業を行う方があるでしょうか。

○ヨハネによる福音書20章19-31節
 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

4月14日
○イザヤ書61章1-3節
 主はわたしに油を注ぎ
 主なる神の霊がわたしをとらえた。
 わたしを遣わして
 貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。
 打ち砕かれた心を包み
 捕らわれ人には自由を
 つながれている人には解放を告知させるために。
 主が恵みをお与えになる年
 わたしたちの神が報復される日を告知して
 嘆いている人々を慰め
 シオンのゆえに嘆いている人々に
 灰に代えて冠をかぶらせ
 嘆きに代えて喜びの香油を
 暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。
 彼らは主が輝きを現すために植えられた
 正義の樫の木と呼ばれる。

○ヨハネによる福音書21章1-14節
 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。

4月21日
○イザヤ書62章1-5節
 シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず
 エルサレムのために、わたしは決して黙さない。
 彼女の正しさが光と輝き出で
 彼女の救いが松明のように燃え上がるまで。
 諸国の民はあなたの正しさを見
 王はすべて、あなたの栄光を仰ぐ。
 主の口が定めた新しい名をもって
   あなたは呼ばれるであろう。
 あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり
 あなたの神の御手の中で王冠となる。
 あなたは再び「捨てられた女」と呼ばれることなく
 あなたの土地は再び「荒廃」と呼ばれることはない。
 あなたは「望まれるもの」と呼ばれ
 あなたの土地は「夫を持つもの」と呼ばれる。
 主があなたを望まれ
 あなたの土地は夫を得るからである。
 若者がおとめをめとるように
 あなたを再建される方があなたをめとり
 花婿が花嫁を喜びとするように
 あなたの神はあなたを喜びとされる。

○ヨハネによる福音書21章15-25節
 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。
 ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。
 これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。
 イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。


4月28日
○エゼキエル書36章24-28節
 わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる。
 わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。

○ヨハネによる福音書15章18-27節
 「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。のであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。
 わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。

出所:聖書日課編集委員会編集「日毎の糧2024」(日本キリスト教団出版局、2023年12月20日発行)より作成

2024年3月31日「信じる幸い」

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書20章24-29節

復活されたイエス様が弟子たちと再会していました。しかし、そこにトマスはいませんでした。「そこで、ほかの弟子たちが、『わたしたちは主を見た』と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。』」(25節)。

イエス様が復活されて、八日が経ちました(26節)。弟子たちと共にトマスもそこにいました。イエス様はトマスに言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」イエス様のこの語りかけに、トマスは答えました。「わたしの主、わたしの神よ」(28節)。彼は今、神を見たのです。その声を聞いたのです。主イエスの体に触れて確かめていないのに、「わたしの主、わたしの神よ」と、信仰を告白することができたのです。イエス様はトマスに言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(29節)

2024年3月の主日聖書日課から

3月3日
○ヨシュア記24章14-24節
 あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」
 民は答えた。
 「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。わたしたちの神、主は、わたしたちとわたしたちの先祖を、奴隷にされていたエジプトの国から導き上り、わたしたちの目の前で数々の大きな奇跡を行い、わたしたちの行く先々で、またわたしたちが通って来たすべての民の中で、わたしたちを守ってくださった方です。主はまた、この土地に住んでいたアモリ人をはじめ、すべての民をわたしたちのために追い払ってくださいました。わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です。」
 ヨシュアはしかし、民に言った。
 「あなたたちは主に仕えることができないであろう。この方は聖なる神であり、熱情の神であって、あなたたちの背きと罪をお赦しにならないからである。もし、あなたたちが主を捨てて外国の神々に仕えるなら、あなたたちを幸せにした後でも、一転して災いをくだし、あなたたちを滅ぼし尽くされる。」
 民がヨシュアに、「いいえ、わたしたちは主を礼拝します」と言うと、ヨシュアは民に言った。
 「あなたたちが主を選び、主に仕えるということの証人はあなたたち自身である。」
 彼らが、「そのとおり、わたしたちが証人です」と答えると、「それではあなたたちのもとにある外国の神々を取り除き、イスラエルの神、主に心を傾けなさい」と勧めた。
 民はヨシュアに答えた。
 「わたしたちの神、主にわたしたちは仕え、その声に聞き従います。」

○ヨハネによる福音書6章60-71節
 ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
 すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。
 
3月10日
○サムエル記上9章27節-10章1節、6-7節
 町外れまで下って来ると、サムエルはサウルに言った。「従者に、我々より先に行くよう命じ、あなたはしばらくここにいてください。神の言葉をあなたにお聞かせします。」従者は先に行った。
 サムエルは油の壺を取り、サウルの頭に油を注ぎ、彼に口づけして、言った。「主があなたに油を注ぎ、御自分の嗣業の民の指導者とされたのです。
 主の霊があなたに激しく降り、あなたも彼らと共に預言する状態になり、あなたは別人のようになるでしょう。これらのしるしがあなたに降ったら、しようと思うことは何でもしなさい。神があなたと共におられるのです。

○ヨハネによる福音書12章1-8節
 過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

3月17日
○イザヤ書63章1-9節
 「エドムから来るのは誰か。
 ボツラから赤い衣をまとって来るのは。
 その装いは威光に輝き
 勢い余って身を倒しているのは。」
 「わたしは勝利を告げ
 大いなる救いをもたらすもの。」
 「なぜ、あなたの装いは赤く染まり
 衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。」
 「わたしはただひとりで酒ぶねを踏んだ。
 諸国の民はだれひとりわたしに伴わなかった。
 わたしは怒りをもって彼らを踏みつけ
 憤りをもって彼らを踏み砕いた。
 それゆえ、わたしの衣は血を浴び
 わたしは着物を汚した。」
 わたしが心に定めた報復の日
 わたしの贖いの年が来たので
 わたしは見回したが、助ける者はなく
 驚くほど、支える者はいなかった。
 わたしの救いはわたしの腕により
 わたしを支えたのはわたしの憤りだ。
 わたしは怒りをもって諸国の民を踏みにじり
 わたしの憤りをもって彼らを酔わせ
 彼らの血を大地に流れさせた。
 わたしは心に留める、主の慈しみと主の栄誉を
 主がわたしたちに賜ったすべてのことを
 主がイスラエルの家に賜った多くの恵み
 憐れみと豊かな慈しみを。
 主は言われた
 彼らはわたしの民、偽りのない子らである、と。
 そして主は彼らの救い主となられた。
 彼らの苦難を常に御自分の苦難とし
 御前に仕える御使いによって彼らを救い
 愛と憐れみをもって彼らを贖い
 昔から常に
 彼らを負い、彼らを担ってくださった。

○ヨハネによる福音書12章20-36節
 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」
イエスを信じない者たち
イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。

3月24日
○創世記22章1-18節
 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。
 神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。
 「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
 次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。
 三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。
 「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」
 アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。
 イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。
 「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」
 アブラハムは答えた。
  「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
 そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。
 「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。
 アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。
 主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。御使いは言った。
 「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

○ヨハネによる福音書18章1-40節
 こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。
 人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
 ピラトは言った。「真理とは何か。」
 死刑の判決を受ける
 ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。
 
3月31日
○出エジプト記14章15-22節
 主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」
 イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。

○マタイによる福音書28章1-10節
 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

○イザヤ書55章1-11節
 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。
 銀を持たない者も来るがよい。
 穀物を求めて、食べよ。
 来て、銀を払うことなく穀物を求め
 価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。
 なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い
 飢えを満たさぬもののために労するのか。
 わたしに聞き従えば
 良いものを食べることができる。
 あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。
 耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。
 聞き従って、魂に命を得よ。
 わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。
 ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。
 見よ
 かつてわたしは彼を立てて諸国民への証人とし
 諸国民の指導者、統治者とした。
 今、あなたは知らなかった国に呼びかける。
 あなたを知らなかった国は
 あなたのもとに馳せ参じるであろう。
 あなたの神である主
 あなたに輝きを与えられる
 イスラエルの聖なる神のゆえに。
 主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。
 呼び求めよ、近くにいますうちに。
 神に逆らう者はその道を離れ
 悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。
 主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。
 わたしたちの神に立ち帰るならば
 豊かに赦してくださる。
 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
 わたしの道はあなたたちの道と異なると
 主は言われる。
 天が地を高く超えているように
 わたしの道は、あなたたちの道を
 わたしの思いは
 あなたたちの思いを、高く超えている。
 雨も雪も、ひとたび天から降れば
 むなしく天に戻ることはない。
 それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ
 種蒔く人には種を与え
 食べる人には糧を与える。
 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も
 むなしくは、わたしのもとに戻らない。
 それはわたしの望むことを成し遂げ
 わたしが与えた使命を必ず果たす。

○ヨハネによる福音書20章1-18節
 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。
 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

出所:聖書日課編集委員会編集「日毎の糧2024」(日本キリスト教団出版局、2023年12月20日発行)より作成

2024年3月 教会学校ニュース31号

 3月31日(日)は、イースターを迎えます。
 主イエスの復活をお祝いします。
 主イエス・キリストは、今も私たちと共に歩んでくださるお方です。
 教会学校では、記念にイースターエッグの製作をいたします。
 どうぞご参加ください。

お餅つき会(2024年2月11日)

 日本キリスト教団佐倉教会では、来る2月11日(日)正午から、教会前駐車場において約1時間半、お餅つき会をいたします。
 どなたでもご参加いただけます。
 お子様もどうぞ。
 お餅を一緒について、いただきましょう。

 

2024年2月の主日聖書日課から

2月4日
○ヨブ記23章1-10節
 ヨブは答えた。
 今日も、わたしは苦しみ嘆き
 呻きのために、わたしの手は重い。
 どうしたら、その方を見いだせるのか。
 おられるところに行けるのか。
 その方にわたしの訴えを差し出し
 思う存分わたしの言い分を述べたいのに。
 答えてくださるなら、それを悟り
 話しかけてくださるなら、理解しよう。
 その方は強い力を振るって
 わたしと争われるだろうか。
 いや、わたしを顧みてくださるだろう。
 そうすれば、わたしは神の前に正しいとされ
 わたしの訴えはとこしえに解決できるだろう。
 だが、東に行ってもその方はおられず
 西に行っても見定められない。
 北にひそんでおられて、とらえることはできず
 南に身を覆っておられて、見いだせない。
 しかし、神はわたしの歩む道を
 知っておられるはずだ。
 わたしを試してくだされば
 金のようであることが分かるはずだ。

○ヨハネによる福音書5章1-18節
 その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。
 その日は安息日であった。そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。

2月11日
○申命記8章1-6節
 今日、わたしが命じる戒めをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたたちは命を得、その数は増え、主が先祖に誓われた土地に入って、それを取ることができる。
 あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。

○ヨハネによる福音書6章1-15節
 その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

2月18日
○出エジプト記17章3-7節
 しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。
 「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」
 モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、主はモーセに言われた。
 「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」
 モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。

○マタイによる福音書4章1-11節
 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
 イエスはお答えになった。
 「『人はパンだけで生きるものではない。
 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
 と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
 『神があなたのために天使たちに命じると、
 あなたの足が石に打ち当たることのないように、
 天使たちは手であなたを支える』
 と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。
 『あなたの神である主を拝み、
 ただ主に仕えよ』
 と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

2月25日
○列王記下6章8-17節
 アラムの王がイスラエルと戦っていたときのことである。王は家臣を集めて協議し、「これこれのところに陣を張ろう」と言った。しかし、神の人はイスラエルの王のもとに人を遣わし、「その場所を通らないように注意せよ。アラム軍がそこに下って来ている」と言わせた。イスラエルの王は神の人が知らせたところに人を送った。エリシャが警告したので、王はそこを警戒するようになった。これは一度や二度のことではなかった。アラムの王の心はこの事によって荒れ狂い、家臣たちを呼んで、「我々の中のだれがイスラエルの王と通じているのか、わたしに告げなさい」と言った。家臣の一人が答えた。「だれも通じていません。わが主君、王よ、イスラエルには預言者エリシャがいて、あなたが寝室で話す言葉までイスラエルの王に知らせているのです。」アラムの王は言った。「行って、彼がどこにいるのか、見て来るのだ。わたしは彼を捕らえに人を送る。」こうして王に、「彼はドタンにいる」という知らせがもたらされた。王は、軍馬、戦車、それに大軍をそこに差し向けた。彼らは夜中に到着し、その町を包囲した。
 神の人の召し使いが朝早く起きて外に出てみると、軍馬や戦車を持った軍隊が町を包囲していた。従者は言った。「ああ、御主人よ、どうすればいいのですか。」するとエリシャは、「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」と言って、主に祈り、「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と願った。主が従者の目を開かれたので、彼は火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見た。

○ヨハネによる福音書9章13-41節
 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。
 それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。
 イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

出所:聖書日課編集委員会編集「日毎の糧2024」(日本キリスト教団出版局、2023年12月20日発行)より作成

2024年2月 教会学校ニュース30号

 今月も聖書を通して、主イエスの救いの言葉を聞いてまいりましょう。
 2月11日(日)正午から、佐倉教会ではお餅つき会を行います。
 どなたも歓迎いたします。
 皆さん、ぜひお餅をつきに来てください。

不正な管理人の例えから 世の富を生かして神の愛を伝える ルカによる福音書一六章一~一三節

○ぶどうの枝第59号(2023年12月24日発行)に掲載(執筆者:牧師 金 南錫)

 イエス様は弟子たちに、不正な管理人の例えを語られました。ある金持ちに一人の管理人がいました。その男は主人の財産を管理していました。ところが、その管理人について、主人の財産を無駄遣いしているという告げ口がありました。そこで、主人は彼を呼びつけて「お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない」と言ったのです。管理人にとって、会計報告を出すというのは、罪を問われる大変なことでした。管理人は考えます。「どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう」ということで、思いついたことは「管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ」ということでした。
 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼び出します。そして、最初の人に問います。「わたしの主人にいくら借りがあるのか。」すると「油百バトス」と言います。一バトスは約二十三リットルですから、油百バトスというのは、油二千三百リットル、結構な量です。管理人は「これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい」と言って、半分にしてやったのです。また別の人は「小麦百コロス」と言います。一コロスは、十バトスなので、二万三千リットルです。この人には、小麦百コロスを「八十コロスと書き直しなさい」と言ったのです。「主人に借りのある者を一人一人呼んで」とあるから、この二人だけではなくて、もっと何人もの人にそうやってあげたのだと思います。こうして、管理人は、この人たちに恩を売っておけば、自分が首になっても、将来自分の世話をしてくれるだろうと考えたのです。

 この時代においてどう振る舞えばよいか

 ところが、「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」とあります(八節)。ここで主人は、イエス様のことを指しています。つまり、イエス様はこの不正な管理人の抜け目のないやり方をほめたことになります。なぜでしょうか。その理由について「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」とあります。「この世の子ら」は、神を信じていない人たち、ここで言えば「不正な管理人」のことです。一方、「光の子ら」は信仰を持っている弟子たちのことです。そして、その弟子たちよりも、神を信じていない人たちの方が、自分の仲間に対して、賢く振る舞っていると言うのです。「自分の仲間に対して」というのは「自分たちの世代に対して」という言葉でもあります。つまり、彼らは自分たちが生きる時代の中で、自分がどう振る舞えばよいか、その賢いやり方を分かっているということです。不正な管理人は、その代表として語られているのです。
 イエス様は続けてこうおっしゃいました。「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」(九節)。ここで「不正にまみれた富で友達を作りなさい」というのは、神を信じない人と同じように、不正をしなさいということでしょうか。そうではないのです。ここで「不正にまみれた富」という言葉は、「この世の富」のことです。その富を使って、他の人が永遠の住まい、天の御国に入ることができるように、用いなさいという意味です。そうしておけば、私たちが人生でお金を使うことがなくなったとき、つまり私たちが死んだとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえるというのです。神の国、天の御国に入るときに、既に天に入った友が出迎えてくれるのだと、イエス様は言われたのです。このことを別の言葉で言うならば、この世の富を福音伝道のために用いなさい、神の愛を伝えるために用いなさいということなのです。

 佐倉教会を生み出したヘブジバ・ミッション

 今年、佐倉教会は創立百十九周年を迎えています。佐倉教会が今、この地に立っているのは、今から百十九年前にアメリカのヘブジバ・ミッションを支える信徒たちが献金をしてくれたからです。彼らは何とかして、日本の地に、特に日本の伝道未開拓地に生きる人たちにも、神様の愛を伝えたいと考えたのです。そして、ヘブジバ・ミッションという伝道団体からアグネス・グレンという婦人宣教師が派遣されました。でも、宣教師は無一文で行けるわけではありません。だから、宣教師を送り出すために、皆で献金をしようと思ったのでしょう。具体的には、アメリカから日本までの旅費が必要です。日本での滞在費も必要です。また、日本で日本語を勉強するための費用も必要です。さらには、住む家を購入する費用、生活費も必要です。このように、ヘブシバ・ミッションを支えるアメリカ教会の信徒たちが、日本でのアグネス・グレン宣教師の福音伝道の働きを覚えて献金をしてくれたから、佐倉教会が生み出されました。そして、今私たちはここに集って、礼拝を献げているのです。宣教師が来てくれたから、また、その宣教師を派遣するためにアメリカ教会の信徒たちが献金を献げてくれたから、佐倉教会があります。
 また、その後、佐倉教会の信仰の先達が献金を献げてくれたから、今私たちはここにいるのです。そしてそれと同じように、私たちも後に続く誰かのために、「この世の富」を使うことができるのです。それが、教会の様々な働きのために、献げる献金ではないでしょうか。すると、その一つ一つの働きによって、救われた人たちがやがて天において私たちを迎えてくれると言うのです。

 神のものを神のご栄光のために用いる

 イエス様は言われました。「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか」(一〇~一二節)。ここで、ごく小さな事、不正にまみれた富というのは、「他人のもの」と言われています。私たちが持っている富は、神のものだということです。本来、富は神様のものです。それを神様のご栄光のために用いることができるならば、それは本当に価値あるものをあなたがたのものとして与えてくださるというのです。そして、本当に価値あるもの、それは正に天の御国、永遠の命です。友を神の国、天の御国に導くために、与えられた富を用いていく。それこそ富に仕えるのではなく、富を生かして、神に仕える生き方なのです。その生き方に忠実であることが私たちに求められているのです。

随想 委ねるとは 一輪の花に教えられて

○ぶどうの枝第59号(2023年12月24日発行)に掲載(執筆者:FI)

 「神様に全てをお委ねします」と簡単に祈ってしまう自らの無知と愚かさに、はっと気付いたときがありました。
 慌ただしく過ごしていたある夏の日、庭に咲く一輪の花に目が留まりました。少しの風に揺れて、花びらは気持ち良さそうに、風に弄ばれているように、自然体で喜んでいるようにさえ見えました。
 明日はしおれてしまうこの瞬間をこの花は花びらを精一杯広げ、無心に咲き続けている姿に感動したのです。そしてこんなにも美しく咲かせてくださっている神様のみ業の気高さの前に我が身を恥じました。
 まず自らの思いや考えを優先して、その後で「お委ねします」と祈る不遜な私に、一輪の花は気付きを与えてくれました。
 置かれたありのままの状況の中で、何も考えず、意志も感情も全くなくした心の状態をつくることができたら、それが「委ねる」ことなのだと感じました。私もあの花のように、精一杯無心な心で咲ききりたいと願いました。
 「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。」(マタイによる福音書六章二九、三〇節)
 「安心して行かれるがよい。主は、あなたたちのたどる旅路を見守っておられる」(士師記一八章六節)

随想 佐倉教会聖歌隊の歩み コロナ後の活動を再開

○ぶどうの枝第59号(2023年12月24日発行)に掲載(執筆者:YN)

 佐倉教会聖歌隊は、記録がないので定かではない私の記憶によりますが、島津虔一牧師が牧会されていた頃、牧師の指導によりイブ礼拝に信徒の有志と教会学校の子供たちが讃美歌を歌ったのが始まりだったと思います。Kさんの二人のお子さんも一生懸命歌っていました。
 島津牧師の後に就任された有馬尊義牧師は「神に讃美をささげるという、人間のできる最大のささげものとして、教会の各場面で奉仕する聖歌隊を目指してもらいたい」と。この頃から徐々に今のようなスタイルになりました。
 黒田直人牧師が赴任されてからは、教会音楽をドイツで研鑽なさったオルガニストのNKさんの熱心な御指導があり、佐倉教会内部での奉仕だけでなく、教派を超えた千葉県教会音楽祭に参加。二〇〇五年・二〇〇七年には、NKさんのオルガン演奏と聖歌隊によるチャーチ・コンサートが開催されました。この地域での本格的なオルガン演奏は初めてでしたので、聴衆が大変感動しました。また、来場者が多数であったため、定員を超えて収容し、消防法上の問題があったとの記録が残っています。当時から二〇二〇年三月のコロナによるパンデミックまでは、十五名から二十名と伴奏者と指揮者とで奉仕活動をしていました。

 聖歌隊奉仕と練習計画

 聖歌隊は、教会暦による聖日と毎月第一主日の聖餐式のときに讃美歌のささげもの、その準備として第四週の礼拝後十二時三十分から十四時、必要に応じて聖餐日当日の礼拝前に三十分くらいの練習をしていました。
 次に掲げるのは、二〇一四年九月から十二月までの練習計画で、教会暦の後半、クリスマスまでの練習と、聖餐式での奉仕計画の例です。
(数字は讃美歌の番号。Ⅱは『讃美歌 第二編』)
九・二八  礼拝後練習 四〇三、三八五、Ⅱ一〇八、Ⅱ一二〇
一〇・五  第一主日聖餐日 四〇三 朝練
一〇・二六 礼拝後練習 三八五、Ⅱ一〇八、Ⅱ一二〇、二五九
一一・二  召天者記念礼拝 三八五 朝練
一一・二二 礼拝後練習 Ⅱ一〇八、Ⅱ一二〇、二五九
一一・三〇 アドベント・創立記念日礼拝 Ⅱ一〇八 朝練
一二・七  礼拝後練習 Ⅱ一〇八、Ⅱ一二〇
一二・二一 クリスマス礼拝 Ⅱ一二〇 朝練
一二・二四 クリスマスイブ礼拝 Ⅱ一〇八、Ⅱ一二〇、二五九 礼拝前の練習
(四〇三「聞けよ、愛と真理の」、三八五「花彩る春を」、Ⅱ一〇八「みかみのみことば」、Ⅱ一二〇「み子なるイエス」、二五九「いそぎきたれ」)
 この後、新年を迎え、公現日、受難日、復活日、ペンテコステ、毎月第一主日の聖餐日等のため、前年と同じようなローテーションで活動していたことが、二〇〇五年六月からの記録で分かりました。
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 次は、二〇二〇年一月に聖歌隊員に配った「聖歌隊からのお知らせ」です。
 二・二  新聖歌「いつも喜んでいなさい」
 三・一  Ⅱ「み弟子らにかこまれ」
 四・五  三〇七「ダビデの子、ホサナ」(棕櫚の聖日)
 四・一〇 金曜日(受難日)三〇二「暗いゲッセマネ」
 四・一二 復活日 Ⅱ「み墓深く」
 五・三  四七九「よろこびは主のうちに」
 五・三一 ペンテコステ 二〇七「ほめよ主を」
 六・七  三位一体主日 二〇七「ほめよ主を」
 この計画には練習日等が記されていません。コロナ禍のため、三月から礼拝の持ち方が制限され、聖歌隊としての奉仕ができなくなってしまい、活動は中止。教会員の集会も中止でした。
 今年十月からコロナ禍以前と同じ礼拝に戻ることになり、十月二十九日から活動が再開、以前のような練習が始まりました。
 十一月二十九日、佐倉教会創立百十九周年の記念日に聖歌隊として讃美の歌をささげることができ、隊員一同この恵みに心踊らせ、感謝し喜びをもって歌うことができました。当日歌われた曲は、ヘンデル作曲「メサイア」より「主はその群をやしないたもう」(『讃美歌第二編』五六)でした。