随想 委ねるとは 一輪の花に教えられて

○ぶどうの枝第59号(2023年12月24日発行)に掲載(執筆者:FI)

 「神様に全てをお委ねします」と簡単に祈ってしまう自らの無知と愚かさに、はっと気付いたときがありました。
 慌ただしく過ごしていたある夏の日、庭に咲く一輪の花に目が留まりました。少しの風に揺れて、花びらは気持ち良さそうに、風に弄ばれているように、自然体で喜んでいるようにさえ見えました。
 明日はしおれてしまうこの瞬間をこの花は花びらを精一杯広げ、無心に咲き続けている姿に感動したのです。そしてこんなにも美しく咲かせてくださっている神様のみ業の気高さの前に我が身を恥じました。
 まず自らの思いや考えを優先して、その後で「お委ねします」と祈る不遜な私に、一輪の花は気付きを与えてくれました。
 置かれたありのままの状況の中で、何も考えず、意志も感情も全くなくした心の状態をつくることができたら、それが「委ねる」ことなのだと感じました。私もあの花のように、精一杯無心な心で咲ききりたいと願いました。
 「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。」(マタイによる福音書六章二九、三〇節)
 「安心して行かれるがよい。主は、あなたたちのたどる旅路を見守っておられる」(士師記一八章六節)

随想 佐倉教会聖歌隊の歩み コロナ後の活動を再開

○ぶどうの枝第59号(2023年12月24日発行)に掲載(執筆者:YN)

 佐倉教会聖歌隊は、記録がないので定かではない私の記憶によりますが、島津虔一牧師が牧会されていた頃、牧師の指導によりイブ礼拝に信徒の有志と教会学校の子供たちが讃美歌を歌ったのが始まりだったと思います。Kさんの二人のお子さんも一生懸命歌っていました。
 島津牧師の後に就任された有馬尊義牧師は「神に讃美をささげるという、人間のできる最大のささげものとして、教会の各場面で奉仕する聖歌隊を目指してもらいたい」と。この頃から徐々に今のようなスタイルになりました。
 黒田直人牧師が赴任されてからは、教会音楽をドイツで研鑽なさったオルガニストのNKさんの熱心な御指導があり、佐倉教会内部での奉仕だけでなく、教派を超えた千葉県教会音楽祭に参加。二〇〇五年・二〇〇七年には、NKさんのオルガン演奏と聖歌隊によるチャーチ・コンサートが開催されました。この地域での本格的なオルガン演奏は初めてでしたので、聴衆が大変感動しました。また、来場者が多数であったため、定員を超えて収容し、消防法上の問題があったとの記録が残っています。当時から二〇二〇年三月のコロナによるパンデミックまでは、十五名から二十名と伴奏者と指揮者とで奉仕活動をしていました。

 聖歌隊奉仕と練習計画

 聖歌隊は、教会暦による聖日と毎月第一主日の聖餐式のときに讃美歌のささげもの、その準備として第四週の礼拝後十二時三十分から十四時、必要に応じて聖餐日当日の礼拝前に三十分くらいの練習をしていました。
 次に掲げるのは、二〇一四年九月から十二月までの練習計画で、教会暦の後半、クリスマスまでの練習と、聖餐式での奉仕計画の例です。
(数字は讃美歌の番号。Ⅱは『讃美歌 第二編』)
九・二八  礼拝後練習 四〇三、三八五、Ⅱ一〇八、Ⅱ一二〇
一〇・五  第一主日聖餐日 四〇三 朝練
一〇・二六 礼拝後練習 三八五、Ⅱ一〇八、Ⅱ一二〇、二五九
一一・二  召天者記念礼拝 三八五 朝練
一一・二二 礼拝後練習 Ⅱ一〇八、Ⅱ一二〇、二五九
一一・三〇 アドベント・創立記念日礼拝 Ⅱ一〇八 朝練
一二・七  礼拝後練習 Ⅱ一〇八、Ⅱ一二〇
一二・二一 クリスマス礼拝 Ⅱ一二〇 朝練
一二・二四 クリスマスイブ礼拝 Ⅱ一〇八、Ⅱ一二〇、二五九 礼拝前の練習
(四〇三「聞けよ、愛と真理の」、三八五「花彩る春を」、Ⅱ一〇八「みかみのみことば」、Ⅱ一二〇「み子なるイエス」、二五九「いそぎきたれ」)
 この後、新年を迎え、公現日、受難日、復活日、ペンテコステ、毎月第一主日の聖餐日等のため、前年と同じようなローテーションで活動していたことが、二〇〇五年六月からの記録で分かりました。
   *
 次は、二〇二〇年一月に聖歌隊員に配った「聖歌隊からのお知らせ」です。
 二・二  新聖歌「いつも喜んでいなさい」
 三・一  Ⅱ「み弟子らにかこまれ」
 四・五  三〇七「ダビデの子、ホサナ」(棕櫚の聖日)
 四・一〇 金曜日(受難日)三〇二「暗いゲッセマネ」
 四・一二 復活日 Ⅱ「み墓深く」
 五・三  四七九「よろこびは主のうちに」
 五・三一 ペンテコステ 二〇七「ほめよ主を」
 六・七  三位一体主日 二〇七「ほめよ主を」
 この計画には練習日等が記されていません。コロナ禍のため、三月から礼拝の持ち方が制限され、聖歌隊としての奉仕ができなくなってしまい、活動は中止。教会員の集会も中止でした。
 今年十月からコロナ禍以前と同じ礼拝に戻ることになり、十月二十九日から活動が再開、以前のような練習が始まりました。
 十一月二十九日、佐倉教会創立百十九周年の記念日に聖歌隊として讃美の歌をささげることができ、隊員一同この恵みに心踊らせ、感謝し喜びをもって歌うことができました。当日歌われた曲は、ヘンデル作曲「メサイア」より「主はその群をやしないたもう」(『讃美歌第二編』五六)でした。

随想 神の御力を思う

○ぶどうの枝第59号(2023年12月24日発行)に掲載(執筆者:AS)

 神様は、すごい御力を見せてくださいました。それは、主人の納骨式前夜のことでした。
 当日、金先生に八柱霊園に来ていただく予定でした。私もデイサービスに通って、頭がそちらに向いていましたので、主人の教会に関することは、すっかり忘れていました。それが、当日前夜、全てを思い出したのです。それも主人が洗礼を受けた牧師の名も明確に。なんと素晴らしい神様。感謝、感謝。
 その前夜、急いで金先生に「思い出しました」と連絡。滑り込みセーフです。当日、それを皆さんの前で発表してくださり、皆さん、主人のことが理解できました。
 主人が亡くなって二年半、やっと納骨できました。主人の魂は既に天にありますが、安心したことでしょう。私も生きているうちに納骨を終え、ホッとしました。息子夫婦や娘と孫にも会えて楽しいひとときでした。

随想 教会員を増やす広報活動 お墓と法要の課題を解決

○ぶどうの枝第59号(2023年12月24日発行)に掲載(執筆者:YH)

 イエス・キリストを信仰し、佐倉教会へ入会する人を増やすため、以下を考慮した広報活動はいかがでしょうか(日本人の大半は仏教徒であると仮定しています)。
 今、人生を独りで終える人が急増していますけれども、それらの方々自身の死後について抱えている様々な悩みの中で、最も大きい悩みの一つが「お墓」で、次いで大きいのが「法要(記念礼拝)」だと思います。
 「お墓」は海洋散骨が良いと思う人や、樹木葬が良いと思う人もいますが、いずれも少数派であり、ほとんどの人々は墓地に在る「お墓」での永眠を望んでいます。
 しかしながら、その「お墓での永眠」を確保するには以下の諸課題を解決する必要があります(以下に列記しているのは、一般的な仏教(徒)の事例です)。
一、「お墓」
 ①「お墓」の購入費用(祭祀権(注参照)を相続・継承していない場合)
 ②「お墓」の管理費(死後、委託する身内がいない場合)
 ③先祖から継承した「お墓」の撤去(墓じまい)に係る手続き・費用(お寺との交渉が煩雑であり、高額費用を請求されて裁判沙汰になる事例も多い)
二、「法要(記念礼拝)」
(一)忌日法要
  ①初七日(命日も含めて七日目)
  ②二七日(命日も含めて十四日目)
  ③三七日(命日も含めて二十一日目)
  ④四七日(命日も含めて二十八日目)
  ⑤五七日(命日も含めて三十五日目)
  ⑥六七日(命日も含めて四十二日目)
  ⑦七七日(命日も含めて四十九日目)
  ⑧百ケ日(命日も含めて百日目)
(二)年忌法要
  ①一周忌(命日から満一年目)
  ②三回忌(命日から満二年目)
  ③七回忌(命日から満六年目)
  ④十三回忌(命日から満十二年目)
  ⑤十七回忌(命日から満十六年目)
  ⑥二十三回忌(命日から満二十二年目)
  ⑦二十七回忌(命日から満二十六年目)
  ⑧三十三回忌(命日から満三十二年目)
  ⑨三十七回忌(命日から満三十六年目)
  ⑩四十三回忌(命日から満四十二年目)
  ⑪四十七回忌(命日から満四十六年目)
  ⑫五十回忌(命日から満四十九年目)
  ⑬百回忌(命日から満九十九年目)
 以上のように仏教の場合、死後の「法要」が細かく定められていますが(とはいっても佐倉教会のような毎年の営みではない)、祭祀権の継承者がいても多忙であったり、僧侶へのお布施や、法要後の親族が一同に会した食事費用等の負担が大きかったりで、過半以上の方々はかなりの法要を省略しているのが実態です(核家族化により親族が遠隔地に分散し、法要の度に集まることも難しい)。
 また、ほとんどの日本人は日頃からのお寺との交わりがないにもかかわらず、死んだら自己の意思(実際は無意志)にかかわらず、遺族等の意思により「仏教徒」として祭られますけれども、残念ながら諸々の制約により省略される法要が多く、仏教徒としての祭られ方は部分的です。
 上記のとおり、仏教徒として亡くなった場合、残された遺族に多大の負担を掛けることになりますが、日本基督教団佐倉教会員として亡くなった場合には、以下のメリットがあります。
一、死せる者、残された者共に、主イエス・キリストにより永遠に守られる。
二、葬儀・結婚式等の冠婚葬祭にて教会堂を使う場合、施設使用料は無料。
三、お墓は八街市の霊園に教会墓地があり、教会員や家族は希望すれば使用できる。
四、お墓の永代供養(仏教用語)は牧師により無料で行われる。
五、法要は仏教のような数年間隔ではなく、毎年、牧師により教会堂にて全員分をまとめて執り行われ、同日にお墓参りも牧師の先導により行われる。
 「死んだら勝手に(生前は縁がなかった)仏教徒として祭られたものの、仏教徒として定められた法要はしてもらえない」という大きな疑問・矛盾を解決するには、「神様、並びに御子であられる主イエス・キリストの導きを受けて佐倉教会員になる」ことが最善であると提案しましょう。
 全知全能の神様、御子であられる主イエス・キリストによる加護を得て、この佐倉教会に新たなる教会員が加えられますよう、御名をあがめます。アーメン
 注:祭祀権は、民法第八百九十七条により以下のとおり定められています。
 一 系譜、祭具及び墳墓の所有権は、前条の規定にかかわらず、慣習に従って祖先の祭祀を主宰すべき者が継承する。(以下略)

随想 お空にいったんだよ ひ孫に見送られた母

○ぶどうの枝第59号(2023年12月24日発行)に掲載(執筆者:MO)

 「ママのおかあちゃんのおかあちゃん(おばあちゃんのこと)お骨になってかわいちょう。」
 四才のみいちゃんが言うとお兄ちゃんのゆうちゃん(六才)が「お空に行ったからかわいそうじゃないんだよ。魂になってお空から見ていてくれるんだよ。」と優しく言うとまだ熱い熱気を放つ骨になった母を小さな手を組み、祈りのポーズで二人はじっと見ていたのです。
 火葬場での出来事に私は小さい二人が怖がるのではないかと少し心配していたので驚きました。真剣に手を組み見ている二人に、どこでそのようなことを教えてもらったのだろうと思いました。主人が「ゆうちゃんはストレッチャーで窯に入っていくのをずっと手を振って見送っていたよ。」と教えてくれました。
 後日少し落ち着いたときに娘にそのことを尋ねるとおばあちゃんの状態が良くないと聞いたときから この本をチビ二人には読み聞かせていたんだ。と教えてくれました。
 絵本は、「わすれられない贈り物」(作・絵スーザン・バーレイ、訳小川仁央)です。
 賢くて、いつもみんなの頼りにされているアナグマ。大変歳をとっていて、知らないことはないというぐらい物知りです。だからこそ、自分が死ぬのがそう遠くはないことも、知っていたのです。アナグマは死ぬのを恐れてはいません。だけど、残していく友達のことが気がかりです。みんなへの手紙を書き残したその夜、アナグマは不思議な、そして素晴らしい夢を見たのでした。
 年齢を重ね、経験が増えていくと「死」というものが残された人のものであるということがよくわかっていきます。そして「死の悲しみ」は説明できることなんかじゃない、ということも。
 この絵本は、残していく者と残されていく者を丁寧に描きます。死を迎えるということは、どういうことなのか。亡くなった人とどう向き合っていけばいいのか。正解なんかないからこそ、それぞれが読み解き「アナグマの死」を通して愛情や友情、知恵を受け継ぐ大切さ、それぞれの生き方を考え、悲しみを乗り越える力となる一つの「きっかけ」となるのを願って書かれたと思います。娘が絵本を通して小さい子供たちと話を重ねていたから子供たちも小さいなりに理解し考え、ゆうちゃんが「お空に行って見ていてくれる。」と安心して手を組み見送ってくれたのだと分かりました。
 娘は小さいときから本が大好きで母がたくさん本を買ってくれました。お人形を手作りして娘のお洋服とお人形の花ちゃんのお洋服はいつもおそろいでした。たくさんの愛情をもらって育った娘が 母のひ孫にあたる、みいちゃんとゆうちゃんに本を読み聞かせ、二人が小さな手を組み、ひいおばあちゃんを見送ってくれた。お空から魂になって見ていてくれる、と理解して。これは幸せの循環だと思いました。
 父が亡くなり千葉へ転居した母は、東京にいる孫、ひ孫に会う機会が増え幸せな晩年だったと思います。佐倉教会に転入させていただき教会に居場所があるというのはとても安心すると言っていました。同年代のお友達もできて良い交わりをさせていただき感謝しております。
 特に、TKさんとは同じ施設に入居して知らない土地で生活する上での心細さを埋めていただき有り難いことでした。Kさんに、みいちゃんとゆうちゃんのママである娘と息子のMは中学・高校時代、英文法を習っており、母はKさんと自分の孫の話もできたのです。なんという幸せ。いろんな交わりの中で過ごした母は幸せであったと思います。

随想 私の一日の始まり 万事が共に働いて益となる

○ぶどうの枝第59号(2023年12月24日発行)に掲載(執筆者:SK)

 昨年三月、不注意によるけがで車椅子の生活を、そして今年二月悪性リンパ腫が発見、ようやく杖歩行ができるようになったのに、歩く力がぐっとなくなり、現在歩行器を使って、日常生活を送っています。
 といっても、たくさんの方々の支えによる生活です。紆余曲折を経て、今は民営の高齢者介護の施設で生活をしています。年齢を重ねることの大変さとともに、初めて経験することがたくさんある生活でもあります。一人で歩き、一人で食事を作り食べる当たり前の生活ができていた頃にはとても思いつかない生活です。
 ご病気の方からの便りに対して、「手を合わせて主に祈ることはできます」などと書いていましたが、さて、自分での歩行が難しく、一人で生活が困難になったとき、手を合わせることはできても、祈ることができませんでした。祈る心が出てこないのです。一体私の信仰は何だったのでしょうか。若いときからの信仰は、…恥ずかしい限りです。
 ある日、礼拝に出席できずにいた私に電話です。呼び覚まされた感じでした。「私のことを心にかけてくださる人が…」と、まず主に依り頼み祈ること、そして聖書を読もうと、さらに、礼拝説教(CD)が大きく後押ししてくれました。
 何度も繰り返し聞いた「ヨセフ物語」の説教は、正に「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています」(聖書協会共同訳、ローマ八章二八節)、そのものです。
「私の息子たちを遠くから、娘たちを地の果てから連れて帰させよ。
 それは、私の名で呼ばれるすべての者
 私の栄光のために創造し、
 形づくり、私が造り上げた者。」
  (聖書協会共同訳、イザヤ四三章六~七節)
 わたしもその中の一人として造られた者なのです。感謝しかありません。朝、カーテンをあけ、向こうに見える小さな丘に向かって
「わたしは山々に向かって目をあげる。
 わたしの助けはどこから来るのか」
  (聖書協会共同訳、詩編一二一編一節)
 と自然に口ずさんでいます。こうして私の一日は始まります。ようやくたどりついたこの頃です。

恐れることはない ただ信じなさい 主イエスに委ねて歩む ルカによる福音書八章四〇~五六節

○ぶどうの枝第58号(2023年7月2日発行)に掲載(執筆者:金 南錫牧師)

 二〇二〇年から始まった新型コロナウイルス感染症によって、約三年間、いろいろな活動や計画が中断されました。今日の聖書箇所に出てくる会堂長ヤイロも、そうした計画を中断された一人です。
 イエス様がゲラサの地からガリラヤ湖を通って、戻ってこられると、群衆は喜んで迎えました。またそれだけではなく、待っていたのです。その中、ヤイロという人が来て、イエス様の足もとにひれ伏し、自分の家に来てくださるように願いました。それは、十二歳ぐらいの一人娘が死にかけていたからです。そして、イエス様がそこに向かう途中で、群衆が周りに押し寄せて来ました。一分一秒を争う中、群衆が道を阻むわけです。
 そこに、一人の女性まで現れます。彼女は十二年間も出血が止まらない病を患っていました。当時、そのような病気の女性は、ユダヤの律法によって、汚れている病気とされて、言わば日陰者のような生活を強いられました。自分の病気が治らず、絶望の中を生きていたのです。医者に全財産を使い果たしましたが、誰からも治してもらえなかったのです。そういうときに彼女は、イエス様と出会ったのです。彼女はこの方によって、病気を癒やしていただけると思い、群衆の中に紛れ込んで、後ろからイエス様の服の房に触れたのです。
 彼女は必死でした。イエス様の服の房に触れたときに、その出血が止まったのです。癒やされたのです。彼女は、その癒しを自分自身感じながらも、一切秘密にして、このまま去ろうと思っていました。しかし、イエス様は自分の内から力が出ていったのを感じて、「わたしに触れたのはだれか」と言われました(四五節)。周りの人はびっくりしました。皆、「私ではない」と答えます。すると、ペトロが見かねて「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言いました。つまり、これほど密になっているのだから、誰が主イエスに触れたのか分かるはずがない、と言いたかったのです。
 では、イエス様はなぜこの人を探すのでしょうか。また、イエス様が「わたしに触れたのはだれか」と尋ねていますが、イエス様は本当に分からなかったのでしょうか。そうではないと思います。ここでイエス様はある意図があって「わたしに触れたのはだれか」と尋ねていたのです。それは、彼女を公の場に引き出して、励まし信仰を育てるためです。
 四七節に「女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した」とあります。この女は皆の前で、証をしたのです。なぜ主イエスに触ったのか、その理由とたちまち癒やされた次第を証しました。この十二年間どんな思いで、人生を歩んできたのか。その中、主イエスの服に触れれば治るという必死の思いをもって、イエスの服の房に触ったときに、出血が止まったことを証しました。この証は、彼女の信仰告白となりました。
 その信仰の証を表した彼女に、イエス様は言われました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(四八節)。 このイエス様の言葉は、共同体の生活に復帰するために、必要な宣言でした。こうして十二年間も、出血の止まらない病を患っていた一人の女が、イエス様と出会い救われました。癒やされました。

 会堂長ヤイロの恐れ

 ところが、この救いの出来事を目撃した会堂長ヤイロは、心の中で「イエス様、一人娘が死にかけているんです。早く切り上げて、私の家に向かっていきませんか」と叫んでいたと思います。そして、何が起きるのでしょうか。「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。『お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。』」(四九節)。ヤイロは家から来た人から、お嬢さんは亡くなったという知らせを聞くのです。これを聞いたときのヤイロの反応は、聖書に書いてありません。むしろ、イエス様が傍らで驚いているヤイロに、直ちに語りかけるのです。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」
 恐れというのは、心配することです。今ヤイロは、イエス様なら助けてくれるかも知れない、癒やしてくれるかもしれない、その望みをかけて出かけてきたのです。それなのに、途中で十二年間も出血が止まらない女が現れ、彼女から「イエス様」と呼び止めたわけでもないのに、誰かがわたしに触れたとイエス様の方から、探し出すわけです。ヤイロにとっては、この割り込み、中断さえなければ、助かったかもしれない、そう思ったのかもしれません。
 私たちの人生の中でも、このように中断せざるを得ない出来事、想定外の出来事が起こります。まさに三年間続いたコロナ禍がそういうことです。そのコロナ禍によって、私たちは活動を制限され、立てた計画を中止、変更され続けてきました。そのときに、「なぜですか」と問うのが私たちであります。しかし、想定外のことで計画などが中断されるときに、神様は私たちの目をご自身に向けさせるのです。そして、言われるのです。「恐れることはない。ただ信じなさい。」
 今ヤイロは、イエス様から「恐れることはない。ただ信じなさい」という言葉、また彼の家から来た人から「娘は死んだ。もうイエス様には来てもらう必要はない」という言葉、この二つの言葉を同時に聞いています。このとき皆さんがヤイロなら、どちらを選ぶでしょうか。目の前の現実に苦しみ、悩み、恐れても、イエス様の言葉を選んでいくのが信仰です。この後、イエス様はヤイロの家に向かっていきます。つまり、ヤイロはイエス様の言葉を選んだのです。そして、そこで娘が命を吹き返すことを体験することができました。
 三年間のコロナ禍を通ってきた佐倉教会は、二回の教会員懇談会を経て、今年から新しく選出された役員と共に、新しい歩みを始めようとしています。高齢化の中、誰がご奉仕できるのか、という不安の声もありますが、こういうときこそ、何を信じ、どんな言葉に耳を傾けるのかが問われます。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」(四八節)。これからの歩みの中、想定外の出来事が起こるかもしれません。でも先のことを神に、主イエスに委ねていこうではありませんか。そして、「恐れることはない。ただ信じなさい」と語りかけてくださる主イエスの言葉に耳を傾けつつ、またその言葉に励まされて、共に歩んでいきたいと思います。

転入会者より 初めまして お世話になります

○ぶどうの枝第58号(2023年7月2日発行)に掲載(執筆者:YS)

 御名を讃美します。ユーカリが丘教会から新規転入会しましたYSと申します。
 昭和十四年六月十八日に旧満州国撫順市(ぶじゅんし)にて出生、父の病死に伴い家族四人で鹿児島市へ帰国。ラサール高校二年時にウイルキンソン宣教師の司式で鹿児島バブテスト鴨池教会において受洗しました。
 一浪した後、京都大学薬学部に入学。卒業後武田薬品工業研究所に就職。六年の勤務の後、一念発起して大阪大学蛋白質研究所に戻りました。
 二年間の研究所生活を経て、星薬科大学の衛生化学研究室に就職。ドイツフンボルト財団の給費でドイツギーセン大学薬理学研究所へ二年間留学しました。
 ドイツではギーセン教会のワイデマン牧師ほか皆様にお世話になりました。二年後に帰国。その後ユーカリが丘教会を経てこの度転入会いたしました。

転入会者より 生まれ育った信仰は恵み 何度も生を与えられた人生

○ぶどうの枝第58号(2023年7月2日発行)に掲載(執筆者:MT)

 本年四月の復活祭礼拝において、佐倉教会に転会させていただきました。それは私にとっては、新たなる生を与えられた日でもありました。転入式の間に、私の命は神さまに与えられていると確信しました。
 明治時代初期に曽祖父母が同時に受洗してからのクリスチャンファミリー第四世代として、七十五年前に最初の生を与えられた私は、二年後に教団戸山教会(東京・新宿)にて幼児洗礼を受けました。
 幼児期から日曜学校に通い、兄弟姉妹のいない一人っ子であった私は、そのまま大人の礼拝に「参加」していたのです。当時、十歳ほど年上で、戸山教会の現役長老によると、私が礼拝中、皆が讃美歌を歌っているときですら、礼拝堂内を「自由に」歩き回っていても、それは誰からもとがめられていなかったそうです。
 アメリカ人宣教師が、聖書研究会で講話をしてくれたときには、それを父が通訳していました。私は、その始まりには母の膝の上に「おとなしく」座っていましたが数分すると、そこからするりと降りて、勝手気ままに大人たちの間を動いていたそうです。恥ずかしながら、私の信仰生活はそのように始まっていたのです。
 ともあれ、私が今回の転入式の最中に思い出したことがあります。日曜学校の先生から、「クリスチャンがイエスさまの誕生と復活をお祝いするのは、私たち人間はそれぞれの人生の中で、何度も生まれる経験をする。それは神さまからの祝福の印なのだよ」という趣旨のことを話してくれたことです。
 私は日曜学校のほか、クエーカー系の幼稚園に通いました。現在に至るまで影響を受けています。公立中学卒業にあたって、父の勧めで青山学院(曽祖父仙が創立者の一人)高等部を受験することになりました。幸い合格はしましたが、高等部入学よりも中学卒業の頃で思い出すことがあります。その頃、一人の親戚から、卒業というのは「これで終わり」ということではなく、英語でコメンスメントと言い表されるように、今から始まる」の意味なのだ、というのを学んだことです。言い換えれば、入学式だけではなく卒業式も「新たな生」を与えられるときだったのです。その意味では、何事につけ終了する、修了する、別れる、死去するなどは全て、生まれることでもあるのでしょう。
 青学高等部は授業の合間に礼拝のある学校でした。宗教部に入った私は「大人の聖書」を読むようになりました。三年生のときでしたか、講堂に集められた全校生や教員の前で、証しをする機会を与えられました。多人数の前で話をする最初の経験でした。何を話したかは覚えていません。
 堅信礼(教団戸山教会)を受けたのもその頃でした。私がキリストにあって生まれる(生きる)意義を強烈に体感したのは、宗教部の夏休みの活動、「キャラバン」でした。埼玉、千葉、神奈川など近隣地方都市や農村へ、教員(物理の先生でした)に引率され「キャラバン」と称して、そのときの日曜学校のプログラムを担ったのでした。自分たちと年齢差のある小中学生と接することで、教えることは教えられることを学びました。
 青山学院大学教育学科に進学しました。教師になりたいということよりも、教育というものの社会的意味と可能性について関心があったからです。教会ではなぜか、青年会長を務めていました。キリスト教界というコミュニティにどっぷりつかった「ごく普通の真面目な青年キリスト者」でした。
 私の人生観を大きく揺るがしたのは、やはり大学一年夏(一九六六年)のことでありました。国際エキュメニカルワークキャンプを体験したからでした。世界各国の青年たちが集いました。東京奥多摩にて、福祉施設の敷地整備をし、汗を流したのです。宗派を超え、国際基督教大学チャップレン夫妻、イエズス会神父、カトリック修道女は日本人でしたが、三、四名の日本人学生以外は国際色豊かな若者たちでした。共に祈り、支え合い、丸二週間、寝食を共にしたのです。毎日が新発見の連続でした。幾つもの言語が飛び交っていましたが、共通語は多様ながらも英語でした。
 教育学専攻の私は、国連教育科学文化機関(ユネスコ)に興味を持つようになりました。当時の私の夢は、ユネスコ職員になることでした。それはそれとして(実現しませんでしたが)、日本ユネスコ連盟という団体が学生国際交流の一環として、韓国訪問ツアー計画のあることを知ったのです。早速応募しました。それは、いわゆる日韓条約締結の一九六五年十二月から一年も経過していないときでした。
 滞在は一週間ほどでしたが、生まれて初めての外国で、韓国人学生やホストファミリーの温かい対応に恵まれました。一つ、ビジュアルに私の記憶に残っているのは、ソウルの夜の街中にたくさんの灯り付きの十字架が輝いている風景です。
 帰国後、父にそういった報告をしました。そこで初めて知らされたことがありました。「明治十四年、朝鮮朝廷は新生日本に使節団を派遣した。アンジョンスは農業担当であったため、農学者仙(私の曽祖父)を訪問。仙は農業事情講義のあと、〈山上の垂訓〉の掛け軸の寄贈を申し出た。アンは朝鮮では基督教が禁止されているためと、辞退した。ともあれ、そういう交流が、朝鮮にキリスト教(プロテスタンティズム)がもたらされる契機となった」とのことです。私は不思議なつながりを感じました。
 さて、私は大学二年の春休み(一九六八年)に一人、米国とカナダをバスで一周する旅をしました。六六年夏のエキュメニカルキャンプ、親交、そして信仰を深め合った仲間を訪ねながら移動したのです。ちょうどベトナム戦争の真っただ中でもありました。各地の大学キャンパスでは、反戦と和平のための運動が盛んでした。男子学生とっては自分たち、女子大生にとってはボーイフレンドの命に関わる切実な問題だったのです。ベトナムに行けば死ぬかもしれない、敵を殺すかもしれないのが戦争であることを現実として認識していたのです。
 同じアジアの隣国ベトナムが南北に分断され、戦争を起こしていたのです。そこに生きている人々について、知識も関心も全く持っていなかったこと、つまりは平和ボケしている日本人である自分に気付かされました。
 更に強い印象を受けたのが、アメリカ人、カナダ人を問わず学生たちに見られる、キリスト教諸宗派のみならず、宗教の壁を超え、「無神論者」をも含めて、和平の実現を求める姿勢のあることでした。
 以上述べてきた様々な見聞があり、大学卒業までには、少しばかり、日本人らしくない日本人(?!)、クリスチャンらしからぬクリスチャン(?!)になっていたようです。
 卒業後に決意した私の進路は、フィリピン国立大学大学院への進学でした。日本人留学生はほとんどいませんでしたが、ホストファミリーに恵まれました。たまたま、フィリピンは国民の九割近くがクリスチャンという、アジア最大の「キリスト教国」でしたので、私はまたまた新しい社会に生まれることになりました。文字通り、エキュメニズムの精神をもって社会変革をしていこうとする強い人々に出会ったのです。生涯の友となる配偶者も与えられました。
 それからおよそ五十二年間がたちました。生を幾度も与えられている恵みに感謝するこの頃です。
 私たちは転入会したり入学したりするだけでなく、卒業する、修了する、終了する、別れる、など生きているうちには、何度でも生まれるのです。確実に一回だけの出来事は死去することです。しかしそれが天国に召される(召天する)ときなのでしょう。

奨励 最も影響を受けたヒト 闘病生活の中での確信と喜び

○ぶどうの枝第58号(2023年7月2日発行)に掲載(執筆者:FH)

 私が佐倉教会に転入会を許されたのは二〇二一年八月で、その前年の九月に埼玉から千葉へ引っ越してきました。そして、その契機は、二〇一六年二月に妻が五十二歳で天に召されたことにあります。
 妻は四十二歳で乳がんと診断され、四十四歳のときに胸腰椎に転移が見付かりました。乳がんと診断されたときは、看護師だったせいか、病名を聞いても大きな動揺はなく冷静に受け止めることができたと言っていましたが、転移が見付かった際には、これだけの痛みや苦しみに耐えて治療を進めてきたのに再発してしまった、もう完治は望めないのではないかという脱力感が大きかったように見えました。
 召される一年くらい前から痛み止めにモルヒネを常用するようになり、半年前には一人で通院することも難しくなりました。
 一月に入って、主治医から「打つ手がなくなってきている」と告げられた際には「まだ心の準備ができていません。でも、主に叫んで助けを求め続けていくしかありません。どうぞ共に祈ってください。」と何人かの方々へメールしていました。また月末に緊急入院して「腫瘍マーカーが三週間で三倍になっている」と言われたときには「体が辛いと気持ちが萎えそうなりますが、そばにいてくださるイエスさまに安心して、癒やしの御手を信じて過ごします」「やはり神様を信じるクリスチャンとして神様に呼ばれたときは穏やかに従いたいと思います。それが私の生き方だから。」とメールしていました。
 召される十日ほど前に、私は担当医から「余命数ヶ月、今の状態だと数日でもおかしくない」と話をされ「会わずじまいになっている友だちにも近況報告をしたら?」と説得して、妻の想いを私が口述筆記した手紙は「今後のことは、よく解りませんが、全て御存知で壮大な御計画をされている神様を信じて、一日一日を過ごそうと思います。不安や恐れがないと言えば嘘になりますが、不思議に心は平安です。出会いを作ってくださった神様の恵みに心から感謝しています。本当に、ありがとうございました。」と結んでいました。たぶん、状況が解っていたのでしょう。
 新約聖書の「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケの信徒への手紙一 五章一六~一八節)は、妻が『私の葬儀の備え』にメモしていた箇所です。妻は、最期の一~二年、少し聖書を読み祈って就寝することを習慣にしていました。がんになって、失ったものは測り知れなかったと思いますが、神様がいつも一緒にいてくださるという確信と喜び、今日一日を何事もなく送れたという安堵と感謝を心の底から感じるようになったように見えました。
 もう一か所、旧約聖書の「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」(エレミヤ書二九章一一節)もメモしてありました。「どうして自分がなったんだろうなぁ」といった思いが、聖書を読み祈る中で、人間の目には災いと見えても、神様が私たちのために立てられた計画には、全て平安と希望があると信じられるようになっていったのだと思います。
 私自身「ナゼ妻をお取り去りになったのですか?僕が自分のことしか頭になく、妻に想いが至らなかったせいですか?」と何回となく祈り尋ねました。答えがおぼろげながら浮かんでくることはあっても、ほとんどの場合、神様は沈黙されたままです。しかし、人生を歩む中で、時にナゼと問わざるを得ないことが起こっても、たとえ神様は沈黙されたままであっても、いつでも祈り尋ねることができる唯一無二の方がいらっしゃること、そして喜びのときも悲しみのときもその方が共に人生の歩みを担ってくださっていることは、本当に有り難いことです。
 今、私は新しい家族との歩みを始めています。新しいパートナーとは、お互い五十年、六十年と生きてきたわけですから、それぞれの生活習慣や価値観があって、時にぶつかることもあります。でも、全て神様が立てられた計画、妻も応援してくれているに違いないと信じ、思い悩んだら信頼できる唯一無二の方に祈り尋ねることを繰り返しながら、乗り越えていこうと思っています。
 そして、妻のように、喜びと感謝を絶やさない揺るぎないクリスチャンになれればと思っています。
 (本稿は、本年二月十二日におけるHさんの礼拝奨励からご寄稿いただきました)