神様の御心を受け入れる マリアの信仰と決心 ルカによる福音書一章二六~三八節

○ぶどうの枝第57号(2022年12月25日発行)に掲載(執筆者:金 南錫牧師)

 この聖書箇所は、「受胎告知」と呼ばれるところで、天使ガブリエルがマリアに神の御子を宿すことを告げる場面です。二六節、二七節です。 「六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。」 この「六か月目に」というのは、洗礼者ヨハネが高齢になっていた母エリサベトの胎に宿ってから六か月目ということです。その時に、天使ガブリエルがマリアの元に遣わされました。神様はこのマリアに目を留めて、天使を遣わしたということです。 では、マリアという女性はどんな人だったのでしょうか。まず、ガリラヤ地方のナザレの町に住んでいました。ガリラヤ地方というのは、イスラエルでは、北のはずれの方に位置します。中心のエルサレムからは遠く離れた辺境の地です。しかも、ナザレの町は田舎の小さな町にすぎませんでした。また、マリアはヨセフという若者と婚約をしていました。相手のヨセフはダビデ家の人であったとあります。これは、ヨセフと結婚することで生まれてくる子どもは、ダビデの子孫となることを意味しています。マリアについてはこれだけのことしか分かりません。ところが、イスラエルの女性の中から、たった一人選ばれるにしては余りにも普通の人のように思われます。マリアはナザレという小さな町の普通の若い女性でした。神様はそのマリアを救い主の母となる人として選ばれました。 次に、天使ガブリエルはマリアにどんなことを告げたのでしょうか。三一節です。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」なんとまだ結婚していないのに、「あなたは身ごもる」というのです。しかも、生まれてくる子どもは男の子で、「イエス」という名前まで指定されます。続いて、三二節、三三節です。 「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」 生まれてくる男の子が「いと高き方の子と言われる」ということは、その子が神の子であることを意味しています。そして、その子はかつてイスラエルの王であったダビデのような王様になって、永遠にこの国を治めるようになると告げるのです。それは、イスラエルの民が昔から待ち望んできた救い主なるお方が、ようやくマリアのお腹から生まれてくることを意味していました。

 天使のお告げを受け止める

 マリアは天使のお告げをどう受け止めたのでしょうか。まず、天使の挨拶に戸惑いました。いきなり天使が現れて「おめでとう、恵まれた方」と言われても、「いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」わけです(二九節)。また、告げられたことを聞いて、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と言っています(三四節)。つまり、「あなたは男の子を産む」と告げられても、まだ結婚前の身でしたので、子どもが生まれるということは常識ではあり得ない、理解できないというのです。 これに対して、天使はこう答えます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(三五節)。聖霊なる神の力によって、あなたは身ごもるのだというのです。そして、さらにこう言いました。「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない」(三六、三七節)。これを聞いて、マリアはこう言いました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(三八節)。マリアは天使の言葉を信じて、告げられたことをすべて受け入れて、これから自分の身に起こることを委ねる決心をしました。 では、マリアはどうして天使の言葉を受け入れることができたのでしょうか。マリアに告げられたことは、確かにイスラエルの人々にとっては喜ばしい知らせでした。なぜなら、昔から待ち望んでいた救い主であり、この国の王となる方がようやく来られるというからです。しかし一方で、マリア個人にとって、それは都合の悪いことでもありました。まず、婚約相手のヨセフがこんな話を信じてくれるだろうかという心配があったわけです。常識ではあり得ないこと、理解できないことですから、信じてもらえないだろうと予測をされます。そうなると、ヨセフから婚約を破棄されます。また、婚約中で身ごもるということは、当時の掟では、石で殺されなければならない姦淫の罪であり、社会の交わりから疎外され、共同体から分断されることを意味しました。要するに、イスラエル全体にとっては喜ばしい知らせでしたが、マリアにとっては都合の悪いことでした。また、マリアの命に関わるようなことでした。 ところが、マリアはそれが自分にとって都合が悪いというようなことは考えなかったようです。彼女の言葉を見ると、驚いたり、戸惑ったりはしていますが、天使の言葉を拒んではいないのです。普通であれば、自分にとって都合がいいか、悪いかを考えるのです。そして、自分にとって都合が悪ければ、「いいえ、結構です」とお断りすると思います。でもマリアは、そういうことを一切考えないで、イスラエルにとって、これは良いことだと受け止めたわけです。そして、何よりもそれが、神様が望んでおられることで、神様の御心だということを素直に受け入れたのです。つまり、天使から告げられたことは常識では理解できないことでした。しかし、マリアは天使の言葉を聞いて、それを神様の御心であり、民全体にとって喜ばしい知らせだと受け止めたのです。また、「神にできないことは何一つない」という言葉を素直に受け入れて信じました。一切を委ねる決心をしたのです。そして自分の身を通して、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と応答しました(三八節)。 ここには、全能の神様を信じて、一切を委ねていくマリアの信仰が表されています。そして、神様はそのマリアの信仰を用いてくださったのです。こうして考えてみると、マリアがなぜ選ばれて、救い主の母として用いられたのか、分かるような気がします。マリアのように、私たちも神様の言葉に、信仰によって応えていきたいと思います。