神の導きを信じるヨセフの信仰 創世記四五章一~二八節

○ぶどうの枝第56号(2022年6月26日発行)に掲載(執筆者:金 南錫牧師)

 今まで、自分の身をあかそうとしなかったヨセフはいよいよ兄たちに身をあかしました。また、同時にヨセフはこれまでの人生に起こった出来事を振り返って、神の視点から自分の人生を再発見することができました。それはどんなことだったのでしょうか。
 兄たちの悔い改める姿を見て、ヨセフは自分を抑えきれなくなりました。そして、家来たちを部屋から出させて、声をあげて泣きました。ヨセフは、兄たちが以前とは違って、末の弟ベニヤミンを守ろうとした姿を見て、二十二年前に自分を見捨てたときの兄たちとは違うことが、よく分かったわけです。そして、ようやく自分がヨセフであることを兄弟たちに告白します(三節)。当然ながら、兄たちは驚きのあまり、答えることができませんでした。また、同時にかつて自分たちがヨセフに対して犯した罪のことを思い出し、ヨセフの復しゅうを恐れていました。驚き恐れる兄たちにヨセフは、「わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」と言っています(五節)。ヨセフは兄たちをゆるしていました。かつて兄たちに憎まれてエジプトに売られたことを一切言わないで、逆に兄たちのことを心配し、気遣っているのです。
 では、ヨセフはどうして兄たちをゆるすことができたのでしょうか。それは、ヨセフが神の方を見ていたからです。兄たちからされた理不尽なこと、売られた者としての悲しみ、奴隷としてのつらい生活、ポティファルの家で誤解された者としての孤独、そして無実の罪によって監禁されなければならなかったときの絶望感など、ヨセフの人生は悲しいもの、つらいもの、そして傷に満ちたものでした。その心の傷はエジプトの総理大臣になったとしても、消えることはありませんでした。そのように、人だけを見ていたら、恨みつらみが湧いてきて、心の傷を忘れずに、根に持ってしまうのです。
 しかし、ヨセフは神の方を見ていました。神の視点から自分の人生を見ようとするとき、そこに起こるすべての出来事が、神の導きの中にあることを信じるようになりました。「なぜ、自分がエジプトに売られてこなければならなかったのか」「なぜ、自分が理不尽な苦しみが絶え間ない人生を過ごさなければならなかったのか」。自分の人生のすべての「なぜ」に意味があったことに目覚める瞬間でした。

 神の大きなご計画

 エジプトに売られる前のヨセフの言動を見ると、ヨセフもはじめは父親に甘やかされた、生意気な人間でした。しかし、ヨセフは今「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」と言っています。つまり、自分がエジプトに売られたのは、神の導きによるものであると受け止めることができたのです。このヨセフの言葉は、神の視点から自分の人生を見ようとするとき、どのような素晴らしい変化が起こるかを私たちに教えています。
 なお、六節以下を見ると、飢きんはあと五年続くことが、ヨセフに示されていました。家族がその飢きんを生き延びるために、先にエジプトに来た自分が権力者となって、家族をここに招くように、神様が取り計らってくださったと言うのです。九節、一〇節に「急いで父上のもとへ帰って、伝えてください。『息子のヨセフがこう言っています。神が、わたしを全エジプトの主としてくださいました。ためらわずに、わたしのところへおいでください。そして、ゴシェンの地域に住んでください。そうすればあなたも、息子も孫も、羊や牛の群れも、そのほかすべてのものも、わたしの近くで暮らすことができます』」とあります。
 確かにヨセフがエジプトに来たのは、兄たちがヨセフを憎んだからでした。でも、そのことも神の方から見れば、神様の大きなご計画の中でなされたことだと、ヨセフは受け止めたのです。こうしてヨセフは兄弟たちに、父と家族を連れて、このエジプトに移り住んでくださいと、彼らを招待します。
 その後、ヨセフの兄弟たちがエジプトに来たという知らせは、ファラオの宮廷にも伝えられました。それを聞いて、「ファラオも家来たちも喜んだ」とあります(一六節)。なんとファラオが自分のことのように喜んだのです。そして、ファラオは最高のもてなしをして、ヨセフの家族をエジプトに迎えようとしました。
 ファラオの命令に従って、ヨセフは兄たちに車と食糧を与え、さらに晴れ着をそれぞれに与え、父の贈り物も用意されました。やがて兄たちは、父親の元に戻り、すべてを報告します。「ヨセフがまだ生きています。しかも、エジプト全国を治める者になっています」(二六節)。これを聞いて、ヤコブは「気が遠くなった」とあります。信じることができなかったのです。しかし、ヨセフから自分を乗せるために送った車を見て、気を取り直すことができたのです。それほどヤコブにとっては衝撃的な報告でした。ですから、ヤコブが「よかった。息子ヨセフがまだ生きていたとは。わたしは行こう。死ぬ前に、どうしても会いたい」と言ったときには、死んだと思っていた息子に会いたい一心であったのです(二八節)。こうして、ヤコブはエジプトに向かうことを決心しました。

 神の視点から再発見

 今日の箇所において、ヨセフは、自分の人生のすべての出来事が、神の導きの中にあったことを信じるようになりました。ですから、ヨセフは、五節の後半で「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」と告白しています。
 また、七節に「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは」とあります。そして、八節、九節で「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神が、わたしを全エジプトの主としてくださいました」と証しているのです。これが、ヨセフの信仰でした。神の導きを信じる信仰です。神の導きを信じることは、自分の人生の全ての出来事を神の視点から再発見することです。人生に起こる喜怒哀楽の全てを神の視点から見ようとするとき、意味のない苦しみは一つもないことにつながります。ヨセフの場合、かつて見た夢のことも、兄たちに憎まれてエジプトに売られたことも、また、牢獄に入れられて、そこで二人の役人に出会ったこと、そしてエジプトの総理大臣になって、今兄たちと再会を果たしたことも、全部つながっていたのです。
 その背後には神様の導きがあったのです。私たちもそれぞれにいろんな不思議な出会いや出来事があって、今につながっているのです。「わたしをここへ遣わしたのはあなたたちではなく、神です」と言ったヨセフの信仰は、神の導きを信じる信仰です。その神に全てを委ねて、残された人生を全うすることができますよう、祈り願います。