随想 御言葉に導かれて 信じて祈り急がないで待つこと

○ぶどうの枝第57号(2022年12月25日発行)に掲載(執筆者:KI)

 私は終戦の次の年、東京中野で三人姉妹の次女として生まれました。戦後の混乱した食糧事情の悪いときでした。家は日用品、雑貨などを売る小間物店をしていました。家族共に懸命に働きましたが、暮らしは楽ではありませんでした。子どもたちには、学習塾、習字、ソロバン等を習わせてくれました。父は優しく子煩悩な人でした。母は、おそろいの服やセーターなど手作りしてくれました。
 母はそのような生活の中で、心のよりどころを信仰に求めるようになりました。最後に導かれた所は、「単立シオンの群教会」でした。その頃は、早天祈祷会があり、朝早くから祈りが熱心にささげられておりました。今でも目に浮かぶのは、一心に祈っている母の姿です。
 母の影響で家族全員教会に行くようになり、私たちは日曜学校に休まず行くようになりました。御言葉のカードをいただくのが楽しみでした。小学校六年のクリスマスの写真には、五十数名の日曜学校の生徒の中に、プレゼントを抱えている私と妹、懐かしい友が写っていました。日付は、昭和三十四年十二月二十一日と記してありました。
 高校二年生のときに夏の奥多摩「鳩の巣聖会」で高校生二人と共に洗礼を受けました。
 「事実、あなたがたは恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(エフェソ二章八節)
 神様に罪許され、救われた喜びと新しい出発でした。
 昭和四十六年、牧師の司式により同じ教会員の石橋信雄兄と結婚式を挙げました。青年会員は、二十数名いましたが、熱心に主に仕えていました。夜の集会の前には、「ただ信ぜよ」と歌い、太鼓をただきながら、所々で証しをして路傍伝道をしていました。献身して牧師になられた方が何人かいました。ある方は召命をいただき、それぞれの所に導かれていきました。
 その頃実家ではお店をやめて「しらゆり学習塾」を経営し、姉と私は小中学生に学習、父は書道、母は和裁を教えていました。
 結婚してから十年過ぎた昭和五十七年、主人の両親と一緒に住むために市川に引っ越しました。船橋の「中山キリスト教会」に導かれました。市川の地で子どもたちは育っていき、学校を卒業し就職して家を離れていきました。父は、大正、昭和と生きて平成元年に亡くなり、母は晩年主を信じて天に召されました。やがて二人となり、自然豊かな田舎に住みたいと思うようになりました。
 祈りが応えられ、平成十一年いすみ市岬町に引越しすることができました。教会は太東駅から二分の「岬キリスト教会」に導かれました。引越の日は、台風のような大雨の中、引越しの車がぬかるみにタイヤをとられ「主よ、主よ」と声をかけながら荷物を運び入れることができました。その年の秋に田舎暮らしに必要な車の免許を取ることができました。私は五十三歳、主人は仕事を辞めて取ったのは六十六歳のときでした。自然あふれる田舎での生活は、身も心も癒やされて信仰生活を送ることができました。
 「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(フィリピ二章十三節)
 試練の中も通りました。ヘルパーの仕事をしていたときのことです。雪の道で滑り膝を骨折しました。一か月入院し、手術・リハビリと順調に回復しましたが、ボルトを抜く二回目の手術を待っていました。逆流性食道炎から食べられなくなり、体重は減り痩せて夜も寝られなくなりました。病院で診てもらえば治るとの思いで次々と病院を巡りました。最後に行った鴨川の亀田病院では、心療内科へ行くようにとの結果でした。体だけではなく心も病むんでいました。
 「苦しみにあったことはわたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました」(詩篇一一九篇七一節口語訳)
 私が学んだことは、必ず癒やされると信じて祈ること、静かに忍耐強く急がないで待つことでした。平成二十六年家と車を処分して、終活のために京成佐倉の駅近くに引越しました。主は時と場所を備えてくださいました。近くの「佐倉教会」に導かれ、神の家族とさせていただきました。
 「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(マルコ三章三五節)
 聖書の御言葉は、若いときから今日に至るまで、悲しみの日には慰めと平安、生きる勇気を、また、喜びの日には感謝をもって更に前進する力を与えてくれました。
 私の好きな御言葉は、
「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人は」日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほどの重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(コリント二 四章一六~一八節)
 私たちが神を信じて従っていくとき「内なる人」を強くし、その人は見えない世界を見えるかのように信じて望んでいく生き方がされます。日々新しくされて、御言葉に立って生きる者でありたいと願っております。