随想 私の一日の始まり 万事が共に働いて益となる

○ぶどうの枝第59号(2023年12月24日発行)に掲載(執筆者:SK)

 昨年三月、不注意によるけがで車椅子の生活を、そして今年二月悪性リンパ腫が発見、ようやく杖歩行ができるようになったのに、歩く力がぐっとなくなり、現在歩行器を使って、日常生活を送っています。
 といっても、たくさんの方々の支えによる生活です。紆余曲折を経て、今は民営の高齢者介護の施設で生活をしています。年齢を重ねることの大変さとともに、初めて経験することがたくさんある生活でもあります。一人で歩き、一人で食事を作り食べる当たり前の生活ができていた頃にはとても思いつかない生活です。
 ご病気の方からの便りに対して、「手を合わせて主に祈ることはできます」などと書いていましたが、さて、自分での歩行が難しく、一人で生活が困難になったとき、手を合わせることはできても、祈ることができませんでした。祈る心が出てこないのです。一体私の信仰は何だったのでしょうか。若いときからの信仰は、…恥ずかしい限りです。
 ある日、礼拝に出席できずにいた私に電話です。呼び覚まされた感じでした。「私のことを心にかけてくださる人が…」と、まず主に依り頼み祈ること、そして聖書を読もうと、さらに、礼拝説教(CD)が大きく後押ししてくれました。
 何度も繰り返し聞いた「ヨセフ物語」の説教は、正に「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています」(聖書協会共同訳、ローマ八章二八節)、そのものです。
「私の息子たちを遠くから、娘たちを地の果てから連れて帰させよ。
 それは、私の名で呼ばれるすべての者
 私の栄光のために創造し、
 形づくり、私が造り上げた者。」
  (聖書協会共同訳、イザヤ四三章六~七節)
 わたしもその中の一人として造られた者なのです。感謝しかありません。朝、カーテンをあけ、向こうに見える小さな丘に向かって
「わたしは山々に向かって目をあげる。
 わたしの助けはどこから来るのか」
  (聖書協会共同訳、詩編一二一編一節)
 と自然に口ずさんでいます。こうして私の一日は始まります。ようやくたどりついたこの頃です。