エノクの生涯が示すもの 神と共に歩む信仰生活を 創世記五章二一節~二四節

○ぶどうの枝第54号(2021年6月27日発行)に掲載(執筆者:金 南錫牧師)

 創世記五章には「アダムの系図」という小見出しが付けられていて、二一節にエノクという人物が出てまいります。二一節から二四節です。
 「エノクは六十五歳になったとき、メトシェラをもうけた。エノクは、メトシェラが生まれた後、三百年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。エノクは三百六十五年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」
 五章に出てくる他の人は、何百年生きて、そして死んだというふうに書いてありますが、このエノクに関してだけは、「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」と書かれています。
 神に創造された人間は、神の息を受けて初めて生きるものとなりました。つまり、人間は神と共に歩くように造られたのです。そして、エノクはそのように神と共に歩みました。だから、「神と共に歩み」ということが二度も強調されて記されています。ところが、「神と共に歩み」という表現は、エノクが正しい人間であったとか、罪を犯さない人間であったとか、そういうことではありません。エノクも人間としての限界を持っていたでしょう。しかし、そういう人間が平凡な生活の中で、神に出会い、神に支えられて生きていくことが「神と共に歩み」という言葉の中に含まれていると思います。
 ここで、エノクは地上で何をしたということは一切書かれていません。どういう仕事をして、どういう業績を残したなど、何にも書かれていません。ただ、一つ言えることは、エノクは神と共に歩んだのです。それだけが彼の人生について言える事柄でした。だから、ひょっとしたら彼は仕事に失敗し、何回か挫折した経験があったかもしれません。また、罪を犯したかもしれません。エノクは弱さと限界を持つ普通の人間でありました。しかし、そういう人間が神と共に歩んだのです。そして、エノクは死んだのではなく、「神が取られたのでいなくなった」とあります。 このところをヘブライ人への手紙一一章五節、六節では、こう解釈しています。
 「信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです」。

 エノクの召天の意味

 神様が不思議な形で介入されることによって、エノクだけが他の人とは違った形で、天に上げられました。それは、イエス・キリストによって示される復活の予告のような気がいたします。イエス様は、まさに神の子として、最も忠実に「神と共に歩んだ」方でありました。それゆえに、神の意志として十字架につけられました。私たち人間の代表として、「死」を経験されます。そこはエノクと違うところですが、神様は、そのイエス・キリストを死者の中から復活させて、天へと移されました。ですから、エノクの生涯は、イエス・キリストのことを指し示していると言えます。
 また、そのイエス・キリストに続く私たちの命をも、エノクは指し示しているのです。それは、イエス・キリストに続いて、神の言葉を受け入れて、神と共に歩む者は、エノクのような生涯を送るということです。
 ですから、「神と共に歩む」とは、神の言葉に従う信仰生活のことです。信仰生活は、劇的な体験より、日々の平凡な日常生活の繰り返しの方が多いのです。エノクは日々の生活の中、良いときも都合の悪いときも、神の言葉に従う信仰によって生き抜きました。ここに神に喜ばれる彼の信仰の生涯があったのです。

 神が私たちを捉える

 「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」とあるように、エノクの命は、そのまま神の御手に委ねられました。私たちは「神と共に歩む」ならば、たとえこの地上の死を経験しようとも、それは完全な終わりではないのです。永遠の命が約束されているのです。イエス様はこう言われました。
 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネによる福音書一一章二五、二六節)。
 エノクの人生を一言で言い表せば、「神と共に歩む人生」であります。私たち一人一人の人生、これを一言で言い表したら、どういうことになるでしょうか。「私は生涯家族のために、一生を過ごした」。このような生涯も、それなりに意味があるに違いありません。しかし、「彼は神と共に歩んだ」と要約されるような生涯を送りたいものです。三浦綾子さんが書いた『旧約聖書入門』という本の中、こう書いてあります(六六頁)。
 『「神と共に歩み」と書かれているのは、エノクだけである。エノクの生涯はわずか一行に過ぎない記述だが、これは偉大なる生涯なのかもしれぬと、説教に聞いたことがある。彼はその信仰のゆえに、死なずに、神に取り去られて天に昇ったと当時の人々は思ったに違いない。私たちが死んだとき、一行で私たちの生涯を誰かが記すとしたら、果たして何と記してくれるだろう。「彼は一代にして財をなし、七十五歳で死んだ」「彼は、何某と結婚し、男と女を産み、九十歳で死す」といったところであろうか。それともスタンダールのごとく、「生きた、恋をした、死んだ」であろうか。「神を信じ、人を愛して死んだ」と書かれる生涯は送る人は、まれであろう』
 聖書は、神と共に歩んだエノクを、「神が取られたので、いなくなった」と語っています。つまり、神が主体なのです。エノクが苦労して、道を開いて、どこかに到達したという話ではなくて、神の方が手を伸ばして、エノクを取られたのです。つまり、自分が一生懸命神に向かっていたつもりですが、神の方が自分を捉えていてくださるのです。それが信仰の歩みです。
 私たちの人生も同じです。私が主体となって、一生懸命神の手を握りしめて生きるのですが、その手はやがて衰えていきます。しかし、神の方が私をしっかりと捉えるのです。そして、ご自分の元に引き寄せてくださるのです。私たちの人生の歩みはいろいろな難しい問題を一杯抱えています。
 今年も、まだ終わりの見えないコロナ禍の中、神と共に歩むことによって、やがて神が私たちを捉えて、ご自分の元に引き寄せてくださることを信じ、すべてを神に委ねましょう。そして、二〇二一年度の歩みが、神と共に歩む信仰の歩みとなりますように、祈り願います。
 「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」(創世記五章二四節)