転入会者より 主の備えの許に 沖縄の旅を終えて思う

○ぶどうの枝第54号(2021年6月27日発行)に掲載(執筆者:FI)

 懐かしい佐倉教会に再び帰り、教会生活ができることを感謝します。しばらく私は、沖縄でフードバンク活動をライフワークに、十三年間過ごしました。沖縄は、亜熱帯の自然豊かなリゾートではありますが、歴史的、文化的、民族のDNAも違う、日本語が通じる異国。ここで自らが「ヤマト(大和、本土)の人間」という異質なタイプの日本人であることを初めて意識させられました。
 そんな異文化の中で、明るく屈託ないウチナーンチュたちにも、ふとしたときに表れる心の陰りを感じることがありました。それは、沖縄戦で受けた今も癒えない傷がヤマトンチュウ(大和の人)には理解されないことへのわだかまりなのか、特に高齢者から感じさせられました。お互いに違和感を持ちながらも、お互いを受け入れ文化を分かち合いながら、志を共にする、「NPOフードバンクセカンドハーベスト沖縄」(第二の畑の意)を通じての生活が始まりました。
 メディアでは報道されない実情も次第に分かってきました。温暖な地ゆえに流れてくるホームレスの人たちも多く、母子・父子家庭の困窮世帯の多い中で、本来の「ゆいまーる(助け合い)」の精神がお互いを支え合う原動力になっていることも分かりました。
 私は、なぜここにいるのだろう。縁もゆかりもないここに導かれた意味は何だったのかとふと思うことがありました。
 二〇〇三年、伴侶の死を機に十五年関わっていた「いのちの電話」を退局、そのときの喪失感のつらさから逃れるようにたどり着いた沖縄でした。生きる目標をなくしていたこの頃、東京のフードバンクのことを知りました。「これからはこれだ」と直観、何度目かの沖縄旅行中、友人から沖縄にもフードコートというものができて、近日、勉強会があるとの知らせに、「主の山に備えあり」と喜び、直ちに出席しました。熱っぽく語る三十歳代の主婦の姿に心打たれ、趣旨にも賛同できて、旅行中にもかかわらず、ボランティア登録をして帰宅しました。そして、車に荷物を積み、一か月後には那覇市民になっていました。
 「フードバンク」とは、まだ十分食べられるにもかかわらず、期限が間近などの理由で捨てられてしまう「もったいない食品」を企業や個人から無償で譲り受け、適切な管理の下に生活困窮者や必要とする支援団体などへ無償で提供する活動です。沖縄は、貧困率も高く、その必要性が求められています。
 一方、食料を輸入に頼る我が国は、輸送にかかる二酸化炭素により環境負荷がかかり環境汚染や地球温暖化の一因にもなっています。
 聖書には、初め天地を創られた神様は、人間を祝福して「産めよ、増えよ、地に満ちて、地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這う生き物をすべて支配せよ」とあります。しかし、「従わせよ」「支配せよ」の意味は、「お互いに支え合って一緒に住む」というそうです。神の見えない御手に支えられてこそ「非常に良かった」状態が継続できるのです。けれども今や人は、海も空も地上も支配し、殺りくを繰り広げ、支配の限りを尽くしています。
 多くの飢えた人たちのいることも忘れ、食物は常にあるのだという錯覚の中で、食べ物を無駄にしたり、飽食に走る人間に、「父よ彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ二三章三四節)との御言葉が胸に響きます。そして、「この地を滅ぼすことがないように、わたしはわが前に石垣を築き、石垣の破れ口に立つ者を彼らの中から探し求めたが、見いだすことができなかった」(エゼキエル書二二章三〇節)。この厳しく迫る御言葉の前で、ただ立ち尽くすことしかできない者です。
 それでもなおも赦し憐れんで愛の御手の下にお取り成しくださる主に希望を持って、御旨に叶うような歩みが少しでもできるように願うばかりです。この沖縄での日々は、私自身の生き方が問われ、歩みを軌道修正させてくれた、誠に主が備えてくださった学びの場となり、心を癒やされた旅となりました。深い感謝をもって。
(注)
・ウチナーンチュ…沖縄生まれの人のこと
・ヤマトンチュウ…沖縄県以外の人のこと