2022年10月30日「水をくみに来た女」

北総分区交換講壇 富里教会 吉田和子先生 ヨハネによる福音書4章1-42節

 イエス様はご自分がユダヤの地にとどまることで騒ぎが起こると予想され、ガリラヤに戻ろうとなさいました。その途中のシカルという町での出来事です。時はお昼過ぎ。イエス様は一人で井戸のそばに座っておられました。そこへ一人のサマリアの女が水を汲みにやってきました。彼女とイエス様の何気ないやり取りが始まります。彼女はまさかイエス様が自分との出会いを予め準備された上でそこに座っておられたとは全く知りませんでした。しかしイエス様は既に彼女のことは何から何まで知っておられました。世間では身持ちの悪い女と蔑まれていても今、心から真の神への礼拝を望む渇いた心を持っていること。イエス様は神が求めておられるのは霊と真理をもって真の神を礼拝する者であるとの大切な礼拝の奥義を語られました。イエス様と出会ったこの日からサマリアの女の人生は全く新しいものになったに違いありません。

 思い返せば私達も一人一人思いがけない時に、思いがけない所で、一方的な神様の選びによってイエス様と出会うことを許されました。罪深く弱い私たちのことを知って選んで下さった神様の愛に応えて、私たちも出かけて行って、それぞれにふさわしい実を結べる人生を歩んでゆきたいものです。

 

2022年10月23日「起きなさい」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書7章11-17節

イエス様がナインという町の門を近づかれると、あるやもめの一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだったのです。夫も失い、一人息子を失った母親の気持ちというものは、もう慰められることさえ願わない、深い嘆きなのです。主イエスはこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくてもよい」と言われました。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいた人たちは驚いて、立ち止まったのです。そこでイエス様は「若者よ、あなたに言う。起きなさい」とおっしゃったのです。すると、息子は起き上がりました。

今、復活の主が、私たちに「あなたに言う。起きなさい」と語りかけているのです。教会の歩みは、死への行進ではないのです。教会は死を打ち破り、死から復活された主イエスを先頭にした、神の国へと向かう群れです。

2022年10月16日「百人隊長の信仰」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書7章1-10節

「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」(6-7節)。

百人隊長は軍隊に身を置くものとして、言葉の権威というものがどういうものであるか、よく知っていました。そして、百人の隊長にすぎない私でも、言ったことがその通りに成るのであれば、神の権威を持つ、あなたの言葉をください。「ひと言おっしゃってください」そうすれば「僕は治ります」というイエス様の言葉に対する熱い信頼があったのです。イエス様はこれを聞いて感心しました。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」これほどの信仰とは、神の言葉は必ずその通りに成ると、信じる信仰です。使いに行った人たちが家に帰ってみると、まさに言葉通り、その部下は元気になっていたのです(10節)。

2022年10月9日「家と土台」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書6章43-49節

今日の聖書箇所は、平地説教の最後のところです。まず、43-44節に「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる」とありますが、まさに、木はその結ぶ実によって分かります。その木が良い木なのか、悪い木なのか、それは結ぶ実によって見分けることができるのです。ここでイエス様が本当に語ろうとしていることは、45節です。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出します。しかし、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出すのです。つまり、心の倉から出てくるものを見れば、その人が善い人か悪い人かが分かるわけです。

46節から49節に、「主よ、主よ」と呼びながら、イエスの言うことを行わない人は、土台なしに家を建てた人に似ています。しかし、イエスの言葉を聞いて、それを行う人は、岩の上に土台を置いて家を建てた人に「似ている」と言われています。この平地説教において、岩の上に土台を置いて家を建てた人は、イエス様の慰めの言葉だけではなく、「敵を愛しなさい、人を裁くな」という厳しい言葉にも耳を傾け、それを行う人です。

2022年10月2日「まず、自分の目から」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書6章37-42節

今日のところで、イエス様は「正しい裁き」を否定したわけではありません。また、「人の目にあるおが屑を取り除いてはならない」とは言っていないのです。最後の42節に「自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる」と言っています。つまり、相手を正すのがいけないのではなくて、まず自分の目に「丸太」があるのを忘れていませんかと指摘しているのです。

イエス様は一つのたとえを話されました。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。」目の見えない盲人は、他の盲人を導くことができません。なぜなら、二人とも穴に落ちてしまうからです。つまり、自分が盲人であることに気付かず、他の人を導くことの危険を指摘しています。ここで、盲人とは、誰でしょうか。自分自身が盲人であると自覚することを、このたとえは教えています。キリスト者はたえず、聖書の御言葉によって、自分を知る必要があります。

2022年9月25日「敵を愛しなさい」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書6章27-36節

「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。」このような御言葉を前にするとき、私たちはどう考えたらよいのでしょうか。敵を愛するどころか、私たちは自分の味方を愛することにも困難を覚えているのが現実です。自分の夫や妻、子どもでさえ、愛することの困難を感じることがあります。ですから、敵を愛する愛がないことを告白せざるを得ません。誰もこのようなことを語る資格があるわけではありません。もしあるとしたら、主イエス以外にはいないのです。なぜなら、イエス様ご自身がそうように、生きてくださったからです。

では、なぜイエス様は「敵を愛し、あなたを憎む者に親切にしなさい、悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」と語ったのでしょうか。それは、敵対関係そのものを、断ち切るためなのです。やられたら、仕返ししたいのが、人間でありますが、そうではなく、その敵対関係を断ち切っていくということが、ここで言われていると思います。

2022年9月18日「幸いな人」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書6章20-26節

イエス様は山から下りて、平らな所にお立ちになって話されました。イエス様はまず、あなたがたは幸いであると宣言されたのです。そうすると、集まっていた人は皆、「何が幸いなのだろう」と聞き耳を立てたと思います。しかし、「貧しい人々は、幸いである」この言葉は、人間の常識として、すぐには受け入れない言葉です。私たちは皆豊かになることを願います。貧しくならないように努力します。それなのに、イエス様はなぜ「貧しい人々は幸いである」と語ったのでしょうか。

イエス様は、貧しい人たちに「あなたがたは幸いである」と宣言し、その理由として「神の国はあなたがたのものである」と言われました。神の国とは、神が王として支配されることです。私たち人生が神に支配されること、それが神の国です。その神の国が与えられることが、貧しい人、今飢えている人、今泣いている人の幸いであると言っています。では、どうやって、神の国は貧しい人や、今飢えている人、今泣いている人のものになるのでしょうか。それは、神の独り子、イエス・キリストによってです。

2022年9月11日「十二人を選ぶ」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書6章12-19節

「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」(12節)。イエス様はその夜、一体、何を祈られたのでしょうか。それは、翌日になって、イエス様がお選びになった十二人の顔ぶれを見ると分かって来ます。シモンとアンデレはガリラヤの漁師でした。同じ漁師のヤコブとヨハネは「雷の子ら」と呼ばれるほど、すぐ怒りっぽくなる人たちでした。また、ユダヤ人同胞からはローマの手先として嫌われていた徴税人マタイがいるかと思えば、ローマと妥協している人間なら短刀で暗殺することを計っていた熱心党のシモンもいました。特にこの中には、後に裏切り者となるイスカリオテのユダもいれば、自分の命が惜しくて、イエスのことを知らないと三度も否定するシモン・ペトロもいます。

 つまり、イエス様が十二弟子たちを選ばれたのは、有能で、立派だから選ばれたのではありません。もし、私たちがユダであったとすればどうでしょうか。ペトロであるなら、疑い深いトマスであるならどうでしょうか。裏切りの時点で終わりであり、救いも赦しもなくなってしまいます。私たちはそれぞれに弱さを持っています。しかし、イエス様はそのような私たちを、祈りによって、あなたの弟子として受け入れてくださるのです。

2022年9月4日「安息日の主」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書6章1-11節

本日の聖書箇所には、二つの安息日の出来事が記されています。「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。」(1節)それに対してファリサイ派の人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と非難しました。また、ほかの安息日に、イエス様は会堂に入って教えておられました(6節)。そこに右手の萎えた人がいました。律法学者たちやファリサイ派の人々は、主イエスを訴える口実を見つけようとして、「イエスが安息日に病気をいやされるかどうか」と注目していたのです。イエスは彼らの考えを見抜いた上で手の萎えた人に「立って、真ん中に出なさい」そして「手を伸ばしなさい」と言われました。この人はイエス様の言葉を信じて、動かない手を伸ばしました。すると、手は元どおりになったのです。

安息日が定められている理由は、神の創造の御業、神の救いの御業を覚えて神様に感謝することが目的です。そのために、安息日にはすべての仕事を休むわけですが、問題はこの手段のほうが目的になっていたのです。