2022年8月7日「しかし、お言葉ですから」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書5章1-11節

シモン・ペトロは、漁師のプロでした。しかし、この時現実は、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。失望し、ペトロをはじめ、仲間と共に、網を洗っているところに、イエス様が来て、あなたの船を出してほしい、とお願いしました。そして、イエス様はペトロの船に乗って、その船から、群衆に向かって、教え始められました。ところが、話し終わった時、今度イエス様はペトロに向かって、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。ペトロの失望しているその問題に、イエス様がお言葉をもって、語りかけてくださったのです。ペトロはイエス様に「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、あなたのお言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えました(5)。そして、信仰によって、沖に漕ぎ出していた時、主イエスが生きて働いておられることを、ペトロは知りました。

私たちの信仰生活においても、今置かれている現実の問題、今抱えている問題の中で、主イエスは御言葉を語ってくださるのです。そして、私たちも御言葉に従っていく時に、主の奇跡を体験することができます。自分の経験ではなく、御言葉のみによってです。

2022年7月31日「巡回して宣教するイエス」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書4章38-44節

 シモンの家には、姑がいて、高い熱に苦しんでいました。イエス様が彼女の枕元に立って、熱を叱りつけられると、熱が去り、シモンの姑はすぐに起き上がって一同をもてなしました。シモンの姑が癒された後、「日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た」(40節)。イエス様は休みません。しかも、「その一人一人に手を置いていやされた」のです。夜が明けると、イエス様は人里離れた所へ出て行かれ、祈っておられました。

 イエス様のところに「群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた」(42節)。おそらく、群衆はイエス様の癒しの業を見て、ずっとここにいて、癒しの業を続けてほしいと願ったのでしょう。引き止める群衆にイエス様は言われます。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」イエス様は「わたしはそのために遣わされたのだ」という強い自覚をもって、日常生活を歩んでおられました。このように、私たち一人一人は、今、佐倉教会に遣わされたのだ、という自覚を持っているのでしょうか。

2022年7月24日「悪霊に取りつかれた人の癒し」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書4章31-37節

 イエス様は、安息日になると、会堂に行って人々を教えておられました。ところが、「人々はその教えに非常に驚いた」とあります(32)。また、その理由について、イエス様の語る「その言葉には権威があった」と言うのです。イエス様の言葉には、権威がありました。ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだのです(33)。「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」ここで「かまわないでくれ」というのは、悪霊の心からの叫びでした。

 それに対して、イエス様は「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになりました(35)。すると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行ったのです。つまり、悪霊が去ったのち、この人は人々の中に、共同体の中に、何の傷もなく復帰することができたのです。今、イエス様は何に対して、権威をもって、私たちに「黙れ」と語りかけておられるのでしょうか。その声に従いたい者です。

2022年7月17日「ナザレの伝道」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書4章14-30節

 悪魔の誘惑に勝利されたイエス様は霊の力に満ちて、ガリラヤに帰られました。そこで、主イエスがなさったことは、諸会堂で教えることでした。そして、イエス様はお育ちになった自分の故郷ナザレに来て、いつものとおり、安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとして、お立ちになりました。ナザレの人々は、イエスがどのような人で、どのように育ち、どのような家柄であるか、すべて知っていました。ですから、イエス様の口から出る言葉に驚きましたが、「この人はヨセフの子ではないか」とイエスを見下げるような言葉で、イエスをほめているわけです。彼らはイエスの言葉を聞いて驚きましたが、固定観念によって、聞く耳が閉ざされてしまったのです。さらに山の崖まで連れて行き、突き落とそうとしました。「しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた」(30節)。イエス様はナザレの人たちの思い通りにはなりませんでした。脅かされても、イエス様は神の御心に従って生きることを、生き抜かれました。私たち自身はどうなのでしょうか。

2022年7月10日「神の子イエスの誘惑」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書4章1-13節

 イエス様はその悪魔から三つの誘惑を受けました。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」(3)。この誘惑に対して、イエス様は「人はパンだけで生きるものではない」と答えられました。次に、悪魔はイエス様を高いところに連れていきます。5節に「一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた」とあります。そして、悪魔は「・・・もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」と言いました(6-7)。この誘惑に対して、イエス様は「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と答えられました。そこで、悪魔はイエス様をエルサレム神殿の屋根の端に立たせて「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。天使たちがしっかりと守らせる」でしょうと誘惑しました(9)。

 イエス様は三回の誘惑を受けられた時、すべて御言葉によって、その誘惑に勝利してくださいました。このように、私たちも日々聖書の御言葉に親しみ、その御言葉に聞く以外、誘惑に立ち向かうことができません。どうか、私たちに与えられている御言葉の上にしっかりと立つができますように、祈り願います。

2022年7月3日「献呈の言葉」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書1章1-4節

 「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています」(1-2節)。「わたしたちの間で実現した事柄」とは、ナザレの人、イエス・キリストの十字架と復活のことです。ルカは、ナザレのイエスとは直接的には出会っていません。彼は医者だったので、一連の出来事を注意深く観察し、人たちやイエスの周りにいた人たちから、イエスはどのような人か、イエスは何を語り、何を行われたのか、それを注意深く聞いて、イエスという方を知っていきました。

 また、「最初から目撃して御言葉のために働いた人々」によって伝えられたことを受け入れ、「順序正しく書いて」テオフィロに献呈したわけです(3節)。一人のために書いたことですが、すべての人に開かれた福音書となっていました。一人を愛する、その愛が、私たちにも向けられていることを、このルカによる福音書を通して、聴きたいと思います。

2022年6月26日「悪を善に変える神」

○金 南錫牧師   創世記50章1-26節

 ヤコブは、147年の地上の生涯を終えました。ヤコブの遺体は先祖の眠るマクペラの畑の掘穴に葬られました。その後、ヨセフとその兄弟たちはエジプトへ帰りました。ところが、兄弟たちに一つ気がかりなことがありました。それは、父ヤコブが死んだことによって、ヨセフの心が変わり、自分たちに仕返しをするのではないか、という心配でした(15節)。そこで兄たちは、人をやって、自分たちの咎と罪を赦してほしいと懇願しました。

 これを聞いて、ヨセフは涙を流しました。そして、兄たちにこう言いました。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう」(19、21節)。これは、すべてのことを働かせ、悪を善に変える神の摂理を信じる信仰に立っていたヨセフ物語の結論のような言葉です。

 

2022年6月19日「ヤコブの祝福と死」

○金 南錫牧師   創世記49章1-33節

 ヤコブは死を前にして、12人の息子たちに祝福の言葉を残しました。しかし、その内容を見ると、中には祝福とは思えないような言葉もあります。例えば、長男のルベンは「お前は水のように奔放で、長子の誉れを失う」と言われていたり、シメオンとレビは「呪われよ。イスラエルの間に散らす」とまで言われています。またイサカルは「苦役の奴隷に身を落とす」と言われました。ところが、ヤコブは彼らにも、良いところが一杯あったことをよく分かったはずです。でもあえて厳しいと思えることを言いました。それは、彼らにそういう弱さがあることを忘れないようにという願いがあったからです。それほど彼らのことを心配していました。

 イエス様は死ぬ間際に、御自分を十字架につけた人たちを心配して、「父よ、彼らをお赦しください。何をしているのか、分からないのです」と祈られました(ルカ23:34)。私たちは弱くて、罪深い者ですが、神が私たちを愛しておられ、いつも赦してくださる。そこに私たちの祝福があります。

2022年6月12日「祝福の祈り」

○金 南錫牧師   創世記47章13-48章22節

 ある時、ヤコブが病気になったことが息子のヨセフに知らされました(48:1)。それで、ヨセフはエジプト人の妻との間に生まれたマナセとエフライムという二人の息子を連れて行きました。

 ヤコブは、ヨセフの二人の息子を祝福しました。その祝福の言葉が15節と16節に記されています。「わたしの先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで、導かれた牧者なる神よ。わたしをあらゆる苦しみから、贖われた御使いよ。どうか、この子供たちの上に、祝福をお与えください。どうか、わたしの名と、わたしの先祖アブラハム、イサクの名が、彼らによって覚えられますように。どうか、彼らがこの地上に、数多く増え続けますように。」

 ヤコブは今日までの自分の生涯を振り返って、「わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ」と言っています。私たちの人生においても、そうではないでしょうか。どのような時にも一緒にいてくださり、一番良い時に救いを与えてくださり、ここまで導いてくださいました。これからもそうでしょう。

2022年6月5日「神の祝福を担うもの」

○金 南錫牧師   創世記46章1-47章12節

 ヤコブはカナンの地を離れ、エジプトに向かって出発しますが、彼の心の中には心配なことがありました。それは、約束の地であるカナンの地を離れていいのか、ということでした。ヤコブはベエル・シェバで祭壇を築き、いけにえを献げ、神の導きを求めました。このヤコブに対して、神様は「恐れてはならない。わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す」と約束してくださいました(3、4節)。聖書は「エジプトに行ったヤコブの家族は総勢七十名であった」と記しています(27節)。ヤコブの一族はいよいよエジプトに足を踏み入れました。

 ヨセフは、父ヤコブをファラオの前に連れて行きました。この時、「ヤコブはファラオに祝福の言葉を述べた」とあります(7節)。一介の羊飼いにすぎないヤコブが、時の大国とも言えるエジプトの王ファラオを祝福するのです。聖霊によって与えられた信仰のゆえに洗礼を受けた私たちは、この後、行われる洗礼式、聖餐式を通して、主イエスの十字架の愛、救いの恵みを思い起こして、神の祝福を頂いた者として、また今日その祝福を担う者として、洗礼式を行い、聖餐式にあずかりたいと思います。