2023年1月8日「主の道を整えるもの」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書3章1-14節

ヨハネは荒れ野で神の言葉を聞き、それからヨルダン川に行って、洗礼を通して人々に罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。悔い改めとは、神の方に向きを直す。そして、神のもとに帰ることです。ヨハネは神へと向きを直した人々に、救いのしるしとして洗礼を授けていました。

また、彼が何よりも強く批判したのは、イスラエルの民の安易な選民思想でした。当時のユダヤ人たちは、自分たちは神に選ばれた特別な民、アブラハムの子孫だから、神の怒りを受けるのは自分たちではなく、異邦人の者たちだと考えていたのです。しかし、神の前にはすべての者が救いを必要としています。ユダヤ人もまた、主に立ち帰って救いを受ける必要があります。5節、6節に「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」と書いてある通りです。

2023年1月1日「少年イエス」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書2章39-52節

イエス様の両親ヨセフとマリアは、毎年過越祭にはエルサレムへ旅をしました。イエス様が12歳になった時も、慣習に従って、都へ上りました。祭りが終わり、帰路に着いた時、少年イエスが、両親とはぐれてしまいました。一日分の道のりを行ってから、イエスがいないことに気付かされました。そして、知人や親類の間を捜し回ったが、見当たらなかったのです。三日後にようやく神殿の境内で、イエスを見つけました。

母マリアがイエスを呼びかけます。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」その時、イエス様の言葉が不思議な言葉でした。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」両親はイエス様の言葉の意味が分かりませんでした。ところが、マリアは「これらのことをすべて心に納めていた」とあります(51節)。私たちもすぐには受け入れられない御言葉があるかもしれません。それでも、まず心に納めていることが信仰への第一歩です。

2022年12月25日「万民のための救い」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書2章21-38節

シメオンは、信仰があつく、神様の前に正しく生きてきた人でした。また、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいたのです。慰められることは、救われることを意味しています。シメオンは、自分だけが救われることを願うのではなく、神の民イスラエル全体が救われ、慰められることを願い、救い主が到来するのを待ち望んでいました。そして、「主が遣わすメシアに会うまでは、決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」のです(26節)。その日、シメオンは、霊に導かれて神殿の境内に入っていきました。すると、ちょうどその時に、幼子イエスを抱いたヨセフとマリアがやって来たのです。「あの幼子が、イスラエルの民全体のために、神がお遣わしになった救い主、メシアである」。

シメオンは、その幼子の姿を見て、なぜか畏れと清らかな思いに満たされました。そして、幼子を腕に抱き、神をたたえたのです。シメオンは自分が、70年、80年、もっとかもしれませんが、この日のために生きてきたことを確信するようになったのです。この幼子から、シメオンだけではなく、すべての人を照らし、慰める光が満ちてくるのです。

2022年12月18日「救い主と天使」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書2章8-20節

周囲は真っ暗です。突然、天使が現れて、主の栄光が周りを照らしました。その時、恐れている羊飼いたちに、主の天使が「恐れるな、わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。・・・あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう」と告げました。羊飼いたちは、天使の突然の知らせを聞いて、「どうして、私たちにこんな大切なことが知らされたのか」と思ったのかも知れません。

しかし、天使たちが離れて、天に去ったとき、羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合いました。そして急いで、ベツレヘムに向かいました。ベツレヘムの町中を探し回して、飼い葉桶に寝ておられるイエス様を見つけることができました。救い主に出会うことができたのです。私たちも、彼らがしたように、日々イエス様を探し求めることが必要です。特に、礼拝を捧げることを通して、新たに主に出会い、自分の生活を変えて行くことができます。

2022年12月11日「飼い葉桶の救い主」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書2章1-7節

アウグストゥスはローマが支配する全領土の住民に、「登録をせよ」と命令を出しました。ヨセフとマリアは、ガリラヤの町ナザレに住んでいました。ヨセフの本籍地はユダヤのベツレヘムでした。身重のマリアはロバに載せられて、長旅をしたと思います。本当に命懸けの旅でした。けれども、何とか守られて、二人はベツレヘムの町に到着します。そこで、宿屋を探していましたが、今度は、泊まる場所がなかったのです。ようやく彼らが宿った場所は、粗末な「家畜小屋」でした。家畜のいるところですから、とても清潔ではない、匂いも漂ってくるようなところでした。マリアはそこで無事男の子を産みます。それが救い主なるイエス様です。

では、なぜ救い主イエス様は家畜小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされたのでしょうか。生まれたばかりのあかちゃんが清潔ではない、飼い葉桶に寝かされたということは、神である清いお方が罪で汚れたこの世界のただ中に入ってきてくださった。それは私たちを罪の汚れから救い出すために、ということを物語っているのです。

2022年12月4日「あけぼのの光が我らを訪れ」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書1章57-80節

ザカリアが長い沈黙の期間を破り、最初に発した言葉は、「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を」という主なる神をほめたたえる歌でした。その理由として、「主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」とあります(68、69節)。ここで「主はその民を訪れて解放し」とあります。主なる神とその救いは、まさに神の方から私たちを訪れてくださるのです。年老いたザカリア夫婦に、思いがけない神の訪れがあって、ヨハネが誕生したように、神による救いは思いがけない仕方で、私たちを訪れるのです。

78節、79節に「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」とあります。神の御子イエス・キリストが高い所から、あけぼのの光となって、暗闇と死の陰に座している私たちを訪れ、光を照らし、私たちの歩みを平和の道へ導いてくださる、とザカリアは歌います。これは「神の憐れみの心による」のです。

2022年11月27日「目を留めてくださる神」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書1章39-56節

天使ガブリエルからの受胎告知があってから、マリアは親戚のエリサベトのところを訪ねました。エリサベトは「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言って、マリアを励ましています(45節)。マリアはエリサベトに励まされて、神様に感謝の歌を捧げています。それが46節以降にある「マリアの賛歌」です。

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。」ここに彼女の信仰と喜びがよく現わされています。マリアは自分のことを「主のはしため」と言っています。彼女は、こんな小さなものに神は目を留めてくださった。なんという感謝のことでしょう、と言っているのです。

 

2022年11月20日「マリアの信仰」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書1章26-38節

天使ガブリエルは、マリアに「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」と告げました(31)。それに対して、マリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の子を知りませんのに」と言っています(34)。天使はこう答えます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。・・・神にできないことは何一つない。」(35-37)。マリアは天使の言葉を神様の御心だと信じました。そして、一切を委ねる決心をしたのです。自分の身を通して「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と応答しました(38)。ここには、全能の神様を信じて、一切を明け渡していく、マリアの信仰が現わされています。

2022年11月13日「洗礼者ヨハネの誕生予告」

洗礼者ヨハネの両親は、神の御前に正しく生きていました。非のうちどころがないほど、素晴らしい夫婦でした。ところが、彼らには子どもがいなかったのです。そんなザカリア夫婦に、驚くような知らせがもたらされます。ある時、ザカリアが神殿で奉仕をする当番になりました。彼が聖所に入って香をたいている時、主の天使が現れました。そして、その天使はザカリアに驚くべきことを告げます。そのことが13節以降に記されています。

神様は「妻エリサベトは男の子を産む」というのです。長い間の祈りが聞かれて、子どもが与えられるというのです。また、生まれてくる男の子を「ヨハネと名付けなさい」と告げています。ところが、ザカリアは天使の言葉を信じることができなかったようです。彼は天使に「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と言いました(18節)。ザカリアはその結果、口が利けなくなります。ところが、彼はその沈黙の期間に、時が来れば成就する天使のことばを何度も思い巡らして、その意味を受け止めたのではないでしょうか。

2022年11月6日「主は私の羊飼い」

○金 南錫牧師   詩編23編1-6節

 この詩編は、私の羊飼いである神様を信じて生きる生涯が、どれほど恵みに満ちたものであるかを教えています。この詩の冒頭に「賛歌、ダビデの詩」と書いてあります。ダビデは旧約聖書の時代の王様であり、元々は羊飼いをしておりました。その経験を通して、羊飼いと羊の関係はまさに、神様と自分との関係に通じるところがあると思ったのです。

 1節、2節に「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い」とあります。羊にとって「青草の原、水のほとり」は、日々、不可欠なものです。では、私たち人間にとって不可欠なもの、それは何でしょうか。聖書には「人はパンだけでは生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と記されています。その意味で、主なる神は人を日々、聖書の言葉を持って導いてくださるのです。

 3節、4節に「魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」とあります。羊飼いである主が先頭に立って、迷いやすい私たちを「正しい道に導かれる」のです。また時として、「死の陰の谷」を通るような試練の時があるかもしれません。そのような試練があっても、「わたしは災いを恐れない」のです。なぜなら、羊飼いである神がいつも共にいてくださり、守り導いてくださるからです。