2020年2月2日「主イエスの輝き」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書9章2-13節

 イエス様は弟子のうち、ペトロとヤコブ、そしてヨハネだけを連れて、高い山に登られました。この山の上で、イエス様の姿が弟子たちの目の前で、栄光に輝く姿に変えられたのです。さらに、エリヤがモーセと共に現れて、イエス様と語り合っていたのです。
 この光景を見たペトロは、感激してこう言いました。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。
 しかし、このペトロの申し出は早すぎました。イエス様には地上でなすべきことがまだたくさんあったのです。何よりもエルサレムで十字架にかからなければならなかったのです。イエス様は十字架の道を歩まれるために、山の上から下りてくださいました。栄光に輝くお姿のまま、山の上にとどまるのではなく、十字架の死に至るまで、山の下へと下りてくださったのです。
 ペトロたちが変貌のイエス様を目の当たりにして、その喜びのうちに一刻も長くとどまりたいと願ったとき、雲が現れて彼らを覆ったのです。その雲の中から、「これはわたしの愛する子。これに聞け」という神の声がありました。
 神の声は、イエス様の御言葉に聞き従うことを命じております。礼拝が終わってから、私たちは主イエスにしっかりと目を向け、それぞれの生活の場へと、用いられていきますように、お祈りします。

2020年1月26日「十字架を負う」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書8章27節-9章1節

 イエス様は、弟子たちと共に、フィリポ・カイサリア地方に出かけられました。ここでイエス様は弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と聞いています。弟子たちは、世間の人々の噂をそのままに伝えました。
 ある人は、イエス様の前に活躍した「洗礼者ヨハネ」だと言い、ある人は、メシアの先駆者として長い間待たれていた「預言者エリヤ」の再来だと言いました。そして、メシアが現れるときは、必ずメシアを指し示す預言者が現れるという考え方に基づいて、「預言者の一人だ」と言う人もいました。
 実は、そのような噂はどうでもよかったのです。問題は「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という、弟子たち自身の理解でありました。弟子たちを代表して、ペトロは「あなたは救い主です」と信仰告白したのです。
 イエス様は、ペトロの信仰告白を聞かれたときに、それを誰にも話すなと戒められ、ご自分がこれから、必ず多くの苦しみを受けるようになっていると語ります(31節)。神によって、イエスは必ず多くの苦しみを受けることになっていること。それを、聖書学者は「神の必然」と言います。
 しかし、この神の必然は、弟子たちには理解できませんでした。ペトロにとって、イエス様は栄光の主なので、十字架にはり付けにされるような、惨めで、敗北の主であるはずがないと考えていたのです。
 ペトロはイエス様から「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われました。「あなたは、メシアです」と信仰告白をしたにもかかわらずに、ペトロはその信仰告白の中身がまったく欠けていたのです。
 そのペトロに対して、イエス様が言われます。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(34節)。私たちもこの世で自分の十字架を背負い、主イエスに従っていくことができますように。

2020年1月19日「信仰の目を開かれる主」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書8章22-26節

 イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、『何か見えるか』とお尋ねになった」(22節)。本日の盲人の癒しの出来事は、イエス様と盲人が、手をつないだところから、始まっているのです。
 続いてイエス様は盲人の手を取って、村の外へ連れ出されました。イエス様は彼と一対一で向き合うことを望まれたのです。そして、イエス様は両方の目に唾をつけ、両手をその人の上に置かれ、直接彼に「何か見えるか」と、話かけられました。盲人は目をあげ、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」と答えました。それまで、諦めていた目が癒され、見え始めたのです。
 しかし、見え始めただけで、すべてが見えたのではありません。そこで、イエス様がもう一度、彼の目に両手を当てられました。すると、「よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった」と記されています。
 イエス様は何でもはっきり見えるようになるまで、盲人への関わりをやめませんでした。盲人は目の前にいるイエス様がまことの救い主、キリストであることに、目が開かれたのです。
 私たちは主イエスとの出会いによって初めて、信仰の目が開かれ、全てのものを真っ直ぐに見ることができるのです。この主イエスと手をつながれた人生を全うすることができますように、祈り願います。

2020年1月12日「まだ悟らないのか」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書8章11-21節

 イエス様たちが船に乗るときに、弟子たちはパンを持ってくるのを忘れ、船の中には一つのパンしか持ち合わせていなかったのです(14節)。そのとき、イエス様は「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められました。
 しかし、弟子たちは、それを具体的なパンの話と思い込んでしまっていました。
 弟子たちが見るべきことは、一つしかないパンという現実ではなく、彼らの目の前におられるイエス様でした。イエス様は二度も、わずかなパンで大勢の人を満腹する奇跡を行われたのです。イエス様が共におられれば、何が足りなくても大丈夫であることを示してくださったのに、弟子たちはパンが足りないことで、議論し始めたのです。
 そんな弟子たちに何度も恵みのしるしを与え、「まだ、悟らないのか」と繰り返し、イエス様は問いかけられます。
 皆さんの視線は、今どこに向いているのでしょうか。霊的な目が開かれ、今も生きておられる主イエスを見上げるように願っております。
 今も生きておられる主イエスが共におられるならば、なんの心配もありません。私たちは、恨みはいつまでもよく覚えているものですが、恵みはすぐに忘れてしまいます。だからこそ、主イエスは何度も何度も恵みのしるしを与え、「まだ、わからないのか。悟らないのか」と言われているのです。

2020年1月5日「主のあわれみに生かされて」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書8章1-10節

 1節に「そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた」とあります。これは、7章31節の「それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた」、「そのころ」のことです。
 イエス様は、テカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖の東側にやって来られました。ユダヤからすると、異邦の地方に当たります。このことは、イエス様の救いがユダヤ人だけではなく、異邦人にまで広がっていくことを指し示しています。イエス様は、すべての人が救いに招かれていることを教えております。
 2節、3節に「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる」とあります。
 「かわいそうだ」という言葉は、ギリシア語では「内臓が痛むほど憐れむ」ことです。イエス様は群衆を飢えたまま、帰らせることに対して、ご自分の内臓が痛くなるほど、憐れんでくださったのです。
 私たちはこの世に生きる限り、様々な苦しみを味わい、経験するのです。しかし、その苦しい経験の深まるところで、思いもかけなかった主の憐れみを味わうことができるのです。クリスチャンは主の憐みによって生かされていく者です。

2019年12月29日「イエスの小さな旅立ち

○金 南錫牧師 マタイによる福音書2章13-23節

 幼子イエスはヨセフとマリアに連れられてエジプトに旅立ちました。そして、ヘロデが死ぬまでそこにいました。15節に「それは、『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」とあります。
 この「エジプトから私の子を呼び出した」とあるのは、旧約聖書ホセア書11章1節の引用の言葉です。ホセア書11章1節はこうあります。「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」。
 ここで、「わが子」とはイエス様のことではなく、イスラエルの民のことです。幼子イエスがエジプトに逃れた出来事は、「それは、『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」と説明されています。
 幼子イエスがエジプトへ行き、そしてエジプトから戻る旅はホセア預言者によって預言された言葉の成就であった。つまり、幼子イエスがエジプトへ行き、エジプトから戻る旅は、旧約のイスラエルの民の旅の繰り返しです。幼子イエスがイスラエルの民の歩みをその幼子の身で体験されたのです。
 この一年の歩みを、私たちの過去をひっくるめて受け止めてくださる主イエスに委ねて、新しい年に向けて、小さな旅立ちをしようではありませんか。

2019年12月22日「クリスマスの困惑」

○金 南錫牧師 マタイによる福音書1章18節-2章3節

 クリスマスは、イエス・キリストの誕生を祝う最も喜ばしい時です。しかし、どうでしょうか。私たちが生活している現代の社会は、愛と平和、希望に満ちているのでしょうか。
 今年も、悲しい出来事が日本中、世界中で数々ありました。実に、聖書におけるイエス様の誕生も、喜びの中で迎えられたのではなく、とんでもない不安と困惑の中で受け止められたことを語っています。
 ヘロデ王はユダヤに新しい王が誕生したしるしである星を見て、その王を拝むためにユダヤにやってきたという東方の学者たちのことを耳にして、大きな不安に襲われました。そして、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を一人残らず殺させたのです。
 しかし、ヨセフはどうだったのでしょうか。婚約者マリアの妊娠を知ったとき、ヨセフはがく然とし、不安と困惑に襲われたに違いありません。ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心したのです。
 ところが、ヨセフは夢を見ました。夢の中で、主の天使により、神の御言葉を聞いたのです。そして、ヨセフは神の御言葉を信じ、妻マリアを御言葉通り受け入れることによって、ヨセフもクリスマスを担う一人となったのです。

2019年12月15日「開け」

○金 南錫牧師 マルコ7章31-37節

 イエス様が遠回りされてから、ガリラヤ湖へ行かれた時、人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に「手を置いてくださるように」と願いました(32節)。
 障がいのある人は、自ら進んでイエス様のもとにやってきたのではありません。周りの人々が連れて来たのです。もうこれ以上、良くなることもないという諦めが彼の生活を作り上げていたかもしれません。
 「そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた。これは、『開け』という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった」(33-35節)。
 一人の障害を負った人は「開け」という意味の「エッファタ」という強烈な一言によって、耳が開かれ、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになったのです。
 クリスチャンは、信仰の耳が開かれて、神の御言葉に聞き従う者です。様々な悩みや悲しみ、苦しみや辛さに出会うその時、イエス様は十字架という苦しみを通して、私たちにすばらしい道を指し示してくださるのです。
 聖書の御言葉を聞く耳が開かれた者として、「喜びは主のうちに」その生き方を、共に歩んでみませんか。

2019年12月8日「小犬とパンくず」

○金 南錫牧師 マルコ7章24-30節

 汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ母親がイエス様のことに聞き付けて、主の足もとにひれ伏しました。そして、娘から悪霊を追い出してくださいと叫びました。この母親は祈る母でした。
 この母親の叫びに対して、イエス様は「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」と言われます(27節)。
 「子共たち」というのはユダヤ人のことです。「小犬」というのはユダヤ人以外の異邦人を意味しています。このとき、イエス様はユダヤ人の救いのみに向かっていますから、異邦人の女性が来ても、すぐ受け止めなかったのです。
 しかし、この母親は落胆しませんでした。彼女の信仰の素晴らしさは、イエス様の御言葉から諦めずに、「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」と答えたことでありました。「パン屑」はキリストの福音のことです。
 この母親の訴えを聞いたイエス様は、「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい」と言われ、家に帰ってみると、悪霊に取りつかれた娘の病気がいやされていました。

2019年12月1日「口先と心」

○金 南錫牧師 マルコ7章1-23節

 ユダヤ人が外の汚れから身を清めることに懸命であったのに対し、イエス様は人を汚す汚れは私たちの内にある、心にあると指摘されたのです。
 また、イエス様は「人間の心から、悪い思いが出てくるからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」と言われます(21-23節)。
 ここで、人間の心から出てくる悪い思いを自分に当てはめてみると、どうでしょうか。どれも私たちの罪の心から出てくる悪です。イエス様はここで、人間はみな罪人なのだと宣言されたのです。聖書は、すべての者は罪を犯していると言っています。
 しかし、それで失望するのではなく、そのような私たちであるからこそ、テサロニケの信徒への手紙一4章7節に「神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです」と言ってくださっているのです。私たちは聖なる生活のために、日々自分の罪を認め、悔い改めなければなりません。