2020年3月29日「新しい歌‐讃美歌練習から‐」

○MK兄(奨励) ヨハネの黙示録19章5-7節

 讃美歌の作詞・作曲者を調べてみると、時代も背景も様々ですが、古い時代の歌も、その当時は新しい歌であり、その時代その時代の新しい歌が作り続けられていたことが分かります。
 今日「讃美歌らしい」と思う曲は、多くが19世紀頃のアメリカやイギリスのもので、明治の頃に来日した宣教師たちが紹介した当時の「新しい歌」でしたし、本日の讃美歌に選んだ333番は、タンザニアで、結婚式の時に男女のグループが歌い交わす踊りの曲を讃美歌にしたものだそうです。
 新しい歌を作ることには、自分たちの信仰を、自分たちの形に表わして讃美する、という意味があるのだと思います。
 しかし、讃美歌を作ることはできなくても、讃美は誰にでもできるはずです。言葉も行ないも、他ならぬ自分の人生自体が、御心に従って生きようとするなら、それが讃美に、一つの「新しい歌」になるのではないでしょうか。
 前回、5年前には、長崎の潜伏キリシタンについてお話ししましたが、彼らが250年もの間耐えることができたのは、「いつか黒船が来て司祭がやってくる、キリシタンの歌をどこでも大声で歌えるようになる」という希望、「待ち望む信仰」があったからだと思います。
 今私たちも、残念ながら大きな声で讃美歌を歌うことができませんが、願わくば遠からず、大きな声で、高らかに、晴れやかに歌えるようになる日を待ち望みたいと思います。

2020年3月22日「仕えるために」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書10章32-45節

 福音書には、イエス様ご自身が三度にわたって受難を予告し、その都度弟子たちから理解されなかった様子が記されています。
 一回目の受難予告は、マルコによる福音書8章31節以下です。このときは、イエス様の口から受難予告が語られると、弟子のペトロがそんなことがあってはならないとイエス様をいさめ、その態度をイエス様が叱りつけるという場面があります。
 二つ目は、9章30節以下です。ここでは、弟子たちはイエス様の言葉の意味が分からず、しかも怖くて尋ねられなかったと記されています。
 そして、今日の箇所が三回目となりますが、弟子たちはイエス様の死に対して、なかなか理解できませんでした。特に、弟子たちの中でも重要な位置を占めるヤコブとヨハネは、イエス様が栄光を受けるとき、自分たちに特別な地位を与えてほしいと願ったのです(37節)。
 しかし、二人が思い描いていたイエス様が栄光を受けるときとは、イエス様が神の子であることが明らかになるときです。ところが、イエス様にとっては、それは十字架に付けられるときでした。
 二人は、自分自身の望む救い主を求める中で、十字架なしの栄光を求めていたのです。そこで、ほかの10人の弟子たちは、ヤコブとヨハネがこっそりイエス様に頼みにいったことで腹を立てました。彼らの中にも偉くなりたいという求めがあったのです。
 42節に「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた」とあります。一同を呼び寄せたのは、一同が皆イエス様を真に理解していなかったからです。
 今朝も、イエス様は私たちを「呼び寄せて」くださり、ご自分が十字架に付けられた意味を示してくださるのです。
 「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」

2020年3月15日「あなたに欠けているもの」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書10章17-31節

 たくさんの財産を持っているある人がいました。マタイによる福音書では「金持ちの青年」、ルカによる福音書では「金持ちの議員」と紹介されています。
 この青年は、子供の時から神の掟を守って来ました。しかし、何か心の中に、掟を守っていても、満たされないものがありました。そして、イエス様に「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねたのです。
 この青年は神様の救いにあずかるには、何をすればよいでしょうか、と聞いているわけです。イエス様はこの人を慈しみに満ちた眼差しで見詰めながら、「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と語りかけたのです。この言葉は、彼のこれまでの生き方を根本からひっくり返すようなことでした。
 22節に「その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」とあります。
 この金持ちの青年の根本問題は、主のために自分をいかに用いるか、であります。財産そのものは惡ではないのです。いかに用いるかによって、その人の生き様が変わってまいります。そのような営みの中で、天に富を積む生き方、主のために、教会のために、自分の時間や能力、そして自分の宝を用いることの大切さを、私たちは大事にしていきたいと思っています。
 クリスチャンは、この世においても、天においても、永遠の命を受け継ぐ約束が与えられています。永遠の命は、イエス様との命のつながりであります。そのために、私たちが日々の生活の中にいかに、主に従って生きていくのか、それが私たちに欠けている信仰の課題の一つです。

2020年3月8日「子どものように」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書10章13-16節

 本日の聖書箇所は、幼児洗礼や子ども祝福のときに、よく読まれるところです。初めに、「イエスに触れていただくために、人々が子どもたちを連れて来た」とあります。
 親であれば、誰しも子どもの健やかな成長を願います。ですから、親たちが子どもたちをイエス様のところに連れて来たのは、子どもの健やかな成長を願い、イエス様に祝福の祈りをしてもらうと、思ったからです。
 ところが、「弟子たちはこの人々を叱った」とあります。どうしてでしょうか。おそらく、群衆に囲まれて忙しいイエス様に弟子たちは気を遣い、子どもたちが来て、邪魔になることを恐れ止めようとしたわけです。
 イエス様はそのような弟子たちの態度を見て、憤られました。そして、弟子たちに「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものだ。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とおっしゃいました。
 イエス様は、弟子たちと神の国を繋げて考えておられます。当時のイスラエル社会において、律法を守ることがまだできない子どもは、一人前の人間として受け入れられてはいませんでした。さらに、子どもは人数を数えるときの対象にはされていませんでした。
 そのような中で、イエス様が語られた御言葉は、当時の人たちにとって、どれほど驚くべき言葉だったのでしょう。それは神の国とは、子どものように律法を守ることが出来ないでいる者たちのものだとおっしゃったからです。
 当時のイスラエルの人たちの多くは、律法を懸命に守れば、神様は自分を神の国に入れてくださる。いわば「条件付きの世界」を生きていました。ところが、自分に高い条件を課す人ほど、その条件を満たすことができない自分を見出すこととなります。昔も今も多くの人たちは、この「条件付き」の世界を生きる中で、自分の価値を見出そうとしますが、なかなかうまく行かなくて、苦しんでいる人々が多くいます。
 自分自身に価値を見いだすことができないとき、私たちは心の渇きを覚えます。しかし、イエス様は、律法を守ることができない子どもたちをあるがままに受け止めてくださいました。「子どもを抱き上げ、手を置いて祝福された」のです。

2020年3月1日「神が結び合わせたもの」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書10章1-12節

 1節に「ヨルダン川の向こう側」とは、ヨルダン川の東側を意味し、当時のペレア地方を指すものです。当時このペレアはガリラヤ地方と同じく、ヘロデ・アンティパスが支配する地域でした。本日の箇所に語られていることも、このペレアで、つまりヘロデの支配下で起ったと考えることに意味があります。
 というのは、本日の箇所の主題である離婚、離縁の問題は、ヘロデの支配の下では触れてはならないタブーとされていたからです。ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻であったヘロディアを、フィリポと別れさせて結婚したのです。そのことを厳しく批判したのが、洗礼者ヨハネでした。
 彼は「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」と非難した結果、牢獄に入れられ、首を打ち落とされて殺されたのです。ですから、ヘロデの支配下で公にこの問題に触れることは、このように死を招きかねないことだったのです。そのペレアで、ファリサイ派の人々が近寄って、「イエスを試そうとした」のです。
 彼らはイエス様に問いかけました。「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」。この問いに対して、イエス様は直接に答えることをしないで、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返されました。律法ではなんと言っているかということを、彼らに答えさせたのです。
 彼らは「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と、申命記24章1節の「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」という律法の一つを用いて答えました。
 しかしイエス様は、「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と、語られたのです。
 ここで、イエス様が強調しておられることは、男女平等の考えなのです。「結び合わせてくださった」というのは、「共に軛を繋いでくださった」という意味にもなります。共に軛を負い合って、一つとなって生きることが、両者に開かれている道だったのです。

2020年2月23日「あなたはキリストの味方か」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書9章38-50節

 イエス様の名前を使って、悪霊を追い出していた人がいました。その人はイエス様の12弟子ではありませんでした。弟子のヨハネは、私たちに従わないので、やめさせようとしました。
 問題は、自分に従わない人の業をやめさせようとしたヨハネの態度にあります。そこには自分たちこそ、イエス様の特別な弟子集団だという意識があったのです。それゆえに、自分たちが正しくて、ほかは間違っているという考え方を持っていたのです。
 イエス様は弟子たちの問題を見抜いておられ、「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」とおっしゃいました(40節)。
 さらに、イエス様は一杯の水を飲ませてくれる者は、その報いを受けると語っておられます。たとえ今その人があなたに一杯の水を飲ませてくれる者でなかったとしても、明日はあなたに一杯の水を飲ませてくれる者に変わり、その人が主の報いを受ける人に変わる可能性はあり得るのです。ですから、私たちは自分に従う者を味方とし、そうでない者を敵視する思いを悔い改めなければなりません。
 私たちの心が、イエス・キリストにある信仰の世界に変えられることを、祈り願います。

2020年2月16日「誰がいちばん偉いか」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書9章30-37節

 本日の聖書箇所は、イエス様と弟子たちがガリラヤ地方を通って、カファルナウムにやってくるまでの話です。その途上でイエス様は弟子たちに「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」という二度目の受難予告をされました。
 しかし、イエス様が十字架の死と復活について予告されたとき、弟子たちは理解できず、また理解しようとして、尋ねることさえしませんでした(32節)。むしろ弟子たちの関心事は十字架の道とは正反対で、「誰が一番偉いか」ということでした。
 イエス様は、弟子たちを呼び寄せて言われました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」 (35節)。
 神の御前で、一番の人は、すべての人に仕える最後の人だと、イエス様は語られました。このイエス様の御言葉に対して、生きる準備があるかどうかが、問われていたのです。
 イエス様はすべての人に仕えるために来てくださいました。そして、この私のために十字架にかかり、死んでくださったのです。ここにまことの偉さが示されているのです。

2020年2月9日「祈りによらなければ」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書9章14-29節

 悪霊に取りつかれた少年の父親は、イエス様が不在中、山の下に残っていた弟子たちに、子供の癒しをお願いしましたが、できませんでした。少年は幼いころから、耳が聞こえず、ものが言えませんでした。
 イエス様は父親に病気の子どもを御許に連れてくるように、言われました。少年がイエス様の御許に連れて来られたとき、発作が起きました。
 イエス様はその様子を見て父親に、「このようになったのは、いつごろからか」を尋ねました。父親は「幼い時からです」と答え、「霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と言ったのです。
 イエス様が少年の手を取って起こされると、立ち上がりました。そして、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われたのです(29)。
 人生は、思うようにいかないことのほうが多いのですが、その中で、辛いことを心の中に押さえ込んで、押し隠すのではなく、私たちのすべてをご存じである神様に、重荷のすべてを隠さず述べて、心を注ぎ出して、祈る者でありたいです。

2020年2月2日「主イエスの輝き」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書9章2-13節

 イエス様は弟子のうち、ペトロとヤコブ、そしてヨハネだけを連れて、高い山に登られました。この山の上で、イエス様の姿が弟子たちの目の前で、栄光に輝く姿に変えられたのです。さらに、エリヤがモーセと共に現れて、イエス様と語り合っていたのです。
 この光景を見たペトロは、感激してこう言いました。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。
 しかし、このペトロの申し出は早すぎました。イエス様には地上でなすべきことがまだたくさんあったのです。何よりもエルサレムで十字架にかからなければならなかったのです。イエス様は十字架の道を歩まれるために、山の上から下りてくださいました。栄光に輝くお姿のまま、山の上にとどまるのではなく、十字架の死に至るまで、山の下へと下りてくださったのです。
 ペトロたちが変貌のイエス様を目の当たりにして、その喜びのうちに一刻も長くとどまりたいと願ったとき、雲が現れて彼らを覆ったのです。その雲の中から、「これはわたしの愛する子。これに聞け」という神の声がありました。
 神の声は、イエス様の御言葉に聞き従うことを命じております。礼拝が終わってから、私たちは主イエスにしっかりと目を向け、それぞれの生活の場へと、用いられていきますように、お祈りします。

2020年1月26日「十字架を負う」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書8章27節-9章1節

 イエス様は、弟子たちと共に、フィリポ・カイサリア地方に出かけられました。ここでイエス様は弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と聞いています。弟子たちは、世間の人々の噂をそのままに伝えました。
 ある人は、イエス様の前に活躍した「洗礼者ヨハネ」だと言い、ある人は、メシアの先駆者として長い間待たれていた「預言者エリヤ」の再来だと言いました。そして、メシアが現れるときは、必ずメシアを指し示す預言者が現れるという考え方に基づいて、「預言者の一人だ」と言う人もいました。
 実は、そのような噂はどうでもよかったのです。問題は「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という、弟子たち自身の理解でありました。弟子たちを代表して、ペトロは「あなたは救い主です」と信仰告白したのです。
 イエス様は、ペトロの信仰告白を聞かれたときに、それを誰にも話すなと戒められ、ご自分がこれから、必ず多くの苦しみを受けるようになっていると語ります(31節)。神によって、イエスは必ず多くの苦しみを受けることになっていること。それを、聖書学者は「神の必然」と言います。
 しかし、この神の必然は、弟子たちには理解できませんでした。ペトロにとって、イエス様は栄光の主なので、十字架にはり付けにされるような、惨めで、敗北の主であるはずがないと考えていたのです。
 ペトロはイエス様から「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われました。「あなたは、メシアです」と信仰告白をしたにもかかわらずに、ペトロはその信仰告白の中身がまったく欠けていたのです。
 そのペトロに対して、イエス様が言われます。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(34節)。私たちもこの世で自分の十字架を背負い、主イエスに従っていくことができますように。