2020年1月26日「十字架を負う」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書8章27節-9章1節

 イエス様は、弟子たちと共に、フィリポ・カイサリア地方に出かけられました。ここでイエス様は弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と聞いています。弟子たちは、世間の人々の噂をそのままに伝えました。
 ある人は、イエス様の前に活躍した「洗礼者ヨハネ」だと言い、ある人は、メシアの先駆者として長い間待たれていた「預言者エリヤ」の再来だと言いました。そして、メシアが現れるときは、必ずメシアを指し示す預言者が現れるという考え方に基づいて、「預言者の一人だ」と言う人もいました。
 実は、そのような噂はどうでもよかったのです。問題は「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という、弟子たち自身の理解でありました。弟子たちを代表して、ペトロは「あなたは救い主です」と信仰告白したのです。
 イエス様は、ペトロの信仰告白を聞かれたときに、それを誰にも話すなと戒められ、ご自分がこれから、必ず多くの苦しみを受けるようになっていると語ります(31節)。神によって、イエスは必ず多くの苦しみを受けることになっていること。それを、聖書学者は「神の必然」と言います。
 しかし、この神の必然は、弟子たちには理解できませんでした。ペトロにとって、イエス様は栄光の主なので、十字架にはり付けにされるような、惨めで、敗北の主であるはずがないと考えていたのです。
 ペトロはイエス様から「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われました。「あなたは、メシアです」と信仰告白をしたにもかかわらずに、ペトロはその信仰告白の中身がまったく欠けていたのです。
 そのペトロに対して、イエス様が言われます。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(34節)。私たちもこの世で自分の十字架を背負い、主イエスに従っていくことができますように。