2022年12月18日「救い主と天使」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書2章8-20節

周囲は真っ暗です。突然、天使が現れて、主の栄光が周りを照らしました。その時、恐れている羊飼いたちに、主の天使が「恐れるな、わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。・・・あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう」と告げました。羊飼いたちは、天使の突然の知らせを聞いて、「どうして、私たちにこんな大切なことが知らされたのか」と思ったのかも知れません。

しかし、天使たちが離れて、天に去ったとき、羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合いました。そして急いで、ベツレヘムに向かいました。ベツレヘムの町中を探し回して、飼い葉桶に寝ておられるイエス様を見つけることができました。救い主に出会うことができたのです。私たちも、彼らがしたように、日々イエス様を探し求めることが必要です。特に、礼拝を捧げることを通して、新たに主に出会い、自分の生活を変えて行くことができます。

2022年12月11日「飼い葉桶の救い主」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書2章1-7節

アウグストゥスはローマが支配する全領土の住民に、「登録をせよ」と命令を出しました。ヨセフとマリアは、ガリラヤの町ナザレに住んでいました。ヨセフの本籍地はユダヤのベツレヘムでした。身重のマリアはロバに載せられて、長旅をしたと思います。本当に命懸けの旅でした。けれども、何とか守られて、二人はベツレヘムの町に到着します。そこで、宿屋を探していましたが、今度は、泊まる場所がなかったのです。ようやく彼らが宿った場所は、粗末な「家畜小屋」でした。家畜のいるところですから、とても清潔ではない、匂いも漂ってくるようなところでした。マリアはそこで無事男の子を産みます。それが救い主なるイエス様です。

では、なぜ救い主イエス様は家畜小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされたのでしょうか。生まれたばかりのあかちゃんが清潔ではない、飼い葉桶に寝かされたということは、神である清いお方が罪で汚れたこの世界のただ中に入ってきてくださった。それは私たちを罪の汚れから救い出すために、ということを物語っているのです。

2022年12月4日「あけぼのの光が我らを訪れ」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書1章57-80節

ザカリアが長い沈黙の期間を破り、最初に発した言葉は、「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を」という主なる神をほめたたえる歌でした。その理由として、「主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」とあります(68、69節)。ここで「主はその民を訪れて解放し」とあります。主なる神とその救いは、まさに神の方から私たちを訪れてくださるのです。年老いたザカリア夫婦に、思いがけない神の訪れがあって、ヨハネが誕生したように、神による救いは思いがけない仕方で、私たちを訪れるのです。

78節、79節に「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」とあります。神の御子イエス・キリストが高い所から、あけぼのの光となって、暗闇と死の陰に座している私たちを訪れ、光を照らし、私たちの歩みを平和の道へ導いてくださる、とザカリアは歌います。これは「神の憐れみの心による」のです。

2022年11月27日「目を留めてくださる神」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書1章39-56節

天使ガブリエルからの受胎告知があってから、マリアは親戚のエリサベトのところを訪ねました。エリサベトは「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言って、マリアを励ましています(45節)。マリアはエリサベトに励まされて、神様に感謝の歌を捧げています。それが46節以降にある「マリアの賛歌」です。

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。」ここに彼女の信仰と喜びがよく現わされています。マリアは自分のことを「主のはしため」と言っています。彼女は、こんな小さなものに神は目を留めてくださった。なんという感謝のことでしょう、と言っているのです。

 

2022年11月20日「マリアの信仰」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書1章26-38節

天使ガブリエルは、マリアに「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」と告げました(31)。それに対して、マリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の子を知りませんのに」と言っています(34)。天使はこう答えます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。・・・神にできないことは何一つない。」(35-37)。マリアは天使の言葉を神様の御心だと信じました。そして、一切を委ねる決心をしたのです。自分の身を通して「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と応答しました(38)。ここには、全能の神様を信じて、一切を明け渡していく、マリアの信仰が現わされています。

2022年11月13日「洗礼者ヨハネの誕生予告」

洗礼者ヨハネの両親は、神の御前に正しく生きていました。非のうちどころがないほど、素晴らしい夫婦でした。ところが、彼らには子どもがいなかったのです。そんなザカリア夫婦に、驚くような知らせがもたらされます。ある時、ザカリアが神殿で奉仕をする当番になりました。彼が聖所に入って香をたいている時、主の天使が現れました。そして、その天使はザカリアに驚くべきことを告げます。そのことが13節以降に記されています。

神様は「妻エリサベトは男の子を産む」というのです。長い間の祈りが聞かれて、子どもが与えられるというのです。また、生まれてくる男の子を「ヨハネと名付けなさい」と告げています。ところが、ザカリアは天使の言葉を信じることができなかったようです。彼は天使に「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と言いました(18節)。ザカリアはその結果、口が利けなくなります。ところが、彼はその沈黙の期間に、時が来れば成就する天使のことばを何度も思い巡らして、その意味を受け止めたのではないでしょうか。

2022年11月6日「主は私の羊飼い」

○金 南錫牧師   詩編23編1-6節

 この詩編は、私の羊飼いである神様を信じて生きる生涯が、どれほど恵みに満ちたものであるかを教えています。この詩の冒頭に「賛歌、ダビデの詩」と書いてあります。ダビデは旧約聖書の時代の王様であり、元々は羊飼いをしておりました。その経験を通して、羊飼いと羊の関係はまさに、神様と自分との関係に通じるところがあると思ったのです。

 1節、2節に「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い」とあります。羊にとって「青草の原、水のほとり」は、日々、不可欠なものです。では、私たち人間にとって不可欠なもの、それは何でしょうか。聖書には「人はパンだけでは生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と記されています。その意味で、主なる神は人を日々、聖書の言葉を持って導いてくださるのです。

 3節、4節に「魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」とあります。羊飼いである主が先頭に立って、迷いやすい私たちを「正しい道に導かれる」のです。また時として、「死の陰の谷」を通るような試練の時があるかもしれません。そのような試練があっても、「わたしは災いを恐れない」のです。なぜなら、羊飼いである神がいつも共にいてくださり、守り導いてくださるからです。

2022年10月30日「水をくみに来た女」

北総分区交換講壇 富里教会 吉田和子先生 ヨハネによる福音書4章1-42節

 イエス様はご自分がユダヤの地にとどまることで騒ぎが起こると予想され、ガリラヤに戻ろうとなさいました。その途中のシカルという町での出来事です。時はお昼過ぎ。イエス様は一人で井戸のそばに座っておられました。そこへ一人のサマリアの女が水を汲みにやってきました。彼女とイエス様の何気ないやり取りが始まります。彼女はまさかイエス様が自分との出会いを予め準備された上でそこに座っておられたとは全く知りませんでした。しかしイエス様は既に彼女のことは何から何まで知っておられました。世間では身持ちの悪い女と蔑まれていても今、心から真の神への礼拝を望む渇いた心を持っていること。イエス様は神が求めておられるのは霊と真理をもって真の神を礼拝する者であるとの大切な礼拝の奥義を語られました。イエス様と出会ったこの日からサマリアの女の人生は全く新しいものになったに違いありません。

 思い返せば私達も一人一人思いがけない時に、思いがけない所で、一方的な神様の選びによってイエス様と出会うことを許されました。罪深く弱い私たちのことを知って選んで下さった神様の愛に応えて、私たちも出かけて行って、それぞれにふさわしい実を結べる人生を歩んでゆきたいものです。

 

2022年10月23日「起きなさい」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書7章11-17節

イエス様がナインという町の門を近づかれると、あるやもめの一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだったのです。夫も失い、一人息子を失った母親の気持ちというものは、もう慰められることさえ願わない、深い嘆きなのです。主イエスはこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくてもよい」と言われました。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいた人たちは驚いて、立ち止まったのです。そこでイエス様は「若者よ、あなたに言う。起きなさい」とおっしゃったのです。すると、息子は起き上がりました。

今、復活の主が、私たちに「あなたに言う。起きなさい」と語りかけているのです。教会の歩みは、死への行進ではないのです。教会は死を打ち破り、死から復活された主イエスを先頭にした、神の国へと向かう群れです。

2022年10月16日「百人隊長の信仰」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書7章1-10節

「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」(6-7節)。

百人隊長は軍隊に身を置くものとして、言葉の権威というものがどういうものであるか、よく知っていました。そして、百人の隊長にすぎない私でも、言ったことがその通りに成るのであれば、神の権威を持つ、あなたの言葉をください。「ひと言おっしゃってください」そうすれば「僕は治ります」というイエス様の言葉に対する熱い信頼があったのです。イエス様はこれを聞いて感心しました。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」これほどの信仰とは、神の言葉は必ずその通りに成ると、信じる信仰です。使いに行った人たちが家に帰ってみると、まさに言葉通り、その部下は元気になっていたのです(10節)。