2022年9月25日「敵を愛しなさい」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書6章27-36節

「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。」このような御言葉を前にするとき、私たちはどう考えたらよいのでしょうか。敵を愛するどころか、私たちは自分の味方を愛することにも困難を覚えているのが現実です。自分の夫や妻、子どもでさえ、愛することの困難を感じることがあります。ですから、敵を愛する愛がないことを告白せざるを得ません。誰もこのようなことを語る資格があるわけではありません。もしあるとしたら、主イエス以外にはいないのです。なぜなら、イエス様ご自身がそうように、生きてくださったからです。

では、なぜイエス様は「敵を愛し、あなたを憎む者に親切にしなさい、悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」と語ったのでしょうか。それは、敵対関係そのものを、断ち切るためなのです。やられたら、仕返ししたいのが、人間でありますが、そうではなく、その敵対関係を断ち切っていくということが、ここで言われていると思います。

2022年9月18日「幸いな人」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書6章20-26節

イエス様は山から下りて、平らな所にお立ちになって話されました。イエス様はまず、あなたがたは幸いであると宣言されたのです。そうすると、集まっていた人は皆、「何が幸いなのだろう」と聞き耳を立てたと思います。しかし、「貧しい人々は、幸いである」この言葉は、人間の常識として、すぐには受け入れない言葉です。私たちは皆豊かになることを願います。貧しくならないように努力します。それなのに、イエス様はなぜ「貧しい人々は幸いである」と語ったのでしょうか。

イエス様は、貧しい人たちに「あなたがたは幸いである」と宣言し、その理由として「神の国はあなたがたのものである」と言われました。神の国とは、神が王として支配されることです。私たち人生が神に支配されること、それが神の国です。その神の国が与えられることが、貧しい人、今飢えている人、今泣いている人の幸いであると言っています。では、どうやって、神の国は貧しい人や、今飢えている人、今泣いている人のものになるのでしょうか。それは、神の独り子、イエス・キリストによってです。

2022年9月11日「十二人を選ぶ」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書6章12-19節

「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」(12節)。イエス様はその夜、一体、何を祈られたのでしょうか。それは、翌日になって、イエス様がお選びになった十二人の顔ぶれを見ると分かって来ます。シモンとアンデレはガリラヤの漁師でした。同じ漁師のヤコブとヨハネは「雷の子ら」と呼ばれるほど、すぐ怒りっぽくなる人たちでした。また、ユダヤ人同胞からはローマの手先として嫌われていた徴税人マタイがいるかと思えば、ローマと妥協している人間なら短刀で暗殺することを計っていた熱心党のシモンもいました。特にこの中には、後に裏切り者となるイスカリオテのユダもいれば、自分の命が惜しくて、イエスのことを知らないと三度も否定するシモン・ペトロもいます。

 つまり、イエス様が十二弟子たちを選ばれたのは、有能で、立派だから選ばれたのではありません。もし、私たちがユダであったとすればどうでしょうか。ペトロであるなら、疑い深いトマスであるならどうでしょうか。裏切りの時点で終わりであり、救いも赦しもなくなってしまいます。私たちはそれぞれに弱さを持っています。しかし、イエス様はそのような私たちを、祈りによって、あなたの弟子として受け入れてくださるのです。

2022年9月4日「安息日の主」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書6章1-11節

本日の聖書箇所には、二つの安息日の出来事が記されています。「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。」(1節)それに対してファリサイ派の人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と非難しました。また、ほかの安息日に、イエス様は会堂に入って教えておられました(6節)。そこに右手の萎えた人がいました。律法学者たちやファリサイ派の人々は、主イエスを訴える口実を見つけようとして、「イエスが安息日に病気をいやされるかどうか」と注目していたのです。イエスは彼らの考えを見抜いた上で手の萎えた人に「立って、真ん中に出なさい」そして「手を伸ばしなさい」と言われました。この人はイエス様の言葉を信じて、動かない手を伸ばしました。すると、手は元どおりになったのです。

安息日が定められている理由は、神の創造の御業、神の救いの御業を覚えて神様に感謝することが目的です。そのために、安息日にはすべての仕事を休むわけですが、問題はこの手段のほうが目的になっていたのです。

2022年8月14日「主よ、御心ならば」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書5章12-26節

全身重い皮膚病にかかった人は、人が近づいたとき、口を覆って「わたしは汚れたものです、汚れたものです」と言わなくてはなりませんでした。それは、他人に汚れが移らないようにするためでした。そのことに耐えながら、町に来たのです。そして、イエス様を見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言います。その時、イエス様は手を差し伸べて、その人に触れました。それは、あなたのその病を、私が引き受けるよ、という意味です。

また、一人の中風の人が床に寝かされたままで、運ばれて来ました。ところが、大勢の群衆が集まっていて、イエス様の許に近づけない状況でした。中風の人を連れて来た人たちはなんと屋根に上って、瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろしたのです。その人たちの信仰を見て、イエス様は中風の人に「人よ、あなたの罪は赦された」と宣言されました。これは、わたしがあなたの罪を引け受けますよ、という意味です。

私たちは主イエス・キリストの十字架によって、罪赦され、日々その恵みの内に、生かされるものとなったのです。

2022年8月7日「しかし、お言葉ですから」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書5章1-11節

シモン・ペトロは、漁師のプロでした。しかし、この時現実は、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。失望し、ペトロをはじめ、仲間と共に、網を洗っているところに、イエス様が来て、あなたの船を出してほしい、とお願いしました。そして、イエス様はペトロの船に乗って、その船から、群衆に向かって、教え始められました。ところが、話し終わった時、今度イエス様はペトロに向かって、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。ペトロの失望しているその問題に、イエス様がお言葉をもって、語りかけてくださったのです。ペトロはイエス様に「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、あなたのお言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えました(5)。そして、信仰によって、沖に漕ぎ出していた時、主イエスが生きて働いておられることを、ペトロは知りました。

私たちの信仰生活においても、今置かれている現実の問題、今抱えている問題の中で、主イエスは御言葉を語ってくださるのです。そして、私たちも御言葉に従っていく時に、主の奇跡を体験することができます。自分の経験ではなく、御言葉のみによってです。

2022年7月31日「巡回して宣教するイエス」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書4章38-44節

 シモンの家には、姑がいて、高い熱に苦しんでいました。イエス様が彼女の枕元に立って、熱を叱りつけられると、熱が去り、シモンの姑はすぐに起き上がって一同をもてなしました。シモンの姑が癒された後、「日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た」(40節)。イエス様は休みません。しかも、「その一人一人に手を置いていやされた」のです。夜が明けると、イエス様は人里離れた所へ出て行かれ、祈っておられました。

 イエス様のところに「群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた」(42節)。おそらく、群衆はイエス様の癒しの業を見て、ずっとここにいて、癒しの業を続けてほしいと願ったのでしょう。引き止める群衆にイエス様は言われます。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」イエス様は「わたしはそのために遣わされたのだ」という強い自覚をもって、日常生活を歩んでおられました。このように、私たち一人一人は、今、佐倉教会に遣わされたのだ、という自覚を持っているのでしょうか。

2022年7月24日「悪霊に取りつかれた人の癒し」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書4章31-37節

 イエス様は、安息日になると、会堂に行って人々を教えておられました。ところが、「人々はその教えに非常に驚いた」とあります(32)。また、その理由について、イエス様の語る「その言葉には権威があった」と言うのです。イエス様の言葉には、権威がありました。ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだのです(33)。「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」ここで「かまわないでくれ」というのは、悪霊の心からの叫びでした。

 それに対して、イエス様は「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになりました(35)。すると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行ったのです。つまり、悪霊が去ったのち、この人は人々の中に、共同体の中に、何の傷もなく復帰することができたのです。今、イエス様は何に対して、権威をもって、私たちに「黙れ」と語りかけておられるのでしょうか。その声に従いたい者です。

2022年7月17日「ナザレの伝道」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書4章14-30節

 悪魔の誘惑に勝利されたイエス様は霊の力に満ちて、ガリラヤに帰られました。そこで、主イエスがなさったことは、諸会堂で教えることでした。そして、イエス様はお育ちになった自分の故郷ナザレに来て、いつものとおり、安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとして、お立ちになりました。ナザレの人々は、イエスがどのような人で、どのように育ち、どのような家柄であるか、すべて知っていました。ですから、イエス様の口から出る言葉に驚きましたが、「この人はヨセフの子ではないか」とイエスを見下げるような言葉で、イエスをほめているわけです。彼らはイエスの言葉を聞いて驚きましたが、固定観念によって、聞く耳が閉ざされてしまったのです。さらに山の崖まで連れて行き、突き落とそうとしました。「しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた」(30節)。イエス様はナザレの人たちの思い通りにはなりませんでした。脅かされても、イエス様は神の御心に従って生きることを、生き抜かれました。私たち自身はどうなのでしょうか。