2021年4月4日「神と共に歩む人生」

○金 南錫牧師 創世記5章1-32節

 「エノクは六十五歳になったとき、メトシェラをもうけた。エノクは、メトシェラが生まれた後、三百年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。エノクは三百六十五年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」(21-24節) 。 ここで、エノクは地上で何をしたのか、どういう仕事をして、どういう業績を残したなど、何にも書かれていません。だた、エノクは神と共に歩んだのです。それだけが彼の人生について言える事柄でした。エノクは弱さと限界を持つ普通の人間でありました。しかし、そういう人間が、神と共に歩んだのです。

 エノクの人生を一言で言い表せば、「神と共に歩む人生」であります。私たち一人ひとりの人生を一言で言い表したら、どういうことになるでしょうか。「私は生涯家族のために、一生を過ごした」このような生涯も、それなりに意味があるに違いありません。しかし、「彼は神と共に歩んだ」と要約されるような生涯を送りたいものであります。今日から新しく始まる2021年度の歩みが、神と共に歩む信仰の歩みとなりますように、祈り願います。

2021年3月28日「主の御名を呼ぼう」

○金 南錫牧師 創世記4章17-26節

   弟アベルを殺したカインの子孫の中、「レメク」という人がいて、この人は「二人の妻をめとった」とわざわざ書いてあります(19)。これは男と女が対等に向き合って、互いに助け合う存在ではもはやないということを意味しています。こうやってレメクは、対等に向き合う隣人を失いました。そして、自分の妻たちに「わが声を聞け、わが言葉に耳を傾けよ。わたしは傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す」と言っています(23)。レメクは自分が傷を受けたら、相手を殺すと言うのです。それは、傷つけられたことは忘れない、赦さないということになります。

 しかし、アダムとエバの間に新しい子が生まれるのです。カインの子孫とは全く違う「セト」が生まれ、そのセトにも男の子が生まれました。「彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」(26)。人間はみんなレメクのように、傷つけられたことは忘れない、相手を赦さない、そういう社会がそこに生まれたのです。だから、主の御名を叫ばないではいられませんでした。私たちにできることは、主の御名を呼び始め、主からの赦しをいただくのです。それによって、私たちは罪赦され、今日からまた、新しい一歩を歩むことができます。

 

2021年3月21日「カインとアベル」

○金 南錫牧師 創世記4章1-16節

 エデンの園から追放されたアダムとエバに、二人の男の子が生まれました。最初の子はカイン、次の子はアベルと名付けられました。兄弟は成長して、兄カインは「土を耕す者」、弟アベルは「羊を飼う者」になりました。しかし、あるとき、彼らの間に悲劇が起こりました。

 二人はそれぞれの働きの成果を神に献げ物としました。ところが、この時、主なる神は弟アベルの献げ物に目を留められましたが、兄カインの献げ物には目を留められませんでした。なぜ神様はカインの献げ物を無視するような態度をお示しになったのでしょうか。創世記にはその理由が一切語られていません。ただ、カインについては「土の実り」を持ってきたとしか記されていないのに、アベルのほうは「羊の群れの中から肥えた初子を持ってきた」と丁寧に記されています。つまり、アベルは神への献げ物に対して、自分の持っている羊から選んだのです。肥えた初子を選んで神に献げました。それは、アベルが神に一番自分にとって大事なものを献げたという意味です。ですから、ある人は、献げ物をする二人の心のあり方に違いがあったのであろうと言います。つまり、献げ物の良し悪しよりも、そこに込められた心、その精神が問題になっていると思わざるを得ません。

 しかしカインは、なぜ神様がアベルだけを顧みられるのか理解できません。カインは「激しく怒って顔を伏せ」ました(5節)。そして、8節に「カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した」というところまで行なってしまいます。

 神様は弟アベルを殺したカインに「お前の弟アベルは、どこにいるのか」と尋ねます(9節)。しかし、カインは「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と答え、弟アベルとの関係を断ち切ります。私たち人間は他者との出会いの中で、自分になっていくことのできる存在です。ところが、カインのように「知りません」と言って、兄弟を否定する生き方は、人生が祝福されたものとなっていくことではなく、「呪われる者」となっていくことを示しています(11節)。また、12節に「土はもはやお前のために作物を産み出すことはない」とは、働いても、真の実りのない人生になってしますことを暗示します。さらに、兄弟を否定することで、相手を失い、自己破壊に向かっていくのです。「地上をさまよい、さすらう者」となっていくのです(12節)。

 14節で、カインは「わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」と嘆きますが、神様はカインに「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう」と、カインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられます(15節)。このしるしは、カインが兄弟を否定し、殺してしまったというしるしであると同時に、それでも、そのような人間を、神様は守っているしるしです。

2021年3月14日「エデンからの追放」

○金 南錫牧師 創世記3章14-24節

 今日の聖書箇所では、すべてをご存じである主なる神が、アダムと女の言い逃れを聞いた後、蛇、女、男という順に裁きを宣告していきます。

 まず、主なる神は蛇に対して、14節に「このようなことをしたお前はあらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう」とお告げになりました。蛇の姿が不気味で、地面を這い回る様子は神に呪われたしるしであると、古代の人々は想像しました。また、15節に「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」とあるように、主なる神は、ご自分が創造なさった蛇が人間を誘惑し、罪を犯させた共犯者として断罪なさったことになります。

 次に、主なる神は女に向かって、16節に「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め、彼はお前を支配する」とお告げになりました。女性に命を産み出す能力があるのは、祝福のしるしのはずです。しかしここに至って、妊婦の産みの苦しみは、女が罪を犯して神の裁きを受けた痕跡であり、しるしであると表現されています。最後に、主なる神はアダムに向かって、お告げになりました。17節から19節です。エデンの園を耕すことはアダムにとって喜ばしい労働でした。しかし、アダムが神の戒めを破って罪を犯してしまったとたんに、苦しみを伴うものになってしまいました。また、人間の罪によって土は呪われるものとなりました。それ以後、人間は茨とあざみが覆い茂る大地を苦労して耕す生活を余儀なくされたのです。また、「塵にすぎないお前は塵に返る」とあるように、神から「死」の宣告を受けています。

 このように、主なる神は神の戒めを破ったアダムと女に裁きを宣告していきます。しかし同時に、その中に神の恵み深い憐れみも込められているということに気づかされます。21節に「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」とあります。神に背いた人間は、神に衣を作っていただく資格はありません。それにも関わらず、エデンの園から追放される直前に、主なる神がアダムと女のために、皮の衣を作って着せられることは、生命を与えられることでした。ここに神の恵み深い憐れみが込められていると言えるのではないでしょうか。

 22節から24節においても、エデンの園から追放されるアダムとエバに対する神の恵み深い憐れみが込められていると言えます。善悪を知る者となったアダムが「手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある」ので(22節)、主なる神は「彼をエデンの園から追い出し・・・命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた」のです(23、24節)。つまり、エデンからの追放の目的は、アダムとエバが命の木の実を食べ、永遠に生きることがないように、ということでした。もし私たちが罪のままの姿で永遠に生きる者になったら大変であります。今日の聖書箇所は「エデンからの追放」ですが、その追放も、神の恵み深い憐れみだったと考えられます。

2021年3月7日「どこにいるのか」

○金 南錫牧師 創世記3章8-13節

 アダムと女は、神が「食べてはならない」と言われた禁断の木の実を食べてしまいました。それまで二人は裸でいたのになんとも思いませんでしたが、今やお互いの前で自分を隠し合うようになりました。そして、神の顔をも避けるのです。「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた」(8節)。ここには、エデンの園における主なる神と人間の交わりが、まさに神の足跡を聞き、その御顔を見ることができるような直接的なものだったことが示されています。しかし、この日、神の足音を聞いたアダムと女は、神の顔を避けて、神の前から身を隠すようになったのです(8節)。

 神様はアダムに声をかけられました。「どこにいるのか」(9節)。この言葉は「どこに隠れているのか」と怒って、人間に罰を与え裁くための声ではなく、アダムと女が神との関係でどこにいるのか、それについて、自己認識を促した神の愛の呼びかけでした。

 ところが、10節以下に記されたアダムと女の答えによれば、神の愛の呼びかけに応答する気配がありません。アダムは「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」と答えました(10節)。ここでアダムは、神の戒めを破ったことを悔い改める言葉を一言も言っていないのです。「神様、私たちはあなたの戒めに背いてしまいました。どうかお赦しください」と赦しを乞うどころか、自分が裸であることが恥ずかしくて不安を感じているだけです。

 アダムが率直に自分の非を認めないのを見て、神様はもう一度アダムに尋ねました。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか」(11節)。アダムと女が何をしたのか神様は全部知っておられましたが、それでも、すぐにそのことを叱りつけないで、二人が悔い改め、神の前に出ることを望んでおられました。

 しかし、アダムの答えは神の期待を裏切るものでした。12節をご覧ください。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」。アダムは悔い改めるどころか、「女が、木から取って与えたので、食べました」と、パートナーである女に責任転嫁をしています。しかも、アダムは妻だけに責任を転嫁しているのではありません。彼は「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が」という言い方によって、神様にも責任転嫁しようとします。「人が独りでいるのは良くない」と思って、アダムのために女を創られた神様は、アダムの言葉を聞いてどう思ったのでしょうか。ここに、自分の周りのせいにして、逃げる人間の本質が現れています。

 続いて、神様は「何ということをしたのか」と、女にも悔い改めるチャンスを与えようとされました(13節)。しかし、女も「蛇がだましたので、食べてしまいました」と、蛇に自分の罪を転嫁したのです。ここにも、罪の責任を他のせいにしたりして、あやまろうとしない、人間の罪深さがあります。

2021年2月28日「禁断の木の実」

○金 南錫牧師 創世記3章1-7節

 神様はエデンの園を設け、男と女を住まわせました。そこは、神の恵みが溢れているところで、とても幸せに暮らせるところです。ただ一つ大切なことを神様は言われました。創世記2章16節、17節です。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

 しかし、ここに人間を誘惑する「蛇」が女に近づいて、こう語りかけます。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」(1節)。聖書協会共同訳では「神は本当に、園のどの木からも取って食べてはいけないと言ったのか」と訳されています。つまり、神様は「園のすべての木から取って食べなさい」と言われたので、蛇は神様の言葉を逆にして語っていることが分かります。女も男も、この蛇の問いかけを聞くまでは、神や神の言葉について、何一つ疑うことをしませんでした。それに対して、「神は本当に・・・言ったか」と問いかけてくること、それが蛇のささやきでありました。

 では、女は蛇の問いかけにどう答えたでしょうか。2節、3節をご覧ください。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」

 女の答えは、神様の言葉を微妙に変えています。まず神様が「食べてはいけない」と命じたのは、「善悪の知識の木」だけでしたが、女は「園の中央に生えている木」と言いました。さらに、神様が命じていない「触れてもいけない」という言葉を勝手に付け加えました。また、「必ず死んでしまう」という神の言葉を「死んではいけないから」と和らげて言い換えました。ここで「触れてもいけない」という表現は、神との関係性において、人間に一切の自由がないと受け止める姿勢を表しています。つまり、この時、女は神の命令を、自分を束縛する足かせのようにとらえています。

 女の神に対する信頼感が揺らいでいるのを見抜いた蛇は、一気に「決して死ぬことはない」と押し切ります(4節)。さらに神への不信感を受け付けるために、こう言いました。「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」(5節)。男と女は、神の命令を無視して、自分たちが善悪を知る者として、神のように振る舞う者となりました。それは、目が開けて「自分たちが裸であることを知る」ようになることでした(7節)。この表現は自分で自分を見るあり方を示しています。神との関係を断ち切り、自分で自分の存在を支え、絶えず自分から出発する人のあり方です。それは、あらゆる人間関係において、自己中心的な生き方の象徴として、まず自分を見、自分のことを考える人のあり方です。その結果として、互いの自己中心的なあり方に対して、「二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとし」(7節)、自分からの存在を守る(身を覆う)必要に駆られることになりました。

 しかし、この自分が神のように振る舞って、すべてを自分中心に決定していくあり方は、6節に「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」とあるように、人間にとっては魅力的な生き方のように映るのだと思います。その生き方は、身近にいる男にも伝わっていくことになります。ここでは、神との関係性が壊れていく人間の自己中心的なあり方が、同時に人間同士の関係性をも壊していくものになっている現実を見事に描いています。

2021年2月14日「命の息を」

○金 南錫牧師 創世記2章4-17節

  本日の聖書箇所から、人間の創造について新しい記事が始まります。創世記1章27節において、神様はすでに人間を創造されました。ところが、2章7節に、土の塵で造られた人間のことが改めて記されています。ですから、聖書学者たちは、この創世記がいくつかの時代の複数の著者によって、書かれたと言っています。

 聖書は確かに、神様が自分たちにどのように関わってくださったか、その言葉を、時代を超えて多くの人が受け継ぎ、纏められたものです。そこには長い年月と多くの時代背景があります。創世記が書かれた時代は、イスラエルの民が国の崩壊、バビロンへの捕囚、そして、捕囚からの解放を経験した後の時代です。つまり、この創世記の言葉を受け継ぎ、私たちの手元にあるような形にまとめていった人たちは、それぞれに人間の弱さ、罪を抱えていたと思いますが、その罪の結果として国の崩壊と捕囚を経験しているのです。その上で、自分たちは何者であるのかを問い、アイデンティティを再確認していったのです。

 その営みの中、彼らは、人間は一体どういう存在であるか、生きるとは何か、という問いとその答えである聖書の言葉を受けていったのです。そこでは、イスラエルの民の創造を示すのではなく、人間の創造を示しています。つまり、イスラエルの民に限定されるものではなく、すべての人は主なる神によって創造され、その存在の意味を与えられていることを語るのです。ですから、私たちと無関係ではないのです。すべての人に、この聖書の言葉は語りかけているのです。

 2章7節に「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とあります。もし、皆さんは、人間とはどういう存在ですかと聞かれた時、どう答えるのでしょうか。聖書は、人間とは土の塵からできている存在であると語っています。どんな人も、葬儀をして火葬場に持っていくと、人の体は灰になります。灰になった人の骨を見ると「人間は本当に塵でできているんだな」と思います。ですから、私たちは死を意識して、どう生きるか、自分の生き方を考え続ける者なのです。

 神様は、土の塵に過ぎない私たちの体に、命の息を吹き入れられました。すべての人間は自分の力で生きているように見えますが、実は神によって生かされている存在です。ほかの動物や生き物も神によって、生きるものとされましたが、そこには「息」を吹き入れるような表現はありません。神様は人間にだけ命の息を吹き入れてくださったのです。それは、人間は神の息を受けて、生きる存在であることを示しています。神と共に生きる喜びの中で残された人生の歩みを進めて行こうではありませんか。

2021 年2月7日「安息」

○金 南錫牧師 創世記2章1-3節

 創世記2章に入りました。神様は六日間で、天地万物のすべてを創造されました。創世記1章を見ますと、神様は天と地とその中のすべてのものを創造され、六日目に人間を創造されました。創造主なる神様は、この世界やあらゆるいのちを創造され、今日の2章1節にあるように、天地万物を完成されたのです。そして、七日目には、神様はすべての働きを止めて休まれました。では、神様はなぜ七日目に休まれたのでしょうか。この「休む、シャバト」という言葉は、休憩するという意味ではなく、「働きを止める」という意味です。神様は天地創造の働きを止められました。それは、すべてが完成されたからです。

 2節、3節をお読みします。「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」

 神様は、七日目の日を祝福されました。なお、この七日目の日にはほかの日のように「夕べがあり、朝があった」という言葉が記されていません。これは、七日目の日が終わっていないことを意味します。神様が私たちに安息を与えるために制定された日は、今もなお続いているのです。つまり、今もなお、神様は私たちに安息を与えるために、この日を祝福し、聖別され、残しておられます。

 また、神様はこの七日目の日を聖別されました。「聖別する、カドーシュ」ということは、神様のものとして「取り分ける」ことです。それでは、何のために、安息日を神様のものとして取り分けるのでしょうか。モーセがシナイ山で、十戒を授かった時に、神様は「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と命じられました。その理由は「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別された」と告げています(出20:11)。つまり、神様が天地創造の時に、六日間ですべてを創造され、七日目に休まれた。この神の創造の御業を覚え、喜び祝う日として、安息日が定められているのです。

 しかし、聖書にはもう一つの安息日の由来が記されています。申命記5章12-15節です。「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」となっています(15節)。つまり、神の救いの御業を思い起こす日として、安息日が定められているのです。ですから、安息日の目的は、神様の創造の御業を覚えること、神の救いの御業を覚えること、この二つのことを覚えて、神様に感謝することです。

 天地創造の第七の日に、神はそのすべての業を完成して、休まれました。この日を神の日、安息日として祝福し、聖別されました。それは、安息なきの私たちを神の安息に招くためです。祝福された人生は、週の初めの日、聖日から始まります。

2021年1月31日「人間の創造」

○金 南錫牧師 創世記1章26-31節

 六日間の天地創造のクライマックスは、人間の創造でありました。今までは、まず神様が言葉によって命令し、その言葉通りのことが実現され、神様がそれを見て良しとされたという創造でした。ところが、人間の創造においては、神様がまずご自分に向かって問いかけることから始まるのです。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(26節、27節)。

 私たち人間は神にかたどって創造された「神のかたち」です。つまり、人間の創造には、神の深い愛が行われているということです。その第一が「神にかたどって創造された」とあることです。ここで「神にかたどる」というのは、神の人格に近いものとして創造されたということです。即ち、神と人間とはお互いに交わりができるように造られたということで、それが人間の尊厳につながります。

 27節において、「神にかたどって創造された」ということが、「男と女に創造された」と言い直されているのです。このことは、男も女も神にかたどって造られたことで、男の中にも女の中にも、神様は等しくご自分のかたちを刻み込んでおられるのです。ですから、男も女もそれぞれに神のかたちを指し示していることを心に留めていただきたいと思います。28節に、神様は人間を創造された後、彼らを祝福して言われました。「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」

 ここで神様は、人間に向かって生き物をすべて「支配せよ」と祝福してくださいました。聖書協会共同訳では、「治めよ」と訳されています。神様は創造された人間に「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と祝福してくださり、あらゆる生き物を「治めよ」と言われました。ここで神様が求めておられることは、人間が神の代わりに、権限をいただいて、生きるすべてのものを治めることで、あくまでも、神から管理を委ねられたということです。しかし、私たち人間ははたして、そのような神様の期待に応える歩みをしてきたか、ということを問わざるを得ません。むしろ、人間は、あたかも自分がこの自然界における主人であるかのように振る舞い、人間が自然破壊の最たるものと言われるようになりました。聖書は人間もほかのすべての生き物と共に、神によって創造された被造物であると語りかけているのです。ですから、私たち人間はただ、神様が創造し、育んでくださったこの自然界と共に、謙虚に生きる被造物であることを忘れてはいけません。

 最後の31節に、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。『見よ、それは極めて良かった。』夕べがあり、朝があった。第六の日である。」とあります。天地万物を創造された神の業は、「極めて良かった」のです。これが神様の造られた世界です。

2020年8月9日「まさか、私のこと?」

〇金 南錫牧師 マルコによる福音書14章10ー21節

 ユダは、イエス様に選ばれた十二弟子の一人でした。彼はイエス様からの招きを受け、すべてを捨ててイエス様に従って来たのです。三年間、イエス様と寝食を共にし、イエス様と共に福音を宣べ伝えていた弟子の一人でした。
 それなのに、この時、イエス様を引き渡そうとしたのです(10-11節)。しかし、イエス様は今までに三回にわたって、ご自分が「引き渡される」ことを語っておられました。ユダは、イエス様の予告通りに、イエス様を引き渡した者でした。
 つまり、ユダは自分の意志でイエス様を引き渡そうとしているわけですが、実はそのすべてのことが神様のご計画の中にありました。そして、イエス様はそのすべてをご存じだったのです。
 「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」(18節)。
 この時、ユダがイエス様を裏切るなどということは、他の弟子たちは誰も知りませんでした。だから、「まさか、私のことでは」と口にしたのです。実際、イエス様が捕らえられたとき、ほかの弟子たちはイエス様を見捨てて、逃げてしまいました。ユダだけではなく、ほかの弟子たちも皆イエス様を裏切ったのです。
 どんな時代においても、大人も子どもも誰でも、「まさか、私のことでは」という御言葉は、他の誰のことでもなく、まさしく自分のことだと気づかねばなりません。