2021年3月7日「どこにいるのか」

○金 南錫牧師 創世記3章8-13節

 アダムと女は、神が「食べてはならない」と言われた禁断の木の実を食べてしまいました。それまで二人は裸でいたのになんとも思いませんでしたが、今やお互いの前で自分を隠し合うようになりました。そして、神の顔をも避けるのです。「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた」(8節)。ここには、エデンの園における主なる神と人間の交わりが、まさに神の足跡を聞き、その御顔を見ることができるような直接的なものだったことが示されています。しかし、この日、神の足音を聞いたアダムと女は、神の顔を避けて、神の前から身を隠すようになったのです(8節)。

 神様はアダムに声をかけられました。「どこにいるのか」(9節)。この言葉は「どこに隠れているのか」と怒って、人間に罰を与え裁くための声ではなく、アダムと女が神との関係でどこにいるのか、それについて、自己認識を促した神の愛の呼びかけでした。

 ところが、10節以下に記されたアダムと女の答えによれば、神の愛の呼びかけに応答する気配がありません。アダムは「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」と答えました(10節)。ここでアダムは、神の戒めを破ったことを悔い改める言葉を一言も言っていないのです。「神様、私たちはあなたの戒めに背いてしまいました。どうかお赦しください」と赦しを乞うどころか、自分が裸であることが恥ずかしくて不安を感じているだけです。

 アダムが率直に自分の非を認めないのを見て、神様はもう一度アダムに尋ねました。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか」(11節)。アダムと女が何をしたのか神様は全部知っておられましたが、それでも、すぐにそのことを叱りつけないで、二人が悔い改め、神の前に出ることを望んでおられました。

 しかし、アダムの答えは神の期待を裏切るものでした。12節をご覧ください。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」。アダムは悔い改めるどころか、「女が、木から取って与えたので、食べました」と、パートナーである女に責任転嫁をしています。しかも、アダムは妻だけに責任を転嫁しているのではありません。彼は「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が」という言い方によって、神様にも責任転嫁しようとします。「人が独りでいるのは良くない」と思って、アダムのために女を創られた神様は、アダムの言葉を聞いてどう思ったのでしょうか。ここに、自分の周りのせいにして、逃げる人間の本質が現れています。

 続いて、神様は「何ということをしたのか」と、女にも悔い改めるチャンスを与えようとされました(13節)。しかし、女も「蛇がだましたので、食べてしまいました」と、蛇に自分の罪を転嫁したのです。ここにも、罪の責任を他のせいにしたりして、あやまろうとしない、人間の罪深さがあります。