○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書10章22ー42節


佐倉教会は、1904年11月ここ佐倉市において設立されたキリスト教(プロテスタント)の教会です。礼拝は、毎日曜日の午前10時30分より行っており、どなたでも参加できます。
○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書10章22ー42節

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書10章11ー21節
イエス様はご自分のことを「わたしは良い羊飼いである」と仰います。さらに、その良い羊飼いは「羊のために命を捨てる」とあるように、命を差し出すのです。ところが、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げてしまいます。なぜなら、その羊は自分のものではないからです。
また、イエス様は言われます。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。」(16節)イエス様は囲いに入っていない、つまり、まだイエスを信じていない人たちにも、羊飼いとしての務めがあると言うのです。そして、私たちに語った同じ言葉で、語り続けるのです。すると、「その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」のです。その羊たちの群れが、信仰の仲間たちとなって、信仰共同体を造り上げていきます。そして、やがて教会になっていくのです。

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書10章1ー10節
「門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」(2-3節)囲いの中には、ほかの羊飼いの羊もいるので、羊飼いが自分の羊の名を呼んで連れ出します。羊は羊飼いの声を聞き分けます。「自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」(4-5節)羊飼いは、羊を自分の子どものように、一匹一匹名を呼んで、連れ出すのです。羊たちはその声を知っているので、ついていくのです。そして、羊飼いは、羊たちを後ろの方から追うようにして、前進させるのではなく、羊たちの先頭に立って歩んでいきます。しかし、「ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る」とあります。飼い主でないほかの人が門から入って来て、羊を外に連れ出そうとしても、羊たちはついて行かず、逃げ去るのです。それは、語っている声が違うからです。
イエス様は「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。」と言われました(9節)。また「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」と言われました(10節)。本当に豊かな命に通じる門はただ一つです。それがイエス・キリストとの出会いなのです。イエス様は羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるために、来たと言われます。

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書9章35ー41節
イエス様は癒された盲人が会堂から追い出されたことを聞いて、心配して彼を探しに来てくださったのです。そして、彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われました。人の子と言うのは、救い主のことです。癒やされた盲人は目の前にいるイエス様が、自分の目を癒してくださった方だと、まだわかっていないのです。だから「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」と尋ねます。
イエス様は仰います。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」(37節)イエス様は、あなたが信じたいと言っているのは、このわたしのことだと、ご自分を示されました。すると、癒された盲人は、「主よ、信じます」と言って、ひざまずきます。イエス様を礼拝したのです。イエス様は生まれつき目の見えないのは、「神の業がこの人に現れるためである」と仰いました(3節)。癒やされた盲人が肉の目だけではなく、霊的な目が開かれて、イエス様を主として、礼拝するようになった。これこそ、この人に起こった神の業なのです。

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書9章13ー34節
人々は盲人であった人が見えるようになったので、彼をファリサイ派の人々に連れて行きました。聖書に詳しいファリサイ派の人々に、この出来事をどう捉えたらよいのかを、確かめようとしたのです。彼らのイエスについての意見が分かれていました。そこで彼らは盲人に、「いったい、お前はあの人をどう思うのか」と問いました。盲人ははっきりと「あの方は預言者です」と答えました。
癒やされた盲人はさらに「わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ」と決めつけているファリサイ派の人々に対して、「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません」と言っています。そして彼は、「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見える」そのことは紛れも無い事実であると、はっきりと語ったのです。生まれつき目の見えなかった彼は、自分が体験した癒しの救いの業を、「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見える」と告白したのです。

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書9章1ー12節
イエス様がエルサレムの近辺を歩いておられる時、生まれつき目の見えない人を見かけられました。その人はエルサレム神殿の礼拝に来る人たちに物乞いをして生きていた人でした(8節)。弟子たちがイエスに尋ねました。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」(2節)弟子たちの質問に対して、イエス様は「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と答えられました。
イエス様は「地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった」のです(6節)。そして、シロアムの池に行って洗うように命じました。彼がその通りにすると、生まれつき見えなかった目が見えるようになったのです。イエス様を通して、癒してもらったのです。神の業を経験したわけです。私たちも日々の生活の中で、イエス様の助けをいただいて、神の業を味わい、歩んでいけますように祈り願います。

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書8章39ー59節
ユダヤ人たちが「私たちの父はアブラハムです」と言うと、イエスは「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている」と仰いました(40節)。つまり、アブラハムは父なる神の言葉に従ったことによって、信仰の父となりましたが、あなたたちはそのアブラハムとは全く違うことをしていると、イエス様は言われたのです。アブラハムとは別の父がいるような発言に、ユダヤ人たちは「・・・私たちにはただひとりの父がいます。それは神です」と言ったのです。もしそうであれば、神の子であるイエス様と、神の子であるユダヤ人は愛し合うことができるはずです。でも、それができない。イエス様はその理由について、こう仰います。「わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。」(43節)ユダヤ人たちはイエス様の語りかけを受け入れず、敵対し、イエスを殺そうとしているのは、彼らがイエス様の言葉を謙遜に、聞くことができないからです。これは信仰をもって神に属する者として歩んでいる私たちの課題でもあります。

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書8章31ー38節
イエスが語られたことを聞いて多くの人々が信じました(30節)。その人々にイエスは「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」とおっしゃいました。(31節)。このヨハネ福音書が書かれた時、最初主イエスを信じて教会に加わった人々が、信仰を捨てて離れ去っていくということが起っていたのです。そういう現実を見つめながら、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」というイエスの言葉を語っているのです。
では、イエスの本当の弟子となると、どうなるのでしょうか。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(32節)。この言葉を聞いたとたんに、ユダヤ人たちは反発しました。彼らは先祖から、「私たちはアブラハムの子孫だ」とずって聞いて来ました。でも実際の生活は、様々な矛盾がありました。弱さがありました。現実はローマ帝国に支配されていて、選ばれた神の民としての誇りや自信が失われているのです。でも、そういう現実に目を背けているのです。そこに彼らの課題があるのです。つまり、アブラハムの子孫だから、大丈夫だと唱えているだけで、それは本当の自由ではない、ということです。真理とは、神がイエスと通して示された出来事です。イエスキリストがわたしのために来てくださった。それが真理です。そこに神の愛が、真理があるのです。

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書21章1ー17節
私はシモンペトロ、ガリラヤの湖で魚をとる漁師でした。ある日、仲間と共に、網を洗って後片付けをしていました。そこへイエスと共に群衆が押し寄せてきました。イエス様は逃げるように私の船に乗り込みました。湖に漕ぎ出された船は、群衆から離れて、御言葉が語られる場となりました。群衆へのお話が終わって、イエス様は私に「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。私は率直に言いました。「先生、私たちは夜通し働きましたが、何もとれませんでした。しかし、あなたのお言葉ですから、網を降ろします。」すると、おびただしい数の魚が網にかかりました。これを見て、私はイエスの足元にひれ伏して「主よ、私から離れてください。私は罪深い者です。」と言いました。しかし、イエス様は「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師となる」と答えてくだいました。そこで、私はすべてを捨て、イエス様に従いました。これが私の弟子としての出発点です。
しかし、イエス様が亡くなる前に、弟子としてやってはいけないことをしてしまいました。私はイエス様を三回も裏切ってしまったのです。そんな私に復活されたイエス様は現れて、「ヨハネの子シモン」と呼んでくださいました。そして「この人たち以上にわたしを愛しているか」と尋ねました。予想できなかった質問でした。あまりにも意外な質問でした。さらにイエス様は「わたしの小羊を飼いなさい」と言ってくださったのです。三回もイエスを否定した私に、三回も主イエスは「わたしを愛しているか。わたしの羊を飼いなさい」と言われました。その日、私の心には主イエスに従うことに失敗した私を、変わらず迎えてくださったイエス様の愛が響いてきました。 「わたしを愛しているか。」イエス様はペトロにこの問いを繰り返しながら、大切なことを教えてくださいました。2026年度、私たちも「わたしを愛しているか」この問いに応えながら、祈りつつ、歩んでいきましょう。

○金 南錫牧師 ヨハネによる福音書8章21ー30節
イエス様はユダヤ人たちに対して「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。・・・だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と告げています。ここに「わたしはある」という言葉は、旧約聖書に出てくる神の名前です。ですから、ここでイエス様は「わたしはある」という神の名前をもって、御自身を宣言されたことになります。そして、その神であるわたしを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる、ということです。
