○金 南錫牧師 コリントの信徒への手紙一15章12ー26節
佐倉教会は、1904年11月ここ佐倉市において設立されたキリスト教(プロテスタント)の教会です。礼拝は、毎日曜日の午前10時30分より行っており、どなたでも参加できます。
○金 南錫牧師 コリントの信徒への手紙一15章12ー26節
○金 南錫牧師 ヨハネの手紙一3章19ー24節
「これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます、心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。」「これによって」とは、イエス様に倣って、互いに愛し合うことです。それによって、私たちは自分が真理(イエス・キリスト)に属していることを知り、神の前で安心できると言うのです。
その次に「心に責められることがあろうとも」とあります。私たちは自分の心が責められる時があります。洗礼を受けて、神の子でありながら、これでもクリスチャンなのかとがっかりすることがあります。神様を愛し、隣人を愛したいと願いながら、それと正反対のことをやってしまう自分があります。でも、今日の聖書は大丈夫なんだ、神の前で安心できると言うのです。なぜならば、神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです(20)。神様はすべてをご存知だから、安心しなさいと言っています。
○金 南錫牧師 使徒言行録16章16-34節
パウロはフィリピの町で占いの霊に取りつかれていた女奴隷に出会います。彼はその霊に向かって「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」と命じました。すると即座に、占いの霊が彼女から追い出されました。しかし、彼女を通して、金儲けをしていた主人たちは憤慨し、パウロとシラスを捕らえ、町の高官たちに引き渡しました。高官たちはちゃんと調べもせず、二人の衣服をはぎ取り、何度も鞭で打ってから、牢に投げ込みました。
何度も鞭打たれ、投獄されたパウロとシラスの体はボロボロになり、大変な苦しみの中にあったと思われます。しかし、そのような状況の中で、「真夜中ごろ、牢の奥で、パウロとシラスが賛美の歌を歌って、神に祈っていた」とあります(25節)。真夜中、二人の傷だらけの信仰者が賛美の歌を歌い、神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていました。ここに教会の真の姿が現れていると思います。信仰者の賛美の歌と祈り、それがあれば、そのところが礼拝の場となります。この賛美の歌と祈りによって、看守とその家族は洗礼を受けて、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだのです。
○金 南錫牧師 ヨハネの手紙一3章11ー18節
15節に「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」とあります。これに関して、ヨハネは一つの実例を取り上げてそのことを説明しています。創世記4章を見ると、兄カインは、弟アベルの献げ物が神に受け入れられ、自分の献げ物が神に受けられなかったことで、弟を殺してしまいました。妬みが憎しみとなり、憎しみが殺意へと変わっていきました。そのカインのようになってはなりませんと、ヨハネは言っています。
では、どうしたら、カインのようではなく、互いに愛し合う者となれるのでしょうか。16節に「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました」とあります。
互いに愛し合うことの難しさの中にある私たちを、神は憐れんでくださり、独り子イエスキリストを送ってくださり、私たちに本当の愛を示してくださいました。このキリストの愛を受け、神の子とされた者として、私たちは「行いをもって誠実に愛し合う」ことを心から実践してまいりたいと思います。
○金 南錫牧師 ヨハネの手紙一3章4ー10節
「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。」(9節) 神から生まれた人とはイエスを信じて、洗礼を受けた私たちのことです。また「罪を犯しません」とは、「罪を犯し続けることができない」とも訳すことができます。「神から生まれた人は皆、罪を犯し続けることができない。」その理由として「神の種がこの人の内にいつもあるからです」と書いてあります。罪を犯し続けている自分を見ると、絶望してしまいますが、自分の内にすでに蒔かれている神の種、即ち御言葉に目を注ぐ時、そこから希望が生まれてくるのです。
○金 南錫牧師 ヨハネの手紙一2章28ー3章3節
3章2節に「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」とあります。聖書は、復活なさって、天に上げられたイエスが、やがてもう一度、この世に来られると約束しています。それが「御子が現れるとき」のことです。その日、その時、この地上の生涯を終えて眠っているクリスチャンは、神様によって起こされるのです。そして、御子をありのままに見て、御子に似た者になるのです。私たちの信仰生活の歩みは、この希望に向かっての歩みなのです。
○金 南錫牧師 ヨハネの手紙一2章18ー27節
「子供たちよ、終わりの時が来ています。」ヨハネはこの手紙を受け取る教会の人たちに向けて、「子供たちよ」と親しみをこめて語りかけています。また、「終わりの時」と聞くと、「世の終わり」のことを思うのかも知れませんが、聖書は、御子イエスが人となって、この世に生まれたクリスマスの時から、すでに終わりの時が始まっていると教えています。
「反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。」ここに「反キリスト」という言葉が出て来ます。これは、キリストに反するものという意味があります。22節に「偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです」とあるように、イエスはキリストではない、神ではないと主張する人たちのことを、「反キリスト」と言っています。特に当時、教会に悪い影響を与えていたグノーシスと呼ばれる、神が人となられたことを否定する人たちのことです。「終わりの時」にはそうした「反キリスト」が現れるというのです。
「初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。」(24節)「初めから聞いていた」それは、イエス様のご生涯のことです。それを心にとどめなさい。イエス様がこの世に来てくださって、私のために十字架で死に、復活なさった、それが私の内にいつもあるならば、もうあなたがたの永遠の命は始まっていると、ヨハネはいうのです。
○金 南錫牧師 ヨハネの手紙一2章7ー17節
ヨハネは「わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟」だというのです。ここで古い掟は、モーセを通して与えられた律法のことを指しています。イエス様はこの律法を心を尽くして神を愛すること、隣人を自分のように愛すること、この二つに要約されると教えられました。そしてこの古い掟は、弟子たちはすでに聞いて、教えられて来ました。
ヨハネはその古い掟を、8節の前半を見ると、新しい掟として書いていると言っています。「「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです。」(9-11節)ここで「兄弟を憎むこと」と「愛すること」について、光の中にあることと関連して語っています。これは後に出て来る「互いに愛し合うこと」を言っています。3章11節に「なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです」とあります。また、3章23節には、「その掟とは、神の子イエス・キリストを信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛することです」とあります。
イエスはこのことをはっきりと弟子たちに教えられました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)イエスが十字架に付けられる前の晩に、弟子たちと一緒に食事をし、彼らの足を洗った時に言われた言葉です。その言葉を直接聞いたヨハネは、今日のところで、もう一度「互いに愛し合う」というイエスの言葉を新しい掟として語っています。
○金 南錫牧師 ヨハネの手紙一2章1ー6節
「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。」(1節)ヨハネはこの手紙を書きながら、どうかこの手紙を読む人たちが罪を犯さないようになってもらいたい、という願いを持って書いています。続いて、1節後半にこう書いてあります。「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。」どうしても罪を犯してしまう私たちのために、イエス・キリストという弁護者がおられると言っています。
では、そのイエス・キリストはどこにおられるのでしょうか。私たちの隣におられます。そして同時に、天に昇り、御父の隣にいてくださるのです。この天におられるイエス・キリストが弁護者としておられるんだと言っています。イエス様は今、神様と私たちの間に立って、どうしても罪を犯してしまう弱い私たちのために、父なる神様に弁護してくださるのです。本当に心強いことだと思います。
○金 南錫牧師 ヨハネの手紙一1章5ー10節
「わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。」(6節)また、8節で「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません」とあります。さらに10節で「罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることである」と言っています。これは、私たちの罪の現実の姿でもあります。
しかし、神様はこの罪の現実の中にいる私たち人間を放ってはおらず、その闇から救い出して、光の中に招いてくださいました。「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(7節)どんなに汚れた罪であっても、イエスの血によって清められます。そのことを信じて、心から受け入れる人は、その罪が赦されて、神との交わりに、御子イエス・キリストとの交わりに入れられます。新しい歩みをされるようになります。