2024年2月11日「神の国に入るには」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書18章9-17節

イエス様は、自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して、だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められることを、たとえを用いて教えられました。

二人の人が祈るために神殿に上ったのです。まず、ファリサイ派の人は「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と祈ったのです。彼の祈りは、自分がほかの人に比べていかにすごいか、律法を守れないほかの人たちと違う自分であることを感謝しますという心の中の祈りです。

それに対して、徴税人の祈りはただ胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」という短い祈りでした。彼は自分の罪深さを心の中から悲しむしかできなかったのです。ただ、神様の前に立って「神様、私を憐れんでください」そう祈ったわけです。イエス様はこの二人の中に、義とされて家に帰ったのは、徴税人であったと仰いました。

2024年2月4日「気を落とさずに祈る」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書18章1-8節

 ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいました。その裁判官のところに、一人のやもめがやって来て、「相手を裁いて、私を守ってください」と訴え続けたのです。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかったのですが、とうとう、この裁判官も裁判をしようと思っているのです。それは彼女がかわいそうだったからではないのです。ただ単にうるさくて仕方ないから。しょうがないから裁判をしてやろうというわけです。それから、イエス様は言われました。「まして神は・・・」(7節)。神様はご自分が選んだ私たちのために、私たちの祈りを聞かないでほうっておかれることがあるだろうか、そうではないと言われているのです。ですから、私たちは、祈ることをすぐやめてしまうのではなく、気を落とさずに絶えず祈らなければならないのです。

2024年1月7日「神の国とその到来」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書17章20-37節

ファリサイ派の人たちの「神の国はいつ来るのか」という質問に対して、イエス様は、「神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言われました。つまり、神の国はすでにあなたがたの間に来ているとおっしゃいました。しかし、イエス様は弟子たちには、「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう」と言われました。つまり、あなたがたが今は目で見て、私についていますが、見えなくなる日がやってくる。その人の子の日を一日だけでも見たいと願う時がくる、ということです。

このように、イエス様は、神の国はイエス・キリストが来られることによって、すでに始まっていますが、その神の国が完成する日は、未だに来ていないと言われました。ですから、その間を、希望をもって生きるのが、キリスト者であることを、イエス様は教えています。

2023年12月31日「戻って来た者」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書17章11-19節

イエス様が今弟子たちと一緒に、エルサレムに向かって、旅を続けています。その旅の途中、ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出て来て、イエス様を迎えました。重い皮膚病にかかった人は、人里離れたところで暮らさなければなりませんでした。それは、この病気が当時、恐ろしい伝染病だと考えられていたからです。だから、彼らは遠く離れたまま、声を張り上げて「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と叫びました。イエス様はこの叫びに答えてくださいます。イエス様は彼らを見て「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われました(14節)。

当時、病気が癒されたことを証明できるのは神殿の祭司だけでした。祭司が証明してくれれば、その人は家族に帰って行くことができました。彼らはイエス様の言葉に従って、村を出て、神殿に向かいます。未だ病気のままです。ところが、彼らは祭司のところへいく途中で、清くされたのです。病気は治ったのです。「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった」(15-16節)。十人の中の一人、サマリア人は自分がいやされた時、大声で神を賛美しながら、イエス様のところに戻って来たのです。しかし他の九人は、祭司のところへ向かう途中で、自分がいやされたことを知ったはずですが、イエス様のところに戻って来ませんでした。

 イエス様はご自分の足もとにひれ伏して感謝しているサマリア人に「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われました。この言葉はイエス様のところに戻って来たサマリア人一人だけが聞いたのです。つまり、病気の癒し、そのものが救いではなくて、「イエスのもとに戻って来て、ひれ伏して感謝する」そのことを、イエス様は「あなたの信仰」と呼んでくださって、その信仰があなたを救ったと仰いました。

2023年12月24日「神は我々と共におられる」

○金 南錫牧師 マタイによる福音書1章18-25節

マリアはヨセフと婚約していましたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていたのです。ヨセフは周りの人にこのことが知られない内に、縁を切ろうと考えました。

そのヨセフに、主の天使が夢に現れて「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのだ。マリアは男の子を生む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と言いました。つまり、人間を罪から救うために、イエスキリストがこの世にお生まれになったということです。

 また、マリアから生まれてくる子どものもう一つの名前は「インマヌエル」です。その名前は「神は我々と共におられる」という意味です。神様は私たちと共におられるために、イエスキリストをこの世に送ってくださいました。イエスとインマヌエル、この二つの名前の意味を明らかにするために、イエス様はクリスマスの時に、お生まれになったのです。

2023年12月17日「赦し、信仰、奉仕」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書17章1-10節

「イエスは弟子たちに言われた。『つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。』あなたがたも気をつけなさい」(1-2節)。

ここで、イエス様は「小さい者の一人をつまずかせる者は不幸だ」と仰っておられます。「つまずき」とは、信仰の歩みを妨げて、その人が神から離れさせてしまうことです。また、つまずきをもたらす者は、これまでの文脈から言えば、ファリサイ派の人たちのことだと思います。イエス様は彼らのことについて「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。」そう言われました。

でも、このことはファリサイ派の人たちだけに限ったことなのでしょうか。そうではないのです。だから、イエス様は弟子たちにも「あなたがたも気をつけなさい」と言われたのです(3節)。私たちの心の中にも、自分は正しくて、間違っているのは相手だ。赦せない。そう思ってしまうことがあると思います。そのような時、私たちもつまずきをもたらす者になってしまうことがあります。だからこそ、イエス様は言われました。「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」(3節)。

2023年12月10日「金持ちとラザロ」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書16章19-31節

ある金持ちがいました。彼はいつも紫の衣や柔らかい麻布を着ていて、毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。その金持ちの門前には、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていました。やがて、二人は死んでしまいます。しかし、金持ちは死んだ後、降府でさいなまれながらもだえ苦しんでいたのです。一方、ラザロは死んだ後に、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそば、つまり神の許へと連れて行かれたのです。

このように二人の死後の在り方を分けたものは一体何だったのでしょうか。金持ちは、ラザロを自分の家の門前に置いてあけたのですが、それは人に自分の正しさを見せびらかすためでした。本当の意味で悔い改めて、神に立ち返ることができなかったのです。ところが、ラザロは自分の力に頼ることができませんでした。自分は神の恵みによって生かされていることに気付かされていたのです。悔い改めて、心の向きを神に向けて行く人を、神は助けてくださるのです。

2023年12月3日「律法と神の国」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書16章14-18節

ファリサイ派の人たちは、自分たちは正しいと思っていました。だから、イエスが不正な管理人をほめるなんて、一体何を考えているのだ、そういうふうに思って、イエスをあざ笑ったのです。しかし、イエス様はこう言われました。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。」

ファリサイ派の人たちは、イエスのように不正なことをほめるなんてしない。自分たちは神の前に正しく生きている。とても自身満々でした。ところが、そうした自信が大きくなると、人は正しくないと思われる人のことを批判するようになるのです。しかし、人は誰も、神の前に自分は正しいと言えるほどの人間ではないのです。聖書には、正しい人は一人もいない、と教えています(ロマ3:10)。「神はあなたたちの心をご存じである。」この御言葉によって、私たちが自らの心を振り返っていく時に、自分はいかに自己中心になってしまっていたのか。神の前に、罪人であるということに、深く気づかされていくのです。

2023年11月26日「ごく小さな事に忠実な人」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書16章1-13節

ある金持ちに一人の管理人がいました。その管理人について、主人の財産を無駄使いしている、という告げ口がありました。そこで、主人は彼に「会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない」と言いました。そこで、彼は考えます。そして、思いついたことは「管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ」ということでした。

管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、油百バトスと言った人は五十バトス、小麦百コロスと言った人は八十コロスにしてあげたのです。こうして、彼は人たちに恩を売っておけば、将来自分の世話をしてくれるだろうと考えたのです。ところが、「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」とあります(8節)。主人とはイエス様のことです。そのイエス様は続いて「不正にまみれた富で友達を作りなさい」と言うのです。ここでイエス様が言われたのは、不正にまみれた富、即ちこの世の富を使って、他の人が永遠の住まい、天国に入ることができるように、伝道のために用いなさいということです。

2023年11月19日「失われた息子」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書15章25-32節

弟息子は失われた息子でした。財産を相続して遠い国に行って、そこで放蕩の限りを尽くして、全財産を使い果たしてしまったのです。ところが、兄息子はどこにも出かけてないのです。ずっと父親の家で真面目に働いて来ました。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。」(27-28節)

この兄息子が言っていることは分からないわけではありません。正しいことを言っていると思います。私たちは放蕩を尽くした弟息子よりも、兄息子のほうに似ているかも知れません。正しい自分は真面目に父親に仕えて来たあの家出した弟息子とは違うということを言いたいのです。この兄息子に、父親は「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」と言うのです。父親のすぐ近くにいるのに、その父の愛が分かりませんでした。この意味で、兄息子は父から遠く離れた失われた息子でした。