○金 南錫牧師 フィリピの信徒への手紙2章20ー30節
2024年12月1日「パウロとテモテ」
○金 南錫牧師 フィリピの信徒への手紙2章19ー24節
パウロは今、ローマ皇帝の前で裁判を受けるために、囚われの身となっています。ですから、フィリピの教会に行きたくても、行くことはできません。それで、パウロは自分に代わって、自分と同じ思いで、フィリピ教会のことを心から心配し、祈っていたテモテを遣わそうとします。また、それだけではありません。そうすることによって、パウロ自身も、力づけられたいと願っていたのです。さらに、パウロはこう言っています。「そこで、わたしは自分のことの見通しがつきしだいすぐ、テモテを送りたいと願っています。わたし自身も間もなくそちらに行けるものと、主によって確信しています。」(23、24節)パウロは死を予感していたにもかかわらず、主によって生きようとしていたのです。
2024年11月17日「キリストの日に誇る」
○金 南錫牧師 フィリピの信徒への手紙2章12ー18節
パウロは「こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう」と言っています(16節)。キリストの日とは、終わりの日のことです。復活なさって、天に帰られたイエス様がもう一度この世に来られるのですが、そのキリストの日に、パウロはフィリピの信徒たちと一緒に、イエス様の前に出ていくのです。その日のことを思って、パウロは「自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう」と言っています。このキリストの日にこそ、フィリピの信徒たちの救いが完成する日であるので、パウロにとって大きな喜びでした。
ですから、パウロは更にこう言っています。「更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、私は喜びます。あなたがた一同と共に喜びます」(17節)。ここでパウロは、自分はもうすぐ殉教することを予感しています。それでも、フィリピの信徒たちが信仰に基づいて、一生懸命礼拝生活をしていることを思うと、喜びがあふれて来る。それがパウロの誇りであり、喜びでした。
2024年11月10日「キリスト賛歌」
○金 南錫牧師 フィリピの信徒への手紙2章6ー11節
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(6-8節)。キリストは神と等しい者でした。それにもかかわらず、神と等しくあることを固執しないで、この世に来てくださったのです。これは、キリストが神であることをやめたというのではなくて、神でありながらも、その神としての権利を放棄されたということです。そして、天から下って来たキリストの歩みは、十字架において極まります。私たちのために、十字架で命をささげてくださいました。神であるお方が、神としての特権を放棄して、徹底的に無力になって、どん底まで下られました。これが、イエス様が私たちに示されたへりくだり、謙遜なのです。神様はどん底まで下られたキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました(9節)。キリストは再び神の栄光を受けられました。そして、すべてのものの主となられ、今、父なる神様の右の座に座しておられ、この世界を治めておられます。
2024年11日3日「本国は天にある」
○金 南錫牧師 フィリピの信徒への手紙3章17ー21節
パウロは信仰者に与えられている三つの希望について語っています。一つ目は、「わたしたちの本国は天にある」という希望です。今はこの世で一時滞在して生きていますが、やがて帰るべき本国は天にあるというのです。
二つ目は、天にあげられた主イエス・キリストが、もう一度この世に来られるという希望です(20節b)。そして、三つ目は、「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」という希望です(21節)。イエス様が再び来られ、私たちを迎えてくださる時、私たちの卑しい体を「御自分の栄光ある体」に変えてくださるのです。信仰者はこの三つの希望をもって、本国は天にある者として歩んで行く者です。
2024年10日27日「教会の心」
○金 南錫牧師 フィリピの信徒への手紙2章1ー5節
「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」(1-2節) パウロはフィリピの信徒たちに、同じ思いとなりなさいと勧めています。また、同じ思いになるために、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」と勧めています(3-4節)。最後の5節に「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」とあります。「このこと」というのは、1節から4節まで記されて来たこと、つまり、教会の一致のことです。それを心掛けなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものなのだと言うのです。文語訳聖書では「汝ら、キリスト・イエスの心を心にせよ」と訳しました。キリストの心を自分の心にしなさいということです。教会の一致を求めるキリストの心を、自分の心として、教会の心としてしっかりと受け止めて、主にある一致を求めてまいりたいと思います。
2024年10月20日「福音にふさわしい生活」
○金 南錫牧師 フィリピの信徒への手紙1章27ー30節
パウロはフィリピの信徒たちに「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」と勧めています。ここで「生活を送りなさい」という言葉は、「市民として生きる」とも訳されます。パウロはローマの市民ではなく、キリストの御国に属する民として生きなさいと勧めています。また、キリストの御国に属する民として生きるために、一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせること。また、福音の信仰のためにともに戦うこと。そして、キリストのために苦しむことも恵みとして与えられていることを教えています。私たちが天の御国の一員として、この道を感謝し、喜んで歩んでいきたいと思います。
2024年10月6日「生きるにも死ぬにも」
○金 南錫牧師 フィリピの信徒への手紙1章20ー26節
パウロは、自分の身によって、キリストがあがめられることを願っています。そんなパウロの熱い思いが「生きるにも死ぬにも」という言葉によく表されています。「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。」パウロの切なる願いと希望は「生きるに死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられる」ことでした。
また、パウロはこう言っています。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」つまり、自分にとって、キリストがすべてであるということです。このパウロの切なる願いや希望、生きる姿を通して、私たちは今、ご自分の切なる願いと希望がどこにあるのか、点検する必要があるのではないでしょうか。
2024年9月29日「福音の前進」
○金 南錫牧師 フィリピの信徒への手紙1章12ー19節
12節に「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」とあります。フィリピの信徒たちは、パウロがローマの獄中にあって、心配していました。ところが、パウロは自分の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと、そのことを知ってほしいと言っているのです。自分が捕らえられたことで、かえって福音が、広く伝えられるようになったと言うのです。
13節に「つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り」とあります。「兵営全体」というのは、パウロを監視しているローマの兵士たちのことです。彼らは、監禁されたパウロを通して、キリストのことを知りました。また、教会の仲間たちは、パウロが捕らえられたことを見て、確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになりました(14節)。さらに、「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、・・・自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせている」人たちもいました(15-17節)。彼らに対してパウロは「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」と言っています(18節)。パウロは、それがなんであろう、キリストが告げ知らされることを喜んでいます。まさに、自分の身に起こったことが、「かえって福音の前進に役立った」のです。
2024年9月15日「蓄える信仰」
○金 南錫牧師 出エジプト記16章31ー36節
エジプトから出たイスラエルの民が、荒れ野をさまよう時に、神様は天から日用の糧を雨のように与えて下さいました。朝、起きてみると、荒れ野の地面に薄くて壊れやすいものが、大地の霜のように覆っていました。イスラエルの民はそれを「マナ」と名付けました。そして、このマナはイスラエルの民がカナンの地に入るまで、なんと40年間与えられました。神様は「そのマナの中から正味一オメルを量り、代々にわたって蓄えよ。わたしがあなたたちをエジプトの国から導き出したとき、荒れ野で食べさせたパンを彼らが見ることができるためである」と命じられました(32節) つまり、神様は、荒れ野の40年間、イスラエルの民が食べ物が無くて困った時、このマナを通してイスラエルの民たちを食べさせた、その出来事を覚えさせようとしました。イスラエルの民は、壺に入れたマナを見る度に、荒れ野の40年間、自分たちを支えてくださった、慈しみ深い神様を覚えていくのです。マナの記憶は、神様との関係を豊かにしてくれる根拠になるのです。