2022年9月4日「安息日の主」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書6章1-11節

本日の聖書箇所には、二つの安息日の出来事が記されています。「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。」(1節)それに対してファリサイ派の人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と非難しました。また、ほかの安息日に、イエス様は会堂に入って教えておられました(6節)。そこに右手の萎えた人がいました。律法学者たちやファリサイ派の人々は、主イエスを訴える口実を見つけようとして、「イエスが安息日に病気をいやされるかどうか」と注目していたのです。イエスは彼らの考えを見抜いた上で手の萎えた人に「立って、真ん中に出なさい」そして「手を伸ばしなさい」と言われました。この人はイエス様の言葉を信じて、動かない手を伸ばしました。すると、手は元どおりになったのです。

安息日が定められている理由は、神の創造の御業、神の救いの御業を覚えて神様に感謝することが目的です。そのために、安息日にはすべての仕事を休むわけですが、問題はこの手段のほうが目的になっていたのです。

2022年8月14日「主よ、御心ならば」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書5章12-26節

全身重い皮膚病にかかった人は、人が近づいたとき、口を覆って「わたしは汚れたものです、汚れたものです」と言わなくてはなりませんでした。それは、他人に汚れが移らないようにするためでした。そのことに耐えながら、町に来たのです。そして、イエス様を見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言います。その時、イエス様は手を差し伸べて、その人に触れました。それは、あなたのその病を、私が引き受けるよ、という意味です。

また、一人の中風の人が床に寝かされたままで、運ばれて来ました。ところが、大勢の群衆が集まっていて、イエス様の許に近づけない状況でした。中風の人を連れて来た人たちはなんと屋根に上って、瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろしたのです。その人たちの信仰を見て、イエス様は中風の人に「人よ、あなたの罪は赦された」と宣言されました。これは、わたしがあなたの罪を引け受けますよ、という意味です。

私たちは主イエス・キリストの十字架によって、罪赦され、日々その恵みの内に、生かされるものとなったのです。

2022年8月7日「しかし、お言葉ですから」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書5章1-11節

シモン・ペトロは、漁師のプロでした。しかし、この時現実は、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。失望し、ペトロをはじめ、仲間と共に、網を洗っているところに、イエス様が来て、あなたの船を出してほしい、とお願いしました。そして、イエス様はペトロの船に乗って、その船から、群衆に向かって、教え始められました。ところが、話し終わった時、今度イエス様はペトロに向かって、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。ペトロの失望しているその問題に、イエス様がお言葉をもって、語りかけてくださったのです。ペトロはイエス様に「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、あなたのお言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えました(5)。そして、信仰によって、沖に漕ぎ出していた時、主イエスが生きて働いておられることを、ペトロは知りました。

私たちの信仰生活においても、今置かれている現実の問題、今抱えている問題の中で、主イエスは御言葉を語ってくださるのです。そして、私たちも御言葉に従っていく時に、主の奇跡を体験することができます。自分の経験ではなく、御言葉のみによってです。

2022年7月31日「巡回して宣教するイエス」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書4章38-44節

 シモンの家には、姑がいて、高い熱に苦しんでいました。イエス様が彼女の枕元に立って、熱を叱りつけられると、熱が去り、シモンの姑はすぐに起き上がって一同をもてなしました。シモンの姑が癒された後、「日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た」(40節)。イエス様は休みません。しかも、「その一人一人に手を置いていやされた」のです。夜が明けると、イエス様は人里離れた所へ出て行かれ、祈っておられました。

 イエス様のところに「群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた」(42節)。おそらく、群衆はイエス様の癒しの業を見て、ずっとここにいて、癒しの業を続けてほしいと願ったのでしょう。引き止める群衆にイエス様は言われます。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」イエス様は「わたしはそのために遣わされたのだ」という強い自覚をもって、日常生活を歩んでおられました。このように、私たち一人一人は、今、佐倉教会に遣わされたのだ、という自覚を持っているのでしょうか。

2022年7月24日「悪霊に取りつかれた人の癒し」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書4章31-37節

 イエス様は、安息日になると、会堂に行って人々を教えておられました。ところが、「人々はその教えに非常に驚いた」とあります(32)。また、その理由について、イエス様の語る「その言葉には権威があった」と言うのです。イエス様の言葉には、権威がありました。ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだのです(33)。「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」ここで「かまわないでくれ」というのは、悪霊の心からの叫びでした。

 それに対して、イエス様は「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになりました(35)。すると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行ったのです。つまり、悪霊が去ったのち、この人は人々の中に、共同体の中に、何の傷もなく復帰することができたのです。今、イエス様は何に対して、権威をもって、私たちに「黙れ」と語りかけておられるのでしょうか。その声に従いたい者です。

2022年7月17日「ナザレの伝道」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書4章14-30節

 悪魔の誘惑に勝利されたイエス様は霊の力に満ちて、ガリラヤに帰られました。そこで、主イエスがなさったことは、諸会堂で教えることでした。そして、イエス様はお育ちになった自分の故郷ナザレに来て、いつものとおり、安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとして、お立ちになりました。ナザレの人々は、イエスがどのような人で、どのように育ち、どのような家柄であるか、すべて知っていました。ですから、イエス様の口から出る言葉に驚きましたが、「この人はヨセフの子ではないか」とイエスを見下げるような言葉で、イエスをほめているわけです。彼らはイエスの言葉を聞いて驚きましたが、固定観念によって、聞く耳が閉ざされてしまったのです。さらに山の崖まで連れて行き、突き落とそうとしました。「しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた」(30節)。イエス様はナザレの人たちの思い通りにはなりませんでした。脅かされても、イエス様は神の御心に従って生きることを、生き抜かれました。私たち自身はどうなのでしょうか。

2022年7月10日「神の子イエスの誘惑」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書4章1-13節

 イエス様はその悪魔から三つの誘惑を受けました。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」(3)。この誘惑に対して、イエス様は「人はパンだけで生きるものではない」と答えられました。次に、悪魔はイエス様を高いところに連れていきます。5節に「一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた」とあります。そして、悪魔は「・・・もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」と言いました(6-7)。この誘惑に対して、イエス様は「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と答えられました。そこで、悪魔はイエス様をエルサレム神殿の屋根の端に立たせて「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。天使たちがしっかりと守らせる」でしょうと誘惑しました(9)。

 イエス様は三回の誘惑を受けられた時、すべて御言葉によって、その誘惑に勝利してくださいました。このように、私たちも日々聖書の御言葉に親しみ、その御言葉に聞く以外、誘惑に立ち向かうことができません。どうか、私たちに与えられている御言葉の上にしっかりと立つができますように、祈り願います。

2022年7月3日「献呈の言葉」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書1章1-4節

 「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています」(1-2節)。「わたしたちの間で実現した事柄」とは、ナザレの人、イエス・キリストの十字架と復活のことです。ルカは、ナザレのイエスとは直接的には出会っていません。彼は医者だったので、一連の出来事を注意深く観察し、人たちやイエスの周りにいた人たちから、イエスはどのような人か、イエスは何を語り、何を行われたのか、それを注意深く聞いて、イエスという方を知っていきました。

 また、「最初から目撃して御言葉のために働いた人々」によって伝えられたことを受け入れ、「順序正しく書いて」テオフィロに献呈したわけです(3節)。一人のために書いたことですが、すべての人に開かれた福音書となっていました。一人を愛する、その愛が、私たちにも向けられていることを、このルカによる福音書を通して、聴きたいと思います。

2022年6月26日「悪を善に変える神」

○金 南錫牧師   創世記50章1-26節

 ヤコブは、147年の地上の生涯を終えました。ヤコブの遺体は先祖の眠るマクペラの畑の掘穴に葬られました。その後、ヨセフとその兄弟たちはエジプトへ帰りました。ところが、兄弟たちに一つ気がかりなことがありました。それは、父ヤコブが死んだことによって、ヨセフの心が変わり、自分たちに仕返しをするのではないか、という心配でした(15節)。そこで兄たちは、人をやって、自分たちの咎と罪を赦してほしいと懇願しました。

 これを聞いて、ヨセフは涙を流しました。そして、兄たちにこう言いました。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう」(19、21節)。これは、すべてのことを働かせ、悪を善に変える神の摂理を信じる信仰に立っていたヨセフ物語の結論のような言葉です。