○金 南錫牧師 マルコによる福音書12章35-40節
今日の聖書箇所は、イエス様がどういうお方であるかが、イエス様ご自身によって、語られています。場所はエルサレム神殿の境内で、イエス様の周りには大勢の群衆がいました。当然、イエス様の弟子たちもいたはずです。
そして、イエス様が彼らにメシアはどういうものかと教えたばかりです。それは、律法学者たちが、「メシアはダビデの子だ」と言っていたからです。
イエス様は、詩編110編の言葉を引用して、「ダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」と、律法学者たちの聖書解釈の問題点を指摘しました。
36節で、イエス様が引用しておられるのは、詩編110編1節のところです。実際の詩編110編と比べるとちょっと言葉が違っていますが、「主は、わたしの主にお告げになった」というところに注目したいと思います。
ここで「主」という言葉が2回出て来ます。最初の「主」は神様のことです。次の「わたしの主」とありますが、「わたし」というのは、ダビデのことです。このダビデの「主」というのは、将来現れるメシアのことです。ダビデは、将来現れるメシア、キリストのことを「わたしの主」と呼んでいるのです。
ここで、イエス様が指摘したのは、将来現れるメシア、キリストは、ダビデの子孫として生まれますが、そのキリストはダビデの子以上の存在である、ということです。
当時イスラエルの人々がこれから現れるメシアは、自分たちをローマ帝国から救ってくれる、ダビデのような力強い指導者を期待していました。しかし、イエス様はそのような期待自体が間違っていると言われています。
つまり、旧約聖書で預言されているメシアというのは、ユダヤ人だけのメシアではなく、人類全体のメシアであることをここで解き明かしたのです。
今コロナのことで、先行きが見えない不安のとき、私たちは、ダビデのような力強い指導者を待ち望んだユダヤ人のように、この状況から導き出す強い指導者が現れることを願いがちですが、今だからこそ、キリストがわたしの主であることを信じながら、その主に従う一週間を歩んでいきたいと思います。