2020年6月7日「神と人を愛する」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書12章28-34節

 今日の聖書箇所は、イエス様が十字架にかかられる三日前のことで、受難週の火曜日に当たります。
 イエス様の教えは、あまりにも恵みと権威に満ちていたので、当時の宗教指導者たちは、妬みの心を持ち、事あればイエス様を陥れようとしていました。マルコによる福音書12章では、意地の悪い質問が続きます。ファリサイ派やヘロデ派の人から、ローマ皇帝に税金を納めるべきかどうかについて、イエス様は、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えます。
 また、サドカイ派の人からは復活の質問を受け、「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」と、イエス様は実に素晴らしい回答をしています。
 それを聞いていた一人の律法学者がまたイエス様に「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と質問します(28節)。この質問に対して、イエス様は、二つの律法のことを挙げています。
 第一は、「わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」、申命記6章4節、5節に書かれている言葉です。ここで、「あなたの神である主を愛しなさい」とは、その前の「わたしたちの神である主は、唯一の主である」ことが前提となっています。
 第二は、「隣人を自分のように愛しなさい」、レビ記19章18節に書かれている言葉です。ここで隣人とは、レビ記ではイスラエルの民を指していますが、イエス様は異邦人を含め、すべての人を指して言われました。
 一人の律法学者が、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」という問いに、イエス様は神を愛すること、隣人を愛すること、二つのことを挙げられました。それはこの二つのことが切り離すことができないからです。
 では、どうすれば神を愛し、隣人を愛することができるのでしょうか。それは、聖書が語っている愛、即ち、イエス・キリストの愛に絶えず目を向けて、聞き続けるしかありません。
 教会はイエス・キリストの愛に目を向けて、聞く信仰共同体です。私たちは、神様から大きな愛を受けたにも関わらず、一人の人も愛し得ない者ですが、何とかしてそのイエス・キリストの愛に近づきたいものです。
 律法学者はイエス様の答えを聞いて、「『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」と答えました(33節)。
 イエス様は律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われます(34節)。遠くないというのは、神の国の境界線近くにいるということです。
 しかし、まだ中に入っているかどうかは微妙なところです。神の国は、言葉だけで入るところではありません。行動を伴わなければ神の国に入ることができないのです。愛は行動を伴うものです。
 今、コロナのことで、人との交わりが薄くなり、寂しさを覚えている人がいるかもしれもせん。その人のために、祈りをもって、支えていくのではないでしょうか。
 神と人を愛する人の祈りの中で、神様が共におられることを信じ、また、その祈りの中で、私たちも主なる神を愛し、隣人を愛そうではありませんか。