2019年12月8日「小犬とパンくず」

○金 南錫牧師 マルコ7章24-30節

 汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ母親がイエス様のことに聞き付けて、主の足もとにひれ伏しました。そして、娘から悪霊を追い出してくださいと叫びました。この母親は祈る母でした。
 この母親の叫びに対して、イエス様は「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」と言われます(27節)。
 「子共たち」というのはユダヤ人のことです。「小犬」というのはユダヤ人以外の異邦人を意味しています。このとき、イエス様はユダヤ人の救いのみに向かっていますから、異邦人の女性が来ても、すぐ受け止めなかったのです。
 しかし、この母親は落胆しませんでした。彼女の信仰の素晴らしさは、イエス様の御言葉から諦めずに、「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」と答えたことでありました。「パン屑」はキリストの福音のことです。
 この母親の訴えを聞いたイエス様は、「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい」と言われ、家に帰ってみると、悪霊に取りつかれた娘の病気がいやされていました。

2019年12月1日「口先と心」

○金 南錫牧師 マルコ7章1-23節

 ユダヤ人が外の汚れから身を清めることに懸命であったのに対し、イエス様は人を汚す汚れは私たちの内にある、心にあると指摘されたのです。
 また、イエス様は「人間の心から、悪い思いが出てくるからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」と言われます(21-23節)。
 ここで、人間の心から出てくる悪い思いを自分に当てはめてみると、どうでしょうか。どれも私たちの罪の心から出てくる悪です。イエス様はここで、人間はみな罪人なのだと宣言されたのです。聖書は、すべての者は罪を犯していると言っています。
 しかし、それで失望するのではなく、そのような私たちであるからこそ、テサロニケの信徒への手紙一4章7節に「神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです」と言ってくださっているのです。私たちは聖なる生活のために、日々自分の罪を認め、悔い改めなければなりません。

2019年11月24日「再び湖の上にて」

○金 南錫牧師 マルコ6章45-56節

 弟子たちが乗っている舟が逆風に遭って、少しも前に進まないのです。イエス様は湖の上を歩いて、弟子たちのところに来られました。しかし、弟子たちは湖の上を歩くイエス様を見て、幽霊だと思って、大声で叫びました。
 そのおびえる弟子たちに向かって、イエス様は「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われました。そして、イエス様が弟子たちの舟に乗り込まれると、風は静まったのです。弟子たちは非常に驚きました。聖書は「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」と告げるのです(52節)。パンの出来事。それは、イエス様がまことの神であられることを示しているのです。
 実は、本日の湖の上を歩いてこられるイエス様の出来事も、イエス様がまことの神であられるということを示しているのです。「湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた」(48節)。
 旧約聖書において、人が神を面と向かって見ることは死を意味していました。ですから、神様は、通り過ぎることをもって、ご自身が共にいることを示されたのです。私たちの信仰の歩みはまことの神であられる主イエスが共にいてくださるので、安心できるのです。

2019年11月17日「五つのパンと二匹の魚」

○金 南錫牧師 マルコ6章30-44節

 イエス様の前には大勢の群衆がいました。イエス様は、羊飼いのいない羊のような人々をご覧になって、「深く憐れで」くださいました(34節)。
 イエス様の憐みは単なる同情とは違います。相手のほんとうの幸せを願わずにはいられず、とてもほっとけないという気持ちです。イエス様が周りに押し寄せる群衆を深い愛で、みんなのことを心から心配して、愛してくださいました。
 それが教会の伝道の動機です。弟子たちの熱意や願いから始まったのではありません。
 日が傾いてくると、弟子たちは群衆を解放させてくださいとイエス様に願いました。飢えた大勢の群衆がどこかよそで、その飢えを満たせるようにと願ったのです。群衆から逃げようとする弟子たちを断固、イエス様は阻止されるのです。
 「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(37節)。「パンは幾つあるのか。見て来なさい」(38節)。弟子たちは確かめた上で、答えました。「五つあります。それに魚が二匹です」。それから、イエス様は五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱えられました。
 弟子たちは、これだけしかない、そう思って差し出しました。しかし、イエス様は弟子たちから受け取り、これがあるということで神に感謝しました。神の国の働き、伝道はここから始まっているのです。

2019年11月10日「洗礼者ヨハネの死」

○金 南錫牧師 マルコ6章14-29節

 ヘロデは自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアを妻としました。それを洗礼者ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」と言ったのです。
 これは、非常に勇気のいる言葉でした。しかし、批判したために、捕まって牢に閉じ込められてしまったのです。特に、ヘロデの妻ヘロディアは洗礼者ヨハネを恨み、殺そうと思っていました。しかし、「ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」ために(20節)、なかなか殺すことができなかったのです。
 では、ヨハネは何を教えていたのでしょうか。それは、神の御前に立ち、あなたの罪、姦淫の罪を悔い改めなさい。そして、神のもとに立ち返りなさい、ということです。神の前に、洗礼者ヨハネの心、良心は生きていたのです。
 しかし、ヘロデの心は虚栄心に満ちていたのです。彼はガリラヤ地方の「領主」にすぎなかったのに、誕生祝いの席で踊った娘に、まるで自分は何でもやれる「王」であるかのように、「この国の半分でもやろう」と言い、虚栄心に満ちていたのです。この虚栄心が、ヘロデの人生を滅びていくのです。
 私たち人間には、こういう弱さがあります。神の前で、何が正しいことかを祈り求める必要があります。そして、かっこいい生活だけを神に見せるのではなく、真に弱く、失敗した生活を神の前にさらして、赦しを求め続けて生きることができますように、祈り願います。

2019年11月3日「世にあるかぎり」

○金 南錫牧師 詩編90編1-17節

 私たちの人生は、死ぬまでの限られた時間の中で、家族と共に、隣人と共に歩み続けることです。ですから、人は誰でも人生には限りがあること、有限な存在であることを厳粛に受け止めなければなりません。
 だからといって、悲観的に生きるのではありません。世にあるかぎり、生涯の日を正しく数えながら生きていくことが求められます。
 12節に「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」とあります。ここで「生涯の日」とは、私たちに残された命のある時間です。その命のある日がどのぐらい残っているのか、数えてみること。それが、人間にしかできない知恵ある心です。
 その残りの日々を正しく数える人は、成熟した大人です。ところが、子どものような人は、残された日を正しく数えることができません。
 この詩編の作者は、労苦と災いに過ぎない限りのある人生の中で(10節)、神様を仰ぎ見る姿を見せています。ですから、1、2節にこう祈っています。
 「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。山々が生まれる前から、大地が、人の世が、生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神」。
 この永遠なる神様に対する告白は、華やかで贅沢なところから出てくるのではありません。終わらないような苦しみの中から、限りのある人生の中から、「世々とこしえに、あなたは神」と告白することができるのです。

2019年10月27日「砂漠に花がさくとき」

○左近  豊師 イザヤ書35章1-10節

 旧約聖書の知恵の教師は教えた。「幻なき民は滅びる」、ヴィジョンを持たない国民は堕落する、と(箴言29:18)。
 神の言葉が語られるところ、そこに、幻、ヴィジョンが創られる。それによって開かれる世界がある。今、目の前にある、行き詰ってしまっている世界が、闇が待ち構えている、苦しいだけの世界が、それで全てではない、絶対ではないのだ、ということに気づかされる。
 信仰の先達たちが証ししてきた、聖書が語る生き方は、浮世に身を沈めて、そこで泣き、笑い、しながら、しかし、そこに溺れない生き方。浮世に溺れない、しかし浮世離れしない生き方と言えよう。
 クリスチャンとは、浮世を脱して精神世界の高みに登る者のことではない。むしろ高きにいます方が低く下ってくださって、私たちの地平に身を沈められ、涙を流し、共に笑ってくださり、血を流し、共に死んでくださった、そうやって私たちの弱く、よろめき、おののく生命の確かな礎となってくださった、この原点に常に立ち帰る者のこと。贖われた者として帰ってくる、それが聖書の信仰、教会の礼拝なのだ。
 私たちは礼拝で、先に召された信仰の先達たちも望み見ていた神の国、神の御業の幻を見る。そのただ中に復活の主がおられるのを見る。ここに私たちの命の基があること、原点があることを思い起こす。日々の生活で纏わりついた様々な重荷をここで降ろし、曇って霞んでしまった目を、ここで洗っていただいて、もう一度、神の御業の幻を見ることができるようにされる。
 イエス・キリストは喜びにあふれて言われた。「あなた方の見ているものを見る目は幸いだ!」と。

2019年10月20日「伝道の指針」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書6章6b-13節

 イエス様はガリラヤの町々に弟子たちを二人ずつ組にして遣わされました。その際、イエス様は弟子たちに汚れた霊を追い出す権能を与えられました。イエス様は私たちに「イエスの名」による権威を与えて、それぞれの場に遣わしてくださっています。
 その権威を与えられていることを軽んじていけません。遣わされた所で、神の祝福をイエスの名によって祈る特権を大胆に使わせていただきたいと思います。
 また、イエス様は弟子たちを福音伝道のために派遣するとき、杖一本と履物のほかは何も持たずに、パンも、食べ物を入れる袋も、お金も持たずに行くようにと、命じられました。必要なものは、あなたがたの話を聞いて心を動かされた人々が用意してくれるというのです。
 しかし、もし誰も自分たちの言葉に耳を傾けてくれなかったら、どうしたらよいのでしょうか。そのときは、足の裏の埃を払い落として、次の町へ行くのです。イエス様は、私たちにも福音を託し、御自分の御業のために、権能を与え、派遣してくださるのです。

2019年10月13日信徒奨励「もっと心を大切に」

○NI兄 ヤコブ書5章13-18節

 ぜひとも心にお留めください。人の心はこの世の物で満たされるほど、小さくありません。しかしながら、人の心は目には見えなく、大変傷つきやすく、厄介なものです。ですから、そのような心を勝手にいじめてはいけません。そこで、必要以上に心を酷使せず、「もっと心を大切に」時には思い切って、ゆっくりと心を休ませる時間を持つことが大切です。
 この点に関し、マタイ11章28節には「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」との素晴らしい御言葉があります。いつも神様への祈りは、思っている以上の力があります。「祈り」は自由意思に基づくもので、強制はできませんが、いつも祈りが自然とできるようになれば、こんな素晴らしい信仰はないと思われます。
 また、イザヤ書2章22節には「人間に頼るのをやめよ、鼻で息をしているだけの者に。何処に彼の値打ちが有るのか。」との御言があります。そこで、いつも自分に頼ると失望しますが、他人に頼るともっと失望し、ついには絶望に至ります。
 一方神様に頼って熱心に祈り、ぶどうの枝が幹につながって実を結ぶように、神様に直接つながっていますと、必ず希望が湧いてきます。どうか神様を心から信じて祈り、これまで以上に「もっと心を大切に」されて下さい。
 インマヌエルの神様は、いつも私達と共にいて下さり、「試練に耐える力と、同時に逃れる道」とを必ず備えていて下さいます。そこで、今後思いがけない苦難に会っても、「祈り」の力によって、弱い自分と戦い、神様からいただいたこの尊い人生を、「もっと心を大切に」御一緒に強く生き抜いていきましょう。

2019年10月6日「信仰とつまずき」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書6章1-6a節

 イエス様はカファルナウムを去って、故郷に来られましたが、故郷のナザレではイエス様は受け入れられませんでした。4節に「イエスは、『預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである』と言われた。」とある通りです。
 ナザレの人たちは「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。」というふうに、イエス様に対する驚きや好奇心がありました。ところが、それ以上のことを求めませんでした。ですから、イエス様への信仰にはつながりませんでした。これは、ナザレの地にある悲劇です。
 また、ナザレの人々は「この人は、大工ではないか」という先入観にとらわれてしまって、イエス様から神の言葉を聞くことができませんでした。イエス様はそのナザレにおいては「ごくわずかの病人を癒しただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」のです。すなわち、信仰抜きには何も起こらない、ということです。