2020年9月6日「ゲッセマネの祈り」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書14章32-42節

 教会のロビーに、イエス様の祈りの姿が描かれている絵があります。おそらくイエス様のゲツセマネでの祈りではないかと思われます。このゲツセマネという場所は、オリーブ山の山麓で、オリーブの木が茂っていて、祈りの場として適した場所でした。
 本日の聖書箇所は、十字架に向かう前のイエス様の最後の苦悩に満ちた孤独な祈りが描かれています。
 32節を見ますと、ゲツセマネには、イエス様も十二弟子たちも一緒に来たと言われています。一緒に同行した他の九人の弟子たちには、祈っている間に、「ここに座っていなさい」と指示する一方、イエス様は、弟子の代表であったペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人をもう少し奥の祈りの場に一緒に連れて行かれました。しかも、なんと、イエス様自身が自らの困惑と苦悩を三人の弟子たちに隠すことなく、はっきりと言われました。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」(34節)
 正真正銘の生身の人間として、イエス様も、死ぬことなど嫌でした。愛する人々と別離することに激しく心が痛みました。ですから、イエス様は父なる神様に、その戸惑い、悲しみ、苦悩を訴え、祈りました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください」。
 「この杯」とは、十字架の死のことです。イエス様はこの十字架の死以外に、道はないのかと切に祈られたのです。私たちも祈っているとき、神様に率直に訴えることが大切なのです。それが、神様を信頼することの出発点です。ただ、神様を信頼するということは、次のイエス様の一言の祈りに進んでいくことを意味します。
 「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。
 祈るとき、神に信頼を寄せ、どんなことでも願っていいのです。しかし、必ずこう付け加えます。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と(36節)。

2020年8月30日「つまずきを超えて」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書14章27-31節

 本日の聖書箇所において、オリープ山に向かう途中で、イエス様は弟子たちに「あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われました。イエス様はここで、イスカリオテのユダだけではなく、ほかの弟子たちも皆、イエス様を裏切る、つまずくことを予告されたのです。
 そして、「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」と、旧約聖書のゼカリア書13章7節の御言葉を引用して、その裏切りがあることを預言しています。ここで羊飼いは、イエス様のことであり、羊は弟子たちのことを指しています。つまり、父なる神は、良い羊飼いであるイエス様を十字架の死に追いやり、その時、従っていた弟子たちは皆バラバラ散ってしまうということです。
 しかし、一番弟子のペトロは、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と断言しました。イエス様は自信満々のペトロに対して、「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と言われます。
 それに対して、ペトロはますます、力を込めて「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言い張ります。でも、人はどんなに心で決心していても、やがてやってくる弱さを隠しきれませんでした。ペトロも例外ではありませんでした。
 ペトロは、大祭司の家の中庭で、「そんな人は知らない」と、再三言ってしまったのです。しかし、イエス様は今日の箇所において、つまずきや裏切りを予告しただけではなく、そのつまずきを乗り越える道をも、約束しています。
 「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」(28節)。弟子たちにとって、ガリラヤはイエス様と出会った場所です。そこに復活のイエス様が再び行ってくださり、弟子たちを立ち直らせてくださるのです。
 そして、主イエスにつながって、信仰を持って歩むように導いてくださるのです。

2020年8月23日信徒奨励「大きな喜び」

○HK姉 ヨハネによる福音書3章16節

 私は神様に守られながら受洗から50年がたちました。
 私の家は、クリスチャンは母一人でしたが、キリスト教はごく身近なものでした。
 中学生のとき、佐倉教会に導かれ、友達とのおしゃべりや、支区の中高生会など楽しい思い出です。知らず知らずのうちに養われていったのでしょう。
 20才になったとき、牧師先生から「そろそろいいでしょう」と言われ、何の疑問もなく当たり前のように「はい」と応え受洗した、まことに素直な始まりでした。
 結婚後しばらくは教会から遠ざかってしまっていましたが、20数年ぶりに佐倉に戻ってきたときは自然に佐倉教会に導かれ、ほっとしたことを覚えています。
 礼拝に励まされ、教会員の方々との交わりに助けられながらも、それでも自分の頼りない信仰に悩んでいたとき、「捜索願い」と題された講演がありました。見失った1匹の羊のたとえです。
 迷子の羊であった私はイエス様に見つけ出され、神様のところへ連れ戻してくださり、それからずっと教会の群れにつなぎとめてくださっていたのだと、改めてその大きな恵みに気付かされました。そしてこんな頼りない私でも、神様は見つかったことをとても喜んでくださるのです。
 この50年の間にはいろいろありましたが、その度にイエス様に救い出していただき、共にいて支えてくださる幸いを思います。私たちを救うため、独り子をお与えくださった神様の深い愛に応え、差し伸べてくださる御手にすがりながら、歩み続けていきたいと思います。

2020年8月16日「主の晩餐」

〇金 南錫牧師 マルコによる福音書14章22ー26節

 本日の聖書箇所は、いわゆる「最後の晩餐」と言われている箇所です。この最後の晩餐の食事は、過越祭の食事がなされる夜、行われたので、過越の食事でもありました。
 しかし、イエス様は、このとき、過越の食事に新たな意味を持たせているのです。
 イエス様は賛美の祈りを唱えて、パンを裂き、弟子たちに与えました。しかし、ここでイエス様は、「取りなさい。これはわたしの体である」とおっしゃいました。
 さらに、杯を取り、感謝の祈りを唱え、弟子たちに渡します。そのときもイエス様は、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」とおっしゃいました。つまり、イエス様は、過越の食事におけるパンと杯を、ご自身の体と血として、弟子たちに差し出されたのです。
 ところが、弟子たちは、イエス様が語っておられることがどういう意味なのか、よく分かりませんでした。イエス様は次の日に十字架にお架かりになったのです。弟子たちは皆逃げました。
 しかし、三日後にイエス様は復活され、逃げた弟子たちにその姿を現わされ、ご自身が誰であるか、どうして十字架にお架かりになったのか、そのことをはっきり教えられたのです。それ以来、弟子たちはイエス様が復活された日曜日に集まり、聖餐を守るようになったのです。
 教会はこの聖餐式を今日まで、守ってきました。イエス様の十字架の赦しと恵みを、思い起こし、心に刻んだのです。

2020年8月9日「まさか、私のこと?」

〇金 南錫牧師 マルコによる福音書14章10ー21節

 ユダは、イエス様に選ばれた十二弟子の一人でした。彼はイエス様からの招きを受け、すべてを捨ててイエス様に従って来たのです。三年間、イエス様と寝食を共にし、イエス様と共に福音を宣べ伝えていた弟子の一人でした。
 それなのに、この時、イエス様を引き渡そうとしたのです(10-11節)。しかし、イエス様は今までに三回にわたって、ご自分が「引き渡される」ことを語っておられました。ユダは、イエス様の予告通りに、イエス様を引き渡した者でした。
 つまり、ユダは自分の意志でイエス様を引き渡そうとしているわけですが、実はそのすべてのことが神様のご計画の中にありました。そして、イエス様はそのすべてをご存じだったのです。
 「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」(18節)。
 この時、ユダがイエス様を裏切るなどということは、他の弟子たちは誰も知りませんでした。だから、「まさか、私のことでは」と口にしたのです。実際、イエス様が捕らえられたとき、ほかの弟子たちはイエス様を見捨てて、逃げてしまいました。ユダだけではなく、ほかの弟子たちも皆イエス様を裏切ったのです。
 どんな時代においても、大人も子どもも誰でも、「まさか、私のことでは」という御言葉は、他の誰のことでもなく、まさしく自分のことだと気づかねばなりません。

2020年8月2日「ナルドの香油」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書14章1-9節

 過越祭と除酵祭の二日前になった時でした。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエス様を捕らえて殺そうと考えていたのです。
 ところが、彼らは「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこうと言っていた」とあります(2節)。なぜでしょうか。それは、イエス様がこれまで様々な奇跡を行い、語る御言葉が力強く、民衆の心を捉えていたからです。
 そして、人がたくさん集まる祭りの時に、イエス様を捕らえようとすると、騒乱の事態になるだろうと、彼らは考えたのです。だから、祭りの間はやめようとしたのです。
 今日の聖書箇所は、この祭司長たちや律法学者たちに対比するように、3節からの出来事を記しています。この出来事は、「イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき」のことでした。
 そこに一人の女性が、非常に高価なナルドの香油が入った石膏の壺を持って来たのです。そして、それを壊し、その香油すべてをイエス様の頭に注ぎかけたのです(3節)。人々はその光景を見て、なんという無駄なことをしているのかと、彼女を厳しくとがめたのです。
 しかし、イエス様はこの女性の行為に対して、こう言われました。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。…この人はできる限りの良いことをした」(6-8節)。
 では、私たちはイエス様に対して、どのようにかかわっているでしょうか。ナルドの香油は、私たち一人一人にも与えられているのです。私たちのささやかな奉仕であっても、感謝と献身の思いをもって、捧げる時に、主が共にいて、励ましてくださるのです。
 このことを覚え、最後までその信仰の道を全うしていくことができますように、祈ります。

2020年7月26日「目を覚ましていなさい」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書13章32-37節

 マルコによる福音書13章は、イエス様が弟子たちに最後の教えとして、世の終わりの時について語られたところです。この後、イエス様は捕らえられて、十字架に掛けられますが、その出来事の中で、弟子たちは何が起こっているのか理解できず、ただ恐れて、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。
 また、イエス様がゲツセマネの園で悲しみ苦しんで祈っている間、弟子たちは眠ってしまいました。「目を覚ましていなさい」と言われたのに、眠ってしまったのです。本日の箇所においても、「目を覚ましていなさい」という御言葉が三回にわたって語られています。
 今日の聖書箇所の最初のところで、イエス様はこう言われます。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」
 ここでの「子」とは、イエス様のことを指しています。イエス様はいつ終末が来るのか、そのことはだれも知らないし、自分さえも知らないと、ここで断言されています。大切なのは、神様だけが御存じである終末の時は必ず来るから、「目を覚ましている」ことです。
 「目を覚ましていなさい」。この目は、主を見上げようする信仰の目のことです。私たちが毎週、礼拝を守っているのは、主の日から始まる一週間を目覚めていたいからです。そうしないと、様々なものに惑わされ、信仰の目が閉ざされてしまうのです。
 私たち一人一人が、信仰の目を覚ましつつ、生涯を主に向かって、一歩一歩歩んでいけますように、祈り願います。

2020年7月19日「滅びないもの」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書13章28-31節

 聖書の言葉の中、「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」という御言葉があります(詩編119編105節)。
 ここで、御言葉は道の光、歩みを照らす灯ですから、私たちが人生の暗黒の夜の中に入ってしまって、行く先が分からなくなったときでも、御言葉はその答えを与えてくれます。
 本日の聖書箇所においても、どんな時、どんな時代にも決して滅びない神の言葉について、記されています。
 「いちじくの枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる」(28節)。
 イエス様は、いちじくの枝が柔らかくなって、葉が伸びると、夏がもうすぐやってくることを知っているでしょう、と言われるのです。イスラエルの人はこういう知恵をよく知っていました。しかし、ここでイエス様が言われているのは、信仰に関する知恵です。
 「それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」(29節)。
 ここで「これらのこと」とは、世の終わりには様々な苦しみが起こり、偽預言者や偽メシアが現れ、多くの人が惑わされることです。イエス様は、そのような世の終わりのしるしがあったならば、人の子、即ち、主イエスが戸口に近づいていると悟りなさいと語られ、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と語っておられます。
 聖書は神の言葉であり、どんな時代にも残り、私たちの道を照らす人生の灯です。

2020年7月12日「人の子が来られる日」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書13章24-27節

 「その時、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくるのを、人々は見る」(26節)。
 ここで「人の子」とは、イエス様が御自分のことを言われた言葉で、イエス様ご自身が再び雲に乗って来ると宣言されました。ここに記されている「雲」という言葉は、黙示的な表現で、神の臨在を表す言葉でした。イエス様が神の御子として来られたように、やがて再びやって来られる、しかも、神の臨在としてやって来られるという意味が、この「雲」という言葉の中に込められているのです。
 続いて、イエス様は世の終わりの日には、「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」ことを、語っておられます(24、25節)。これも黙示的な表現で、終末の日に、神の裁きが明らかになることを語っているのです。
 初代教会は、この終末の日がもうじき、やってくると信じておりました。だからこそ、イエス様が再びやって来られる再臨への信仰は、迫害下で苦しむクリスチャンたちへの、大きな励ましとなりました。
 ですから、どんな苦しみの中におかれようとも、「主イエスよ、来てください」即ち、「マラナタ」の祈りがある限り、いつの日か、主がやって来られて、私たちに完全な救いを与えてくださることに、希望をもって、今を生きようとしたのです。

2020年7月5日「気をつけていなさい」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書13章14-23節

 イエス様がオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられ、世の終わりの前兆、終末のしるしを語っておられました。今日の箇所では、それについてさらに詳しく語っておられます。
 最初の14節に「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら―読者は悟れ―、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」とあります。
 この預言の中で、イエス様は「山に逃げなさい」と言われます。そして、逃げるときの具体的なことまで語られています(15-18節)。
 ここで「祈りなさい」という言葉で終わっているのは、とても意味あることだと思います。現在、新型コロナウイルスの感染がなかなか収まらず、第二波の到来も心配されています。そんな中でも、私たちは神様に祈ることが許されています。恐れてばかりいても、始まりません。こういうときこそ、もっともっと祈らねばと思います。
 続く19節から20節では、世の終わりの前兆として、大きな苦難が来る。しかし、ご自分のものとして選ばれた人たちには、その大きな苦難も長くは続かないと、記されています。
 ところが、そのときにおいても、偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとします。「だから、あなたがたは気をつけていなさい」と、イエス様は語っておられます。