2020年11月8日「神の摂理」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書15章21-32節

 人生には思わぬ出会いがあって、そのために生き方が全く変わってしまうことがあります。キレネ人シモンもそういう経験をした人です。
 イエス様が総督ピラトの官邸からゴルゴタの丘まで、十字架を負われて歩まれました。 このとき、北アフリカのキレネに住んでいたユダヤ人、シモンという人が、たまたま通りかかったのです。
 彼はユダヤの過越の祭りに参加するために、エルサレムを訪れていたのです。そこで彼はイエス様の噂を聞いたのです。自分を神の子だと称する男が死刑になるというので、彼は見に行ったのでしょう。
 彼の前をイエス様が通られたとき、イエス様が突然倒れられました。そばにいた兵士が、何とか起きて歩かせようとしましたが、もう一歩も動けない様子でした。困り果てた兵士は、そこにいたシモンに、代わりに十字架を負うことを命じたのです。このことが、キレネ人シモンの人生を変えてしまいました。
 重い十字架を背負いながら、どうしてこのようなことがこの人に起こったのか、考えたと思います。そしてゴルゴタに着いて、イエス様が十字架につけられた一部始終をその目で見たのでしょう。その後、キレネ人シモンは、どうなったのでしょうか。
 彼がイエス様の十字架を負わされたことにより、その妻も、息子たちも、イエス様を信じる不思議な幸いへと導かれたのです。神の摂理でありました。

2020年11月1日「主と共にある人生」

○金 南錫牧師 詩編23編1-6節

 詩編23編はユダヤ教の人々も、クリスチャンたちにも何千年にもわたって愛唱されてきた聖書の御言葉です。この詩の冒頭に「賛歌、ダビデの詩」と書いてあります。
 この詩編の作者は、イスラエルの二代目の王様であるダビデという人です。ダビデは少年の頃、お父さんの手伝いをして羊の世話をしていた経験がありました。その経験を通して、羊飼いと羊の関係はまさに、神様と自分との関係に通じるところがあると見たのです。
 羊は、とても迷いやすい動物だそうです。ですから、羊飼いは羊の群れの先頭に立って羊を導く必要があります。この詩編が書かれたパレスチナでは、水や草が非常に少ない地域です。ですから、羊飼いが草のあるところや、水のあるところに羊を連れて行かないと、羊は生きることができませんでした。
 そうした羊の姿を、弱さを抱えた人々が自分自身と重ね合わせて読まれたので、この詩編が長い間にわたって愛唱されて来たのでしょう。
 この詩編はおそらくダビデが晩年になって書いただろうと言われます。それは、主なる神が羊飼い、牧者になってくださったときに、「何も欠けることがない」(1節)、「わたしの杯を溢れさせてくださる」(5節)と告白しているからです。

2020年10月25日「兵士たちのあざけり」

○金 南錫牧師 イザヤ書53章2-3節、マルコによる福音書15章16-20節

 イエス様はピラトによって十字架刑の判決を受け、むちで打たれてからローマ兵士たちに引き渡されました(15節)。
 当時のむちは、長い革ひもで、所々に鉛の破片が縫い付けられたので、むちで打たれるたびに、血が飛び散ったことは想像することができます。ローマの兵士たちは、どうせ死刑にされる人だからと、慰みものにしたのです。兵士たちは、イエス様を王様の格好をさせるために、紫の服を着せます。
 さらに、とげのある冠を編んでかぶらせます。彼らはイエス様の前にひざまずいたり、拝んだりし、「ユダヤ人の王、万歳」とからかいました。
 また、イエス様の頭を葦の棒で上から強くたたきます。そのとき、とげがイエス様の頭や額に突き刺さり、血が流れたことでしょう。
 では、イエス様は一体どうして、これほどまでに残酷で忌まわしいあり様を見させられるのでしょうか。このイエス様の受難の光景を見させられることによって、私たち人間は、どんな者であるか、それと同時に、神様はどのようなお方であり、主イエス・キリストはどのようなお方であられるかを、思い巡らすことになります。そのとき、信仰の思いを新たにしていくのです。

2020年10月18日「ピラトの死刑判決」

○金 南錫牧師 イザヤ書53章11-12節、マルコによる福音書15章6-15節

 祭りの度ごとに、総督はユダヤの人々が願い出る囚人に恩赦を与えていました。そのとき、暴動を起こして人殺しをして投獄されていたバラバという囚人がいました。
 ピラトは、いつものように恩赦をしてほしいと願う群衆に「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言いました。それはイエスに罪がないことを分かっていたからです。
 しかし、祭司長たちはバラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動しました。そこで、ピラトは改めて「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と尋ねたのです。
 群衆は、それに対して「十字架につけろ」と叫びます。ピラトはさらに「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言いましたが、群衆はますます激しく「十字架につけろ」と叫びたてたのです。
 実はすべての人間が、その「十字架につけろ」と叫んだ群衆につながっているのです。私たちは聖書を通して、自分がどんなに罪ある者であるかを知らなければなりません。
 そして、十字架を見上げるとき、私たちは自分の深い罪を赦されてくださった主イエスを思い起こします。
 日々、私たちを生かす十字架を見上げ、十字架の言葉を聞いて歩んでまいりたいと願います。

2020年10月11日「イエスの沈黙」

○金 南錫牧師 イザヤ書53章4-7節、マルコによる福音書15章1-5節

 ユダヤ人の最高法院ではイエス様に死刑の判決を下しましたが、当時のユダヤはローマ帝国の支配下にあり、死刑の判決はローマの総督の権限に委ねられていました。
 ですから、彼らは翌朝、イエス様を総督官邸に連れて行き、総督ピラトに死刑判決を下すように訴えました。
 しかし、彼らはイエス様を宗教的な冒とく罪で訴えると、ローマ帝国は、関与しないことを分かっていましたので、イエス様をローマ帝国への政治的な反乱罪として、嘘を言って訴えたのです。
 そういうわけで、ピラトはイエス様に「お前がユダヤ人の王なのか」と確認します。イエス様は「それは、あなたが言っていることです」と一回だけ答えて、その後は何も言わないで、沈黙を守っていました。そのイエス様の対応に対して、「ピラトは不思議に思った」と記されています(5節)。
 イエス様は当然、御自分の正しさを主張できたところを、一切そうなさらず沈黙されました。それは、私たちを救うためでした。
 イエス様が私たちの罪をその身に負って、私たちの身代わりに十字架に死んでくださるということは、その不条理の中で神に信頼し続けることでした。
 神様は、そのイエス様を死人の中から、やがてよみがえらせるのです。イエス様の沈黙は信仰の沈黙でした。

 

2020年10月4日「ペトロの涙」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書14章66-72節

 失敗ということを考えると、どうしても福音書に書かれているペトロのことが心に浮かんで来ます。今日の聖書箇所は、イエス様の筆頭弟子であったペトロが失敗したところです。
 イエス様が大祭司の前で審問を受けている同じとき、この大祭司の女中の一人がペトロに「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」と言います。
 ペトロは、この大祭司の女中の言葉に「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と打ち消して逃げようとするのです。
 その女中がまたペトロを見て「この人は、あの人たちの仲間です」と言うと、ペトロはまたそれを打ち消します。そして、人々も「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから」と言うのに対して、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と言って、ついに激しく誓い始めたのです(71節)。
 そのとき、二度鶏が鳴きました。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言うペトロに対して、イエス様は「はっきり言っておくが、あなたは今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と言われました。
 それをペトロは鶏が鳴く声ではっきりと思い出したのです。イエス様の言葉を思い出したペトロは、いきなり泣き出しました(72節)。
 ここに、自分の気持ちを素朴に、率直に主張し、大失敗をして、その失敗を心から認め、泣き崩れているペトロの姿があります。人間である限り失敗は付きものです。大切なのは、主イエスはそのために十字架にかかって身代りとなり、しかもそういう私たちを愛し続けてくださったのです。

2020年9月27日「大祭司の裁判」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書14章53-65節

 本日の聖書箇所には、イエス様が大祭司の裁判を受けたことが記されています。
 しかし、「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった」とありますように(55節)、すでにイエス様を死刑判決することが決まっていた裁判でした。
 ゲツセマネで祈られたイエス様は、ユダの裏切りによって捕らえられ、大祭司の屋敷に連れて来られました。そこに、祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来ました。
 ある人々は、神殿に対する冒とく罪を持ち出しましたが、彼らの証言は食い違っていたのです(59節)。そして最後に、大祭司による審問に入ります。
 「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか」。
 大祭司はイエス様に今までの偽証への釈明を求めました。しかし、イエス様は黙して、語りませんでした。そこで、重ねて大祭司は「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と尋ねたのです。
 この問いかけに対して、イエス様は「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」と答えております(62節)。
 このイエス様の言葉尻をもって、最高法院のメンバーたちは、自分を神とするイエス様に対して、神への冒とく罪として、死刑にすべきだと決議したのです(64節)。
 教会は、イエス様こそ、神の子・キリストであることを告白するところです。イエス様がユダヤの最高法院ではっきりと、「そうです」と告白されたように、教会に集われた一人一人がイエス様こそ神の子・キリストであることを告白し続けていくときに、教会は教会になっていくのです。

2020年9月20日「亜麻布の信仰」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書14章51-52節

 一人の若者が身にまとっていた亜麻布を捨てて、裸のままで逃げてしまいました。教会の歴史の中で、この若者は、今日の「マルコによる福音書」を書いたマルコではないかと言われてきました。
 マルコの母マリアは、イエス様が十字架に架かられる前から、イエス様に従っていた女性の弟子の一人で、信仰深く、教会のために自宅を惜しみなく開放していた人物でした。ですから、マルコは、この母の影響でクリスチャンになったのではないか、そして彼の信仰の歩みもまた母マリアの祈りに支えられていたと思われます。
 マルコが、「素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた」とあります(51節)。
 当時、布を巻き付けるような服装でもあったので、マルコは亜麻布を巻き付けるような姿でイエス様の後をついていったのです。
 しかし、ある程度、イエス様の後をついていったのですが、「人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった」のです(52節)。
 この亜麻布を信仰と重ねて考えますと、マルコの信仰は、亜麻布をまとうような信仰でした。そして、試練に会ったとき、それを脱ぎ捨てて逃げてしまったのです。
 私たちの信仰は、服装のように着たり脱いだりするものではありません。ある程度従ってやめるのではなく、最後まで主イエスに従っていくこと。それが、本当の信仰ではないでしょうか。

2020年9月13日「イエスの逮捕」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書14章43-50節

 今日の箇所は、ゲツセマネでイエス様が祈られた直後でありました。
 イスカリオテのユダに誘導されて、祭司長、律法学者、そして、長老たちから遣わされた群衆がやって来ました。しかも、彼らは剣や棒を持っていたと、聖書に出ています。
 イエス様を裏切ろうとしていたユダは、いつもゲツセマネの園でイエス様が祈られる場所をよく知っていました。そして、接吻するその人がイエスであると、彼らに伝えていましたので、容易にイエスを逮捕できました。
 そのとき、そこに居合わせた人々のうちのある者が剣を抜いて、大祭司の手下の片方の耳を切り落としました。ヨハネによる福音書には、それは、弟子のペトロが、剣を抜いて、大祭司の手下であるマルコスの耳を切り落としたというふうに出ています(18:10)。
 ペトロは今日の箇所の少し前のところで、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言い切ったのです。しかし、そのペトロもほかの弟子と同じように、イエス様が捕らえられた直後、自分の身の危険を感じて、イエス様を見捨てて、逃げてしまったのです。
 イエス様を裏切ったのは、イスカリオテのユダだけではありませんでした。ほかの十一の弟子たちも皆、イエス様を裏切ったのです(50節)。
 信仰と不信仰は、いつも隣り合わせにあるのです。弟子たちの弱さを自分のこととして受け止めなければいけません。ペトロは、何度も何度も失敗しました。しかし、その度に、神の愛、主イエスの愛に、新しく受けられたのです。

2020年9月6日「ゲッセマネの祈り」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書14章32-42節

 教会のロビーに、イエス様の祈りの姿が描かれている絵があります。おそらくイエス様のゲツセマネでの祈りではないかと思われます。このゲツセマネという場所は、オリーブ山の山麓で、オリーブの木が茂っていて、祈りの場として適した場所でした。
 本日の聖書箇所は、十字架に向かう前のイエス様の最後の苦悩に満ちた孤独な祈りが描かれています。
 32節を見ますと、ゲツセマネには、イエス様も十二弟子たちも一緒に来たと言われています。一緒に同行した他の九人の弟子たちには、祈っている間に、「ここに座っていなさい」と指示する一方、イエス様は、弟子の代表であったペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人をもう少し奥の祈りの場に一緒に連れて行かれました。しかも、なんと、イエス様自身が自らの困惑と苦悩を三人の弟子たちに隠すことなく、はっきりと言われました。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」(34節)
 正真正銘の生身の人間として、イエス様も、死ぬことなど嫌でした。愛する人々と別離することに激しく心が痛みました。ですから、イエス様は父なる神様に、その戸惑い、悲しみ、苦悩を訴え、祈りました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください」。
 「この杯」とは、十字架の死のことです。イエス様はこの十字架の死以外に、道はないのかと切に祈られたのです。私たちも祈っているとき、神様に率直に訴えることが大切なのです。それが、神様を信頼することの出発点です。ただ、神様を信頼するということは、次のイエス様の一言の祈りに進んでいくことを意味します。
 「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。
 祈るとき、神に信頼を寄せ、どんなことでも願っていいのです。しかし、必ずこう付け加えます。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と(36節)。