2023年7月30日「誰を恐れるべきか」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書12章1-7節

1節の「とかくするうちに」とは、律法学者やファリサイ派の人々がイエス様に対して、激しい敵意を抱き、言葉尻を捉えようと、ねらっていく中でのことです。その状況の中で、イエス様は、弟子たちに「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である」と話し始められました。

ファリサイ派の偽善は、外側ばかりきれいにして、内側の汚れは隠すという偽善でした。この偽善繋がりで、イエス様の弟子たちが注意すべきことは、その信仰を外に現わさずに、内に隠してしまうことです。今、ファリサイ派や律法の専門家たちは、敵意をもってイエス様を見ているわけです。当然、その敵意はイエス様の弟子たちにも、向けられるはずです。また、足を踏み合うほどの群衆に取り囲まれている状況の中で、イエス様が弟子たちに「自分の信仰を隠すな。本当に恐れるべき方は神である」と語っているのです。もし、あなたがその信仰を隠してしまうのなら、ファリサイ派の偽善と同じだと語っています。

2023年7月23日「今の時代の者立ちの責任」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書11章45-54節

 イエス様は、律法の専門家たちに対して痛烈な批判をなさいます。それが46節から52節です。46節で、イエス様が言われます。「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。」つまり、律法の専門家たちは神の言葉を語りながら、人々に神の言葉による慰めを与えないで、ただ神の言葉を重荷に変えて、人々を苦しめているだけだと言うのです。

 しかしイエス様は、律法を落ち度なく守るという、到底、背負いきれない重荷を私たちに代わって背負ってくださいました。ここに、まことの救いがあるのです。この救いがあるからこそ、私たちは安心して、いつでも主に立ち返ることができるのです。「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)こう語ったイエス様が、私たちのすべての罪を背負って十字架にかかって死んでくださったから、私たちは癒され、罪赦された者として生きることができるのです。

2023年7月16日「内側と外側」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書11章37-44節

ファリサイ派の人は、イエスが食事の前に身を清めなかったのを見て、驚いたのです。彼らは衛生上の問題ではなく、宗教的なことで汚れることがないように、身を清めることにこだわっていたのです。そのファリサイ派の人に、イエス様が語った言葉が39節から44節までの言葉です。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。」(39節)外側は一生懸命きれいにして、清められているように見えますが、その内側は「強欲と悪意に満ちている」、それがファリサイ派の人たちの姿だとイエス様は言われたのです。

また、彼らは「人目につかない墓のようなものだ」と言われたのです(44節)。ファリサイ派の人たちは目立たない墓ですから、見た目には汚れていない様に見えますが、実は人を汚すようなものだと言っているのです。彼らは神の清さではなくて、自分の清さ、正しさを求めるのです。私たちこそ、ファリサイ派になっていないだろうか、問われます。

2023年7月9日「あなたの中にある光」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書11章29-36節

「今の時代の者たちはよこしまだ。」それは、しるしを求めるからです。イエス様は続けて「しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と仰います。ヨナは旧約聖書に出てくる預言者です。神様はこのヨナをアッシリアの首都であるニネベに行くように命じられました。ヨナはニネベに行って、神様があなたたちのよこしまな行いを怒っておられ、このままだと40日であなたたちは滅びると伝えたのです。すると、「ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めた」のです(32節)。「ヨナがニネベの人々に対してしるしとなった」とあるのはそのことです。

イエス様は「ここにヨナにまさるものがある」と仰いました。ヨナが伝えたのは裁きと悔い改めでした。でも、イエス様はその裁きをご自分が負うという救いの恵みを伝えてくださったのです。それなのに、信じようとしないのであれば、ニネベの人々という異邦人のほうがよっぽどましではないかとイエス様は言っておられるのです。主イエスは私たちにしるしを求めようとせず、御言葉を聞き、それを信じ、受け入れるように招いてくださるのです。そのように生きていきたい者です。

2023年7月2日「神の言葉を聞き、守る」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書11章14-28節

イエス様が口を利けなくする悪霊を追い出した時、それは悪霊の頭、ベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言う人たちがいました。それに対して、イエス様は「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる」と仰いました。当時、ユダヤ人の中には悪霊を追い出して病を癒していた人たちがいました。イエス様は、自分がベルゼブルの力で悪霊を追い出しているなら、自分と同じように悪霊を追い出しているユダヤ人は何の力で追い出しているのかと反論したのです。

また、「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と仰いました。神様は罪に、悪霊に支配されてしまっている私たちを解放するために、イエス・キリストをこの世に送ってくださったのです。ところが、このイエス様を救い主として信じ続ける信仰の戦いは、自分が強くなって、戦うのではなく、イエス様を救い主として心の中に迎え入れ、その主イエスによって、悪霊を追い出していただくのです。

2023年6日25日「祈るときには」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書11章1-13節

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(9節)。ここだけ、格言のように使われます。しかし、文脈の中で、この御言葉を読みますと、ルカはイエス様が弟子たちに祈りの内容について教えた後に、執拗に求めなさいというたとえ話を持って来ます。それが11節から13節までのことです。悪い者である私たち人間でさえ、自分の子どもには良い物を与えることを知っているならば、神様はどれほど良い物を与えてくださるであろうかとイエス様は仰っています。そして、その良いものとは聖霊だと言うのです。13節の後半に「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と書いてある通りです。

聖霊は祈りの霊でもあります。私たちは祈ることによって、聖霊をいただき、求めるべきものが何かを正しく教えられます。また、聖霊が働かせてくださるから、「御名があがめられますように」「御国が来ますように」と、祈り求めることができるのです。

2023年6月18日「必要なことはただ一つ」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書10章38-42節

マルタはイエス様が自分の村に来られることを聞いて、心から喜んでイエス様を自分の家に迎え入れました。マルタは、妹のマリアが当然、一緒になって、イエス様一行をもてなす準備を手伝ってくれるだろうと期待をしていたようです。ところが、マリアはマルタの期待に反して、イエス様の足元に座って、その話をずっと聞き入っていたのです。

マルタはとうとう我慢できなくなってしまいました。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」とイエス様に苦情を言ってしまいます(40節)。それに対して、イエス様はこう答えます。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」イエス様は私たちにも、「しかし、必要なことはただ一つだけです」そういうふうに語りかけているように思います。今、自分にとって、どうしても必要なことは、何でしょうか。

2023年6月11日「善いサマリア人」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書10章25-37節

イエス様はエルサレムに向かう旅を始めます。そして、その途中にあるサマリアという地域を通っていきます。しかし、ユダヤ人は、サマリア人が純粋な民族ではないと言って、軽蔑していました。イエス様は、サマリア人の村に入る前に、先に使いの者を出されて準備させようとしました。しかし、サマリアの村の人々はイエスを歓迎しなかったのです。その様子を見て、二人の弟子のヤコブとヨハネは、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言いました。

二人は、自分たちはイエス様に従っている、自分たちはイエス様の味方だと思って、「天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」とサマリア人と敵対しています。しかし、彼らもこの後エルサレムで、イエス様が十字架に架けられる時には皆逃げてしまったのです。彼らこそ、イエス様を否定し、敵対したわけです。イエス様はサマリア人のためにもこれから、十字架に向かうのです。それは、サマリア人にとっても、救い主であるからです。そして、わざわざこのサマリアの地を通っているわけです。

2023年6月4日「天に名が記されている喜び」

派遣された七十二人の弟子たちが帰って来て「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」と言って、喜びました。しかし、イエス様は「蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた」とおっしゃって、弟子たちの思い違いを正しておられます。

そして、イエス様は御自分のお名前によって、悪霊を追い出すことができて、意気揚々と喜んで帰って来た弟子たちに「喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と言われたのです。この言葉は、イエス・キリストを信じる者が何を喜びとして、この世を生きているのかをはっきりと示している言葉です。イエス・キリストを信じる者は、「イエスこそ主である」と信仰を告白し、洗礼を受けていくわけです。その時、その人の名は教会の名簿だけではなく、天でも記されるのです。この意味において、教会は天に名が書き記されていることを喜びとする人たちの共同体です。

2023年5月28日「七十二人の派遣」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書10章1-16節

「その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」(1節)。十二人の弟子たちのほかに、イエス様に従っている多くの人たちがいました。その中から、イエス様が七十二人を任命し、二人ずつお遣わしになったのです。そして、イエス様は弟子たちに、「どこかの家に入ったら、まず、この家に平和があるようにと言いなさい」と仰っています(5節)。イエス様はこれから派遣する弟子たちに命じます。町に入って、どこかの家に入ったら、まず平和を伝えて、その家に暮らしている人がその平和の内に生きることができるように伝えなさい。この平和を告げることがすべての町や村に派遣される七十二人の弟子たちの務めでした。

「収穫は多いが、働き手が少ない」(2節)。イエス様は私たちに平和の知らせを待っている人たちが多いと教えてくださいます。種を蒔き、土を耕して、育ててくださったのは、神様です。その神の畑は豊かに実っています。あとは、収穫するだけなのです。それは私たちの務めです。