2023年9月24日「狭い門から入れ」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書13章22-30節

イエス様は町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられました。すると、群衆の中にいた一人の人が声をあげて質問しました。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか。」この問いに対して、イエス様は言われます。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」(24) 。

「狭い戸口から入るように努めなさい。」この「努める」という言葉は「戦う」とも訳される言葉です。使徒パウロがテモテに対して「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい」と命じていますが(Ⅰテモ6:12)、ここで「戦い抜き」と訳されている言葉は「努める」と訳されている言葉と同じです。ですから、イエス様は「主よ、救われる者は少ないのでしょうか。」その問いに対して「狭い戸口から入るように、戦い抜きなさい」そう仰っているのです。入ろうと努めなければ、戦わなければ入ることができない。そこに神の国の戸口に入る狭さがあります。

2023年9月17日「成長する神の国」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書13章10-21節

安息日に、十八年間も病の霊に取りつかれ、腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった女が、礼拝をささげるために、やって来ました。イエス様はこの女を見て呼び寄せて、手を置いて癒してくださったのです。「婦人よ、病気は治った。」彼女は自ら癒しを願ったり、求めたりしたのではないのです。彼女はいつものように、安息日に礼拝に来ただけです。そのいつもの礼拝で、癒しが与えられたわけです。

当時、ユダヤの社会において、十八年病気を患っていた一人の女性というのは、本当に小さな存在でした。ですからその彼女が癒され、その病から解放されたという出来事は小さい記事かも知れません。でもその福音を、今、私たちは聞いております。そのように、神の国は小さなからし種のようなものですが、そのからし種が大きな木になって、その枝には空の鳥が巣を作るほど成長していく、それに似ているのです。

2023年9月10日「悔い改めなければ」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書13章1-9節

何人かの人が来て、イエス様に「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたこと」を告げました。この出来事を伝えた人たちは、そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思っていたのです。ところが、イエス様は「けっしてそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と仰いました。

イエス様は、この言葉の意味をさらに明確にするために、実のならないいちじくの木のたとえを話されました。ぶどう園の主人が言います。「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。切り倒せ。」ところが、そこに一人の園丁が現れ、「御主人様、今年もこのままにしておいてください」と執り成してくださるのです。園丁は主イエスのことです。私たちはこの主イエスの執り成しの中に安心して、悔い改めることができるのです。

2023年9月3日「今の時を見分ける」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書12章49-59節

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」わたしとはイエス様のことです。神の御子イエス様がこの世に来られたのは、この地上に火を投じるためだというのです。

聖書において、火というのは聖霊のことを言っていることが多いのです。復活した主イエスが天に行かれた後、主イエスの言われた通り、炎のような聖霊が弟子たちに留まると、人の目を恐れていた弟子たちに驚くべき変化が起きました。臆病の弟子たちが何者にも恐れないような人間に変わったのです。そして彼らが伝えた福音によって、教会が生まれました。このように、聖霊の炎によって、自己中心的な思い、頑なさは焼き尽くされ、そこからもう一度生かされていくのです。

イエス様はその焼き尽くしてしまう殺す火ではなくて、そこから生かしてくださる火、それを投じるために、この世に来られました。そして、聖霊の炎によって私たちを救ってくださる。それが救い主としての御業です。

2023年8月27日「目を覚ましている」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書12章35-48節

ある日、主人は結婚式に出かけました。当時の結婚式は、一週間も続いたようです。だから、主人がもうすぐ帰ってくるのか、一週間後帰ってくるのか、あるいは、真夜中に帰ってくるのか、明け方に帰ってくるのか、僕たちは分からないわけです。だから、主人がいつ帰って来ても迎えることができるように、「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」と言われているのです。

また、「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」とイエス様は言われます(40節)。人の子は、イエス・キリストのことです。「思いがけない時に来る。」これは将来のこと、即ち、キリストの再臨のことを言っています。そこから二千年も経ちましたが、まだ実現していません。だから、いつ帰ってくるのか分かりませんが、目を覚まして、いつでも主イエスを迎えることができるように、準備しなさい、ということです。

2023年8月20日「小さな群れよ、恐れるな」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書12章22-34節

「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。」イエス様は思い悩んでいる弟子たちに烏や野の花のことを考えてみなさいと仰います。そして、神様が烏や野の花をちゃんと養ってくださることに目を向けさせます。また、あなたがたは烏や野の花よりも、はるかに「価値ある」ものだと言うのです(24)。

弟子たちは烏や花を養ってくださる神がおられることをすぐ忘れる弱さを持っています。そして、世のことで思い悩み、恐れています。だから、「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」と、イエス様は仰います(32)。小さな群れには恐れがあり、不安があるということを、イエス様はよくご存じでした。そして、その小さな群れに「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」と言われるのです。神の国を喜んでくださる。神様がその小さな群れを認めてくださっている、ということです。

2023年8月13日「本当の豊かさは」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書12章13-21節

群衆の中から一人の人が「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と言いました。イエス様はその人に対して「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と語られました。続けて「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」と仰いました。これが「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」という教えの根拠なのです。つまり、ここでイエス様が貪欲を言っているのは、自分の分を超えて求めることではなくて、自分の持っているもの、財産によって生きることができる。お金さえあれば、なんとかなる、命を得られると思っていること。それが貪欲だとイエス様は言われます。

では、どうしたら、この貪欲から解放されるのでしょうか。それは、神の前に豊かになることです。イエス様はある金持ちのたとえを通して、地上のものばかりを見ている私たちに、神様を見上げるように教えています。

2023年8月6日「信仰を言い表す」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書12章8-12節

「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。」(8-9節)

今弟子たちは人々の前にいます。人々の中にはイエス様に対する敵意を抱いているファリサイ派や律法の専門家たちもいました。そういう状況で、弟子たちはこの御言葉を聞いています。大事なことは人々の前でイエス様を認めるか、それとも拒むのか、です。「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」(ロマ10:10)とあるように、信仰というのは心の中だけではなく、人々の前で言い表すものです。それは、神様と会衆の前で信仰を告白し、洗礼を受けることで「人々の前で私はイエス様を信じています」と表す者になる。洗礼にはそういう意味があります。その時、主イエスも「あなたもわたしの者だ」と認めてくださるのです。

2023年7月30日「誰を恐れるべきか」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書12章1-7節

1節の「とかくするうちに」とは、律法学者やファリサイ派の人々がイエス様に対して、激しい敵意を抱き、言葉尻を捉えようと、ねらっていく中でのことです。その状況の中で、イエス様は、弟子たちに「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である」と話し始められました。

ファリサイ派の偽善は、外側ばかりきれいにして、内側の汚れは隠すという偽善でした。この偽善繋がりで、イエス様の弟子たちが注意すべきことは、その信仰を外に現わさずに、内に隠してしまうことです。今、ファリサイ派や律法の専門家たちは、敵意をもってイエス様を見ているわけです。当然、その敵意はイエス様の弟子たちにも、向けられるはずです。また、足を踏み合うほどの群衆に取り囲まれている状況の中で、イエス様が弟子たちに「自分の信仰を隠すな。本当に恐れるべき方は神である」と語っているのです。もし、あなたがその信仰を隠してしまうのなら、ファリサイ派の偽善と同じだと語っています。

2023年7月23日「今の時代の者立ちの責任」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書11章45-54節

 イエス様は、律法の専門家たちに対して痛烈な批判をなさいます。それが46節から52節です。46節で、イエス様が言われます。「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。」つまり、律法の専門家たちは神の言葉を語りながら、人々に神の言葉による慰めを与えないで、ただ神の言葉を重荷に変えて、人々を苦しめているだけだと言うのです。

 しかしイエス様は、律法を落ち度なく守るという、到底、背負いきれない重荷を私たちに代わって背負ってくださいました。ここに、まことの救いがあるのです。この救いがあるからこそ、私たちは安心して、いつでも主に立ち返ることができるのです。「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)こう語ったイエス様が、私たちのすべての罪を背負って十字架にかかって死んでくださったから、私たちは癒され、罪赦された者として生きることができるのです。