2022年2月20日「シケムでの出来事」

○金 南錫牧師   創世記34章1-31節

 ヤコブの一族は、バダン・アラムから無事にカナン地方にあるシケムの町に着き、そこにしばらくの間、定住することになります。しかしここでヤコブの娘ディナに不幸な事件が起こります。ハモルの息子シケムが「彼女を見かけて捕まえ、共に寝て辱めた」のです(2節)。彼は彼女に心を奪われ、愛するようになります(3節)。そして、父ハモルに「どうか、この娘と結婚させてください」と願うのです(4節)。そこで、父ハモルは、ヤコブに息子のシケムがヤコブの娘ディナを恋い慕っていることを理由に、ディナを息子の嫁にほしいと願い出ます。さらに、「お互いに姻戚関係を結び、…私どもと一緒に住んでください」とまで言うのです(9、10節)。しかし、ヤコブの息子たちは、ディナを嫁として与えるつもりはありませんでした。なぜなら、シケムがディナを汚したからです。そして、シケムとその父ハモルをだまして、割礼を受けることを条件として求めます。

 ハモルとその息子シケムは、この条件なら受け入れてもよいと思いました。とはいえ、彼らはイスラエルの神を信じる信仰から、割礼を受けることではなかったのです。ただヤコブの家族と姻戚関係を結ぶことで、メリットがあると考えたからでした。そして町に帰り、すべての男子が割礼を受けることを提案しました。すると、男たちはすべて、割礼を受けることに同意しました。三日目になって、男たちが傷の痛みに苦しんでいたとき、ディナと同じ母を持つ兄のシメオンとレビは、剣を取って難なく町に入り、男たちをことごとく殺しました。また、ハモルと息子シケムも剣をかけて殺し、シケムの家からディナを連れ出したのです(26節)。ヤコブは息子たちがしたことによって、自分たちが危機的な状況に置かれたことを嘆くのです(30節)。それに対して、シメオンとレビは「わたしたちの妹が娼婦のように扱われてもかまわないのですか」と言い返したのです(31節)。

 本日の聖書箇所において、シケムの行為は姦淫の罪に当たり、確かに放置できません。しかし、選民イスラエル人が復讐心に燃えてだまし討ちするために割礼を利用しようとしたことは、許されるものではないのです。ですから、ある意味において、ディナを辱めたことによって悪者に見えたシケムよりも、これを罠にはめたディナの兄たちの方がより悪く見えたと言えます。それなのに、神様の赦しの福音を担っていくのは、この惨めなことを行なったディナの兄たち、シメオン、レビたちであることに変更はないのです。だまし続けるヤコブ一族のような者たちを、神様は憐れみをもって、赦し、神の祝福を担っていくように、導いてくださるのです。その神様は私たちをも赦し、くすしき恵みをもって、守り導いてくださるのです。

2022年2月13日「兄エサウとの再会」

○金 南錫牧師   創世記33章1-20節

 「ヤコブが目を上げると、エサウが四百人の者を引き連れて来るのが見えた」(1節)。予告どおり(32:7)、エサウが四百人の者を引き連れて近づいて来ました。この時、ヤコブはエサウが20年前の出来事を今も恨んでいて、自分に仕返ししようとするのではないかと恐れていました。それで、ヤコブは「子供たちをそれぞれ、レアとラケルと二人の側女とに分け、側女とその子供たちを前に、レアとその子供たちをその後に、ラケルとヨセフを最後に置いた」とあるように、もしもの場合には、自分が最も愛するラケルとヨセフが助かるようにしました。ヤコブはそれから、先頭に進み出て、兄のもとに着くまでに七回も地にひれ伏してお辞儀をしました。エサウはへりくだるヤコブの姿を見ていました。ヤコブが赦しを求めていることを分かったはずです。エサウはヤコブの思いを受け止めます。4節に「エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた」とあります。エサウは思わずヤコブのもとに走り寄っていくのです。そして抱き締めて、涙を流しました。ヤコブはようやく赦してもらえたという思いになれたのではないでしょうか。

 こうしてヤコブとエサウとの間に、和解がもたらされました。ヤコブは兄に自分の妻と子供たちを紹介し、先に送った贈り物のことも、兄の御好意を得るためですと、ありのままを告げます。するとエサウは「弟よ、わたしのところには何でも十分ある。お前のものはお前が持っていなさい」と受け取るのを辞退しようとします。この時、ヤコブはこのように答えています。10節です。「いいえ。もし御好意をいただけるのであれば、どうぞ贈り物をお受け取りください。兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます。」エサウが神様のように見えたというのです。このことは、前日の夜、ヤコブがヤボクの渡しで、祈りの格闘をした時に出会った神の顔が今、兄の顔と重なったことを言っています。つまり、ヤボクの渡しで神の顔を見たヤコブは、自分の過去の一切を赦している兄の顔に、神の顔の照り返しを見たのです。ヤコブは兄の顔を恐れずに、まっすぐに見つめることができました。それは、ヤコブが神の御顔をまっすぐに見つめることができる者となったからです。

 コロサイの信徒への手紙1章19、20節に「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」とあります。神様はイエス・キリストを通して、私たちに神との和解の道を開いてくださいました。私たちキリスト者はイエス・キリストの十字架の贖いを通して、神との和解を受けた者として、この世において、人と人との和解、国と国との和解、平和をもたらす務めに励みたいと願います。

2022年2月6日「徹夜の祈り」

○金 南錫牧師   創世記32章2-33節

 ヤコブは家族を連れて、故郷に戻ろうとします。しかし、ヤコブの心の中には、兄エサウに対する恐れがありました。そこでヤコブは、まず前もって、エサウのもとに使いの者を送ります。使いの者がエサウのもとから戻って来て、ヤコブに報告をします。「兄上様の方でも、あなたを迎えるため、四百人のお供を連れてこちらへおいでになる途中でございます」(7節)。ヤコブは予想通り、兄エサウが自分のことを今も恨んでいて、復讐に来るのだと思ったのです。ヤコブは早速、自分の財産、家畜を二つに分けました。一つが打たれても、もう一つが助かるようにという策略です。そうして、ヤコブは神に祈りました。それが10節から13節に記されています。この祈りにはヤコブの正直な思いがよく表されています。12節に「どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません」とあります。ヤコブは、自分が兄エサウに殺されてしまうかもしれないと恐れている自分の思いを隠しません。そして、神様の約束を信じて、助けを求め祈りました。

 ヤコブは、翌日、今度は兄エサウへの贈り物を準備します。そのことが14節から22節に記しています。ヤコブはエサウに高価な贈り物をして、兄の怒りをなだめようとします。その夜、彼は心配でなかなか眠れませんでした。明日は、兄エサウと出会わなければならかったからです。「その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った」(23節)。この時、ヤコブは妻たちと子供たちに川を渡らせた後、自分は独りで、川のこちら側に戻って来ました。25節をお読みします。「ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。」この「格闘した」というのは、格闘のような祈りであったと思います。格闘の祈りの時が、夜明けまで続いたようです。やがて御使いはその場を去ろうとしますが、ヤコブは御使いを引き止めます。「祝福してくださるまでは離しません」と祝福を願い求めました。その時、御使いはヤコブに名前を尋ね、「イスラエル」という新しい名前を与えます(29節)。「イスラエル」は「神と闘う」という意味があります。

 この夜を境に、ヤコブは変わっていくのです。今までは自分の力と知恵を頼みとし、人の足を引っ張って人生を築いてきたヤコブです。それが今や神に腿の関節をはずされて、足を引きずって人生を歩かざるを得なくなりました。つまり、一切を神にゆだねて、自分の力に頼ることを諦めたイスラエルに変わっていくのです。こうしたヤコブに「太陽は彼の上に昇った」とあります(32節)。自分の力を頼り、自分の意志を押し通そうとしていたヤコブは闇の中でした。しかし、自分の弱さを知らされ、自分の意志を打ち砕かれて神に委ねることを学んだ時、太陽が彼の上に昇り、神の祝福が彼を照らしました。ヤコブは神との格闘のような、徹夜の祈りを通して、遂に神様からの祝福を受けたのです。ヤコブのように、私たちも諦めずに祈ることによって、神の祝福を受けるにふさわしいものへと変えられていきますように、祈り願います。

2022年1月30日「ヤコブとラバンの契約」

○金 南錫牧師   創世記31章22-32章1節

 ヤコブに追いついたラバンは、ヤコブに「なぜ、こっそり逃げ出したりして、わたしをだましたのか」と言って、自分を欺いて、こっそり逃げ出したことを責めます。でもラバンは、これ以上、問い詰めることはしませんでした。それは、夕べ、神様が夢に現れて「ヤコブを一切非難せぬよう、よく心に留めておきなさい」とお告げになったからです(24節)。

 しかし、自分の守り神、テラフィムを盗んで逃げたことについては、「父の家が恋しくて去るのなら、去ってもよい。しかし、なぜわたしの守り神を盗んだのか」と言って、ヤコブを非難したわけです(30節)。ヤコブにしてみれば、全く身に覚えのないことなので、ヤコブは「もし、あなたの守り神がだれかのところで見つかれば、その者を生かしてはおきません。我々一同の前で、わたしのところにあなたのものがあるかどうか調べて、取り戻してください」と言って(32節)、ラバンに探させますが、結局、ラバンはテラフィムを見つけることはできませんでした。ラケルがとっさに自分のらくだの鞍の下に隠したからです。

 これを見て、ヤコブは怒って、ラバンに「わたしに何の背反、何の罪があって、わたしの後を追って来られたのですか。あなたはわたしの物を一つ残らず調べられましたが、あなたの家の物が一つでも見つかりましたか。・・・」と言い返しました(36、37節)。ついでに、この二十年間、自分がいかに不当な扱いをされてきたのかについても、切々と訴えました。それが、38節から42節に記されています。このヤコブの訴えを聞いて、ラバンはこう答えています。「この娘たちはわたしの娘だ。この孫たちもわたしの孫だ。この家畜の群れもわたしの群れ、いや、お前の目の前にあるものはみなわたしのものだ。しかし、娘たちや娘たちが産んだ孫たちのために、もはや、手出しをしようとは思わない」(43節)。つまり、ヤコブに害を加えることはしないと言っています。そして、ラバンの方から「さあ、これから、お前とわたしは契約を結ぼうではないか。そして、お前とわたしの間に何か証拠となるものを立てよう」と提案します(44節)。つまり、お互いの間に「境界線」を置いて、お互いに侵入したりすることがないようにしたのです。ヤコブもこの提案を受け入れて、そこに石塚を立て、その傍らで共に食事をしました。共に食事をするというのは、和解のしるしです。こうして、ラバンとヤコブの間にあった問題が解決されることになります。

 私たちも人間関係に悩む場合があります。その時、ご自分と相手との間に、イエス様を置くことが必要です。私たち人間がじかにぶつかる時は、どっちかが相手を支配してしまう関係になるのです。だから、イエス様が間にいらしてくださるなら、それは全く主にある関わりになります。「イエス様、私たちの間にいらしてください」と祈りながら、隣人との良い人間関係を築いていけますように。

2022年1月23日「ヤコブの脱走」

○金 南錫牧師   創世記31章1-21節

 創世記の31章に入りました。ヤコブが多くの財産を所有するようになって、ラバンの息子たちは「ヤコブは我々の父のものを全部奪ってしまった。父のものをごまかして、あの富を築き上げたのだ」と言いました。また、ヤコブはラバンの態度も、以前とは変わっていたことに、気づきました。その時、主なる神様はヤコブに「あなたは、あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい。わたしはあなたと共にいる」と告げます(3節)。このことはすでに、ヤコブの心にあった思いでしたが、神様はさらにはっきりと今がその時だと示されました。ヤコブは家族を連れてラバンのもとを出て行こうと、決意を固めました。

 ヤコブは二人の妻、ラケルとレアを家畜の群れがいる野原に呼び寄せて、自分の決意を伝えます。5節以下にヤコブが妻たちに「最近、気づいたのだが、あなたたちのお父さんは、わたしに対して以前とは態度が変わった。しかし、わたしの父の神は、ずっとわたしと共にいてくださった。あなたたちも知っているように、わたしは全力を尽くしてあなたたちのお父さんのもとで働いてきたのに、わたしをだまして、わたしの報酬を十回も変えた。しかし、神はわたしに害を加えることをお許しにならなかった」と言って、今まで妻たちに秘密にしていたことを明かしたのです。しまのやぎ、ぶちのやぎが増えて、ヤコブを富ませた不思議な業は、主なる神が夢の中で教えてくださったとおりに従って得た報酬であると妻たちに知らせました。ヤコブは自分に注いでくださった神の恵みを妻たちに証してはっきりと、神様が命じられた御言葉を告げました。

 これを聞いた妻たちは、15節、16節に「わたしたちはもう、父にとって他人と同じではありませんか。父はわたしたちを売って、しかもそのお金を使い果たしてしまったのです。神様が父から取り上げられた財産は、確かに全部わたしたちと子供たちのものです。どうか今すぐ、神様があなたに告げられたとおりになさってください」と言って、ヤコブの決断を支持しました。こうして、ヤコブは家族を連れて、ラバンのもとで手にしたすべての財産を携えて、父イサクのいるカナンの地を目指して出発します(18節)。最後の20節に「ヤコブもアラム人ラバンを欺いて、自分が逃げ去ることを悟られないようにした」とあるように、ヤコブはラバンに気づかないようにして、ラバンのもとから脱走します。

 今日のところから、神様が定めてくださる時があることが分かります。30章25節で、ヤコブは自分の思いから「わたしを独り立ちさせて、生まれ故郷へ帰らせてください」とラバンに願い出ましたが、31章3節で、主なる神が「あなたは、あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい。わたしはあなたと共にいる」と言ってくださるのです。神様は御言葉を通して、ヤコブに一番、良い「時」を備えてくださったのです。

2022年1月2日「み手にゆだねて」

○金 南錫牧師   創世記29章31-30章24節

神様はレアが疎んじられているのを見て、レアの胎を開いてくださいます(29:31)。そして、レアは四人の男の子を生むことになります。一方、ラケルは、自分には一人の子供もいないために、姉を妬むようになりました。そして、ラケルは自分の女奴隷ビルハによって、子供を得ようとして、二人の男の子を与えられます。姉レアのほうも、女奴隷ジルパによって、二人の男の子を与えられます。その後、恋なすびの取引によって、二人の男の子と一人の女の子が与えられ、レアには9人もの子供たちが与えられました。

一方、ラケルは姉だけが祝福されていると思い、その苦しい思いを神様に訴え、神の助けと憐れみを祈り求めました。そのラケルのことを御心に留めておられた神様は、ラケルを通して、ヨセフが生まれるようになります。ここまで見ると、神様はレアとラケルのことをご覧になっておられました。29章31節には「主は、レアが疎んじられているのを見て」、30章22節には「神はラケルも御心に留め」とあります。同様に、神様は私たちのことも覚えてくださるのです。2022年、祈りを持って、すべてを神の御手にゆだねていくとき、神様は私たちを支え、導いてくださるのでしょう。

2021年12月26日「ほんの数日のように」

○金 南錫牧師   創世記29章1-30節

 ヤコブは旅を続けて、母リベカの故郷ハランの地までやってきました。そこで彼は、最初に井戸のところに向かいます。そこにラケルがやって来ます。ヤコブはラケルに、自分が彼女の父の甥に当たり、リベカの息子であることを打ち明けて、ラバンの家に招かれます(12、13節)。ヤコブがラバンの家に来て、一か月ほど経って、ラバンがヤコブにどんな報酬が欲しいか尋ねられ、ヤコブはラケルを愛していたので、「下の娘のラケルをくださるなら、わたしは七年間あなたの所で働きます」と申し出ます(18節)。ラバンはこの申し出を受け入れて、ヤコブは七年間ラバンに仕えます。「ヤコブはラケルのために七年間働いたが、彼女を愛していたので、それはほんの数日のように思われた」(20節)。この言葉には、ラケルと結婚できる喜びに胸をふくらませているヤコブの姿を伺うことができます。

 ついに約束の七年が経ちました。ところが、ラバンは「我々の所では、妹を姉より先に嫁がせることはしないのだ」と言い、もう七年間仕えることを求めたのです(27節)。ここまでの出来事をみると、人生は計画した通りにはなかなかいかないものであることが分かります。しかし、そのような試練に対して、どうやって受け止めるのか、その姿勢が大切です。絶望して落胆すると、試練に陥ってしまいますが、信仰によって祈って、希望を失わない限り、いつかは良い日を迎えることができるのです。

2021年12月19日「さあ、ベツレヘムに行こう」

○金 南錫牧師  ルカによる福音書2章1-20節

 救い主の誕生は、最初に貧しい羊飼いたちに知らされました。彼らは羊の群れと一緒に、町の外で野宿をしていました。また、礼拝をする安息日にも、羊の番をしなければならなかったので、みんなから、羊飼いたちは救いから遠いと思われていました。その羊飼いたちに、天使たちが現れ、こう告げます。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」(10-11節)。羊飼いたちは「あなたがたのために」この言葉がとても嬉しかったでしょう。自分のことを見てくださるお方がおられることで、本当に嬉しかったと思います。

 天使たちの知らせを聞いた羊飼いたちは、立ち上がりました。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」この言葉を聞いて、立ち上がったのです。そして、「さあ、ベツレヘムに行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合ったのです(15節)。では、今日のベツレヘムはどこでしょうか。御子キリストがおられる場所です。御言葉が語られる場所です。そこに教会があります。

2021年12月12日「天からの階段」

○金 南錫牧師  創世記28章10-22節

 兄エサウが殺意さえ抱いていることを知ったヤコブは、エサウの怒りが治まるまで、母リベカの故郷に逃れることになります。「ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった」(10節)。ヤコブはいよいよハランの地へと旅立ちました。とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことになったのです。近くにあった手ごろな石を取って、それを枕にして、横たわりました。石を枕とする自分自身を見ながら、さすがのヤコブも、自分の失敗や過ちに少しは目を向けていたかもしれません。神様はヤコブに、一つの夢を見せられました。天まで達する階段が地に向かって伸びていて、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしているのです。また、神様がヤコブの傍らに立って、こう言われました。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」(15節)。眠りから覚めたヤコブは、「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」と言いました(16節)。ヤコブは一人孤独な旅に出ることになった時に、初めて神様に出会うことができたのです。