随想 聖書、そして私 ダビデの過ちから

○ぶどうの枝第52号(2020年8月30日発行)に掲載(執筆者:SK)

 全くなじみのないカタカナ名の連続。「これって何?」というのが憧れていた聖書の第一印象です。
 我慢し何度か繰り返し読んでいたら、「ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父であり」(口語訳)との箇所に、かつて小さな違和感を覚えたことを思い出しました。
 ペリシテ人を討ち、モアブを討ち、と戦ってきたダビデ王。お疲れになっていたのでしょうか。出陣する時期なのにエルサレムにとどまっていたある日、午睡から覚め、半ばもうろうとしたまま、屋上を散歩していますと、何と暮れかかる中庭で水浴びをしている美女が…。早速調査。ヘト人ウリヤの妻、バテシバと判明。使いの者をやって、彼女を召し入れ、床を共にしたのです。
 家に帰った彼女から子を宿したのとの報に、ダビデは考えました。全軍の長であるヨアブに命じ、戦場からウリヤを呼び返し、尋ねます。まず兵士たちの安否、更に戦況を聞き、労をねぎらい、優しく「家に帰って足を洗うがよい」と言い、すぐにたくさんの贈り物を届けます。
 真面目なウリヤは、家に帰るどころか、王宮の入口を守っている家臣と一緒に眠ります。これを知ったダビデは内心慌てながらも、平然と「遠征から帰ってきたのにどうして」と問いますと、「…私の主人ヨアブも家臣たちも野営しているのに、私だけが家に帰り、飲み食いなど、私にはできません」。
 ダビデは一瞬ドキリとしつつも「今日はここにとどまるがよい。明日送り出すとしよう」と言い、次の日、今度はウリヤを食事に招き、酒に酔わせ退出させますが、ウリヤはなおも家に帰らず、これまでのように王宮の家臣たちと共に眠ります。
 あの手この手を使うダビデに、あくまでも兵士として行動するウリヤです。バテシバは、既に子を宿しています。急がねばなりません。ダビデの命令を受けたヨアブにより、強力な敵の兵士がいる激戦地に配置されたウリヤは、他の兵士たちと共に戦死します。
 夫の死を聞いたバテシバは、嘆きました。七日間の喪が明けると、ダビデは人をやって彼女を引き取ります。間もなく男の子が生まれました。不義の子です。聖書は、「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」と記しています。
 主に遣わされた預言者ナタンによって「…このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ」と告げられます。予告どおり子が弱りますと、ダビデは神に祈り、断食し、引きこもり、地に横たわって夜を過ごしますが、子は死にました。
 子の死を知ったダビデは、家臣が驚くほど決然として立ち上がり「主がわたしを憐れみ、子を主が生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ、断食したり、泣いたりした。そのようなことが何になろう…」と深く悔いたのでしょう。
 かつては、使いの者をやってバテシバを召し入れたダビデでしたが、悲しみを知った今は、夫の死を嘆き悲しむバテシバを慰め、自ら行き床を共にし生まれた男の子が「主に愛された者」と名付けられたソロモンです。「主はその子を愛された」と聖書は記しています(サムエル記下一一章一節~一二章二五節)。
 七十歳を過ぎ、丁寧に聖書を読む機会を与えられ、あの違和感を覚えた一行の謎がほんの少し分かりかけてきたこの頃です。何と聖書は面白く、そして恐ろしい不思議な書なのでしょうか。