ダビデの悔い改めの祈り 賛美を回復される神 詩編五一編一~一七節

○ぶどうの枝第52号(2020年8月30日発行)に掲載(執筆者:金 南錫牧師)

 ある家族が黄色いカナリヤを飼っていました。朝から晩まで素敵な声をさえずっていたそうです。籠の中には必要なものが備えられていました。餌や水を与える道具だけでなく、水浴びをするためにガラス製の器もありました。
 ところが、ある日飼い主が掃除をしていて、うっかりその水浴びの器を割ってしまいました。すると、間もなくカナリヤの元気がなくなり、二日目には鳴かなくなってしまったのです。原因が分からず、病気になってしまったのだろうかと心配していたのですが、一週間後、水浴びの器を入れたところ、すぐにカナリヤは中に入り、水浴びをし、きれいな声で鳴き始めたのです。
 この話は、自分がきれいでなければ、歌えなかったことを教えています。ダビデも同じ経験をしたのです。彼は、罪を犯したことによって賛美することができませんでした。ところが、悔い改めることによって賛美が回復されていきました。 
 ご存じのように、ダビデは姦淫と殺人の罪を犯しました。そのとき、神様は預言者ナタンを通してダビデの罪を指摘しました。ダビデは、一国の王様でしたが、六節にありますように「あなたに、あなたのみに私は罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました」と、自分は神に罪を犯したと告白しました。
 そのとき、神様は、自分の罪を告白したダビデに罪の赦しを与えてくださったのです。 神様の恵みにより、罪の赦しをいただいたダビデは、神様にこう告白します。「御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください」(一四節)。
 ダビデは御救いの喜び、自由の霊を再び味わわせてください、と祈り求めました。そして、神様に一つの決心をしています。「わたしはあなたの道を教えます。あなたに背いている者に、罪人が御もとに立ち帰るように」(一五節)。
 ダビデは、神様に自分に御救いの喜び、自由の霊を再び味わわせてください、そうすれば、あなたに背いている者、罪人に、「あなたの道を教えます」と決心したのです。
 それは、罪人が主に立ち帰るためでした。ダビデは、神様からいただいた救いの恵みを他の人と分かち合い、罪の中に苦しんでいる誰かが、主に立ち戻ることができるように祈ったのです。私たちはどうでしょうか。救いの恵みを他の人と分かち合ったことがあるでしょうか。
 「御救いの喜びを再びわたしに味わわせてください」と求めていたダビデは、「主よ、私の唇を開いてください」と祈り求めています(一七節)。

 祈りと賛美が消えるとき

 これは、裏を返せばいつか自分が罪の中にいたとき、唇が閉じていた、ということを表しています。罪の中にいるとき、唇が閉じて、祈りが消えてなくなります。次に、賛美が消えているのです。いくら唇を開いて祈ろうとしても、祈りの唇が開きません。雑念だけがあふれ、思い浮かびます。このとき、クリスチャンは、霊的にうめきます。神様との関係が閉じられてしまったからです。
 ダビデは耐えられませんでした。罪の中にいたとき、唇が開かず、苦しんでいたと告白します。そして、「主よ、わたしの唇を開いてください」と、祈ったのです。一六節に、「神よ、わたしの救いの神よ。流血の災いからわたしを救い出してください。恵みの御業を、この舌は喜び歌います」とあります。
 ここで、「流血の災い」とは、ダビデが、バト・シェバの夫であるウリヤを激しい戦いの最前線に出し戦死させた、殺人の罪を指しています。その流血の災いから、わたしを救い出してくださいというのは、その殺人の罪から自分を救い出してください、ということです。
 このように、流血の災いに対する赦しと救いを求めたダビデは、「恵みの御業を、この舌は喜び歌います」と祈ったのです。ここで「恵みの御業」は、犯した罪を悔い改める人に対する、神様の赦しと救いの御業です。また、「喜び歌います」ということは、全ての力を尽くして、賛美することです。全ての力を尽くして、自分が犯した罪から救ってくださった恵みの御業を声高らかに歌うことを示しています。
 聖書を見ると、ダビデは賛美する人でした。神様の臨在を現す「主の契約の箱、神の箱」がエルサレムへ運び上げられたとき、ダビデは裸になっていることも気づかないほど、神の御前で踊り、賛美したのです(Ⅱサム六章一四節)。
 また、歌である詩編は、百五十編の中、「ダビデの詩」、あるいはダビデと書かれた詩が、七十三編もあります。ところが、実際、ダビデが書いたのに、ダビデと書かれていない詩編も多くあります。これを見ると、ダビデがどれほど多くの詩編を作って、神を賛美したのかを知ることができます。
 それだけではなく、ダビデは詩編二二編の四節で、「あなたは、聖所にいまし、イスラエルの賛美を受ける方」と、告白しています。

 賛美する人に

 ダビデは、神様がイスラエルの賛美を受ける方であることを知っていたのです。ですから、ダビデは、戦場に出ていくときにも、賛美しました。敵から非難を受け、人々からの裏切りを受けたときにもダビデは賛美しています。サウル王から追われる逃亡のときにも、ダビデの唇から賛美は離れなかったのです。なぜでしょう。ダビデは、賛美する人であったからです。
 サムエル記下二三章を見ると、ダビデが死を前にして、最後の詩を作って、神様を賛美する場面があります。ここで、ダビデは、自分の身分についてこう言います。サムエル記下二三章一節です。
 「以下はダビデの最後の言葉である。エッサイの子ダビデの語ったこと。高く上げられた者。ヤコブの神に油注がれた者の語ったこと。イスラエルの麗しい歌」となっていますが、このうち、「イスラエルの麗しい歌」について、口語訳では、「イスラエルの良き歌びと」となっています。ダビデは、人生の最後を迎えて、イスラエルの王ではなく、「イスラエルの良き歌びと」として、自身の身分を語っているのです。つまり、王様よりイスラエルの神を賛美することが大事であることを表しています。
 クリスチャンは賛美する人です。「主よ、わたしの唇を開いてください」と祈り、「恵みの御業を、この舌は喜び歌います」と告白したダビデのように、それぞれ置かれた場所で賛美を回復し、声高らかに、歌うように祈り願います。
 今、残念ながら、新型コロナウイルスのことで、大きな声で讃美歌を歌うことができませんが、このときこそ、それぞれのお好きな讃美歌があると思います。その讃美歌を繰り返し歌うことによって、今のときを乗り越えていきたいと思います。私たちの人生の目的は、何かを成し遂げるためではなく、神様を賛美することにあります。

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