○ぶどうの枝第52号(2020年8月30日発行)に掲載(執筆者:HT)
私の父は一九四四(昭和十九)年六月、あと二時間で上陸と伝えられたその直後、帰らぬ人となりました。三十一歳、終戦の一年二か月前の出来事です。
いつも黒い作業服の上下にゲートルを巻き、黒い自転車で出かける父でした。手が大きく厚くガッチリ、しっかりと手をつないで歩いた感触は、うれしかった記憶の一つです
その父は、一九三八(昭和十三)年春、母を伴い、東京から四国土佐の「農事試験場」の職員として赴任しました。高知県は、何しろ四国の約半分を占める東西に延びる膨大な地域です。その山間の田・畑の改革、開発をするという、国が定めた計画の一端を担う現場を維持する仕事だったと聞いていました。
ところが、赴任後の五年間は、一か所に留まるわけではなく、勤務場所の移動、転勤の連続。私たち四人の兄弟は、生まれた所が違います。仕事もはかどらない困難な状態が続いていたそうです。
このような状況のとき、思いがけず県立学校の教師はどうかとの依頼があり、お受けし、土佐での六年目、一九四二(昭和十七)年の春、再出発となったそうです。
私もこのときをよく覚えています。家は二階があって、門を出ると教会が見え、目の前が小学校の塀。この町にある、父の「県立幡多農林学校」(現在の四万十市の町外れにある高等学校)は、官舎から真っすぐの道の先。幼い私もうれしかったようです。学校にお弁当を届けたり、教会ではいつも横ちょで立ったり座ったり、うるさかったかもしれません。
家には、父専用の本箱、厚いきれいな表紙の本や、「小川未明」の童話集。表紙にろうそくの絵、中は挿絵がたっぷり、その中をめくってみるのが一番の楽しみでした。そのほか厚いノートが一冊、小さい字で一杯、その間に何やら分からないけれども、花や葉っぱそして実のような物のスケッチ。隙間には四人の子どもの顔と名前がちょんとあったり、そのページを探すのが大好きだった気がします。
当時の土佐は、山に囲まれた田畑が広がる地方であったと思います(戦後知った)。上陸する敵との戦いに対応できるよう、準備や訓練も行われていたようです。私も見たことがありました。
私たち一家が順調な日々を送って二年が過ぎた一九四四(昭和十九)年三月、突然、予期せぬ出来事が起きました。父に召集令状が届いたのです。間もなく出征となり、母と共にバスの停留所で大勢の人たちと見送りました。この記憶は鮮明です。
どのくらい日数がたってからか分かりませんが、多分、前線への出発直前だったようです。父がほんの一、二日帰ってきてくれました。わけもなく喜んだ私がそこにいたと思います。その父は、縁側に座っていました。私と弟は、片時もそばから離れようとしません。そのときの父の面影は、今でも消えることなく脳裏に浮かびます。
この日を最後に、父は帰らぬ人となりました。訃報の知らせを受けた日を境に、私たちの全てが変わりました。住む家を求めて、数か所を点々と移動、近くの教会の片隅をお借りしたこともありました。このような生活は終戦の翌年の春まで続き、やっと落ち着くことができました。東京出身の私たちはよそ者。当時はまだ封建制の残る時代です。落ち着くまでには紆余曲折があり、難題が山積で、その中を生きるのは至難の業でした。でもそれからの十五年余りの生活において、徐々に受け入れられ、母も仕事をいただく機会を得ることができました。
多々あった出来事も何とかクリアし、母と私たち四人の兄弟はそれぞれの道を選択し、今を生きています。私たちには、父から受け継いだ意志、信仰、教会がありました。共に祈り支えてくださった方々の存在には、力をいただき、励まされました。感謝です。
土が大好き、酪農や養豚を未来の仕事にと、若い人たちと共に過ごした県立農林学校の「学び舎」での二年の日々は、幸せだったと思います。当時の生徒さんにお目にかかると、父のエピソードや物置の片隅で眠っていたノートがきっかけで、長年の研究・栽培改良の成果が実り、地元の名品メロンとして生産されているそうです。
私は、終戦を記念するこの時期が来ると毎年思います。広島、長崎、沖縄そのほか多くの人々の生活を犠牲に奪い取っていった戦いを許せません。終戦を迎えることなく、七十五年の生涯を終えた祖父、同様に父の三十一年。今年の七十五年を受け止め、この歴史は神様の備えられた計画として受け継ぎ、主の日へと歩んでまいりたいと思います。