教会修養会報告 祈りの世界 旧約聖書詩人に学ぶ

○ぶどうの枝第51号(2019年12月22日発行)に掲載(講師:美竹教会牧師・青山学院大学教授 左近 豊)

 十月二十七日(日)午後、美竹教会牧師・青山学院大学教授の左近豊(さこんとむ)先生をお迎えして、礼拝説教に続き、修養会の講師をしていただきました。御講演の要旨と、グループ討議から出された質疑の主な内容を、編集委員会でまとめました。

【講演要旨】
 二〇一一年の大震災で、私たちはこれまでの生き方が通用しない崩壊を経験した。崩壊を生き延びた人たちの嘆きと罪責意識の痛みを想像して、金曜日に肉を裂かれて嘆き、陰府に下った「土曜日のキリスト」、もだえ苦しむ嘆きの神学、嘆きを受け止める共同体の意義を再確認した。
 神は混沌と闘って、空と水に分け、世界を創造された。出エジプトの水を分け、乾いたところを造る。洗礼を受けた主が水から上がられたとき、霊が下る。一つのモチーフが受け継がれている。大いなる救いの物語を聖書は語っているが、その中に幾多の混沌、崩壊、破綻した物語がある。
 人間の生も、言葉を失うような出来事に遭遇すると、語りの時間の秩序が破綻し、過去が断片となって現在にまとわりつく。「混沌の語り」を内に抱える現代に、「大いなる救いの物語」をいかに語るか。そこに「嘆き」の居場所、すなわち祈りの場が確保される必要がある。
 聖書は、度重なる危機を語りつつ生き抜いてきた信仰共同体の証言の書。言葉にならないうめきを、「詩編」や「哀歌」の詩人の言葉が代わりに声となって吐露している。感情は文化の中で習い身につけるものであり、たとえば日本人は雨の中にいろいろな情感を見いだす。聖書における感情、祈りの中に込める感情は、聖書の中に習い身につけていく必要がある。
 哀歌は、国破れてしかも取り残された悲惨な状況を、神に対して「何とも思わないのか」と挑みかかる。信じてきたのにあまりに不当だ、というヨブの祈りと共に祈られてきた。カインとアベルの物語は、カインが祈らなかったことが問題だった。ヨブは神に挑みかかり、問い詰めた。それが求められている。哀歌は、手軽に癒やせないような傷を詩にする。執り成しの祈りをすることで共に泣き、代わりに祈る者がいることを教えてくれる。
 詩編は、その先にイエスの存在を意図している。旧約聖書は、嘆きを嘆き切ることで、イエスによるあがなわれた復活の命を見ることになる。
 「陰府」は、旧約では神様に何を言っても届かない所。イエス・キリストがそこに身を横たえられ、死を滅ぼし、神いまさぬ所を神います所に変えた。「土曜日」の祈りを身につけることが重要。
 人は傷を負った共同体によって癒やされる。教会が世の中の傷を傷として身につけるなら、祈れない人の代わりに教会が嘆き祈る執り成しの共同体になることができる。

【主な質疑応答】
(問)聖書の感情を身につけるには?(答)自然に身につく。大事なのは、読み続ける、触れ続ける、聞き続けること。自分になじみのない箇所に取り組んでみるのもよい。
(問)個人の思いと、人の祈りをまねることの関係は? (答)祈りは、教会の中で培われた祈りの生活に触れる中でまねていく。神に真正面から問うのが聖書的な祈り。教会の中に嘆きの場所、悲しんでいる人の居場所が必要。一緒に祈るとき、教会の祈りであることが慰めになる。
(問)敵への報復を願う詩編について(答)祈りのモデルである詩編の中に捨てられずに残っていることは、人権感覚としてはおかしいが、圧倒的な暴力で「やられた側」が正義の回復を求めて祈ることは抑圧できないのではないか。
(参考文献)E・ツェンガー『復讐の詩編をどう読むか』、W・ブルッゲマン『詩編を祈る』。日本基督教団出版局。
(問)「沈黙の土曜日」とは?(答)人間が安息している間に、イエス様は死と闘っておられた。旧約の詩編の嘆きの祈りが証してくれる。逆境の詩編を読むことで、「土曜日のキリスト」と出会う。逆境の現実を見詰めなければ次のステップに進めない。嘆きの詩編、哀歌、ヨブ記は、地獄のような中でイエスと出会う。その道がつながれている。