随想 老年の生活に光あり

○ぶどうの枝第51号(2019年12月22日発行)に掲載(執筆者:NI)

 「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」(箴言一九章二一節)
 今年一年を振り返りますと、元号が平成から令和に変わり、消費税が上がり、台風による大きな被害も出ました。長いようで短い激動の年でしたが、実際に恵みの主に守られました。
 幸いにも十月十三日には、特別に許されて歴史がある佐倉教会で奨励をさせていただきました。
 個人的には、家内の妹が三月二十六日に六十八歳で召され、キリスト教で葬儀がなされました。この妹の御主人も既に亡くなっており、家内の姉の御主人も既に召されています。これらの亡くなった方々のことを思いますと、私だけが残されたような寂しい気持ちにもなります。
 思い返せば、同じ教会の青年会で家内と知り合い、主に導かれて結婚しました。新婚のアパートはお風呂もない粗末な住まいでした。その後六回も引っ越して、佐倉に来ることができました。本当に長い旅でしたが、御心ならばこの地が終(つい)の住みかとなることを願っています。
 この結婚で何よりも良かったのは、主にあって価値観が共通していたことです。お互いに年をとり、二人で一人前との思いで日々を過ごしています。私は家にいることが多いので、今まで余り読なかった手持ちの本を読み、できるだけ家事をするように心掛けています。家事は不慣れですので、いつも祈ってからするようしています。
 教会生活以外に主だったライフワークとしては、家庭礼拝と老人ホームの傾聴ボランティアがあります。家庭礼拝ではNHKの朝ドラの前に、聖書を読み、榎本保郎師の解説書を読んで、最後に祈り合っています。信仰は何よりも継続することが極めて大切と思いますので、毎日欠かさずに続けています。
 また、車の免許証を返納しましたので、ボランティアは歩いて行ける老人ホーム二か所に行っています。ホームではどんな方とお会いしても良いように、祈って心して出かけています。素晴らしいことに、そのボランティアの会員証には「ありのままの姿を温かく受け止め、見守る。心の動きに応答する。相手の立場になって共に考える。心のつながりを大切にする。」と書かれています。この言葉は、人と人とが離れていく今の時代にとても必要と思います。
 亡くなった方々を思うとき、人生の最大の不条理は命に限りがあることと思われます。何であれ、晩年の生活を「名もなく貧しく美しく」をモットーに静かに過ごしています。今の心境は「主にあって恵まれた幸せな人生でした」です。つまり、神学的に言いますといわゆる「未来完了」で、正に「終わり良ければ全て良し」です。
 「そのときは昼もなければ、夜もなく、夕べになっても光がある。」(ゼカリヤ書一四章七節)