2023年8月27日「目を覚ましている」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書12章35-48節

ある日、主人は結婚式に出かけました。当時の結婚式は、一週間も続いたようです。だから、主人がもうすぐ帰ってくるのか、一週間後帰ってくるのか、あるいは、真夜中に帰ってくるのか、明け方に帰ってくるのか、僕たちは分からないわけです。だから、主人がいつ帰って来ても迎えることができるように、「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」と言われているのです。

また、「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」とイエス様は言われます(40節)。人の子は、イエス・キリストのことです。「思いがけない時に来る。」これは将来のこと、即ち、キリストの再臨のことを言っています。そこから二千年も経ちましたが、まだ実現していません。だから、いつ帰ってくるのか分かりませんが、目を覚まして、いつでも主イエスを迎えることができるように、準備しなさい、ということです。

2023年8月20日「小さな群れよ、恐れるな」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書12章22-34節

「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。」イエス様は思い悩んでいる弟子たちに烏や野の花のことを考えてみなさいと仰います。そして、神様が烏や野の花をちゃんと養ってくださることに目を向けさせます。また、あなたがたは烏や野の花よりも、はるかに「価値ある」ものだと言うのです(24)。

弟子たちは烏や花を養ってくださる神がおられることをすぐ忘れる弱さを持っています。そして、世のことで思い悩み、恐れています。だから、「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」と、イエス様は仰います(32)。小さな群れには恐れがあり、不安があるということを、イエス様はよくご存じでした。そして、その小さな群れに「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」と言われるのです。神の国を喜んでくださる。神様がその小さな群れを認めてくださっている、ということです。

2023年8月13日「本当の豊かさは」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書12章13-21節

群衆の中から一人の人が「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と言いました。イエス様はその人に対して「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と語られました。続けて「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」と仰いました。これが「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」という教えの根拠なのです。つまり、ここでイエス様が貪欲を言っているのは、自分の分を超えて求めることではなくて、自分の持っているもの、財産によって生きることができる。お金さえあれば、なんとかなる、命を得られると思っていること。それが貪欲だとイエス様は言われます。

では、どうしたら、この貪欲から解放されるのでしょうか。それは、神の前に豊かになることです。イエス様はある金持ちのたとえを通して、地上のものばかりを見ている私たちに、神様を見上げるように教えています。

2023年8月6日「信仰を言い表す」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書12章8-12節

「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。」(8-9節)

今弟子たちは人々の前にいます。人々の中にはイエス様に対する敵意を抱いているファリサイ派や律法の専門家たちもいました。そういう状況で、弟子たちはこの御言葉を聞いています。大事なことは人々の前でイエス様を認めるか、それとも拒むのか、です。「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」(ロマ10:10)とあるように、信仰というのは心の中だけではなく、人々の前で言い表すものです。それは、神様と会衆の前で信仰を告白し、洗礼を受けることで「人々の前で私はイエス様を信じています」と表す者になる。洗礼にはそういう意味があります。その時、主イエスも「あなたもわたしの者だ」と認めてくださるのです。

2023年7月30日「誰を恐れるべきか」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書12章1-7節

1節の「とかくするうちに」とは、律法学者やファリサイ派の人々がイエス様に対して、激しい敵意を抱き、言葉尻を捉えようと、ねらっていく中でのことです。その状況の中で、イエス様は、弟子たちに「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である」と話し始められました。

ファリサイ派の偽善は、外側ばかりきれいにして、内側の汚れは隠すという偽善でした。この偽善繋がりで、イエス様の弟子たちが注意すべきことは、その信仰を外に現わさずに、内に隠してしまうことです。今、ファリサイ派や律法の専門家たちは、敵意をもってイエス様を見ているわけです。当然、その敵意はイエス様の弟子たちにも、向けられるはずです。また、足を踏み合うほどの群衆に取り囲まれている状況の中で、イエス様が弟子たちに「自分の信仰を隠すな。本当に恐れるべき方は神である」と語っているのです。もし、あなたがその信仰を隠してしまうのなら、ファリサイ派の偽善と同じだと語っています。

2023年7月23日「今の時代の者立ちの責任」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書11章45-54節

 イエス様は、律法の専門家たちに対して痛烈な批判をなさいます。それが46節から52節です。46節で、イエス様が言われます。「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。」つまり、律法の専門家たちは神の言葉を語りながら、人々に神の言葉による慰めを与えないで、ただ神の言葉を重荷に変えて、人々を苦しめているだけだと言うのです。

 しかしイエス様は、律法を落ち度なく守るという、到底、背負いきれない重荷を私たちに代わって背負ってくださいました。ここに、まことの救いがあるのです。この救いがあるからこそ、私たちは安心して、いつでも主に立ち返ることができるのです。「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)こう語ったイエス様が、私たちのすべての罪を背負って十字架にかかって死んでくださったから、私たちは癒され、罪赦された者として生きることができるのです。

2023年7月16日「内側と外側」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書11章37-44節

ファリサイ派の人は、イエスが食事の前に身を清めなかったのを見て、驚いたのです。彼らは衛生上の問題ではなく、宗教的なことで汚れることがないように、身を清めることにこだわっていたのです。そのファリサイ派の人に、イエス様が語った言葉が39節から44節までの言葉です。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。」(39節)外側は一生懸命きれいにして、清められているように見えますが、その内側は「強欲と悪意に満ちている」、それがファリサイ派の人たちの姿だとイエス様は言われたのです。

また、彼らは「人目につかない墓のようなものだ」と言われたのです(44節)。ファリサイ派の人たちは目立たない墓ですから、見た目には汚れていない様に見えますが、実は人を汚すようなものだと言っているのです。彼らは神の清さではなくて、自分の清さ、正しさを求めるのです。私たちこそ、ファリサイ派になっていないだろうか、問われます。

2023年7月9日「あなたの中にある光」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書11章29-36節

「今の時代の者たちはよこしまだ。」それは、しるしを求めるからです。イエス様は続けて「しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と仰います。ヨナは旧約聖書に出てくる預言者です。神様はこのヨナをアッシリアの首都であるニネベに行くように命じられました。ヨナはニネベに行って、神様があなたたちのよこしまな行いを怒っておられ、このままだと40日であなたたちは滅びると伝えたのです。すると、「ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めた」のです(32節)。「ヨナがニネベの人々に対してしるしとなった」とあるのはそのことです。

イエス様は「ここにヨナにまさるものがある」と仰いました。ヨナが伝えたのは裁きと悔い改めでした。でも、イエス様はその裁きをご自分が負うという救いの恵みを伝えてくださったのです。それなのに、信じようとしないのであれば、ニネベの人々という異邦人のほうがよっぽどましではないかとイエス様は言っておられるのです。主イエスは私たちにしるしを求めようとせず、御言葉を聞き、それを信じ、受け入れるように招いてくださるのです。そのように生きていきたい者です。

2023年7月2日「神の言葉を聞き、守る」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書11章14-28節

イエス様が口を利けなくする悪霊を追い出した時、それは悪霊の頭、ベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言う人たちがいました。それに対して、イエス様は「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる」と仰いました。当時、ユダヤ人の中には悪霊を追い出して病を癒していた人たちがいました。イエス様は、自分がベルゼブルの力で悪霊を追い出しているなら、自分と同じように悪霊を追い出しているユダヤ人は何の力で追い出しているのかと反論したのです。

また、「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と仰いました。神様は罪に、悪霊に支配されてしまっている私たちを解放するために、イエス・キリストをこの世に送ってくださったのです。ところが、このイエス様を救い主として信じ続ける信仰の戦いは、自分が強くなって、戦うのではなく、イエス様を救い主として心の中に迎え入れ、その主イエスによって、悪霊を追い出していただくのです。

2023年6日25日「祈るときには」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書11章1-13節

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(9節)。ここだけ、格言のように使われます。しかし、文脈の中で、この御言葉を読みますと、ルカはイエス様が弟子たちに祈りの内容について教えた後に、執拗に求めなさいというたとえ話を持って来ます。それが11節から13節までのことです。悪い者である私たち人間でさえ、自分の子どもには良い物を与えることを知っているならば、神様はどれほど良い物を与えてくださるであろうかとイエス様は仰っています。そして、その良いものとは聖霊だと言うのです。13節の後半に「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と書いてある通りです。

聖霊は祈りの霊でもあります。私たちは祈ることによって、聖霊をいただき、求めるべきものが何かを正しく教えられます。また、聖霊が働かせてくださるから、「御名があがめられますように」「御国が来ますように」と、祈り求めることができるのです。