2023年10月29日「弟子になる道」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書14章25-35節

「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」(26節) これは、文字通り「父、母、妻、子供、兄弟姉妹、自分の命を憎みなさい」と言うのではありません。それよりももっと主イエスを愛しなさい、主を愛することを一番としなさいと言っているのです。

「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」(27節)主イエスを第一にする時に、担うべき課題が見えてくるのです。そして、改めて主イエスに従っていく献身の思いが与えられるのです。「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」(33節)これも、文字通り「自分の持ち物を一切捨てなさい」と言うのではありません。それよりも自分の持ち物で生きるのではなく、神様が自分を生かしてくださる、それを信じるということです。

2023年10月22日「礼拝の本質」

○金 南錫牧師 レビ記1章1-4節

1節から4節まで最も多く出てくる言葉があります。それは「ささげる、献げ物」という言葉です。「あなたたちのうちの誰かが、家畜の献げ物を主にささげるときは、牛、または羊を献げ物としなさい。牛を焼き尽くす献げ物とする場合には、無傷の雄をささげる」(2-3節)。ここで、4回も「献げ物、ささげる」という言葉が出て来ます。ここで気づくのは、礼拝は受けることではなく、献げるということなのです。

3節を見ると、「牛を焼き尽くす献げ物とする場合には、無傷の雄をささげる」とあります。「無傷」ということは、体に何の異常もない完全なものを指しています。ところが、無傷のものを探すのは、易しいことではありません。ですから、献げ物を献げる人は時に苦労しなければなりません。傷のないものを見つけるためには、努力しなければなりません。目に触れるどんな牛でも引いて行けばよい、ということではなく、献げ物を慎重に選んで、心をこめて献げなげればならないのです。つまり、礼拝者の精一杯の献身が求められていたのです。

2023年10月15日「神の国の祝宴」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書14章15-24節

ある家の僕が招待された客に、「もう用意ができましたから、おいでください」と呼びに行きましたが、「皆、次々に断った」とあります。最初の人は、「畑を買ったので、見に行かねばなりません」と言います。またある人は「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです」と言います。また別の人は「妻を迎えたばかりなので、行くことができません」というのです。皆、この日に宴会があると分かっていたのに、いざとなると、いろんな理由を述べて、断ったというのです。

最後の24節に「言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」とあります。ここで「あの招かれた人たち」とは、畑のこと、牛のこと、妻のことを言いながら、断った人たちのことです。自分の用事を優先させて、主人からの招きを後回しにしている人たちのことです。ですから、イエス様はこのたとえで、私たちに問うておられるのではないでしょうか。神様はご自分の盛大な宴会の席に、救いの恵みに、私たちを招いておられる。それなのに、あなたは、それを後回しにしていないか。そのように問うておられるのです。

2023年10月8日「高ぶる者、へりくだる者」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書14章1-14節

イエス様はファリサイ派のある議員が用意した食事の席で、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、たとえを話されました。それは、もし自ら上席に着いたら、後から自分よりも身分が高い人が来た時に、席を譲らされて、恥をかいて、末席に着くことになる。だから、最初から末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、もっと上席に進んでくださいと言ってくれるというたとえです。そして、イエス様は「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と仰いました(11節)。

また、イエス様はお返しができる人よりも、むしろ「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」、そうすれば、あなたは幸いだ、と仰いました。神様はお返しなど何にもできない、ただ恵みを受け取るしかできない、そういう者をこそ、招いて、救ってくださるのです。それが「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という言葉の意味です。

2023年10月1日「自分の道を進む」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書13章31-35節

「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。」イエス様はヘロデのことを「あの狐」と呼びました。そのヘロデに、イエス様は「今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える」と仰っています。聖書協会訳では「行って、あの狐に『私は今日も明日も三日目も、悪来を追い出し、癒やしを行うことをやめない』伝えよ」と訳されています。

「だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。」イエス様は預言者として死ぬために、エルサレムに向かっています。それは、すべての人を救うためです。そして、救いを完成しようとしています。その救いの業を、「わたしはやめない。進まねばならない」そう語っています。それは、十字架の道こそが、私たちにとって、救いの道であるからです。

2023年9月24日「狭い門から入れ」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書13章22-30節

イエス様は町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられました。すると、群衆の中にいた一人の人が声をあげて質問しました。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか。」この問いに対して、イエス様は言われます。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」(24) 。

「狭い戸口から入るように努めなさい。」この「努める」という言葉は「戦う」とも訳される言葉です。使徒パウロがテモテに対して「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい」と命じていますが(Ⅰテモ6:12)、ここで「戦い抜き」と訳されている言葉は「努める」と訳されている言葉と同じです。ですから、イエス様は「主よ、救われる者は少ないのでしょうか。」その問いに対して「狭い戸口から入るように、戦い抜きなさい」そう仰っているのです。入ろうと努めなければ、戦わなければ入ることができない。そこに神の国の戸口に入る狭さがあります。

2023年9月17日「成長する神の国」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書13章10-21節

安息日に、十八年間も病の霊に取りつかれ、腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった女が、礼拝をささげるために、やって来ました。イエス様はこの女を見て呼び寄せて、手を置いて癒してくださったのです。「婦人よ、病気は治った。」彼女は自ら癒しを願ったり、求めたりしたのではないのです。彼女はいつものように、安息日に礼拝に来ただけです。そのいつもの礼拝で、癒しが与えられたわけです。

当時、ユダヤの社会において、十八年病気を患っていた一人の女性というのは、本当に小さな存在でした。ですからその彼女が癒され、その病から解放されたという出来事は小さい記事かも知れません。でもその福音を、今、私たちは聞いております。そのように、神の国は小さなからし種のようなものですが、そのからし種が大きな木になって、その枝には空の鳥が巣を作るほど成長していく、それに似ているのです。

2023年9月10日「悔い改めなければ」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書13章1-9節

何人かの人が来て、イエス様に「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたこと」を告げました。この出来事を伝えた人たちは、そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思っていたのです。ところが、イエス様は「けっしてそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と仰いました。

イエス様は、この言葉の意味をさらに明確にするために、実のならないいちじくの木のたとえを話されました。ぶどう園の主人が言います。「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。切り倒せ。」ところが、そこに一人の園丁が現れ、「御主人様、今年もこのままにしておいてください」と執り成してくださるのです。園丁は主イエスのことです。私たちはこの主イエスの執り成しの中に安心して、悔い改めることができるのです。

2023年9月3日「今の時を見分ける」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書12章49-59節

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」わたしとはイエス様のことです。神の御子イエス様がこの世に来られたのは、この地上に火を投じるためだというのです。

聖書において、火というのは聖霊のことを言っていることが多いのです。復活した主イエスが天に行かれた後、主イエスの言われた通り、炎のような聖霊が弟子たちに留まると、人の目を恐れていた弟子たちに驚くべき変化が起きました。臆病の弟子たちが何者にも恐れないような人間に変わったのです。そして彼らが伝えた福音によって、教会が生まれました。このように、聖霊の炎によって、自己中心的な思い、頑なさは焼き尽くされ、そこからもう一度生かされていくのです。

イエス様はその焼き尽くしてしまう殺す火ではなくて、そこから生かしてくださる火、それを投じるために、この世に来られました。そして、聖霊の炎によって私たちを救ってくださる。それが救い主としての御業です。

2023年8月27日「目を覚ましている」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書12章35-48節

ある日、主人は結婚式に出かけました。当時の結婚式は、一週間も続いたようです。だから、主人がもうすぐ帰ってくるのか、一週間後帰ってくるのか、あるいは、真夜中に帰ってくるのか、明け方に帰ってくるのか、僕たちは分からないわけです。だから、主人がいつ帰って来ても迎えることができるように、「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」と言われているのです。

また、「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」とイエス様は言われます(40節)。人の子は、イエス・キリストのことです。「思いがけない時に来る。」これは将来のこと、即ち、キリストの再臨のことを言っています。そこから二千年も経ちましたが、まだ実現していません。だから、いつ帰ってくるのか分かりませんが、目を覚まして、いつでも主イエスを迎えることができるように、準備しなさい、ということです。