○金 南錫牧師 マルコによる福音書10章32-45節
福音書には、イエス様ご自身が三度にわたって受難を予告し、その都度弟子たちから理解されなかった様子が記されています。
一回目の受難予告は、マルコによる福音書8章31節以下です。このときは、イエス様の口から受難予告が語られると、弟子のペトロがそんなことがあってはならないとイエス様をいさめ、その態度をイエス様が叱りつけるという場面があります。
二つ目は、9章30節以下です。ここでは、弟子たちはイエス様の言葉の意味が分からず、しかも怖くて尋ねられなかったと記されています。
そして、今日の箇所が三回目となりますが、弟子たちはイエス様の死に対して、なかなか理解できませんでした。特に、弟子たちの中でも重要な位置を占めるヤコブとヨハネは、イエス様が栄光を受けるとき、自分たちに特別な地位を与えてほしいと願ったのです(37節)。
しかし、二人が思い描いていたイエス様が栄光を受けるときとは、イエス様が神の子であることが明らかになるときです。ところが、イエス様にとっては、それは十字架に付けられるときでした。
二人は、自分自身の望む救い主を求める中で、十字架なしの栄光を求めていたのです。そこで、ほかの10人の弟子たちは、ヤコブとヨハネがこっそりイエス様に頼みにいったことで腹を立てました。彼らの中にも偉くなりたいという求めがあったのです。
42節に「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた」とあります。一同を呼び寄せたのは、一同が皆イエス様を真に理解していなかったからです。
今朝も、イエス様は私たちを「呼び寄せて」くださり、ご自分が十字架に付けられた意味を示してくださるのです。
「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」