2020年3月8日「子どものように」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書10章13-16節

 本日の聖書箇所は、幼児洗礼や子ども祝福のときに、よく読まれるところです。初めに、「イエスに触れていただくために、人々が子どもたちを連れて来た」とあります。
 親であれば、誰しも子どもの健やかな成長を願います。ですから、親たちが子どもたちをイエス様のところに連れて来たのは、子どもの健やかな成長を願い、イエス様に祝福の祈りをしてもらうと、思ったからです。
 ところが、「弟子たちはこの人々を叱った」とあります。どうしてでしょうか。おそらく、群衆に囲まれて忙しいイエス様に弟子たちは気を遣い、子どもたちが来て、邪魔になることを恐れ止めようとしたわけです。
 イエス様はそのような弟子たちの態度を見て、憤られました。そして、弟子たちに「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものだ。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とおっしゃいました。
 イエス様は、弟子たちと神の国を繋げて考えておられます。当時のイスラエル社会において、律法を守ることがまだできない子どもは、一人前の人間として受け入れられてはいませんでした。さらに、子どもは人数を数えるときの対象にはされていませんでした。
 そのような中で、イエス様が語られた御言葉は、当時の人たちにとって、どれほど驚くべき言葉だったのでしょう。それは神の国とは、子どものように律法を守ることが出来ないでいる者たちのものだとおっしゃったからです。
 当時のイスラエルの人たちの多くは、律法を懸命に守れば、神様は自分を神の国に入れてくださる。いわば「条件付きの世界」を生きていました。ところが、自分に高い条件を課す人ほど、その条件を満たすことができない自分を見出すこととなります。昔も今も多くの人たちは、この「条件付き」の世界を生きる中で、自分の価値を見出そうとしますが、なかなかうまく行かなくて、苦しんでいる人々が多くいます。
 自分自身に価値を見いだすことができないとき、私たちは心の渇きを覚えます。しかし、イエス様は、律法を守ることができない子どもたちをあるがままに受け止めてくださいました。「子どもを抱き上げ、手を置いて祝福された」のです。

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