2019年6月2日「中風の人をいやす」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書2章1-12節
 
 数日後、再びイエス様はカファルナウムに来られました。前回、主イエスに癒してもらえなかった人々が、イエス様がおられる家へ押しかけて来ました。戸口の辺りまですきまもないほどになったのです。
 そこに、四人の男が中風の人を運んで来たのです(3節)。この中風の人を何とかして癒してもらいたいとの願いから、この男を担いで来たのです。
 しかし、いっぱいになった群衆に阻まれて、イエス様の下に連れて行けませんでした。そこで彼らは、イエス様がおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろしたのです。イエス様は、「その人たちの、信仰を見て」中風の人に罪の赦しの宣言をされました(5節)。
 私たちも、この中風の人を運んで来た人たちになることができます。それは、執り成しの祈りをすることによって、隣人や親しい友達を主イエスのところに連れて来ることができます。
 どれぐらい時間が必要なのか、分かりませんが、神様はその祈りを決して忘れることなく、答えてくださるのです。

2019年5月26日「御心と癒し」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書1章29-39節

 本文に出てくる「重い皮膚病」を患っている人は、自分に人が近づいてくるたびに、「わたしは汚れた者です」と言って、自分の病を知らせなければなりませんでした。つまり、当時のユダヤ人社会において、重い皮膚病の人は単なる病人ではなく、「汚れた者」と見なされ、扱われていたのです。
 40節にこの人は、「イエスのところに来て」とあります。これは、イエスのへの信頼を表しています。そして、ひざまずいて「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言って、自分のすべてをイエスに委ねたのです。その姿を見て、イエスは深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなったのです。
 まさに日々の私たちの生活の中心に、主の御手があることを覚えたいものです。日々の生活の中心にある私を主イエスの御手に委ねる決断が必要です。すると、主イエスは愛をもって手を差し伸べ、接してくださるのです。

2019年5月19日「イエスの祈り」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書1章29-39節

 シモンとアンドレは主イエスから「わたしについて来なさい」と声を掛けられ、二人は網を捨てて従い、主イエスの弟子になりました。しかし、シモンは生活の手段である漁師の網を捨てて従いましたが、家族を捨てたわけではありませんでした。
 ある日、シモンの姑が熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話したのです。そして、主イエスがシモンの姑のそばに行って、手を取って起こされると、熱が去りました(31節)。シモンの姑はいやされると、起き上がって、主イエスをもてなして、感謝を表しました。まさにイエス様は、世の主であると同時に、わが家の主でもあります。
 35節に「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈られた」とあります。忙しい生活をしている現代人にとっては、夜明けに起きて、祈ることは本当に難しいものです。ところが、イエス様は人に教え、悪霊を追い払い、病を癒すということで、忙しくて疲れていたにもかかわらず、夜明けに祈られたのです。なぜでしょうか。
 イエス様には、この世に来られた明確な目的がありました。39節に「そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された」とある通りです。
 イエス様がこの地に来られた目的どおりに生きることができたのは、日々の初めに、朝早くまだ暗いうちに、ひざまずいて祈り続けたからです。本当に祈りをもって、一日を始めたいものです。

 

2019年5月12日「権威ある新しい教え」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書1章21-28節

 主イエスと4人の弟子たちはカファルナウムという町で、安息日に会堂に入りました。そこで、主イエスは教え始められました。そのとき、人々はその教えに権威を感じられ、非常に驚いたのです。
 当時、律法学者たちは律法の中心にある神の御心よりも、律法そのものを厳しく守ろうとしたのです。しかし、主イエスは律法そのものよりも、律法の根底にあるものを教えたので、人々に驚きを与えたのです。
 主イエスが権威ある者として教えているとき、会堂に汚れた霊に取りつかれた男が「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と叫び出したのです。
 主イエスはこの汚れた霊に対して、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになりますと、汚れた霊は、その人にけいれんを起こさせ、大声を上げて出て行ったのです。人々は皆驚いて、主イエスのなさったことを「権威ある新しい教えだ」と言っています。
 私たちが主イエスの権威ある新しい教えの光に照らし出されるとき、主の御心がどこにあるのか、分かります。また、その御心に従うことによって、私たちは信仰が強められ、成長していくのです。

2019年5月5日「わたしについて来なさい」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書1章16-20節

 あるとき、イエス様はガリラヤ湖のほとりを歩いていました。そこには、シモンとシモンの兄弟アンデレがいつものように、網を湖に向かって打っていたのです。
 イエス様はその姿をじっとご覧になって、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と声をかけます。最初に声をかけたのは、イエス様でした。ペトロとアンデレは魚をとることに、力と時間を費やしています。イエス様のことに興味を持っていなかったのです。
 しかし、イエス様はそのような人々を呼び求められたのです。人間に対する主イエスの呼びかけがすべてに先行しているのです。主イエスの眼差しが先立っています。
 イエス様の呼びかけに、二人はすぐに網を捨てて従いました(18節)。イエス様に従うことは、イエス様と同じ生き方をすることです。従って、そこには、人生を自分で決めた目的のためにではなく、神の業のために働く生き方がもたらされるのです。本日の言葉で言えば、「人間をとる漁師になる」ことです。ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ。この四人は魚をとるのではなく、今までしたことのない新しい働きを始めたのです。それは、神の国のことを伝えることでした。
 イエス様に従うことは、自分のできる得意なことをイエス様と一緒に続けていくことでもありますが、それよりも、できるかどうか心配だけれども、とても大事なこと、神様が喜ばれることをしてみよう、ということではないかと思います。

 

2019年4月28日「時が満ち」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書1章12-15節

 イエス様は「時が満ち、神の国は近づいた」と語っています(15節)。
 これは「もう神の国が来た」と解釈しても構いません。神の国がもう私たちのうちに来たのです。だから「もう大丈夫だよ。安心しなさい」。これが、イエス様が最初に語ったメッセージです。イエス様はこの福音を御自分の生活と活動の場であったガリラヤで宣べ続けたのです。
 では、この福音を聞いて、イエス様に従った人はどんな人であったのでしょうか。ガリラヤは肥沃ですから、どの時代のどの支配者にとっても重要な収入源でした。なので、ガリラヤのユダヤ人たちは二重、三重の支配構造による生産物の収奪、即ち、重税の対象になりました。
 このような負債に喘ぐ貧しい人が、ガリラヤの人口の9割を占めていたのです。こういう状況の中、時が満ち、イエス様が登場しました。そして、「貧しい人は幸いである。悲しむ人は幸いである」という神の国、神の御支配のメッセージを宣べ伝えた時、当然ながら、ガリラヤの貧しい群衆たちは喜んでいたのではないでしょうか。

2019年4月21日「終わりからはじまりへ」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書16章1-8節

 金曜日の午後3時に、イエス様が十字架上で、息を引き取られました。そして、午後6時までのわずかの時間に、アリマタヤのヨセフがイエス様の遺体を引き取り、墓に納めました。1節に「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りにいくために香料を買った」とあります。
 イエス様のご遺体を十分に処置する時間がなかったため、この女性たちはもう一度イエス様の墓の中に入って、香料を塗って差し上げようとしました。ですから、この三人の女性は土曜日の安息日が終わるとすぐに、香料を買い求め、「主の初めの日」即ち、日曜日の早朝、すぐにイエスの墓に出かけました。
 天使である若者が彼女たちに「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。…あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる」と告げます(6節)。
 弟子たちにとって、ガリラヤはイエスに出会い、共に宣教活動がなされたところでした。墓という人生の終わりからもう一回あなたの人生のスタートの場所、つまり原点に立ち返るように、神様は復活されたイエスを通して招いてくださるのです。

2019年4月14日「天が裂けて」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書1章1-11節

 マルコによる福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉で始めています。また、その後すぐに主の道を備えるものとして、ユダヤの荒野で罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を宣べ伝えるバプテスマのヨハネを紹介します。
 「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて『霊』が鳩のようにご自分に下って来るのを、ご覧になった」とあります(9、8節)。
 マルコによる福音書は今「福音の初め」、つまり神の子イエス・キリストを通して行われた救いの福音がどのように始まったのか、それを記録しています。
 その福音の開始点に「天が裂けて」とあります。これは、主イエスが受けた洗礼とは神の御心のために、そして人類の救いのために、ご自分が「引き裂かれる」という決断のしるしであることを表します。福音はこのように、主イエスの「引き裂かれる」ということへの決断と共に始まったのです。

2019年4月7日「神が望んでおられること」

○金 南錫牧師
 テサロニケの信徒への手紙一5章16-18節

 本日の聖書個所において、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と命じています。そして、これこそ「キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」とあります。
 「望んでおられること」とは、原語では「テレイマ」と言って、神の「ご意志」と訳すことができます。つまり、私たちに対する神のご意志は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」ということです。
 では、私たちはどのようにして、いつも喜ぶことができるでしょうか。それは、聖霊に満たされると、失敗のときも、誘惑のときもいつも喜ぶことができます。時間を超えて、いつも喜ぶことができるようになるのです。
 また、私たちは祈る生活をしながらも、祈りを休むことがあります。私たちは望んでいることが叶わなかったとき、落胆するようになるのです。しかし、祈りは感情的な問題ではなく、従順の問題であり、意志の問題です。神のご意志が「絶えず祈りなさい」ということなので、それに従って祈るわけです。祈りの人は一日の中で何回も変わってしまう感情を超えなければならないと思います。
 また、感謝の人となるためには、キリスト・イエスにおいて、状況を超えなければなりません。感謝の人はどんな状況に置かれても感謝することができるのです。

2019年3月31日「モーセの祈り」

○金 南錫牧師
 出エジプト記32章1-35節
 奴隷生活のエジプトから脱出して三か月、イスラエルの民は神の導きとモーセの指導によって、シナイ山までたどり着きました。しかし、モーセがシナイ山に登ったきり帰って来ないので、イスラエルの民全体が不安でした。彼らはアロンに「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と願います(1節)。アロンはその願いに応えて、金の若い雄牛を造ったのです(4節)。
 山を下りてくると、モーセは若い雄牛の像と踊っている人々を見ました(19節)。モーセは、神にこう言います。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください」(31節、32節)。モーセは、偶像礼拝という大きな罪を犯したイスラエルの民のために、自分の命と引き替えに、イスラエルの赦しを願ったのです。このモーセの執り成しの祈りは受けられて、イスラエルの民は罪を赦され、神の民として歩み続けることができたのです。モーセは祈りの人でした。モーセの死を賭けた祈りがイスラエルの民を救うことになったのです。